40.同じ灯りの下で
食事を終える頃には、新は座っていることさえ苦しくなっていた。
腹へ温かいものが入ったことで、張りつめていた身体が一気に緩んだらしい。木の匙を器へ戻すと同時に、まぶたが重くなる。
「もう限界みたいね」
向かいに座っていたリリアが立ち上がった。
「いえ、まだ……」
「そう言いながら、さっきから何度も眠りかけているわ」
言われて初めて、新は自分が目を閉じていたことに気づいた。
食事処を出て、リリアに連れられるまま、目を覚ました家へ戻る。寝台へ腰を下ろしたところまでは覚えていた。
次に目を開いた時も、部屋の灯りは変わらず淡い橙色をしていた。
窓の外に見えるのは、岩壁に吊られた灯りだけだ。朝日も夕日も届かないこの里では、空を見て時刻を知ることはできない。
身体を起こすと、寝台の脇に小さな卓が置かれていた。その上に、水の入った器と薄い粥が載っている。
まだ、わずかに湯気が立っていた。
「起きたね」
開いていた扉から、一人の女性が顔を覗かせた。
肩口を淡い羽毛に覆われた、妙齢の亜人族だった。昨日、食事処で煮込みを運んでくれた女性だ。
「これ、用意してくれたんですか?」
「里長に頼まれたのよ。目を覚ましたら、少しずつ食べさせてくれって」
「リリアさんは?」
「階段の様子を見に行くと言っていたよ。あなたも行きたがるだろうから、起こさないように念を押されたけれどね」
「もう行ったんですか」
新は毛布を退けた。だが、床へ足を下ろすより先に、女性が寝台の前へ立つ。
「追いかけるつもりなら、やめておきなさい」
「でも、何か残っていたら……」
「だからこそ、今度は私たち里の者に任せてほしいわ」
女性は粥を新の前へ寄せた。
「何日もろくに食べずに歩いて、化け物と戦ったのでしょう。傷が見えないからといって、元気なわけではないのよ」
返す言葉が見つからなかった。
「里長たちも、あなた一人に何もかも背負わせるほど弱くないから。ほら、冷める前に食べてしまいなさい」
新はしばらく扉の向こうを見ていたが、やがて諦めて器を手に取った。
「……いただきます」
薄い粥には、細かく刻んだ白い茸が入っていた。味はほとんどしなかったが、空になっていた腹には、それくらいがちょうどよかった。
半分ほど食べたところで、新はふと手を止めた。
「食料が少ないのに、俺が食べてもいいんですか」
「その粥は、みんなと同じものだから。あなたにだけ多くも少なくもしていない。それなら、遠慮する理由はないでしょう?」
新は器の中へ目を落とした。
「……ありがとうございます」
「礼なら、残さず食べてからにして」
女性が肩をすくめると、淡い羽毛が小さく揺れた。口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
食べ終えると、強い眠気が戻ってきた。
新は言われた通り、その日をほとんど寝台の上で過ごした。何度か目を覚まし、水を飲み、運ばれてきた食事を口にしては、また眠った。
リリアが戻ってきたのは、夕刻を告げる鐘が鳴ったあとだった。
「ただいま。少しは顔色がよくなったようね」
外套の裾に白い糸をつけたまま、リリアが部屋へ入ってくる。新は寝台の上で身体を起こした。
「階段は、どうでしたか?」
「グラナクネ以外の異形種はいなかったわ。巣の奥も調べたけれど、卵らしいものも見つからなかった」
新は胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
「じゃあ、もう通れるんですか?」
「すぐには無理ね。残った糸が階段の途中まで張り巡らされているし、一部は崩れている。荷を運べるように直すまで、数日はかかりそう」
「ほかの道から地上へ出ることは?」
「できるわ。でも、どの道も狭くて遠回りになる。今のあなたが歩けば、階段の修理を待つより、ヴェルガントへ着くのは遅くなると思う」
新は唇を結んだ。
一刻も早く、カンナとフィオナを捜しに行きたい。だが、焦って再び動けなくなれば、また誰かの手を借りることになる。
「二人のことは?」
「地上へ出る者たちに特徴を伝えてある。今のところ消息はないけれど、何か分かればすぐ知らせる」
「……ありがとうございます。階段の修理は、僕も手伝います」
「まずは、明日まともに立てたらね」
リリアは外套についた糸を指で摘まみ、困ったように笑った。
