38.谷底の怪物
目を覚ますと、新は冷たい水の中に横たわっていた。
頬を打つ水音に混じって、自分の荒い呼吸が聞こえる。身体を起こすと、濡れた服が肌へ張りつき、皮膚にこびりついていた血が水へ黒くほどけていった。
頭上には、灰色の岩壁に挟まれた細い空がある。その高さを見た瞬間、谷へ落ちた時の記憶が戻ってきた。崖際まで追い詰めてきた人族兵と、足の裏から岩の感触が消えた瞬間。それから先は何も覚えていない。
新は息を整えながら、腕や脚を確かめた。服は裂け、身体中に血の跡が残っている。だが、折れた骨も裂けた皮膚も、すでに元の形へ戻っていた。腕は曲がり、指も動く。立ち上がってみると、両脚は何の問題もなく体重を支えた。
身体は治っている。それでも、地面へ叩きつけられた時に受けたはずの痛みだけは、鈍い記憶となって全身に残っていた。
「カンナさん!フィオナさん!」
呼びかけは岩壁にぶつかり、幾重にも重なって返ってきた。新はしばらく待ったが、返事はない。谷底を見回しても人の姿はなく、上から差し込む光も地面まではほとんど届いていなかった。
少し離れた岩の隙間に、鈍い銀色が見えた。シルヴァンから預かった大剣だった。刀身は二つの岩に挟まり、鞘は浅い水の流れの中に転がっている。新は剣を引き抜き、鞘に納めてから、切れていた革紐を結び直した。
それを背負った時、岩陰から硬いものが擦れ合う音がした。新は反射的に振り向いた。
最初に見えたのは、長い二本の触角だった。そのあとから、赤黒い殻に覆われた平たい頭が現れる。百足に似ていたが、身体の太さは新の胴ほどもあり、数えきれない脚が濡れた岩を掻きながら、途切れることなく続いていた。
巨大な百足は、新が横たわっていた場所で止まった。岩に残った血の匂いを嗅ぐように頭を動かし、左右に開いた顎を小さく鳴らす。
新は大剣の柄へ手をかけたものの、抜くことはできなかった。今の自分に、あれを倒せるとは思えない。すぐそばにあった岩の裂け目へ静かに身を滑り込ませ、口元を押さえて息を殺す。百足の異形種は新の隠れた場所から数歩と離れていないところを行き来し、やがて長い身体を岩の向こうへ消していった。
脚音が完全に聞こえなくなってから、新はようやく息を吐いた。戦えないなら、見つからないようにするしかない。谷底で最初に覚えたのは、それだった。
谷底には、岩壁から落ちる水が集まってできた浅い水の流れがあった。どちらへ進めばいいのか分からない新は、ひとまず水の流れる方角と逆へ歩くことにした。上流へ登っていけば、どこかで谷の外へ出られるかもしれない。
両側には切り立った岩壁が続いており、登れそうな場所は見つからなかった。大声で助けを呼ぶことも考えたが、先ほどの百足を思い出してやめた。ここで音を聞きつけるのは、人とは限らない。
喉は渇いていたが、異形種の棲む谷底を流れる水を口にする気にはなれなかった。
虫の羽音や殻の擦れる音がすれば、そのたびに岩陰へ隠れた。谷底に棲む異形種は、どれも新の知っている虫とは大きさが違っていた。馬ほどもある甲虫が頭上を横切り、太い角で倒木を押し退けていく。別の場所では、透き通った羽を持つ虫が岩壁に張りつき、長い口を岩の穴へ突き刺していた。
どちらも新には気づかなかった。見つからなければ生き残れる。その事実だけを頼りに、新は岩陰から岩陰へ移りながら少しずつ先へ進んだ。
日が落ちると、谷底は何も見えないほど暗くなった。新は倒木と岩の隙間に身体を押し込み、大剣を抱えたまま夜をやり過ごした。
眠りかけるたび、暗闇のどこかで何かが動いた。硬い脚が岩を叩く音、低く唸る羽音、何かが地面を引きずられていく音。その一つ一つが自分へ近づいてくるように思え、新は何度も目を開けた。
岩陰に身を潜めている間は声を出すこともできず、自分の呼吸と心臓の音だけを聞きながら、朝の光が差し込むのを待つしかなかった。
