37.底へ
大剣の切っ先が、石畳を削った。
朝に何度振っても、まともに扱えなかった剣だ。吐いたばかりの身体には、持って走るだけでも重い。それでも、新は止まらなかった。
母親と子どもの前で、兵士の剣が振り下ろされる。新は大剣を両手で持ち上げ、その間へ滑り込んだ。
刃と刃がぶつかる。鋭い金属音が響き、衝撃が両腕を駆け抜けた。
「ぐっ……!」
大剣の腹で、どうにか兵士の剣を受け止めていた。腕が痺れ、肩に力が入らない。
大剣の重さに押され、新は片膝を石畳についた。
「なんだ、貴様は!」
兵士が剣を押し込んでくる。
新は奥歯を噛みしめた。
目の前には、怯えきった子どもの顔がある。母親の腕にしがみつき、声も出せずに震えていた。
ここを退けば、二人が斬られる。
「早く……逃げてください!」
母親へ叫ぶ。
だが、倒れている男を置いていけないのか、母親は動かなかった。片腕で子どもを抱きながら、もう片方の手を男へ伸ばしている。
「邪魔をするなら、お前も反逆者だ!」
兵士が一度剣を引いた。新も大剣を構え直そうとする。
だが、重さに腕がついていかない。切っ先が石畳へ落ち、火花を散らした。
兵士が踏み込んでくる。
このままでは、剣を上げる前に斬られる。新は柄を握ったまま、身体ごと前へ出た。
大剣を振るのではなく、持ち上げた刀身を、力任せに押しつける。
兵士は剣で受けようとした。
だが、大剣の重さを受け止めきれなかった。二本の刃がぶつかり、兵士の剣が大きく弾かれる。
「なっ……!?」
新は止まれなかった。
大剣に身体を引かれたまま、さらに一歩踏み込む。刀身の腹が兵士の胸元へぶつかった。
兵士の身体が後ろへ押し飛ばされる。
積み上げられていた木箱へ背中から突っ込み、鈍い音を立てて倒れた。
新も勢いを止められず、前のめりに石畳へ手をつく。
「っ……」
大剣を振ったとは言えない。
剣の重さと力で、無理やり押し退けただけだった。それでも、兵士はすぐには起き上がってこない。
新は顔を上げた。
「今のうちに!」
母親が何度も頷く。
子どもの手を取り、倒れていた男の身体を必死に起こそうとする。その様子に気づいた竜人族の男が一人、逃げる人波から外れて駆け寄ってきた。
「肩を貸す!立たせろ!」
男が倒れていた竜人族を担ぎ上げる。母親は子どもを抱き、三人とともに路地へ逃げ込んでいった。
その背中を見た瞬間、新の身体から力が抜けた。だが、息をつく間もなかった。
「こいつを斬れ!」
別の兵士がこちらへ向かってくる。新は大剣を引き起こそうとした。
刀身が石畳へ張りついたように重かった。両手で柄を握り、どうにか持ち上げようとする。その間にも、兵士との距離は縮まっていく。
剣が振り上げられた。
「新、下がれ!」
フィオナの声が響いた。新へ迫っていた兵士の剣が、横から弾かれる。
兵士が体勢を立て直すより早く、フィオナはその懐へ踏み込む。剣の柄で男の顎を打ち上げ、返す刃で脇腹を斬った。
兵士が崩れ落ちる。
フィオナの背後には、先ほどの三人の兵士が倒れていた。
最初に肩口を斬られた男も、左右から迫っていた二人も、もう立ち上がってこない。
フィオナは倒れた兵士から視線を外し、新を見る。
「怪我はないか」
「ないです」
「動けるか」
「はい」
新は大剣を持ち上げた。腕が震えていた。今の一度だけで、肩が焼けるように痛い。
それでも、手放すつもりはなかった。
「なら、行くぞ。ここには長くいられない」
フィオナは周囲へ目を向けた。通りには、さらに多くの人族兵が入り込んでいた。
逃げる竜人族の背中へ剣を振るう者。家の扉を蹴破る者。窓を叩き割り、燃える松明を家の中へ放り込む者。昨日まで静かだったロウの町が、怒号と悲鳴に満ちている。
「アラタ!」
カンナの声がした。
振り返ると、カンナがガルゼンのそばにいた。片手で自分たちの馬を、もう片方の手でラズの手綱を握っている。
怯えたラズが何度も首を振っていた。
「アラタ、大丈夫?」
「はい。俺は大丈夫です」
答えながら、新はカンナたちのもとへ戻った。
その時、家々の間から数人の竜人族が駆けてきた。若い男たちだった。
誰もが新より大きく、腕や首元を硬い鱗が覆っている。衣服の下には革の防具を身につけ、手には槍や剣が握られていた。
先頭の男が、ガルゼンの前で足を止める。
「ガルゼン様、こちらへ!」
ガルゼンは驚いた様子を見せなかった。
「町の者たちは」
「動ける者が、裏手へ誘導しています。北の道はまだ塞がれておりません」
「そうか」
ガルゼンは短く頷いた。
竜人族の男たちは、ガルゼンを囲うように立つ。二人が通りへ向けて武器を構え、残る者が細い路地を指した。
「急いでください。ここも、じきに敵兵が来ます」
