42.鉄格子の向こう
何も見えなかった。
里を出て間もなく、猿轡とは別の布を目元へきつく巻かれた。
新は両腕を背中で縛られたまま、何人かの兵士に運ばれていた。
動かない両脚が、時折、地面の凹凸へぶつかる。そのたびに、斬られた腱の奥から鋭い痛みが突き上げた。
「ゔっ……!」
猿轡の奥で息が詰まる。両足首には、途中で布を巻かれた。
左手首には、あの黒い輪が嵌まったままだった。青白い文字を浮かべていた輪の冷たさが、皮膚へ直接食い込んでいる。
傷は塞がらない。身体の奥にあった熱も、兵士たちを弾き飛ばした力も、すべて抜き取られたように戻ってこなかった。
どれほど運ばれたのか分からない。
途中で一度、荷車らしきものへ放り込まれた。背中の下で木の床が揺れ、車輪が石や木の根を踏むたびに身体が跳ねた。
リリアたちのいた里から、少しずつ遠ざかっている。
そう思うたびに身体を起こそうとしたが、縛られた腕も、動かない脚も、何一つ言うことを聞かなかった。
やがて、荷車が止まった。
重い扉の開く音がした。
「降ろせ」
二人の兵士に両脇を抱えられ、再び身体を持ち上げられる。
空気が変わった。外の風が消え、湿った石と錆びた鉄の臭いが鼻へ入ってくる。
足音が何度も壁へ跳ね返った。
階段を下りているらしい。一段進むたび、動かない足が石へ当たった。
「こいつが例の男か」
近くで、別の男の声がした。
「余計なことは聞くな。上からの命令だ」
「その腕輪は?」
「絶対に外すなよ。そいつを運ぶ時は、必ず二人以上で運べ」
鉄の擦れる音がした。次の瞬間、新の身体は冷たい床へ投げ出された。
「ぐっ……!」
肩から石床へ落ち、遅れて動かない両脚が倒れる。
兵士の一人が新の後頭部へ手を伸ばし、目隠しを乱暴にほどいた。続けて、口を塞いでいた布も外される。
急に光が入り、新は目を細めた。
廊下の壁に掛けられた灯りが、鉄格子の隙間から差し込んでいる。
入れられたのは、三歩も進めば奥の壁へ届くほど狭い牢だった。
床も壁も黒ずんだ石でできている。隅には湿った藁と、汚れた桶が一つ置かれていた。
新の上半身には、衣服が何も残っていなかった。
火球を受けた時に上衣は焼け落ち、胸や肩には煤と乾いた血がこびりついている。焼けた皮膚だけは黒い輪を嵌められる前に戻っていたが、両足首に巻かれた布には新しい血が滲んでいた。
シルヴァンから預かった大剣も、どこにもなかった。
兵士が鉄格子の扉を閉める。
錠が落とされる音が、地下の廊下へ大きく響いた。
「おとなしくしていろ」
「ふざけんな……」
立ち去ろうとした兵士の足が止まった。
新は肩と腰を捩り、鉄格子へ向かって身体をにじらせた。動かない両脚が石床を擦り、足首から新しい血が流れる。
「里へ戻せ」
鉄格子へ肩を押しつけ、片膝をどうにか立てる。足首の傷を貫く痛みに、視界が白く明滅した。
兵士たちは新を睨み返すだけで、答えなかった。
「聞こえてんだろ! 里へ戻せ!」
「黙れ」
「あの人たちを……子どもまで殺して、お前ら何がしてぇんだ!」
「黙れと言っている」
「人殺しどもが……!」
喉の奥から、獣の唸り声のような音が漏れた。
「殺してやる」
兵士の顔から表情が消える。
「お前ら全員、ぶっ殺してやる!」
「黙れ!」
兵士は槍を返し、鉄格子の隙間から石突きを突き入れた。
硬い石突きが新の肩へ食い込み、そのまま力任せに押し込まれる。足の利かない新は踏ん張ることもできず、肩から石床へ倒れ込んだ。
「ぐっ……」
「次に騒げば、口を塞いだままにするぞ」
「逃げるな! ここを開けろ!」
二人の兵士は答えず、廊下を歩いていく。
「待て! 戻ってこい!」
その背中が壁の灯りを横切り、やがて階段の向こうへ消えた。少し遅れて、重い扉の閉まる音がする。
「待てよ……!」
新の声だけが、地下の廊下へ虚しく跳ね返った。
廊下に残された灯りは弱く、鉄格子の手前までしか届いていない。牢の奥は暗闇に沈んでいた。
目が慣れてくると、廊下を挟んだ向かい側にも鉄格子が並んでいるのが見えた。いくつ牢があるのかまでは分からない。
廊下の奥も、灯りの届かない黒に沈んでいた。
新は横向きになり、肩と腰で床を押しながら牢の奥へ戻った。壁際までたどり着くと、縛られた両手を挟まないよう、肩を冷たい石へ預けた。