「今朝、一度だけ起こそうとしたけれど、返事の代わりに寝息が返ってきたもの」
「……すみません」
「謝らなくていいの。休むことも、今のあなたに必要なことよ」
リリアはそう言い残し、部屋を出ていった。
次に目を覚ました時、里はまだ静まり返っていた。
身体を起こして間もなく、岩壁の向こうから鐘が鳴った。音に呼応するように、遠くで戸を開ける音や人の足音が重なり始める。一日の始まりを告げる鐘らしい。
身体の重さは残っていたが、立っても足元は揺れなかった。水を飲み、用意されていた黒パンと茸の煮込みを食べる。
食事を終えると、新は大剣を背負って外へ出た。
新は人の少ない場所を探し、里の端にある空き地まで歩いた。岩壁と資材置き場に挟まれた、小さな場所だった。地面は固く踏み締められ、周囲に人の気配はない。
背中から大剣を下ろす。
鞘から抜くと、鈍い銀色の刀身が橙色の灯りを映した。
両手で柄を握り、足を開く。
大剣を初めて振った朝を思い出した。
剣の重さに身体を持っていかれ、切っ先で何度も地面をえぐった。横へ振れば腰が流れ、止まろうとして足がもつれた。
それでも、グラナクネを斬った時は振り抜けた。
あの異様な力に頼らず、同じように剣を扱えるようにならなければならない。
新は息を吸った。
大剣を右肩まで引き上げる。
腕だけで動かそうとせず、足の裏で地面を押す。踏み込みに合わせて腰を回し、その動きを背中から肩へ伝える。
刃が横へ走った。重い風切り音が、空き地へ響く。
大剣の勢いが、振り抜いた方向へ身体を引いた。だが、足は動かなかった。腰の位置も落ちていない。
新は振り抜いた姿勢のまま、目を見開いた。
「……できた」
以前なら、剣と一緒に身体まで回されていた。今は、身体の中心に一本の杭が打ち込まれたように、体幹がぶれなかった。
もう一度、構え直す。
今度は斜めに振り下ろした。
切っ先は地面のすぐ上で止まり、土を削らなかった。
「っ……!」
止めた反動で両腕が震えた。手のひらが痛み、肩の奥が熱を持つ。
楽に扱えるようになったわけではない。
振り始めるのも遅く、狙った位置から次の動きへつなげることもできない。実際の戦いなら、剣を振る前に懐へ入られるだろう。
それでも、剣の重さに負けて体勢を崩すことはなくなっていた。
新は足の位置を確かめながら、横へ、斜めへと大剣を振った。
十回を越えた頃には、額から汗が流れていた。息も上がり、腕は重くなっている。
大剣を鞘へ戻し、上衣の袖で汗を拭う。袖をまくったところで、自分の腕に目が止まった。
「……こんなに太かったか?」
もともと、新は同年代より体格がよかった。幼い頃から続けた剣道で、肩や腕にもそれなりに筋肉がついていた。
だが、今の腕は記憶にあるものと違って見えた。
握った指へ力を込めると、前腕から肘の上へ筋肉の線がはっきりと浮かぶ。借りた時には余裕のあった上衣も、今は肩の辺りでわずかに張っていた。
大剣を振り始めてから、まだ何日も経っていない。
普通なら、これほど早く身体が変わるはずはなかった。
谷底を歩き続けたこと。何度も傷つき、そのたびに身体が元へ戻ったこと。グラナクネを斬るために、自分でも信じられない力を使ったこと。
過酷な状況に耐えるため、身体が必要な形へ変わろうとしているのだろうか。
それとも、傷が治るたびに、守護者の身体そのものが何かへ作り替えられているのか。
強くなっている。喜ぶべきことのはずなのに、胸の奥には薄い不気味さが残った。
「もう振らないの?」
不意に、背後から幼い声がした。
新は振り返る。資材を積んだ木箱の陰から、三つの顔が覗いていた。
一人は、額に二本の小さな角を生やした竜人族の少年だった。頬から首へ赤茶色の鱗が続いている。
その隣には、同じく竜人族らしい少女がいる。角はまだ片方しか伸びておらず、腰の後ろから細い尾が覗いていた。
もう一人は、青灰色の肌と、指の間に薄い水かきを持つ亜人族の少年だった。
「危ないから、剣を振っている時は近づいちゃ駄目だよ」
新が言うと、三人は木箱の陰から出てきた。
「もう終わった?」
竜人族の少年が尋ねる。
「今日は、もう終わるつもりだよ」
「じゃあ、丸太取りやろう」
「丸太取り?」
亜人族の少年が新の手を引いた。
「大剣の人も来て」
「大剣の人って、僕のこと?」
三人が同時に頷いた。