ガルゼンは一度、燃え始めた町を振り返った。赤銅色の目に炎が映る。その表情から何を考えているのか、新には分からなかった。
「フィオナ殿」
ガルゼンが振り返る。
「あなた方も、我々と一緒に行きましょう」
「町の外まで、ご一緒してもよろしいのですか」
「もちろんです。町の北側へ出れば林道があります。そこまで行けば、馬でも走れるでしょう」
フィオナは短く頷いた。
「分かりました」
「ガルゼン様、こちらです」
竜人族の男が、通りの斜め向かいにある細い路地を指した。
「あの路地から北へ抜けられます」
「行きましょう」
ガルゼンの言葉を合図に、竜人族の男たちが動き始める。
二人が先頭に立ち、残る者たちがガルゼンの周囲を固めた。
「町を出たら、馬に乗るぞ」
フィオナがカンナと新へ告げる。
「ここは道が狭いうえに、逃げる者も多い。それまでは手綱を引いて進むぞ」
「分かった」
カンナが自分の馬の手綱を握る。新は大剣を背負い直し、ラズのそばへ立ち、黒い首筋へ手を触れた。
ラズの身体は震えていた。怒号や悲鳴が響くたびに耳を伏せ、落ち着きなく足を動かしている。
「大丈夫だ。行こう」
自分にも言い聞かせるように、新は声をかけた。
竜人族の男たちが先に通りを渡る。その後ろにガルゼンが続き、フィオナとカンナも北へ向かう路地へ急いだ。新はラズを引き、一行の最後尾を進む。
ガルゼンたちが路地へ入った。
フィオナとカンナも、その後へ続く。
新もラズを連れて足を踏み入れようとした、その時だった。
頭上から、何かが軋む音がした。
新が顔を上げる。
路地脇に建つ家が、炎に包まれていた。二階の外壁には大きな亀裂が走り、その隙間から赤い火が漏れている。
乾いた音を立て、亀裂が一気に広がった。
「新、下がれ!」
フィオナの声が響く。
新は咄嗟にラズの手綱を引き、後ろへ跳んだ。
直後、家の二階部分が路地へ向かって崩れ落ちた。
石壁と燃える木材が、激しい音を立てて地面へ叩きつけられる。
土煙と火の粉が舞い上がった。
ラズが甲高いいななきを上げ、激しく首を振る。
「落ち着け!」
新は暴れようとするラズの手綱を、両手で押さえた。
目の前には、崩れた石と燃える木材が積み重なっている。
北へ続く路地は、完全に塞がれていた。
「アラタ!」
瓦礫の向こうから、カンナの声がした。だが、舞い上がる煙と瓦礫に遮られ、カンナたちの姿は見えなかった。
「新、聞こえるか!」
フィオナの声が飛んでくる。
「聞こえます!」
「その道は使えない! 別の路地から北へ回れ!」
「分かりました!」
「町を出たら、林道へ向かえ!その先で合流する!」
「はい!」
新はラズの手綱を握り直した。
燃える瓦礫を越えることはできない。別の道を探すため、来た通りへ戻ろうとする。
その時、町の南側から、いくつもの悲鳴が重なって聞こえた。
地面を揺らすような足音が、急速に近づいてくる。
新が振り返る。通りの先から、大勢の竜人族が押し寄せていた。子どもを抱えた者、荷物を放り出して走る者、血を流した者へ肩を貸し、必死に足を動かしている者。誰もが後ろを恐れ、前だけを見ていた。
その背後から、人族兵たちがなだれ込んでくる。逃げる者を押し退け、追いついた者へ剣を振るっていた。
「ラズ、こっちだ!」
新は手綱を引き、道の端へ寄ろうとした。
だが、ラズは迫ってくる人の波に怯え、激しく首を振った。
逃げてきた竜人族の男が、新の肩へぶつかる。
「っ……!」
身体がよろめく。
続けて別の者が、ラズの身体へぶつかった。ラズが前脚を高く上げる。
「落ち着け!」
新は手綱を握り直そうとした。
だが、疲れきった指に力が入らない。ラズがもう一度、大きく首を振った。
手綱が新の手から抜ける。
「ラズ!」
黒い馬が人の流れの中へ駆け出した。新は追いかけようとした。
だが、その前へ逃げ惑う竜人族たちが次々と流れ込んでくる。
子どもを抱えた者。足を引きずる者。後ろから迫る兵士を恐れ、周囲を見る余裕もなく走る者。
人の波が、新とラズの間を埋め尽くした。
「すみません、通してください!」
声を上げても、誰にも届かない。人と人との隙間に、一度だけラズの黒い首筋が見えた。
「ラズ!」
新が手を伸ばす。だが、その姿もすぐに人波の中へ消えた。
追いかけようとした新の胸元へ、槍の穂先が突き出される。
新は咄嗟に背負っていた大剣を横へ構えた。
槍が刀身へぶつかる。
「ぐっ……!」
衝撃に押され、家の壁へ背中を打ちつけた。
「竜人族に加担している人族だ!」
「そいつを捕らえろ!」
人族兵たちが新へ向かってくる。新は槍を大剣で押し返した。
ここで捕まれば、フィオナたちのいる方角まで知られるかもしれない。
