39.地下の隠れ里
まぶたの向こうで、淡い橙色の光が揺れていた。
新は息を呑み、目を開いた。
最初に見えたのは、低い木の天井だった。太い梁の隙間には乾かした草が詰められ、壁際に置かれた小さな灯りが、部屋の中をぼんやりと照らしている。
冷たい岩の上ではない。身体の下には柔らかな寝台があり、肩まで毛布が掛けられていた。
ここがどこなのか分からない。
そう思った瞬間、意識を失う直前の光景が戻ってきた。
暗闇に浮かんだ八つの赤い目。腹へ突き刺さった、棘のある脚。身体を縛りつけた白い糸。そして、大剣を振り抜いた時に響いた、硬い殻の砕ける音。
新は反射的に左の腹へ手を当てた。
服の上から押しても、傷はない。痛みも、ほとんど残っていなかった。ただ、腹の奥にはまだ、棘で内側を抉られた感触が張りついている。
喉が引きつり、呼吸が浅くなった。新は身体を起こそうとした。
「まだ急に動かない方がいいわ」
すぐ横から声がした。新は肩を跳ねさせ、声の方を見る。寝台のそばに、一人の女性が座っていた。
年はフィオナと同じくらいに見える。ゆるやかに波打つ紫色の髪を肩の下まで垂らし、薄い革の胸当てを身につけていた。
椅子の背には、短い外套が掛けられている。その横には細身の剣が立てかけられていた。
女性は驚かせたことを詫びるように、両手を新から見える位置へ置いた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりじゃなかったの」
「……あなたは?」
声を出した途端、喉に鋭い痛みが走った。
新が咳き込むと、女性は卓上の水差しを取り、木の器へ水を注いだ。
「先にこれを。ずいぶん長く、まともに水を飲んでいなかったのでしょう?」
新はすぐには手を伸ばさなかった。女性の顔と、差し出された器を交互に見る。
その視線に気づいたのか、女性は先に少しだけ水を口にした。それから、もう一度器を差し出す。
「何も入っていないわ。あなたを害するつもりなら、眠っている間にいくらでもできたもの」
言われてみれば、その通りだった。新は器を受け取り、口をつけた。
ぬるい水だった。それでも、乾ききった喉を通った瞬間、身体の内側へ染み込んでいくのが分かった。
一息に飲み干しそうになり、途中で激しくむせる。
「ゆっくり」
女性が新の背中へ手を添えた。新は何度か咳をしたあと、今度は少しずつ水を飲んだ。
器が空になる頃には、喉の痛みもわずかに和らいでいた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
女性は空になった器を受け取る。
「私はリリア。谷であなたを見つけた一人よ。ここへ運んでから、ずっと様子を見ていたの」
「そうだったんですね。助けていただいて、ありがとうございます。俺は新です。稲森新」
「アラタね」
リリアは確かめるように繰り返した。
新は部屋の中を見回す。
寝台の足元には、血と泥で汚れた自分の服が畳まれていた。今着ているのは、見覚えのない薄手の上衣だった。その横に、シルヴァンから預かった大剣が鞘へ納められた状態で立てかけてある。
新が大剣を見たことに気づき、リリアが言う。
「剣は触っていないわ。あなたの大事なものみたいだったから」
新は小さく息を吐いた。
「ここへ運んだ男たちが着替えさせたの。服はひどい状態だったけれど、身体には傷がなかった。だから薬も包帯も使っていないわ」
リリアの視線が、新の左腹部へ落ちる。
「血の量を見る限り、無傷だったとは思えないのだけれど」
新の指先に力が入った。
前にいるリリアが何者なのか、新にはまだ分からなかった。
「傷は……気を失う前に、回復魔法を使ったんです」
考えるより先に、言葉が口をついて出た。
「回復魔法を?」
「はい。途中で意識を失ったので、傷が治ったところまでは覚えていませんけど」
リリアはしばらく新を見つめたあと、片手を差し出した。その手の甲には、細い切り傷が残っていた。
