36.背負うもの
翌朝、新は窓から差し込む薄い朝日で目を覚ました。身体を起こし、耳を澄ませる。
ガルゼンの家の中は静かだった。フィオナもカンナも、まだ休んでいるのかもしれない。
新は手早く身支度を整えると、寝台のそばに置いていた大剣を背負い、部屋を出た。
入口に近い居間では、ガルゼンが卓に着き、湯気の立つ茶を傍らに置いて本を読んでいた。新の足音に気づくと、顔を上げる。
「おはようございます、アラタ殿。よく眠れましたかな」
「おはようございます、ガルゼンさん。おかげさまでよく眠れました」
新が軽く頭を下げると、ガルゼンも小さくうなずいた。短く挨拶を交わし、新は家の外へ出た。
朝のロウは、昨夜と変わらず静まり返っていた。
石造りの家々の間に淡い光が差し込み、狭い通りを白く照らしている。遠くから鳥の声は聞こえるが、人の話し声はほとんどない。
新は家の裏手へ回り、小さな厩へ向かった。
「おはよう、ラズ」
声をかけると、ラズは待っていたように首を伸ばしてきた。
「お腹が空いてたのか。待ってろ、今入れるから」
新が飼葉桶へ干し草を入れると、ラズはその手が離れるのも待たずに口をつけた。
「そんなに慌てなくても、誰も取らないって」
思わず笑いながら、黒い首筋を撫でる。
ラズは気持ちよさそうに鼻を鳴らしたものの、すぐに干し草へ戻っていった。
すると、その横からもう一頭の馬が飼葉桶へ顔を近づけてきた。フィオナとカンナを乗せていた馬だ。干し草の匂いにつられたのか、ラズの脇へ鼻先を押し込もうとしている。
「お前も腹が減ってたのか。分かったから、横取りするなって」
新はその鼻先を軽く押し戻し、隣の飼葉桶にも干し草を入れた。
二頭が並んで夢中になって食べ始める。その姿を少し見守ってから、新は厩の脇にある空き地へ移った。
背負っていた大剣を下ろし、鞘から引き抜く。
朝の光が、鈍い銀色の刀身を滑っていく。刃には細かな傷がいくつも残り、長く使い込まれてきたことが分かった。
両手で柄を握っただけで、刃の重さが腕と肩へ沈み込んでくる。
「……やっぱり、重いな」
背負って歩くだけなら、どうにかなる。だが、剣として扱うとなれば話は別だった。
新は足を開き、腰を落とした。剣道で身につけた構えを思い出しながら、ゆっくりと刃を持ち上げる。
踏み込み、斜めに振り下ろした。
「っ……!」
剣の重さに身体ごと引かれる。右足が滑り、止めきれなかった切っ先が土を深くえぐった。
新は大剣を引き抜き、荒く息を吐く。柄を握る両手が痺れていた。
竹刀や普通の剣とは、まるで違う。
腕の力だけで振ろうとすれば、大剣の重さに身体を持っていかれる。力任せでは駄目なのだと分かっていても、どう扱えばいいのかまでは分からなかった。
「もう一回……」
新は歯を食いしばり、再び剣を構えた。
守りたいもんがあるなら、それを守り通せるくらい強くなれ。
ラズに乗せられ、シルヴァンと別れる直前に言われた言葉が、頭の奥によみがえる。
この剣を託された意味は、新なりに分かっているつもりだった。だが、シルヴァンがそこに込めた思いのすべてを理解できているわけではない。
それでも、ただ背負っているだけでは嫌だった。
次に誰かが襲われた時、また後ろで見ているだけにはなりたくない。
新は足を踏み込み、大剣を横へ振る。今度は刃の勢いに腰が流れ、その場で大きくよろめいた。
「朝から、すごい音がしてると思ったら」
不意に声をかけられ、新は慌てて振り返った。厩の入口に、カンナが立っていた。
「おはようございます、カンナさん」
「おはよう。訓練してたの?」
「はい。まだ、振ってるっていうより、振り回されてるだけですけど」
カンナは大剣と、土をえぐった二つの跡を交互に見た。
「うん。そんな感じだったね」
「そこは否定してくれてもよくないですか」
新が言うと、カンナは小さく笑った。
「ごめん。でも、そんなに重そうな剣を持てるだけでもすごいと思うよ」
