43.走り出す
足音は、すぐそこまで迫っていた。
新は壁から手を離した。
治ったばかりの両脚には、まだわずかな震えが残っている。だが、立つことも走ることもできそうだった。
目を閉じれば、燃え上がる里が浮かんだ。
倒れていた住民たちと、泣き叫ぶ声。そして、リリアたちの遺体。胸の奥を押し潰すような感覚は、今も消えていない。
それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
里を襲った兵士たち。その背後には、この国を支配している人族の騎士がいる。
そいつを倒す。でなければ、死んでいった者たちに報いることはできない。
新の進むべき道は、もう定まっていた。
新は階段の方を見た。
灯りを掲げた兵士たちが、地下の廊下へ駆け込んでくる。
「囚人が逃げたぞ!」
「二人いる! 応援を――」
先頭の兵士が言い終えるより早く、アゼルが踏み込んだ。
抜きかけた剣の柄を押さえ、兵士の身体を引き寄せる。そのまま首へ腕を回し、力を込めた。
骨の折れる音が響く。
兵士の身体から力が抜けた。
アゼルは崩れ落ちる男の手から剣を奪う。
「こいつ……!」
別の兵士が剣を抜いた。
アゼルへ斬りかかろうとした男の横を、新は駆け抜ける。
握った拳を胸元へ叩き込むと、胸当てが大きくへこんだ。
男は廊下の反対側まで吹き飛び、鉄格子へ背中からぶつかる。激しい音とともに、その身体が床へ崩れ落ちた。
「来るぞ!」
アゼルの声に、新は顔を上げた。
最後の兵士が、すぐ目の前まで迫っている。振り下ろされた剣を、新は咄嗟に身をひねってかわした。刃が石床を叩く。
兵士が剣を引き戻すより早く、アゼルがその背後へ踏み込んだ。
刃が兵士の喉を斬り裂く。身体が新の足元へ崩れ落ちた。
アゼルは刃についた血を払い落とした。
「行くぞ」
「分かってる」
新も倒れている兵士の腰から剣を抜き取った。片手で振れるほど軽い。
シルヴァンから預かった大剣とは、まるで違っていた。
里で魔法使いへ投げつけて以来、大剣は手元へ戻ってきていない。燃える里に残されたのか、それとも新と一緒に兵士たちが持ち出したのか。
今は確かめようがなかった。
アゼルが階段を駆け上がる。新もあとに続いた。
階段の上から怒鳴り声が飛んでくる。
「下から来るぞ!」
「構えろ!」
上階へ出ると、三人の兵士が通路を塞いでいた。
二人が剣を構え、その後ろでもう一人が刃を抜いている。
「止まれ!」
アゼルは速度を落とさなかった。
二人の兵士が、左右から同時に剣を振るう。
アゼルは一方の刃を弾き、そのまま相手の喉を斬り裂いた。
倒れかかる兵士を蹴り飛ばす。
その身体がもう一人へぶつかり、体勢を崩した。アゼルの剣が兵士の胸を貫く。
残った一人が、アゼルの背中へ斬りかかった。
新はその間へ剣を差し入れる。
刃と刃がぶつかり、火花が散った。
「邪魔だ!」
相手の剣を押し返し、空いた左拳を頬へ叩き込む。
兵士の身体が横へ飛び、通路の扉を突き破った。
新は手にした剣と、自分の左拳を見比べる。
「殴った方が早いな……」
「なら、その剣を捨てろ」
「武器がないよりはましだろ」
通路の先で、鐘が鳴り始めた。
低く濁った音が、収容所の石壁を震わせる。
「完全に気づかれたな」
アゼルはそう言いながら、左右へ続く通路を見回した。
壁には同じ形の木の扉が並び、その先で複数の足音が動いている。
右手の奥には、上へ続く階段が見えた。
「あれ、出口じゃないのか?」
新が階段を指す。
「そうだ。だが、その前に武器庫へ行く」
「逃げる方が先だろ」
「外にはまだ兵がいる。こんななまくら一本で出れば、すぐに囲まれる」
アゼルは、兵士から奪った剣を一瞥した。
「武器庫に、魔法石を埋め込んだ槍がある。あれなら俺の力を十分に引き出せる」
「場所は分かるのかよ」
「王都に住んでいた頃、ここには何度か来た」
そう言って、アゼルは左の通路へ走り出した。
「収容所に何しに来てたんだよ……」
新もその背中を追った。
角を曲がった先に、鉄張りの大きな扉があった。
扉の脇には、槍と剣を交差させた印が刻まれている。
警報を聞きつけたのか、扉は開け放たれていた。中では兵士たちが武器を手に取り、慌ただしく装備を整えている。
「いたぞ!」
入口にいた兵士が叫んだ。