「それなら、この傷に使ってみて」
「え……」
「少しだけでいいわ」
新は差し出された手を見たまま、動けなかった。
使えるはずがない。新は回復魔法どころか、魔法そのものを使えない。
「……」
何か言わなければと思うのに、喉から声が出なかった。
やがて、リリアが差し出していた手を引く。
「そう。何か、言えない事情があるのね」
「……すみません」
「分かったわ。深くは聞かない。会ったばかりの私に、何もかも話せという方が無理だもの」
その声に、新を責めるような響きはなかった。
新は視線を落としたまま、話題を変える。
「どのくらい、眠っていたんですか」
「ここへ運ばれてから半日ほどよ」
「半日……」
新が倒れた時、谷底は完全な暗闇だった。二日目の途中から外の光は届かなくなり、その暗闇の中で一度眠った。目を覚ましてからは、昼夜を測る手がかりさえなかった。
カンナとフィオナと離れてから、二日目に入っていたことまでは分かっている。だが、それからどれほど時間が流れたのか、すでに三日が過ぎたのかどうかも、新には判断できなかった。
「俺は、どこで見つかったんですか」
新が尋ねると、リリアは少し姿勢を正した。
「谷の奥に、グラナクネの縄張りがあったでしょう」
「グラナクネ?」
「岩みたいな灰色の殻を持っていて、獲物を太い糸で縛る蜘蛛の異形種よ」
リリアの説明を聞き、新の脳裏に八つの目が浮かぶ。身体へ幾重にも巻きついた糸。暗闇に紛れて見えなかった、硬い殻。あの蜘蛛のことだ。
「あそこは昔からグラナクネの縄張りだったんですか?」
「いえ。少なくとも、少し前までは違ったわ。谷のもっと奥に棲んでいた個体が、縄張りを広げてきたみたい」
リリアの表情がわずかに曇る。
「このひと月で、里の者が四人、グラナクネに殺されたの」
「四人も……」
「あれが縄張りを広げた場所のすぐ先に、地上へ通じる隠し階段があるの。食料や薬を里へ運び込むために使っていた道よ」
リリアは卓の上で両手を組んだ。
「でも、水路の途中に巣を張られてから、誰も階段へ近づけなくなった。ほかにも外へ出る道はあるけれど、どれも人が一人通るのがやっとの狭い道なの。荷を運び込めるのは、あの階段しかないわ」
「じゃあ、今は……」
「蓄えていたものでしのいでいる。でも、食料も薬も、もう長くは持たない」
リリアの声がわずかに沈む。
「四人を失ってからは、これ以上誰かを近づけることもできなかった。けれど、このままでは里全体が立ち行かなくなる。だから昨日、戦える者を集めて倒しに行くことにしたの」
組んだ指に力が入る。
「けれど、私たちが縄張りへ着いた時には、グラナクネはもう真っ二つに斬られていた。そのそばに、あなたが倒れていたの」
新は何も答えられなかった。
「岩壁にも、大きな斬り跡が残っていたわ」
暗闇の中で大剣を振り抜いた時、蜘蛛の背後から岩の砕ける音が聞こえた。
明かりが近づいた時には、蜘蛛の身体だけでなく、その先の岩壁まで深く斬れていた。
エティエンヌに追い詰められた時と同じだった。
背中の奥に熱が集まり、自分のものとは思えない力が身体を動かした。
新は毛布の上に置いた手を見つめた。
「あなたが、あれを倒したのよね?」
「……はい。俺が倒しました」
「最後まで覚えている?」
「剣を振ったことも、グラナクネが倒れたことも覚えています。でも、そのあと、誰かの明かりが見えて……そこから先は」
嘘ではなかった。
自分の身体がなぜ傷を治したのか。痛みが遠ざかった時、何が起きていたのか。そのことだけは話していない。
リリアはしばらく新を見つめた。
回復魔法について嘘をついたことにも、気づいているはずだった。それでも、彼女は問い詰めなかった。
リリアは立ち上がると、新へ向き直った。
「何があったにせよ、あなたがグラナクネを倒してくれたことに変わりはない。失った四人は戻らないけれど、これ以上、犠牲を出さずに済む。階段の安全を確かめられれば、物資も運び込めるようになる」