「持てても、使えなきゃ意味ないですから」
新は大剣を鞘へ戻し、厩の壁へ立て掛けた。
「この剣をシル兄に託されたのに、何もできないままなのは嫌なんです」
その名を聞き、カンナの表情がわずかに曇った。新もそれ以上は続けられず、沈みかけた空気を変えようと別の話を切り出した。
「そういえば、フィオナさんは?」
「フィオナのことだから、たぶん町の周りを見回ってるんだと思う」
「そうですか」
自分たちが眠っている間にも、異変が起きていないか確かめに行ったのだろう。
旅の途中でも、カンナと言葉を交わすことはあった。けれど、こうして二人だけで向き合うと、何を話せばいいのか迷ってしまう。
沈黙が流れかけたところで、新は昨日から気になっていたことを思い出した。
「昨日、ガルゼンさんがカンナさんのお姉さんの話をしてましたよね」
「うん」
「俺、お姉さんが聖樹へ入ったことは評議会の際に聞きました。でも、その後どうなったのかは、ちゃんと知らなくて」
新は少し迷ってから尋ねた。
「今も、聖樹の中にいるんですか?」
カンナはすぐには答えなかった。
朝の光が厩の屋根から差し込み、その中を細かな埃が漂っている。それを見つめながら、カンナはゆっくりと口を開いた。
「うん。姉さんは、聖樹の中にいるよ」
新は顔を上げた。
「今も聖樹の中で、自分の命を聖樹へ結びつけて、聖樹を生かし続けているの」
「自分の命を、聖樹に……」
「姉さんが中へ入ったから、聖樹は今まで消えずにいられたの」
カンナの声は落ち着いていた。けれど、その横顔には消えない寂しさが滲んでいる。
「でも、聖樹の中へ入れるのは、鍵を集めた私たち王族だけでしょ?一度中へ入れば、聖樹の寿命が尽きないよう、その命を繋ぎ続けなければならない。だから、今まで中へ入った人が戻ってきたことはない。姉さんが今、何を見て、何を感じているのかも、私には分からない」
生きている。けれど、それは決して喜べるような話ではなかった。会うことも、言葉を交わすこともできず、ただ聖樹の命を繋ぎ続けている。
「このまま姉さんが役目を終える前に、別の方法を見つけられなければ……次は私が、同じ役目を継ぐことになる」
カンナは衣の裾を握り締めた。
「でも、私が姉さんの代わりになっても、何も終わらない。私たちのあとに続く王族が、また同じ役目を背負うことになる。評議会でも言ったけれど、こんな悲劇を、この先の人たちにまで繰り返させたくないの」
新は息を止めた。
「それって……カンナさんも聖樹の中へ入ったら、帰ってこられないってことですか?」
カンナはわずかに目を伏せた。
「今までと同じなら、そうなると思う」
「そんな……」
分かっていたはずだった。ギヨームとのやり取りを聞いた時から、カンナもいつか姉と同じ道を歩くのだろうと察していた。
それでも、本人の口から告げられると、急に現実味を帯びて胸へ迫ってきた。
カンナは聖樹のある方角を見つめた。
「だから、私は別の道を探したい」
「別の道……」
「私が姉さんと同じ場所へ入らなくても、聖樹を救える道。それに、できることなら……姉さんを聖樹の中から連れ戻す方法を」
カンナは真っ直ぐに言った。
「見つかるかどうかは分からない。でも、最初から諦めたくないの」
カンナを突き動かしているのは、王家に生まれた者としての責任だけではない。
もう一度、姉に会いたい。その思いも、カンナを王宮の外へと踏み出させたのかもしれない。新には、そう思えた。
「昨日、ガルゼンさんは、気が強くてまっすぐな人だったって言ってましたよね。カンナさんから見たシオンさんは、どんな方だったんですか?」
カンナは少し驚いたように新を見た。それから、昔を思い出すように目を細める。
「正しくないことを、正しくないって、ちゃんと言える人だった」
その声には、わずかに誇らしさが混じっていた。
