第3話
しばらくすると、マリーが医師を連れて戻ってきた。
白髪を撫で付けた老年の医師が、額の汗をハンカチで拭き拭き、『アンネ』の体を診る。いくつかの質問に答え、お腹を見せ、胸の音を聞かれる。
「どうですか? 先生」
何度も首を傾げながら診る医師に、マリーが不安げに詰問する。
「いや、健康そのものですよ」
「そうですか。なら、なぜお倒れになられたのかは?」
「それが、今の段階では、なんとも……。何かありましたら、また呼んでください」
医師はなんとも煮え切らない診断結果を告げて、そそくさと帰っていった。
「なんですか!? あの医師は!」
医師が去った部屋で、マリーが耐えかねた様子で怒りを露わにする。
「お嬢様はお倒れになったのですよ。それをあんな適当な診察で様子見をしろなどと!」
適当だっただろうか?
私はマリーが言う医師への不満を理解できずに困惑した。
この時代よりずっと医療の発達した現代日本でも、初診で軽はずみな診断はしないものだ。むしろ、はっきり診断名を言う医者の方が不安になる。
「そうかしら? 私は気にしないわ」
私がマリーに向けてそう言うと、彼女は意表を突かれたような顔で振り返った。
「……お嬢様、私が離れている間に、何か良いことでもございましたか?」
彼女の突然の質問に、今度は私がどきりとする。
『アンネ』の中身が変わったことに気づかれただろうか?
まだ状況もわからない中、その秘密に気づかれるのは、まずいかもしれない。
内心動揺する気持ちのまま、平静を取り繕って、私は首を傾げて見せた。
「何も。一体どうしてそんなことを聞くの?」
「いいえ。お嬢様のご様子が少し変わられたように思えて……きっと気のせいです。 お嬢様は昔からお優しいままですから。さあ、ベッドに横になってください。今日くらいは大人しくなさって、養生してくださいね」
大人しくベッドに身を戻す私に、マリーは『いつも』の台詞を残して、部屋を退室していった。
仕事に戻ったのだろうか?
私はそう一瞬誤解したが、マリーはすぐに戻ってきた。
隣室の『アンネ』個人の居間から、絵本を取ってきてくれたらしい。
「お嬢様、ただベッドの上では退屈でしょうから、どうぞ。 よろしければ、マリーが読んで差し上げましょうか?」
そう言うマリーに甘えて、絵本を読んでもらう。
私は、朗読を甘えるほど幼くはないが、本当のアンネちゃんなら、そうするだろう。
『アンネ』の記憶以外、情報がない今、唯一の味方であるマリーを失うわけにはいかない。
だから、『アンネ』の中身が違うことに、気づかれるわけにはいかないのだ。
先ほど、なぜ思わず正体を隠してしまったのか、我がことながらわかっていなかったが、今理解できた。
『アンネ』が政略の駒として優秀であれば、実の両親たちも味方かもしれないが、そうでなければ、彼らは冷たいだろう。
今の時点では、マリーだけが『アンネ』の味方だった。
本当に、マリーはなぜアンネの味方でいるのか?
これだけ敵だらけだと、そちらが疑問だ。
同情だろうか?それとも母性?
わからないが、もはや何だって構わない。
マリーを今失うことは、私にとって痛手だ。それだけわかっていれば、今は十分。
ベッドから出ることを許されたら、まずは図書室へ連れていってもらおう。
幼いアンネちゃんは、マナーの教育以外されていなかったが、どうせ近いうちに一般教養を学ぶ予定だったようだし、それも前倒ししてもらおう。
まずはこの世界がどんなところなのか、知らなければならない。
そうでなければ、あの赤目の男にも、あの女にも復讐ができない。
彼らがどこにいるのかはわからないけど、思い通りになるわけにはいかない。
私はそう意思を新たにして、まずは幼児教育を学ぼうと、片端からマリーに朗読を頼んだ。