紫色の髪が、灯りを受けて揺れる。
「里を代表して礼を言うわ。助けてくれて、ありがとう」
リリアは深く頭を下げた。
新は慌てて首を横に振る。
「俺は、自分が生きるために戦っただけです。それに、助けてもらったのは俺の方で」
「それでもよ」
リリアは顔を上げ、少しだけ笑った。
「結果として、私たちはあなたに助けられた。なら、礼を言うのはおかしくないでしょう?」
新はすぐに返す言葉を見つけられなかった。自分が誰かを助けたという実感はなかった。
グラナクネに捕まり、食われる寸前まで追い詰められた。ただ、生き残るために剣を振っただけだった。
それでも、その結果として救われた者がいる。
新は小さく頭を下げた。
「……どういたしまして」
言い慣れない言葉は、口の中で少しだけ引っかかった。リリアは満足そうに頷いた。
「それで、ここはどこなんですか」
新は改めて尋ねる。
「谷底に、こんな家があるようには見えなかったんですけど」
「ここは、逃げてきた者たちを匿うための隠れ里よ」
「逃げてきた?」
「奴隷として売られたり、誰かの持ち物として扱われたりしていた人たち。中でも、亜人族が多いわ」
「亜人族……。昔、獣人族に支配されていた人たちですよね」
「ええ。今ではフィルス連合国として独立しているわ。でも、ほかの国で暮らす亜人族への扱いは、昔からほとんど変わっていない」
リリアの表情がわずかに曇る。
「どの種族にも属せない半端者。そう呼ばれて差別され、力のある者に支配される。デュラハルでも、奴隷として売り買いされる亜人族は後を絶たないわ」
亜人族の名は知っていても、実際にどんな姿をしているのかまでは知らない。尋ねかけて、新は口を閉じた。この世界では常識なのだとしたら、知らないこと自体が素性を疑われるきっかけになりかねない。
「この里にいるのは、その亜人族の人たちなんですか」
「ええ。住民の大半は亜人族よ。人族や竜人族も暮らしているけれど、数は多くない」
リリアは椅子に掛けていた外套を手に取った。
「ここにいる者の多くには、奴隷だった頃の傷が残っているの」
「傷?」
「所有者がつけた焼印よ。首や腕、背中にね」
新の指が、毛布の上でわずかに動いた。
「ただ、この里が守るのは亜人族だけではないわ。人族でも、竜人族でも、ほかの種族でも関係ない。奴隷にされ、逃げる場所を失った者なら受け入れる」
リリアは外套を肩へ掛ける。
「ここでは、誰も誰かの持ち物にはならない。それが、この里で暮らすための一番大切な決まりよ」
新はリリアを見る。角も、鱗もない。見た目だけなら、新と同じ人間に見えた。
「リリアさんも、人族なんですか」
「そうよ」
リリアは自分の頬へ指を当てる。
「この髪の色は少し目立つけれど、角も鱗もないでしょう?」
「でも、ここはデュラハル王国ですよね」
人族の兵士たちが竜人族の町を襲った光景がよみがえる。
逃げる者へ剣を向け、自分たちを追い立てた。
新はすぐに言葉を返せなかった。リリアは、その表情が強張ったことに気づいたらしい。
「人族がいることが、気になる?」
「……少しだけ」
リリアは責めるような顔をしなかった。
「今すぐ信じてほしいとは言わないわ。ただ、この里が今まで残ってこられたのは、亜人族を物として扱うことを拒んだ人たちがいたからよ」
「その人たちが、この里を?」
「ええ。守ることも、逃げてきた者をここへ案内することも、外から物資を運ぶこともしている。もちろん、里を支えているのは亜人族のみんなも同じよ」
リリアは細身の剣を腰へ差した。
「外との行き来は主に人族と竜人族が受け持っているの。亜人族が地上を歩けないわけではないけれど、この国では数が少ないぶん目立つから」
「その剣……リリアさんは、この里を守る立場なんですか?」
「ええ。何かあれば、私も剣を取るわ」
「じゃあ、さっき里を代表してって言っていたのは……」
「こんな歳だけど、私がここの里長なの」
「里長?」