目を閉じる。それでも、暗くはならなかった。
瞼の裏で、炎が燃えていた。
黒く焼けた人影。
紫色の革紐が巻かれた剣。
折り重なる三つの小さな身体。
――空なら、俺が戻ってきた時に一緒に見に行こう。
自分の声まで、はっきりと思い出せた。
「……約束したのに」
掠れた声が、牢の中へ落ちた。
戻ってきてと言われ、必ず戻ると答えた。そして、本当に戻った。けれど、遅かった。
何一つ守れなかった。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
階段の向こうで扉が開き、兵士が一人、廊下へ入ってきた。足元には、いくつかの金属の器が重ねられている。
兵士はそれを一つずつ、牢の下にある狭い隙間から押し込んでいった。
新の前にも、器が滑ってきた。
中に入っていたのは、灰色に濁った粥のようなものだった。黒ずんだ肉の欠片が浮き、表面には黄色い脂が膜を張っている。
酸っぱい臭いと、生乾きの布のような臭いが混ざっていた。
腹は空いていた。何も食べていない身体が、勝手に空腹を訴えている。
だが、手を伸ばすことはできなかった。
温かいきのこの煮込みを思い出した。黒パンを渡してくれた女性の声を思い出した。
大事にするより、傷む前に食べてしまいなさい。そう言って笑っていた顔が浮かぶ。
その顔も、もう二度と見られない。
新は器から目を逸らし、俯いた。
この世界へ来てから、手に入れたと思うたびに奪われた。
帰る道も、仲間も、ようやく見つけた居場所も。
胸の奥に溜まっていたものが、一つの言葉になって喉からこぼれた。
「……くそ」
拳を握ると、爪が掌へ食い込んだ。
「くそっ……」
上体を折り、額を石床へ打ちつけた。鈍い音がした。痛みが広がる。それでも足りなかった。
「くそっ……!」
もう一度、頭を床へぶつける。何度繰り返しても、炎の中に倒れていた身体は消えなかった。
「くそ……くそっ……」
額から血が流れ、石床へ落ちた。黒い輪は淡く光っている。
その小さな傷さえ、治らなかった。
「……やめろ」
不意に、低い声がした。
新の動きが止まる。声は、廊下を挟んだ向かいの牢から聞こえた。
目を凝らしたが、鉄格子の向こうにいる者の顔は見えない。牢の奥に、大きな人影が座っていることだけが分かった。
「耳障りだ」
男の声は低かった。怒鳴ってはいないが、苛立ちを隠す気もないらしい。
「うるさい。放っといてくれ」
「ここは音が響く」
「知るかよ」
新は吐き捨てるように言い、顔を背けた。
暗闇の向こうで、鎖がわずかに鳴る。
「食わないのか」
新は目の前の器を見た。
「こんなもの、食えるかよ」
「そうか」
それだけ答え、男は黙った。
「……何だよ」
「俺も同じだ」
思いがけない返事だった。新は暗闇の向こうへ目を向ける。大きな人影は、先ほどと変わらず牢の奥へ座っている。
「お前、名は」
「人に聞くなら、先に名乗れよ」
短い沈黙が落ちた。
「アゼルだ」
「……アゼル?」
思わず、その名を聞き返した。
知っている。ガルゼンから聞いた名だ。いや、それより前にも、どこかで耳にしたことがある。
枢機卿レオルドの息子。父親殺しの罪に問われ、交易都市ヴェルガントの収容所へ入れられている男。
カンナとフィオナが向かうつもりだった都市で、捜そうとしていた人物だった。
問い質したいことはいくつもある。
だが、この男が何を考えているのかも分からない。こちらがどこまで知っているのか、わざわざ明かす必要はなかった。
「どうした」
アゼルの声が飛んでくる。新は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「……いや、何でもない」
短い沈黙のあと、アゼルは話を戻した。
「それで、お前の名は」
「……新。稲森新だ」
「アラタか」
アゼルはその名を確かめるように呟いた。
「お前は何族だ」
「……人族だ」
「同族に捕まったのか」
「あいつらと一緒にすんな」
考えるより先に、声が出た。
「俺は、あいつらとは違う」
「何があった」
「話して何になる」
「何にもならんな。ただ聞いただけだ」
ぶっきらぼうな声だった。慰めようとしているようには聞こえない。
それでも、黙っていると、また炎の音が耳の奥で大きくなった。
「地下に、里があったんだ」
「里?」