「名前は新。アラタだよ」
「アラタ!」
竜人族の少女が声に出して確かめる。
竜人族の少年は新を見上げ、首を傾げた。
「アラタは人族?」
「人族だよ」
「じゃあ、リリアと同じだ」
それだけ言うと、竜人族の少年は水路の方を指した。
「早く。人数が多い方が面白いから」
新は少しだけ迷った。だが、三人はすでに、新が来ることを疑っていない顔をしていた。
「分かった。でも、少しだけだぞ」
「うん!」
新は大剣を背負い直し、走り出した三人のあとを追った。
丸太取りをする場所は、水路が大きく広がったところにあった。
流れは緩く、深さも子どもの腰ほどしかない。その水面に、太い丸太が何本も浮かべられている。それぞれの丸太は、両端に結ばれた縄で岸や水底の杭へつながれ、両岸から中央へ向かって幾つかの筋に分かれていた。
中央にある一本だけは、ほかより太い。
新は大剣を水路から離れた岩壁のそばへ寝かせた。
「あれに乗ればいいのか?」
「うん。二つに分かれて、両側の岸から始めるの。落ちないで真ん中まで行く」
竜人族の少女が説明する。
「真ん中の丸太に乗って、誰かが十まで数えるあいだ落ちなかったら勝ち。水に落ちた人は、その回はおしまい」
「相手を押してもいいの?」
「押すのはいいよ。でも、殴ったり蹴ったりしたら駄目」
「アラタは、一人で向こうね」
少女が反対側の岸を指した。
「俺一人で、そっちは三人?」
「アラタ、大きいから」
「大きさだけで三人分にはならないだろ」
抗議は聞き入れられなかった。新が反対側へ回ると、竜人族の少年が片手を上げた。
「始め!」
三人が一斉に最初の丸太へ飛び乗った。
竜人族の少年は中央の列をまっすぐ進み、亜人族の少年と竜人族の少女は左右へ分かれた。
新も足を踏み出す。
丸太が靴の下で回った。
「うわっ」
咄嗟に両腕を広げ、傾いた身体を戻す。地面とは違い、踏み込んだ場所そのものが動く。力を入れすぎるほど、丸太は逃げるように回った。
「アラタ、ふらふら!」
亜人族の少年が声を上げて笑った。つられて、ほかの二人も笑い出す。
「初めてなんだから、仕方ないだろ」
子どもたちは慣れているらしい。新が言い返す間にも、三人は、軽い足取りで二本目、三本目へ進んでいく。
新は膝をわずかに曲げ、足裏へかける力を抑えた。
焦らず、重心を身体の中心に置く。剣道の足運びとは違う。それでも、崩れた姿勢を戻す感覚は同じだった。
二本目へ移る。
今度は落ちなかった。
中央へ近づいたところで、竜人族の少年が正面から来た。丸太の上で両腕を広げ、新を水へ落とそうとする。
新は左へ身体を傾けた。
少年がつられて左へ寄る。その瞬間、新は右隣の丸太へ足を移し、少年の横を抜けた。
「あっ、今のずるい!」
「避けるのはいいんだろ?」
「いいけど、ずるい!」
「どっちなんだよ」
新は笑いながら、中央の丸太を目指した。
中央の丸太の向こう側では、竜人族の少女が待っている。
新は、さらに右の丸太へ移るふりをした。少女の身体が動いた瞬間、左から中央へ乗り移る。
中央を取れる。そう思った時、足首へ何かが巻きついた。
「えっ」
少女の細い尾だった。足を引かれ、新の身体が大きく傾く。丸太が勢いよく回り、踏み直そうとした足も水面を切った。
次の瞬間、新は水路へ落ちていた。
大きな水しぶきが上がる。
水面から顔を出すと、少女はすでに中央の丸太へ移っていた。二人の少年が声をそろえて数え始める。
「一、二、三――」
少女は揺れる丸太の上で両腕を広げている。尾だけは水面の上で楽しそうに揺れていた。
「九、十!」
「私の勝ち!」
少女が両腕を上げ、二人の少年が歓声を上げた。
「ちょっと待て。尾を使うなんて聞いてないぞ」
濡れた髪を掻き上げながら新が言う。少女は中央の丸太の上で、得意そうに胸を張った。
「聞かれなかったもの」
「それ、ずるくないか?」
「ずるくない。尾も身体の一部だもの」
「足に巻きついて引っ張っただろ」
「手で押すのと同じ」
「だいぶ違うと思うけどな」
新が言うと、三人は声を上げて笑った。
新は岸へ上がり、もう一度反対側へ回った。遊んでいるうちに、近くにいた子どもたちも加わった。
人族の子どももいた。背中に小さな翼の名残を持つ者や、緑色の肌を持つ者もいた。誰がどの種族なのか、新には見分けられない。それでも、子どもたちは気にした様子もなく、同じ丸太の上で押し合い、落ちるたびに笑っていた。