二日目も水の流れに沿って歩いた。空腹は次第にはっきりした痛みに変わっていったが、谷底に生える草や実を口にする気にはなれない。色も形も見たことのないものばかりで、毒があるかどうかを確かめる方法もなかった。無理に食べて動けなくなるよりは、空腹のまま進んだ方がいい。そう判断できている間は、まだ大丈夫だと思った。
何度か異形種の気配に追われたものの、その日も新は戦わなかった。岩の窪みに伏せ、倒木の下へ潜り、ときには水の中で息を潜めながら通り過ぎるのを待った。
逃げるたびに恐怖は増した。けれど同時に、どの音が近く、どの音ならまだ遠いのか、少しずつ聞き分けられるようにもなっていた。
谷を進むにつれて、頭上から差し込んでいた光は次第に薄れ、やがて完全に届かなくなった。谷がさらに深くなったのか、それとも日が落ちたのか、新には分からなかった。
新は手探りで岩の隙間を見つけ、そこへ身体を押し込んだ。
どれほど眠ったのか分からない。三日目の朝を迎えたのかどうかさえ分からないまま、新は暗闇の中で身体を起こした。頭は重く、喉は焼けるように渇き、空腹で腹の奥が縮んでいた。
またしばらく進むと、水音が変わった。
これまで絶えず聞こえていた細い流れの音が弱まり、代わりに、どこかで水が溜まっているような低い音がする。
新は足元を探りながら進んだ。
靴の先が、柔らかく沈む。水の流れが何かにせき止められ、その周囲だけ地面がぬかるんでいるらしい。手を伸ばすと、湿った木の表面に触れた。何本もの太い倒木が、岩の間に折り重なっていた。
頭上から光は届いていない。
暗闇に目が慣れても、倒木と岩の輪郭がかろうじて分かる程度だった。
新は濡れた場所を避けようと、横にある岩場へ足をかけた。
その時、靴の裏に何かが張りついた。
足を上げようとしたが、細い何かに引かれて動かない。
新は腰を落とし、指先で靴の周囲を探った。
粘ついた糸のようなものが、靴底から岩へ伸びている。触れた指にも絡みつき、引けばゴムのように伸びた。
「なんだ、これ……」
新が糸を外そうとした瞬間、それが急に張り詰めた。
細かな震えが指先へ伝わる。
その震えは、新の触れている一本だけではなかった。
足元から倒木の下へ、さらにその奥の暗闇へと、幾つもの糸が連なっている。
新は息を止めた。
暗闇の中に、赤い光が浮かんだ。
最初に現れたのは、大きな二つの目だった。
その周囲に、ひと回り小さな赤い目が一つ、二つと開いていく。
全部で八つ。
八つの赤い目が、倒木の裏側から新を見下ろしていた。
その間隔だけでも、頭が人間の胴より大きいことが分かる。
硬いものが擦れ合う音がした。
続いて、岩を叩く幾つもの足音が重なる。
八つの赤い目が、ゆっくりと下がり始めた。姿は見えないが、それでも新には分かった。蜘蛛だ。
新は靴に絡んだ糸を力任せに引きちぎり、後ろへ下がった。
倒木が大きく軋む。
硬い脚が次々と岩へ着く音がした。右、左、その奥。幾つもの音が、ほとんど同時に新へ近づいてくる。
新は背中から大剣を下ろした。鞘を払い、両手で柄を握る。
食べ物も水も口にしていない身体には、その重さを支えることさえ苦しかった。肩へ力を入れなければ剣先が落ち、両腕が小さく震える。
八つの赤い目が止まった。
次の瞬間、一気に新へ迫った。
相手の正面に立つな。半歩でいいから、軸を外せ。シルヴァンの声が、頭の奥によみがえる。
新は左へ踏み出した。赤い目が肩のすぐ横を抜ける。
直後、何か大きなものが身体の横を通り過ぎた。押し退けられた空気が頬を打ち、硬い殻のようなものが右肩を掠める。
その衝撃だけで、新の身体が大きくよろめいた。
暗闇の中から、甲高い音が響く。蜘蛛が向きを変えている。
八つの目が一度見えなくなり、少し離れた場所に再び現れた。
赤い目以外は、何も見えない。脚がどこにあるのか。口がどこまで開いているのか。どれほど大きな身体なのか。新には分からなかった。
頼れるのは、八つの目と、岩を叩く足音だけだった。
蜘蛛の目がわずかに低くなる。
また来る。新は大剣を構え直した。足音が一斉に近づく。今度は早めに右へ踏み出し、赤い目が来る位置へ大剣を振った。
刀身が、暗闇の中にある何かへぶつかった。