「武器庫へ入れるな!」
アゼルは正面から兵士たちの中へ飛び込んだ。
振り下ろされた剣を弾き、すれ違いざまに男の首を斬る。
そのまま隣の兵士へ刃を振るい、胸元を斬り裂いた。
新も武器庫へ駆け込む。
壁一面に剣や槍、弓が並び、棚には革の胸当てや外套が積まれていた。
右から兵士が斬りかかってくる。
新は相手の剣を受け流し、空いた腹へ拳を叩き込んだ。
男が棚へ突っ込み、積まれていた盾と一緒に床へ崩れ落ちる。
奥にいた兵士が弩を構えた。
「撃て!」
弦が鳴る。
新は横へ跳んだ。
矢が背後の木箱へ突き刺さり、その側面を砕いた。中に詰め込まれていた物が床へ散らばる。
二本目の矢を番えようとした男の胸へ、アゼルの剣が突き立った。
だが、その隙に別の兵士がアゼルへ迫る。
アゼルは剣で受け止めたものの、横からさらに二人が回り込んできた。
新も向かおうとしたが、正面から振り下ろされた剣に行く手を阻まれる。
新は兵士から奪った剣で、その刃を受け止めた。
甲高い音が響き、新の剣が半ばから折れる。折れた刀身が床を滑っていった。
新は残った柄を捨てると、兵士の胸を蹴りつけて押し返した。
その背後から、別の兵士が斬りかかってくる。
新は身体を沈めて刃をかわし、そのまま男の脚を払った。倒れたところへ拳を打ち下ろす。
立ち上がった新の目に、先ほどの矢で壊れた木箱が映った。
散らばった品の奥から、見覚えのある柄が覗いている。
「まさか……」
新は積まれた盾を蹴り退けた。
壁に立てかけられていたのは、幅広い銀色の大剣だった。
傷ひとつない刀身が、薄暗がりの中で鈍い光を返している。
シルヴァンから預かった大剣だった。
新はすぐに柄を掴み、持ち上げた。
腕と肩へ、慣れた重さが戻ってくる。
「そいつを放せ!」
二人の兵士が同時に迫ってきた。
新は大剣を横薙ぎに振るう。
幅広い刀身が二人まとめて捉えた。
兵士たちの身体が床から浮き、並んでいた武器を巻き込みながら壁へ叩きつけられる。
激しい音とともに、剣や槍が床へ降り注いだ。
一方、アゼルは襲いかかる剣をかわしながら、壁に並ぶ武器へ目を走らせていた。
黒い柄の長槍が目に入った。
銀青色の穂先の付け根には、魔法石が埋め込まれている。アゼルが探していた槍に違いなかった。
アゼルは手にしていた剣を兵士へ投げつけた。
刃が胸へ突き刺さり、男が後ろへ倒れる。
そのまま長槍へ手を伸ばした。
掌から流れた水が黒い柄へ絡みつき、螺旋を描きながら穂先まで走る。
銀青色の刃が淡く光った。
「これだ」
横から迫っていた兵士へ槍を振るう。
穂先から放たれた水が刃となり、残っていた兵士たちをまとめて薙ぎ払った。
武器庫の中が静かになる。
新は大剣のそばに落ちていた鞘を拾った。
壊れた木箱の中には、押収された品がまとめて入れられていたらしい。その中に鳴石もあった。
「あった……」
新は鳴石を拾い上げた。
傷や欠けがないことを確かめ、ついていた紐を首にかける。
「預かり物か」
アゼルが尋ねる。
新は大剣を鞘へ収め、背負い紐を肩へ掛けた。
「ああ。なくすわけにはいかない」
廊下から、新たな足音が近づいてくる。
二人は囚人服を隠すように、棚から取った外套を羽織り、武器庫を飛び出した。
階段を駆け上がった先は、石造りの広間へ繋がっていた。
正面には、外へ通じているらしい大きな木の扉がある。
その前に、一人の男が立っていた。
まだ三十にも届いていないように見える。短く刈った金色の髪に、角張った顔。首と肩の境目が分からないほど筋肉が盛り上がっている。
新より頭一つ大きく、分厚い鉄の胸当てが窮屈そうに身体へ食い込んでいた。両手には巨大な戦斧を握っている。
さらに広間の左右から、十人近い兵士たちが姿を現した。
「そこまでだ、囚人ども!」
男が戦斧の石突きを床へ叩きつける。
石床へ亀裂が走った。
「俺は若くして、グレヴァルド収容所所長に任命された、ドラン・ベルク!」
男は胸を張った。
「俺はアースガルの戦いで、獣人族の戦士を十人も討ち取った男だ! この収容所を任された俺に、貴様らごときが――」
「長い」
新は大剣を構えた。
「まだ名乗っている途中だぞ!」
ドランが戦斧を持ち上げる。
その目が、新の大剣へ向けられた。
「そのでかい剣を持った方は、俺がやる! 竜人族を囲め!」