最後には、全員が新を中央の丸太から落とそうとする遊びへ変わっていた。
「ちょっと待て。これじゃ、僕だけ勝てないだろ」
「アラタ、大きいから大丈夫!」
「また、それかよ」
左右から伸びてくる手を避けながら、新も声を上げて笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
王宮を出てから、人族に襲われ、カンナとフィオナとも離れた。谷底では、次の瞬間まで生きていられるかも分からなかった。
ほんの数日前のことなのに、ずっと前の出来事のように思えた。
やがて、鐘が鳴った。子どもたちが動きを止める。
「帰らないと」
「今日、きのこの焼いたやつだって」
「ほんと?」
口々に話しながら、子どもたちは岸へ上がっていく。その途中で、竜人族の少年が振り返った。
「アラタは、外から来たんだよね?」
「そうだよ」
「空って、本当に青いの?」
新は答えかけて、少年の顔を見た。
「見たことないのか?」
「うん。僕、この里で生まれたから」
少年は頭上を見上げた。そこにあるのは、どこまでも続く黒い岩だった。
「空は、ここの天井より大きいんでしょ?」
「大きいっていうか……終わりが見えないんだ」
「落ちてこないの?」
「落ちてこないよ」
「怖くない?」
聞かれて、新は少し考えた。
元の世界にいた頃、空を怖いと思ったことはなかった。そこにあるのが当たり前で、見上げることさえ少なかった。
「最初は、びっくりするかもしれない。でも、怖くはないよ」
「じゃあ、見てみたい」
少年が笑った。怖いけれど、知らないものをちゃんと見ておきたい。
洞窟の火の前でそう話していた、カンナの声がふいに重なった。
その隣で、亜人族の少年が水かきのある指を胸元で握った。
「外に出たら、捕まるよ」
小さな声だった。
少年の笑顔が止まる。
「分かってる。いつかって言っただけ」
そう言って、少年はまた歩き出した。新は、その小さな背中を見送った。
空を見たい。
それだけの願いさえ、この里の子どもたちには簡単に叶えられない。
「アラタ、またあとでね!」
竜人族の少女が大きく手を振った。
新も手を上げる。
「ああ。またな」
子どもたちは笑いながら、食事処の方へ走っていった。
新は岩壁のそばへ置いた大剣を背負い直し、濡れた服を着替えるため、いったん家へ戻った。
その日から、新は一日の始まりを告げる鐘が鳴ると、空き地で大剣を振り、そのあとは里の仕事を手伝った。
地上へ出た者が戻るたび、カンナとフィオナの消息を尋ねた。だが、二人を見た者は一人もいなかった。
階段の修理がどこまで進んだのかも、毎日確かめた。残った糸は少しずつ取り除かれていたが、崩れた場所へ資材を運び込むには時間がかかっていた。
大剣を置いていくことはできず、無理に狭い道を進めば、かえってヴェルガントへ着くのが遅くなる。だからといって、何もせず修理を待っていることもできなかった。
ある時、新は緑色の肌を持つ老人から、水路を塞いでいる石を取り除くのを頼まれた。
石は半分ほど泥に埋まり、何人かで縄を引いても動かなかったらしい。
新と竜人族の女性が石の下へ太い木の棒を差し込む。亜人族の男たちが石に結んだ縄を握り、周囲の泥を掻き出した。
「上げます」
新は棒の端へ肩を入れた。足の裏で地面を押す。
ずしりとした重さが肩から背中へかかった。だが、膝は沈まなかった。
「今です!」
新が石の端を持ち上げ、できた隙間へ老人が別の棒を差し込む。男たちが縄を引くと、石が泥の中からゆっくりと抜け出した。
やがて、大きな音を立てて水路の外へ転がる。
せき止められていた水が、一気に流れ始めた。
水しぶきが上がる。近くで見ていた子どもたちが歓声を上げた。
「流れた!」
「アラタ、すごい!」
「俺一人でやったんじゃないよ」
新が言っても、子どもたちは聞いていなかった。水路の周りを走り、濡れた足で互いに水をかけ合っている。
「こら、滑るぞ!」
先ほどまで縄を引いていた亜人族の男が声を上げる。
子どもたちは一度だけ立ち止まり、またすぐに走り出した。
叱った男も、本気で怒っているわけではないらしい。困ったように眉を下げながら、隣にいた女性と顔を見合わせていた。
その光景に、新も笑った。