「相手が誰でも関係なかった。自分が間違ってると思ったことには絶対に頷かなかったし、一度決めたことは何があっても曲げなかった」
「強い人だったんですね」
「うん。子どもの頃は、ちょっと怖かったけどね。私が言い訳をしても、すぐに見抜かれたし」
カンナは小さく笑った。
「姉さんが剣の稽古をしてる時も、私はいつも後ろをついて回ってた。まだ木剣も持てなかったから、落ちてる枝を拾って真似してたの」
新は、ギヨームが話していた幼いカンナの姿を思い出した。
「転んで、泣いたりもした。でも、姉さんみたいになりたくて、また立ち上がって追いかけた」
カンナは昔の自分を思い出したのか、少し恥ずかしそうに笑う。
「結局、私には剣の才能はなかったみたいだけどね」
「それでも、追いかけるのはやめなかったんですね」
「うん」
カンナの視線が、遠くへ向けられる。
「いつか追いつきたいって、ずっと思ってたから」
「すごいお姉さんだったんですね」
「うん。私の自慢の姉さん」
その言葉には、少しの迷いもなかった。しばらくして、カンナは照れくさそうに目を逸らした。
「……ごめん。話しすぎたね」
「そんなことないです。もっと聞きたいぐらいですよ」
「そっか」
カンナはもう一度だけ笑った。
それから、柄を握り続けたせいで赤くなっている新の手へ目を落とす。
「じゃあ、今度は私が聞いてもいい?」
「はい」
「さっき、この剣を託されたのに何もできないままなのは嫌だって言ってたよね」
カンナは真っ直ぐに新を見つめた。
「どうして、そこまで強くなろうとするの?」
「それは……」
「私たちのために、何度も前へ出てくれたでしょ」
カンナは言葉を続ける。
「アラタはこの世界へ来たばかりで、私たちのこともほとんど知らない。それなのに、何度傷ついても助けようとしてくれる」
少し間を置き、静かに尋ねた。
「怖くないわけじゃないよね。死なない身体だとしても、痛みまでなくなるわけじゃない。それなのに、どうして自分を投げ出せるの?」
新はすぐには答えられなかった。
助けたいから。
放っておけないから。
どちらも嘘ではない。
けれど、それだけではないことを、新自身が一番よく分かっていた。
「……俺にも、ちゃんとは分からないです」
新は赤くなった自分の手を見つめた。
「ただ……助けることができなかった人がいるんです」
そう口にした瞬間、心の奥底へ押し込めていた光景が、不意によみがえった。
忘れたことなど、一度もない。
ただ、思い出さないようにしていただけだった。
耳の奥で、あの日の風が鳴る。風に混じった誰かの声。動かそうとしても動かなかった足。何も掴めないまま、震えていた自分の手。
そして……もう何も求めていなかった、絶望に黒ずんだ目。
「うっ……」
胃が強く縮んだ。
新は口元を押さえ、カンナに背を向けた。厩の脇へ数歩よろめき、その場に膝をつく。
次の瞬間、込み上げてきたものを地面へ吐き出した。
「アラタ!」
カンナが駆け寄ってくる。
新は答えられなかった。
何度も咳き込み、荒い呼吸を繰り返す。胃の中にはほとんど何も入っていない。それでも、身体は何かを吐き出そうと痙攣し続けた。
カンナが、ためらいながら新の背中へ手を添える。
「もう話さなくて大丈夫……」
「……すみません」
「謝らなくていいから」
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。
新は膝をついたまま、震える手を握り締める。
「何も……できなかったんです」
掠れた声が漏れた。
「あの時、俺は何もできなかった。だから、次は助けたい」
「次は……?」
「目の前で誰かが苦しんでいたら、今度は見ているだけで終わりたくないんです」
新はゆっくりと顔を上げた。
「誰かのためって言いながら、本当は自分が同じ後悔をしたくないだけなのかもしれません」
助けられなかった誰かに、別の誰かを重ねているだけなのかもしれない。