兵士たちが一斉にアゼルへ向かう。
アゼルは先頭の男を槍で突き倒し、そのまま兵士たちの中へ踏み込んだ。
ドランは新へ向かって突進してくる。
「まずは貴様からだ!」
戦斧が振り下ろされた。
新は背中の大剣を抜き、その刃を受け止める。
重い金属音が広間へ響いた。
足元の石が割れる。それでも、新の身体は揺らがなかった。
「その矮小な身体で止めただと!?」
「図体だけで、大したことねえな」
シルヴァンなら、きっと同じことを言う。
新はわずかに笑うと、両腕に力を込め、戦斧ごとドランを押し返した。
戦斧が大きく外へ流れる。
ドランはすぐに踏みとどまり、身体ごと回転させた。
横薙ぎの戦斧が新の胴を狙う。
新は大剣を立てて受け止めた。衝撃が腕まで伝わる。
「どうした! 守っているだけか!」
ドランが戦斧を引き戻す。
新はその動きに合わせて前へ出た。
ドランが再び戦斧を振り下ろす。
新は半歩だけ横へずれて刃をかわし、その動きのまま大剣の腹を胸当てへ叩きつけた。
鉄板がひしゃげた。
ドランの巨体が床から浮き、大扉へ背中から叩きつけられる。木材が軋み、扉の表面へ亀裂が走った。
「まだだ……!」
ドランは戦斧を支えに、立ち上がろうとした。
新は大剣を両手で握り直す。
今度は下から振り上げた。刀身が戦斧を弾き飛ばす。
宙を舞った戦斧が、石床へ突き刺さった。
新は大剣を振り返し、その刀身の腹でドランの横腹を捉えた。
巨体が扉脇の机へ突っ込み、木片を散らしながら床へ倒れる。
「俺は……グレヴァルド収容所の……」
「うるせぇよ」
ドランはがくりと頭を落とし、そのまま動かなくなった。
背後では、アゼルの長槍が最後の兵士を薙ぎ払っていた。
水をまとった穂先が鎧を斬り裂き、男の身体が床へ転がる。
「終わったか」
「ああ」
アゼルは倒れているドランの腰から鍵束を奪い、大扉へ向かった。
いくつか試し、三本目の鍵で錠が開く。
背後の階段から、さらに大勢の足音が迫っていた。
「開けるぞ」
アゼルが閂を外し、扉を押し開ける。
冷たい風が広間へ流れ込んだ。
外は、まだ夜明け前だった。
薄い霧の向こうに黒い木々が並び、そのさらに東には王都の灯りがぼんやりと浮かんでいる。
「止まれ!」
背後から兵士の声が飛んだ。
新とアゼルは同時に地面を蹴る。
収容所の前庭を駆け抜け、低い石塀を越えた。
見張り台から矢が放たれる。
アゼルが長槍を振るった。
穂先から水が弧を描いて飛び、迫る矢をまとめて弾き落とす。
二人はそのまま森へ飛び込んだ。
枝が頬を掠める。湿った土を踏み、木々の間を走る。
しばらくすると、追ってくる声は少しずつ遠ざかった。鐘の音だけが、森の奥から響いている。
やがて追手の気配が完全に消えたところで、アゼルは走る速度を落とした。
新も隣へ並び、乱れた呼吸を整えながら歩き始める。
「このまま南へ抜ける」
アゼルが言った。
「アースガルへ向かうぞ」
「待てよ」
新はその横顔へ声を投げた。
「俺はカンナさんとフィオナさんを捜す」
「誰だ」
「一緒に旅をしていた二人だ。ロウで離れ離れになった」
アゼルは前を向いたまま答えない。
「それに、この国を支配している人族の騎士も倒す」
「エレオノーラ・ヴェイルか」
アゼルは倒木を跨いだ。
「今のデュラハルには、反乱の意思を残している者がほとんどいない。王都へ入って騎士を討っても、帝国が次の兵を送ってくるだけだ」
「あんたは一人で乗り込むつもりだったんだろ」
「アースガルでは、反乱軍に身を置いていた。だが、戦況は悪くなる一方だった」
アゼルは淡々と続けた。
「樹人族のもとへ援軍を求めに向かったが、それすら果たせずに捕まった。あの時はもう、ほかに手がなかった。勝てると思っていたわけではない」
「じゃあ、アースガルへ行けば何が変わる」
アゼルが新を見る。
「守護者の力があれば、散っている者たちを集められる。勢力を広げ、アースガルを押さえている騎士ヴァルガスを討つ。そこで初めて、帝国へ反旗の狼煙を上げられる」
「俺を旗印にする気かよ」
アゼルの琥珀色の目が、新を見据える。
「この国の騎士を討つのは、それからでも遅くない」
「そいつのせいで、里は焼かれた。あそこにいた人たちも殺された。何の罪もない人たちが……」
炎に包まれた家々が、再び脳裏に浮かぶ。
新は前を向いた。