思わず聞き返してしまう。
リリアはフィオナと同じくらいの年にしか見えない。これまで新が思い浮かべていた里長とは、あまりにも違っていた。
「やっぱり驚くわよね」
リリアは困ったように笑う。
「私も、たまに人選を間違えたんじゃないかと思うわ」
「誰が決めたんですか?」
「里のみんなよ」
「里のみんなに選ばれたなら、それだけ慕われているってことですよね。きっと、いい里長なんだと思います」
新がそう言うと、リリアは一度目を瞬かせた。
「あなた、さらっとそういうことを言うのね」
「あ……偉そうなことを言って、すみません」
「謝るところではないわ。少し嬉しかっただけ」
リリアは扉へ向かいかけた。新は毛布を退け、寝台から降りようとする。
「待ってください」
「どうしたの?」
「俺のことを尋ねてきた人はいませんでしたか。カンナさんとフィオナさんという二人です。一緒に旅をしていたんです」
リリアの表情から笑みが消えた。
「今のところ、そういう話は聞いていないわ」
「そう、ですか……」
「地上へ出た者たちにも確認しておく。何か分かったら、すぐに知らせるわ」
「ありがとうございます」
二人は、新とは別の方向へ逃げた。この地下まで来ている可能性は低い。それでも、何か手がかりがないかと期待せずにはいられなかった。
フィオナとカンナが人族兵から逃げ切れたのか、新には分からない。自分が谷へ落ちてから、二人に何が起きたのかも。
「行かないと」
新は寝台から立ち上がった。
足の裏が床へ着いた途端、膝から力が抜ける。
「っ……」
倒れそうになり、咄嗟に寝台の縁を掴んだ。
傷はない。脚も戻っている。それでも、長いあいだ食べず、まともに眠っていなかった身体まで元気になるわけではなかった。
視界が一瞬暗くなる。
「ほら」
リリアが呆れたように言い、新の腕を支えた。
「その状態で、どこへ行くつもり?」
「でも、二人が……」
「心配なのは分かるわ。けれど、今のあなたが谷へ戻っても、また誰かに運ばれてくるだけよ」
新は言い返せなかった。
その時、腹の奥から大きな音が鳴った。静かな部屋の中に、思った以上にはっきりと響く。
新は腹を押さえた。
リリアが口元を緩める。
「まずは食事ね」
「……はい」
「歩けそう?」
新はもう一度、慎重に両足へ力を入れた。まだ少しふらつくが、今度は立っていられた。
「大丈夫です」
「無理だと思ったら、すぐに言って。食事処まで案内するわ」
リリアが扉を開ける。
新は足元に置かれた大剣へ手を伸ばした。
「それも持っていくの?」
「今のあなたには、かなり重いでしょう」
「預かっている大切なものなんです」
新は革紐を肩へ掛けた。重さに身体がわずかに傾く。けれど、置いていく気にはなれなかった。
リリアは何も言わず、新が背負い終えるまで待っていた。扉の外へ出る。ひんやりとした空気が頬に触れた。
家の中が木造だったため、外にも普通の村が広がっているのだと思っていた。
だが、新の目の前にあったのは、巨大な岩の空洞だった。
天井は高く、灯りの届かない場所は暗闇に沈んでいる。岩壁に沿って、大小の家が段々に建てられ、その間を細い道と階段がつないでいた。
家々の軒先には橙色の灯りが吊られている。
空洞の中央には細い水路が流れ、その上に何本もの木橋が架かっていた。水路のそばでは、何人かの子どもが走り回っている。
そのうちの一人には、頭の上に獣のような耳があった。だが、顔も手足も人族の子どもとほとんど変わらない。
その横を、腰から細い尾を生やした少女が追いかけている。
水路の向こうでは、片方だけ短い角を持つ男が、木枠に並べられた白い茸を手入れしていた。さらに奥には、緑色の肌を持つ者や、背中に小さな翼の名残を持つ者の姿もある。
中には、新が見たことのない特徴を持つ者もいた。彼らが何族なのか、その姿だけで見分けることはできない。だが、里の大半は亜人族だという。ならば、目の前にいる彼らもそうなのだろう。