だが、自分が持ち上げた石へ目を戻すと、笑みがわずかに薄れた。以前の自分なら、あの重さに耐えられただろうか。
周囲の者たちは素直に喜んでいる。今は、その喜びへ水を差したくなかった。
「ずいぶん、この里に馴染んだみたいね」
声をかけられ、振り返る。リリアが水路のたもとに立っていた。
「リリアさん」
「子どもたちが、またあなたを捜していたわ。大剣の人がいないって」
「名前は教えたんですけどね」
「気に入っているのよ、その呼び方が」
リリアは新の隣へ立った。
流れを取り戻した水路では、種族の違う者たちが後片づけを始めていた。竜人族の女性が濡れた縄を巻き、人族の女性が道具を集める。緑色の肌を持つ老人は、角と鱗を持つ若者へ水路の手入れの仕方を教えていた。
その間を、子どもたちが笑いながら走っている。
誰も、相手の角や鱗、肌の色を気にしていなかった。リリアはしばらく黙って、その光景を見つめていた。
「地上でも、これが当たり前ならいいのだけれど」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉の奥には、長いあいだ願い続けてきた者の重さがあった。
「ここでは、できているじゃないですか」
新が言うと、リリアは小さく頷いた。
「ええ。でも、ここでしかできていないの」
リリアは黒い天井を見上げた。
「この里へ来た者の多くは、地上で居場所を奪われた人たちよ。種族が違うというだけで売られ、傷つけられ、逃げてきた。ここで手を取り合えていることは誇りに思う。でも本当は、こんな場所へ逃げなくても、一緒に生きられる方がいい」
リリアの視線が、走り回る子どもたちへ戻る。
「この里が必要なくなる日が、一番いいのかもしれないわ」
新は、水路の向こうへ目を向けた。
小さな角を持つ少年が、ほかの子どもたちと笑っている。
空は、本当に青いのか。いつか見てみたい。少年の言葉が、耳の奥によみがえった。
ロウの町で、人族兵が竜人族へ剣を振るった光景も思い出す。地面へ倒れた男や母親の腕にしがみつき、声も出せずに震えていた子ども。
この里の場所が知られれば、同じことが起きるかもしれない。目の前にある笑い声も、橙色の灯りも、すべて失われるかもしれない。
そんなことは、させたくなかった。
「俺も、そう思います」
新はゆっくりと言った。
「あの子たちが、捕まることを怖がらずに空を見られるようになればいい。ここにいる人たちが、地上でも同じように笑えるようになればいい」
元の世界へ帰りたい気持ちは、今も変わっていない。けれど、新にとって、この世界はもう帰るまでに通り過ぎるだけの場所にはなっていなかった。
「そのために、俺にもできることをしたいです」
「大きな願いね」
リリアが言った。
「……はい。自分でも、そう思います」
「でも、嫌いではないわ」
リリアはわずかに笑った。
「少なくとも、ここにいるみんなは、同じ願いを持っている」
水路の向こうから、子どもたちが新を呼ぶ声がした。
「アラタ! もう一回、丸太取りやろう!」
「さっきもやっただろ!」
「今度も負けないから!」
「俺がずっと負けてるんだけどな」
新が答えると、子どもたちの笑い声が返ってきた。リリアが小さく肩をすくめる。
「里の仕事より大変そうね」
「たぶん、そうですね」
新は笑い、子どもたちの方へ歩き出した。里へ運び込まれてから、四日目。
一日の始まりを告げる鐘が鳴ったあと、新はいつもの空き地で大剣を振っていた。
最後の一振りを終え、刃を鞘へ戻した時、背後から声がした。
「ずいぶん、安定して振れるようになったのね」
振り返ると、リリアが立っていた。
「見ていたんですか?」
「最後の数振りだけよ。顔色もいいし、足運びもしっかりしている。これなら、地上まで歩けそうね」
リリアの表情がわずかに緩む。
「階段の糸を、全部取り除けたわ。崩れていた場所の修理も終わって、荷を運べるようになった」
新は大剣の革紐を握った。
「階段が戻ったんですね」
「ええ。まもなく、買い出しに出る者たちが出発するわ。私も里の入り口まで見送りに行く」
「二人の消息は?」
「ごめんなさい。二人については、何の情報も得られなかった。でも、地上で無事に会えることを願っているわ」
「分かりました、探していただいてありがとうございました」
新は大剣の革紐を肩へ掛け直した。
「俺も、その人たちと一緒に行きます」