鈍く重い音が響く。
岩でも斬ったような衝撃が両腕を駆け抜け、新は大剣ごと後ろへ弾かれた。
「っ……!」
刃が通った感触はなかった。だが、八つの目が大きく揺れ、すぐに距離を取った。蜘蛛の足音が新の周囲を回り始める。
右から聞こえたと思えば、次は左。足音が岩壁へ反響し、実際にどこを動いているのか分からなくなる。
新は大剣を構えたまま、赤い目を探した。
暗闇の奥に、八つの目が並ぶ。
その直後、赤い目がすべて消えた。
「どこだ……?」
粘ついたものが空気を切る音がした。
新は反射的に大剣を持ち上げた。何かが刀身へぶつかる。次の瞬間、両手に強い力がかかった。
見えない糸が大剣へ絡みつき、暗闇の奥から引かれている。
新は柄を握り締めた。
「離すか……!」
足を踏ん張り、引き戻そうとする。
だが、その間に別の何かが胸へぶつかった。
粘ついた糸が胸元で広がり、両腕ごと身体へ張りつく。
続けて、足首にも糸が巻きついた。
強く引かれ、新の身体が地面へ倒れる。
「くそっ……!」
背中を岩へ打ちつけ、息が詰まった。
大剣を手放さないよう柄を握り続ける。だが、右腕は柄ごと身体へ固定され、肘さえ曲げられなかった。
暗闇の中で、蜘蛛の足音が激しく動き始める。新の周囲を回っている。
粘ついた糸が次々と身体へ重なった。
糸が巻きつくたび、新の身体は地面の上を転がされる。逃れようと身を捩るほど糸は強く締まり、呼吸さえ苦しくなっていった。
やがて両腕は脇へ固定され、二本の脚も一つに束ねられた。
大剣も右側へ沿うように巻き込まれている。
新は白い糸で簀巻きにされたような姿のまま、地面へ転がされていた。
動かせるのは、首と指先だけだった。周囲の足音が止まる。
暗闇の中に、八つの赤い目が現れた。
捕らえた獲物を確かめるように、ゆっくりと近づいてくる。新は全身に力を込めた。
「動かねぇ……!」
糸が軋む。だが、切れない。
腕を動かそうとするほど胸と腹が締めつけられ、肺から空気が押し出される。
もう一度力を込めても、糸はわずかに伸びただけだった。
八つの目が、さらに近づく。
大きな二つの目を囲むように、六つの小さな目が並んでいる。その下から、硬いものが何度も触れ合う音がした。
蜘蛛の口だ。
粘ついた液体が地面へ落ちる音がする。一本の硬い脚が、新の頭のすぐ横へ突き立てられた。岩を刺す鋭い音と震動が耳のすぐそばから伝わった。
別の脚が身体へ触れる。細く硬い先端が、糸の上から腹を探るように動いた。
次の瞬間、それが新の左腹部へ突き刺さった。
「があっ――!」
視界が白く弾けた。
焼けた鉄を腹の中へ押し込まれたような痛みが全身を貫く。
身体が糸の中で大きく跳ねた。
逃げることも、傷口を押さえることもできない。
蜘蛛が脚を抜かずに、そのまま引いた。
硬い先端が肉の中で引っかかり、傷口を内側から引き裂いていく。
「ぐあああああっ!」
新の叫びが谷底へ響いた。傷はすでに塞がろうとしていた。
それでも、腹の中に残る脚が動くたびに、戻りかけた肉が再び裂かれていく。
蜘蛛の脚には、何か棘のようなものがついている。
新には見えなかった。
だが、引かれるたびに肉の内側へ食い込む感触だけは、はっきりと分かった。
治りかけては、壊される。同じ場所を何度も抉られる痛みに、新は息を吸うことさえできなくなった。
蜘蛛は獲物が動かなくなるのを待っているように、腹へ刺したものをゆっくりと捻っていく。
八つの目が新の顔へ近づいた。赤い光が視界を埋めていく。その下から、口が開く粘ついた音がした。
このまま食われる。
身体が戻るより早く肉を噛みちぎられ、治るたびにまた食われたら、自分はどうなる。
死ぬことさえできず、食われ続けるのかもしれない。
それでも、指一本まともに動かせない。
赤い目が、すぐそこまで迫った。
かちり、と。
身体の奥で、何かが外れる音がした。耳で聞いたわけではない。それでも、新はその感覚を知っていた。
エティエンヌに何度も斬られ、痛みで何も考えられなくなった、あの時と同じだった。