人族や竜人族らしい者もいる。しかし、見渡す限り、亜人族の方が圧倒的に多かった。
水を汲んでいた女性が袖をまくる。その腕に、黒く歪んだ焼印が残っているのが見えた。
別の男の首筋にも、同じように皮膚を焼かれた跡があった。
それでも、誰も種族ごとに分かれてはいなかった。同じ道を歩き、同じ水路で水を汲み、同じ灯りの下で話をしている。
「本当に、亜人族の人が多いんですね」
「言ったでしょう?」
リリアが少し誇らしそうに答えた。
新は頭上を見上げる。空はなかった。どこまで見上げても、あるのは黒い岩だけだ。
「ここは、どの辺りなんですか?」
「王都の近くにある、西の森の地下よ」
「王都の近く……」
新はもう一度、天井を見上げた。
どれほど目を凝らしても、木の根一本見えない。地上を吹く風も、森に棲む鳥の声も届かず、その上に木々が広がっていることを示すものは何もなかった。
「こんな場所が、王都の近くに……」
「かなり深いところにあるから、地上から見つかることはないわ。森の下には、昔使われていた地下水路が複雑に伸びているの」
「谷から、その水路へ入っていたんだ……」
「ええ。グラナクネが縄張りにしていた辺りから、谷の奥が古い水路へ続いているの。あなたは気づかないうちに、西の森の地下深くまで入り込んでいたみたいね」
新は周囲を見回した。
これだけ多くの者が暮らしているのに、谷底からは灯り一つ見えなかった。
外から見つけられないはずだった。
里の者たちが、新とリリアへ視線を向け始める。見知らぬ人族を警戒しているのかと思った。だが、すれ違った亜人族の男が、新の前で足を止めた。
男の肌は薄い灰色で、左のこめかみに短い角が一本だけ生えている。右腕には、肩から手首まで厚く布が巻かれていた。開いた襟元には、古い焼印の跡が覗いている。
「あんたが、グラナクネを倒した人か」
「え……」
「俺も、あいつにやられた一人なんだ。俺は腕をやられただけでなんとか戻れたが、四人は戻らなかった」
男は包帯の巻かれた腕を見た。
「これで、また階段を使える。里の子どもたちも飢えずに済む。礼を言う」
男は深く頭を下げた。
新は慌てる。
「頭を上げてください。俺は、そんな……」
「助かった者がいる。それで十分だ」
男はそれだけ言うと、道の端へ下がった。その先でも、何人かが新へ頭を下げた。
グラナクネを倒した人間の話は、すでに里中へ広まっているらしい。
新は落ち着かなかった。
蜘蛛の脚に腹を貫かれ、糸に縛られ、死ぬことさえできずに食われ続けるのではないかと怯えていた。
そして、身体の中で何かが外れたあとは、怖さも痛みも遠ざけて、ただ目の前のものを斬った。
腹を貫かれた恐怖よりも、その後に訪れた静けさの方が、今は不気味だった。
空洞の中央に近づくにつれ、食べ物の匂いが強くなっていった。煮込んだ根菜ときのこの匂いだった。匂いを吸い込んだ途端、空腹が一気に戻ってくる。
食事処は、里の中でも大きな建物だった。
広い入口には扉がなく、種族の違う者たちが絶えず出入りしている。中には長い卓と椅子が並び、奥の大鍋から白い湯気が立ち上っていた。
リリアが空いている席へ新を座らせる。
すぐに、肩口を淡い羽毛に覆われた妙齢の亜人族の女性が、器を運んできた。腕には、薄くなった焼印が残っている。
器の中には、細かく切った根菜ときのこを煮込んだものが入っていた。汁は多く、肉は小さな欠片がわずかに浮かぶだけだった。その横へ、硬そうな黒パンが半切れ置かれる。
「食べられるだけでいいから。急いで詰め込まないでね」
リリアに言われ、新は頷いた。
木の匙で煮込みをすくい、口へ運ぶ。舌を焼きそうになりながら飲み込む。
塩気のある汁と、柔らかく煮えた根菜が喉を通っていく。
肉がほとんど入っていなくても、今の新には十分だった。その温かさが腹へ落ちた瞬間、自分がどれほど空腹だったのか、改めて思い知らされた。
二口目、三口目と、匙を運ぶ手が速くなる。
「ゆっくり」
「……すみません」