「俺はそいつを放って、別の国へ行くつもりはない。カンナさんとフィオナさんを見つけたら、王都へ行く」
アゼルはしばらく何も言わなかった。
「はぐれた時、二人がどちらへ向かっていたかは分かるか」
「ロウの北へ逃げていた。もともとは、ヴェルガントへ向かうつもりだったけど」
アゼルの足がわずかに鈍った。
「ヴェルガント? なぜだ」
新は一瞬だけ迷った。
だが、本人を前に隠しておく意味もない。
「……まあ、もう話してもいいか」
「何をだ」
「あんたを助け出すためだよ」
アゼルが足を止めた。
新も少し先で立ち止まり、振り返る。
「俺を?」
「ガルゼンさんって人が、あんたなら王都で何があったのか知っているかもしれないって。王都へ行く前に、助け出した方がいいと言ってた」
「ガルゼン……」
アゼルの目が大きく開かれる。
「ガルゼンが生きているのか!?」
「何でそんなに驚くんだよ」
アゼルは答えなかった。
長槍を握る手に力を込め、考え込むように視線を落とす。
「ガルゼンが生きているなら……」
「何だよ」
「今すぐアースガルへ向かう必要はない」
アゼルが顔を上げた。
「あの男はデュラハルの元宰相だ。戦場で槍を振るう男ではないが、国を動かすことにかけては、ガルゼン以上の者はいない」
「元宰相?」
「聞いていなかったのか」
「そんな偉い人だったなんて聞いてないぞ」
「ガルゼンはどこにいた」
「ロウだ。でも、ロウにも人族の兵が攻め込んできた。町を逃げる途中で、俺だけ谷へ落ちたんだ」
「ロウまで攻められたのか」
アゼルは奥歯を噛みしめた。
「ガルゼンさんが無事かどうかは、俺にも分からない」
「あの男なら、簡単には死なん」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「ロウが駄目なら、ここから北にある山間の町、ネーヴァへ身を隠しているかもしれん。あそこはもともと、王家直属の兵を育てる訓練所だった場所だ。王家への忠義が厚い者たちが多い」
「カンナさんたちは?」
「ガルゼンが二人を町の外まで逃がしていれば、当初の予定どおりヴェルガントへ向かった可能性がある」
新は森の西へ目を向けた。
暗い木々の向こうに、道は見えない。
それでも、向かう場所は決まった。
「じゃあ、まずはヴェルガントだ」
「そうだな。二人と合流したあと、ガルゼンの行方を追う」
「それから王都か」
「ガルゼンが生きているなら、騎士を討つだけで終わらない手を考えられる」
アゼルは西へ身体を向けた。
二人は進路を変え、木々の間を歩き始める。
枝の隙間から見える王都の灯りが、少しずつ遠ざかっていった。
「ところで、お前は大丈夫なんだな」
しばらくして、アゼルが言った。
「何のことだ?」
「ここは王都に近い」
「だから何だよ」
「王都へ近づくほど、デュラハルの者はおかしくなる」
新はガルゼンの家で聞いた話を思い出した。
「平和を謳いだすっていう、あれか?」
「そうだ」
アゼルの声が低くなる。
「人族と争う必要はない。武器を捨て、受け入れるべきだと口にし始める。だが、あれは平和を望んでいるのではない。戦う意思そのものを失っているだけだ」
「俺は何ともないぞ」
アゼルは新の顔を横目で見た。
「お前は守護者。そして俺は、幼い頃から聖樹の加護を受けてきた」
「それがどうした?」
「どちらも、普通の者より魔力への耐性が高い。それでも影響を受けていないということは、王都の者たちを変えているのは魔法による力なのかもしれん」
「魔力に強ければ、平気ってことか」
「おそらくな。そう考えれば辻褄が合う」
「竜人族はみんな魔力に強いんじゃないのか?」
「いや。竜人族は肉体こそ強いが、魔力への耐性が高いわけではない」
「なるほど」
「ただ、王都の中で何が起きているのかまでは分からん」
新は遠ざかる灯りを振り返った。
エレオノーラ・ヴェイル。
その名を、新は頭の中でもう一度繰り返した。
だが、今すぐ王都へ乗り込んでも何も変えられない。
まずはカンナとフィオナを見つける。そしてガルゼンと合流し、王都へ行く。
アゼルが速度を上げる。
新は大剣の背負い紐を握り直し、その背中を追った。
夜明け前の森を、二人の足音が西へ駆けていく。
王都の灯りと、グレヴァルド収容所から鳴り続ける鐘を背にして。