「逃げてきた人たちが暮らしてた。亜人族も、竜人族も、人族もいた。みんな一緒に暮らしてた」
新は床へ視線を落とした。
「そこを、人族の兵が襲った」
向かいの牢から、返事はなかった。
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。促されてもいないのに、新の口からは、胸の内に溜まっていた言葉が次々とこぼれた。
「家を燃やして、逃げる人たちまで殺して……子どもまで、みんな……」
最後まで言葉にできなかった。喉が震え、息が詰まる。
しばらくして、アゼルが低い声で尋ねた。
「お前が戻った時には、もう襲われていたんだな」
「……ああ」
「なら、ここで頭を割っても何も戻らん」
背中で縛られた両手に力が入り、爪が掌へ食い込む。
「俺が、もっと早く戻れていれば……」
「助けられた奴はいたかもしれん」
否定されると思っていた。
だが、アゼルはそうしなかった。
「お前まで死んでいたかもしれん。どちらだったか、もう確かめようがない」
「何だよ、それ」
「分からないことを、すべて自分のせいだと決めつけるなと言っている」
「お前に何が分かる」
「何も分からんな。だが、自分を責め続けても何も変わらない」
新は何も返せなかった。
しばらく、地下を流れる水の音だけが聞こえた。
「死んだ奴は戻らん」
アゼルが言った。
「お前が自分を壊しても同じだ」
「分かってるよ……!」
「なら、やめろ」
新は歯を食いしばった。
正しいことを言われたからではない。何一つ否定できなかったことが、腹立たしかった。
「食え」
アゼルが言った。
「さっき、お前も食えないって言っただろ」
「味の話だ」
「手まで縛られてんだぞ」
「口は動くだろ」
「犬みたいに食えって言うのかよ」
「生きるには食うしかない」
「だから、生きてどうすんだよ!」
新の声が地下へ響いた。
「何をすればいいのかも分からない。俺は、この世界の人間じゃない。勝手に連れてこられただけだ!」
言葉が止まらなかった。
「帰る方法も分からない。何度斬られても、焼かれても死ねない。それなのに、守りたかった奴はみんな俺の前からいなくなる!」
自分の声が、何度も石壁へ跳ね返ってくる。
「こんな世界で生き残って、俺にどうしろっていうんだよ!」
言い切ってから、新自身も息を止めた。
向かいの牢から、気配が消えたように感じた。
「……この世界の人間じゃない?」
アゼルの声が低くなる。
「異世界から来たのか」
新は答えなかった。
だが、アゼルは逃がさなかった。
「おい、アラタ」
暗闇の奥で、大きな人影が立ち上がる。
「お前、守護者なのか」
新は迷った。
人族の兵士たちは、その言葉を聞いた途端に新を殺そうとするのをやめた。
守護者だと知られたから、今ここに閉じ込められている。
それでも、もう隠し通す気力は残っていなかった。
「……だったら何だよ」
答えた直後、アゼルがゆっくり息を吐いた。
「そうか」
暗闇の奥で、鎖の鳴る音がする。
「予定を変える」
「何の話だよ」
「ここを出る」
「は?」
金属が強く擦れ合う音が響いた。
アゼルの牢からだった。
「何してんだ」
「脱獄だ」
これ以上なく端的で、何をするつもりなのかは嫌でも分かった。
鎖を張り詰めさせるような音が一度。
続けて、硬いものが軋む。
新は暗闇の中で動く大きな影を見据えた。
「壊せる力があるなら、最初から逃げられただろ」
「今までは、その必要がなかった」
「何?」
「ヴェルガントで逃げれば、王都までが遠い。ここは王都近くの西の森にある収容所だ。近くまで奴らに運ばせた方が早い」
「ここを出たら、そのまま一人で王都へ乗り込むつもりだったんだが……」
「だった……?」
「守護者が捕まった。状況が変わった」
「俺が守護者だからって、何が変わるんだよ」
「守護者を人族の手に残してはおけん」
「勝手に決めんな」
新は暗闇の向こうにいるアゼルを睨んだ。次の瞬間、短い破裂音がした。
千切れた鎖の一部が、鉄格子へぶつかる。
新は目を見開いた。
暗闇の中で、アゼルは鉄格子の前に立っていた。
片手を持ち上げる。
掌の前に水滴が集まりかけた瞬間、牢の入口を縁取る細い紋様が青白く光った。
水滴は形を結ぶ前に霧散する。
アゼルは頬の内側を舌で押し、口の中から米粒ほどの黒い小片を吐き出した。