新は大剣を引きずるようにして、近くにあった細い路地へ駆け込んだ。
「逃がすな!」
「大剣を持った男だ!」
背後から、兵士たちの足音が追ってくる。
新は振り返らなかった。
路地を抜け、北へ回っているつもりだった。だが、家々の間では方角が分からない。
空は煙に覆われ、朝日がどちらにあるのかも見えなかった。
曲がるたびに、知らない道へ出る。後ろからは、兵士たちの足音がついてくる。
大剣を抱えたままでは、速く走れない。刀身の重さに身体が左右へ引かれ、何度も壁や石畳へ切っ先をぶつけた。
腕も、もう限界に近い。それでも、止まれば捕まる。新は走り続けた。カンナたちは、町の外へ出られただろうか。
人波の中へ消えたラズも、無事だろうか。今は、確かめることができない。自分も北へ向かうしかなかった。
いくつ目かの角を曲がった時、石造りの家が途切れた。
町の外へ出たのだと思った。だが、林は見えない。
少し進んだ先にあったのは、乾いた岩肌と急な斜面だった。
「違う……」
北ではない。道を間違えた。
戻ろうとした時には、すでに人族兵たちが路地から出てきていた。
「いたぞ!」
五人。さらにその後ろにも、人影が見える。新は岩場へ向かって走り出した。
足元には大小の石が転がり、踏み込むたびに靴の下で滑った。
大剣を支えきれず、何度も身体が傾く。
兵士たちの足音は離れない。
「止まれ!」
「逃げ切れると思うな!」
新は斜面を回り込んだ。その先で、地面が途切れていた。
慌てて足を止める。
大剣の切っ先が地面へぶつかり、新の身体が大きく前へ揺れた。
目の前には、何もなかった。
深い谷だった。両側を灰色の岩壁に挟まれ、その底は暗く沈んでいる。
朝だというのに、谷底までは光が届いていなかった。新の足元から、小石が一つ落ちる。
岩へぶつかる音は、すぐには聞こえなかった。
しばらくして、かすかな音が谷の下から返ってくる。
新は息を呑んだ。後ろでは、人族兵たちが足を止めていた。
逃げ道がないと分かったのだろう。もう追い立てる必要はないと判断したように、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「そこまでだ」
一人が剣を向けた。
「武器を捨てろ」
新は大剣を握ったまま動かなかった。息が上がっている。両腕は痺れ、指先の感覚も薄い。
「聞こえなかったのか。剣を捨てろ」
「……嫌です」
掠れた声で答えた。
兵士の目が細くなる。
「人族のくせに、なぜ竜人族に加担する」
新は何も答えなかった。
「連れていけ。誰の命令でこの町へ入ったのか、ゆっくり聞けばいい」
その言葉を聞いた瞬間、新の身体が強張った。
森の中で受けた痛みがよみがえる。何度も斬られた腕と裂かれた肩と脇腹。膝から下を断たれ、地面の上で動けなくなった身体。
傷は消え、失ったはずの足も、今は元に戻っている。それでも、痛みの記憶までは消えていない。
捕まれば、何をされるか分からない。
自分が守護者だと知られていなくても、一度傷を負えば、身体が戻るところを見られるかもしれない。
身体が魔力によって戻っていると知られれば、魔力の届かない場所へ連れていかれるかもしれない。
魔力を断たれた状態で殺されれば、今度こそ戻れない。
本当に、死ぬかもしれない。
新は谷へ目を向けた。
ここから落ちれば、普通なら助からない。だが、自分の身体は普通ではない。守護者の身体なら、地面へ叩きつけられても戻る。
死なないと、頭では分かっていた。それでも、足が動かなかった。
谷底を見た瞬間、膝から力が抜けそうになる。
背中を冷たい汗が流れた。
落ちていく時間も、地面へぶつかる瞬間もなくなるわけではない。身体が壊れる痛みも、きっと残るだろう。
怖い。
谷底が見えないことが、余計に恐ろしかった。
「剣を置け」
兵士が、また一歩近づく。
新は後ろへ下がろうとした。だが、足が動かない。
あと一歩で、谷へ落ちる。分かっているからこそ、身体が拒んでいた。
「手間を取らせるな」
二人の兵士が左右へ分かれる。捕まえようとしている。新は大剣の柄を握り締めた。
指が震える。
新は息を吸った。
怖さは消えない。
消えるはずがない。
兵士が手を伸ばした。
新は大剣の柄を握ったまま、一歩後ろへ下がった。
足の裏から、岩の感触が消える。
「なっ――」
兵士の手が、新の服をかすめた。
身体が谷側へ傾く。
もう戻れない。
空が大きく開き、岩壁が視界の両側を流れていく。
新は目を閉じられなかった。喉の奥から、押し殺しきれなかった叫びが漏れた。その声も、谷を吹き上げる風にかき消される。
大剣とともに、新の身体は暗い谷底へ落ちていった。