ただ、あの時とは違う。意識は、はっきりと残っている。腹の中を焼いていた痛みが、急速に遠ざかっていく。
息苦しさも、空腹も、喉の渇きも消えていない。それなのに、身体から送られてくるすべての訴えが、薄い膜の向こうへ押しやられていく。
背中の奥が、焼けるように熱い。
暗闇が晴れたわけではなかった。
それでも、八つの目の位置と、腹へ刺さった脚の向き、身体へ巻きついた糸の張りだけで、蜘蛛がどこにいるのか分かった。
赤い目の動きだけが、異様なほど鮮明に見える。
新は両腕へ力を込めた。
糸が身体へ食い込み、服ごと皮膚を削る。肩の関節が軋み、腕の筋肉が内側から裂けていく。
痛みは遠い。
身体が壊れていく感触だけが、どこか他人事のように伝わってくる。
「ぐ、うううううっ……!」
新は両腕を外へ押し広げた。
一本の糸が切れた。
続けて、もう一本。
身体を覆っていた糸が、次々と引き千切れていく。
八つの赤い目が大きく揺れた。
蜘蛛は腹へ刺していた脚を引き抜き、後ろへ退いた。新の右手は、まだ大剣の柄を握っていた。
自由になった左手で上半身の糸を剥がし、続けて両脚を束ねていた糸も引き千切る。
片脚が自由になる。
新はその膝を地面へつき、身体を起こした。左手も柄へ重ね、大剣を右肩まで引き上げる。
蜘蛛は、まだ目の前にいる。
赤い目が、わずかに後ろへ動いた。逃げようとしている。
新の右手には、まだ大剣の柄が残っていた。新は両手で柄を握り、立ち上がる。刀身に絡んでいた白い糸が、音を立てて千切れた。
八つの目の中心を見る。
あの時は、何も分からないまま剣を振った。
だが、今は違う。
どこへ刃を通せばいいのか、分かっていた。
新は一歩踏み込み、腰と背中ごと大剣を横へ振り抜いた。
刃が、八つの赤い目の中心を走る。硬い殻の砕ける音が響いた。
赤い光が二つに分かれ、そのまま左右へ崩れ落ちる。
二つの重いものが、ほとんど同時に地面へ落ちた。遅れて、蜘蛛の背後から岩の砕ける音が響いた。
石片が降り注ぎ、巻き起こった風が新の髪と服を激しく揺らす。
地面へ落ちた脚が何度か岩を掻き、やがて動かなくなった。
新は大剣を振り抜いた姿勢のまま、暗闇を見つめていた。
倒した。そう理解した瞬間、身体を支配していた異様な静けさが途切れた。
「ぐっ……!」
最初に戻ってきたのは、腹の痛みだった。
棘で引き裂かれた傷が、内側から燃え上がる。
続いて、両肩と腕が激しく引きつった。糸を引き千切った筋肉が悲鳴を上げ、背中と腰にも遅れて痛みが走る。
「――っ、ぅ……」
喉が引きつり、潰れた息しか漏れなかった。握っていた柄が、指の間から滑り落ちた。
大剣が岩へぶつかり、硬い音を立てる。
新も、その場へ崩れ落ちた。
身体を丸めようとしても、腹と肩が痛み、どちらへ動いても新しい痛みが生まれる。
傷は塞がり始めていた。
流れ出る血も、少しずつ減っている。それでも、一度受けた痛みまで消えるわけではない。
新は岩を掴んだ。
吐き気を堪え、波のように押し寄せる激痛が弱まるのを待とうとした。
だが、意識が急速に遠のいていく。
目を閉じかけた、その時だった。暗闇の向こうに、小さな明かりが浮かんだ。
淡い黄色の光が、左右へ揺れながら少しずつ近づいてくる。
水を踏む音がした。
一歩。
また一歩。
誰かがこちらへ歩いてくる。
新は大剣へ手を伸ばそうとした。
だが、指一本動かなかった。明かりが近づく。
その光に照らされ、二つに分かれた蜘蛛の姿が初めて暗闇から浮かび上がった。
岩と見分けがつかない灰色の殻。
刃のように細長い八本の脚。
脚の内側には、黒い棘が幾つも並んでいる。
蜘蛛の背後にある岩壁には、大剣を振った軌道と同じ方向へ、長く深い傷が刻まれていた。
エティエンヌの前で、触れてもいない木々を斬り倒した時と同じだった。
明かりがさらに近づき、倒れた新の身体を照らす。ぼやけた視界の中に、誰かの二本の脚が見えた。
その足が、新のすぐ前で止まった。
顔を上げるより先に、新の意識は完全に途切れた。