掌で受け止めると、唾液に濡れたそれを、入口の下端で光る紋様へ押し当てる。
黒い小片が、一度だけ白く明滅した。
ぱきり、と乾いた音がする。
小片は指先で砕け、黒い灰になってこぼれ落ちた。
同時に、紋様の中心へ亀裂が走った。青白い光が端から途切れ、やがて完全に消える。
アゼルは指に残った灰を払い、再び片手を持ち上げた。
今度は、掌の前に小さな水の塊が浮かんだ。
水は激しく渦を巻きながら一点へ集まり、糸のような細さまで圧縮されていく。
次の瞬間、甲高い音とともに、糸のような水流が凄まじい圧力で射出された。
水流が鉄格子の上部を支える金具へ触れる。
白い水煙と細かな鉄粉を散らしながら、金具へ細い切断線が走った。
アゼルが手首を動かす。
水流は下部の金具を断ち切り、最後に扉の錠を横切った。
水流が消える。
支えを失った鉄格子の扉が、廊下側へゆっくりと傾いた。
アゼルが掌で押す。
重い扉は轟音とともに石床へ倒れ、砂埃を舞い上げた。
アゼルはその向こうへ踏み出した。
廊下の灯りが、暗がりから出てきた男の姿を照らす。
上半身は裸で、肩から胸、腹にかけて分厚い筋肉に覆われている。赤銅色の長い髪の間から短い角が覗き、頬と手の甲には黒褐色の細かな鱗があった。腰の後ろでは、暗い赤茶色の長い尾が揺れている。
琥珀色の鋭い目が、新を捉えた。
その顔を、新は知っていた。
ユグドラインの王宮でエティエンヌへ詰め寄っていた、新がこの世界で初めて見た竜人族の男。
あの男こそ、ガルゼンの語ったアゼルだったのだ。
「あんたは……王宮にいた」
アゼルの目が、わずかに細くなった。
「お前も、あの時の客人か」
アゼルはそれだけ言うと、新の牢の前まで歩いてきた。
鉄格子へ片手を向ける。
「鉄格子から離れろ」
新は身体を横向きに倒し、肩と腰を使って牢の奥へにじり下がった。
動かない両脚が石床を擦るたび、足首へ鋭い痛みが走る。
アゼルの掌の前に、再び小さな水の塊が浮かんだ。
水は糸のような細さまで圧縮され、先ほどと同じ甲高い音を立てて鉄格子を走った。
上を一度。
下を一度。
切り離された三本の鉄格子が、わずかに傾いた。
アゼルはそれを片手で掴み、廊下側へ引き倒した。
鉄の棒が床へ転がり、乾いた音を立てる。
人一人が通れるだけの穴が開いた。
アゼルは身を屈めて穴をくぐり、新の牢へ入った。
新のそばへ膝をつき、背中で両手首を縛っている縄へ太い指を掛ける。
縄が張り詰めた。
乾いた音とともに、あっけなく引き千切られる。
痺れきった両腕が床へ落ちた。止められていた血が一気に巡り、指先まで焼けるような痛みが走る。
新が顔をしかめていると、アゼルが立ち上がって片手を差し出した。
「行くぞ」
「……どこへ」
「まずは、ここを出る」
アゼルの視線が、新の血に濡れた足首へ落ちる。次いで、左手首の黒い輪で止まった。
「守護者なら、その傷は塞がるはずだ」
「……これを嵌められてから傷が治らなくなった」
アゼルは差し出していた手を引き、再び新のそばへ膝をついた。
頬の内側を舌で押し、先ほどと同じ黒い小片をもう一つ掌へ吐き出す。
「左腕を出せ」
「何する気だ」
アゼルは答えず、新の左手首を掴んだ。
青白い文字が浮かぶ黒い輪へ、小片を押し当てる。
文字が激しく明滅した。
直後、黒い小片が白く光り、指先で灰となって崩れ落ちる。
黒い輪の表面へ亀裂が走った。
鋭い音とともに輪が二つに割れ、石床へ落ちる。
その瞬間、新の身体の奥で、消えていた熱が再び灯った。
額の傷が熱を帯び、流れていた血が止まる。両足首の奥では、切断された腱が引き寄せられるように蠢き、焼けるような痛みが走った。
「ぐっ……!」
新は歯を食いしばり、爪先へ力を込めた。
先ほどまで動かなかった指が、わずかに曲がる。
アゼルは立ち上がり、もう一度、新へ片手を差し出した。
「立てないなら運ぶ。急げ」
階段の向こうで、重い扉が開く音がした。
複数の足音が、地下へ駆け下りてくる。
アゼルはそちらへ顔を向ける。
琥珀色の目が、細く鋭くなった。
「来るぞ」
新はもう一度、差し出された手を見る。
「……もう治ってる。これくらい、自分で立てる」
強がりなのは自分でも分かっていた。それでも新はその手を取らず、壁へ手をつき、震える両脚で立ち上がった。