「謝らなくていいから、噛んで」
新は言われた通り、速度を落とした。
向かいへ座ったリリアが、呆れたような、安心したような顔で見ている。
「最後に食べたのは?」
「ロウを出る前です」
「ロウから来たのね。どのくらい前?」
「ロウを出て二日目の途中までは、外の光で時間を数えられたんです。でも、それからは光が届かなくなって、一度眠ったので……正確には分かりません」
「それなら、少なくとも二日近くは食べていなかったのね」
「途中に実や草はあったんですけど、毒があるか分からなくて」
「正しい判断よ。この辺りには、触れただけで痺れるものもあるから」
食べなくてよかった。
新はそう思いながら、黒いパンを少しずつ煮込みへ浸した。食事処の中には、幾つもの話し声が重なっている。
大きな体に獣の耳を持つ男と、竜人族の女性が同じ卓で食事をし、その隣では人族の子どもが、緑色の肌を持つ老人から何かを教わっていた。
ロウの町で感じた、息を潜めるような静けさはない。
地上から隠れて暮らしているはずなのに、この場所には、人が生活している音があった。
新は器から顔を上げる。
「ここから、地上へ戻れるんですか」
「道はいくつかあるわ。でも、誰でも自由に使えるわけではない」
「里を隠すためですか」
「そう。道を知った者が、地上から兵や奴隷商を連れて戻ってきたら終わりだもの」
リリアは声を少し落とした。
「地上へ物資を取りに行く時も、同じ町で続けて買わないようにしている。人族と竜人族が少人数で出て、いくつもの町を回るの。戻る時も、誰かにつけられていないか確かめてから里へ入る」
「亜人族の人は、外へ出ないんですか」
「出られないわけではないわ。ただ、ここにいる者の多くは、元の主人や奴隷商に顔を知られているの」
リリアの視線が、食事を運んできた女性の焼印へ向かう。
「焼印まで見つかれば、逃亡奴隷だと知られてしまう。もう一度連れ戻される危険を冒すわけにはいかないわ」
新は器の中へ視線を落とした。たった一度の買い出しにも、そこまで気を配らなければならない。
「あなたが里を救ってくれたことと、一人で出入口を使わせられるかは別の話よ。ここには何十人もの命がある。里長として、案内なしで外へ出すわけにはいかない」
ここへ人族兵や奴隷商が入り込めば、何が起きるかは想像できた。
リリアはわずかに表情を和らげる。
「体力が戻ったら、私が地上まで案内するわ。仲間を捜す方法も考えましょう」
「ありがとうございます」
「ところで、仲間とどこへ向かう予定だったの?」
新は一瞬迷った。
目の前にいるリリアを、まだすべて信じてよいのかは分からない。
けれど、この里で見た者たちや、リリアの言葉が嘘だとも思えなかった。
「ヴェルガントです」
その名を聞いた瞬間、リリアの目がわずかに細くなった。
「交易都市ヴェルガント?」
「はい。そこに、会わなければならない人がいるんです」
「それなら、あなたが倒したグラナクネの先にある階段を使うのが一番近いわ」
新の手が止まった。
「さっき言っていた階段から、ヴェルガントへ行けるんですか?」
「町の中へ出るわけではないわ。でも、階段から地上へ出れば、ヴェルガントまで歩いて一日半ほどの場所よ」
「一日半……」
「明日、巣と階段の安全を確かめる。残った糸を取り除いて、ほかに異形種が入り込んでいなければ、物資を運ぶ者たちも地上へ出られるわ」
リリアは新の顔を見る。
「明日までに、歩けるくらい体力が戻っていれば、一緒に来てもらっても構わない」
新は器を置いた。カンナとフィオナが向かったはずの町。そして、父親のレオルドを殺したアゼルが収容されている場所。
谷へ落ちたことで、遠く離れてしまったと思っていた。
だが、目的地へ続く道は、グラナクネが倒れていた場所のすぐ先に残されている。
新が暗闇の中で斬り開いたのは、グラナクネの身体だけではなかった。
その一撃は、知らないうちにヴェルガントへ続く道まで開いていた。