それでも、立ち止まる理由にはしたくなかった。
「たぶん、これは……俺なりの罪滅ぼしなんだと思います」
カンナは何も言わず、新を見つめていた。
「それでも――」
「二人とも」
張り詰めた声が、厩の入口から響いた。
新とカンナは同時に振り返る。
フィオナが立っていた。
呼吸は乱れていない。だが、いつもより足取りが速く、片手は腰の剣へ添えられている。
その視線が、新の青ざめた顔と、そばに膝をつくカンナへ向けられた。何かあったことには気づいたはずだ。それでも、今は問いかけなかった。
「すぐにここを出る。馬の準備をしろ」
「フィオナ、何かあったの?」
カンナが立ち上がる。
「町に人族兵が入ってきた。それだけじゃない、どうも様子がおかしい」
フィオナは声を抑えながら答えた。
「見回りにしては数が多すぎる。町の出入口を塞ぎながら、こちらへ向かっている」
「私たちが見つかったんですか?」
新は口元を拭いながら、どうにか立ち上がった。
「断言はできない。だが、この家を目指している可能性は高い」
フィオナは家の方へ目を向ける。
「ガルゼン殿には私から知らせる。二人は馬を出せ」
「分かりました」
新はまだ震えの残る手で大剣を掴み、背負い直した。
カンナとともに馬具を整え、二頭を厩から引き出す。突然の慌ただしさを感じ取ったのか、ラズが落ち着かなさそうに前脚で地面を掻いた。
「大丈夫だ。すぐに出るから」
新は黒い首筋を撫で、手綱を握る。
間もなく、フィオナがガルゼンを伴って戻ってきた。
「家の裏手にある細道を抜ければ、町外れの林へ出られます」
ガルゼンは低い声で言った。
「人族兵も、あの道まではまだ押さえておりますまい」
「ガルゼン殿、ご迷惑をおかけしました」
フィオナが深く頭を下げる。
「何をおっしゃいます。あなた方を迎えたことを、後悔してはおりませぬ」
ガルゼンは穏やかに答えた。
「ただ、ここから先は、どうかお気をつけて」
カンナも頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「お世話になりました」
新も続いた。
ガルゼンは三人を見回し、静かにうなずいた。
その時だった。
「きゃあああっ!」
家の表から、鋭い悲鳴が響いた。続けて、何かが壊れる音と怒号が聞こえる。
「見回りの人族兵が、急に剣を抜いたぞ!」
切迫した男の声が、通りの向こうから響いた。
「町の者を斬って、家々に押し入ってる! 逃げろ!」
フィオナの表情が変わった。家々の間から、灰色の煙が立ち上り始める。
馬たちが怯えたように首を振った。新はラズの手綱を強く握る。
「裏道へ向かう」
フィオナが剣を抜いた。四人は家の脇を回り、裏手へ続く細道へ向かおうとした。
だが、逃げてきた竜人族の町人たちが、道を塞ぐように流れ込んでくる。
石畳の上で荷車が横倒しになり、積まれていた荷物が道いっぱいに散らばっていた。割れた窓の向こうでは赤い火が揺れ、黒い煙が朝の空へ昇っている。
その向こうに、剣を手にした人族の兵士たちがいた。
「この町の者たちは反逆者だ!逆らう者は斬れ!」
竜人族の男が一人、兵士に突き飛ばされた。石畳へ倒れた男の背中を、別の兵士が容赦なく剣で斬りつける。
その向こうから、三人の兵士が剣を手にこちらへ向かってきた。
フィオナが即座に前へ出る。
「カンナ、ガルゼン殿と下がれ!」
最初の兵士が剣を振り下ろす。
フィオナはそれを受け流し、返す刃で男の肩口を斬った。続けて左右から迫る二人の兵士を前に、カンナたちを庇うように立つ。
金属音が、狭い通りに激しく響いた。
その時、新は通りの反対側に目を向けた。竜人族の男が一人、石畳に倒れている。
そのそばで剣を持った兵士が、逃げ遅れた幼い子どもへ歩み寄っていた。
子どもを庇うように、母親らしき女が覆い被さる。
「お願いです! この子だけは……!」
兵士は答えない。握った剣を、ゆっくりと振り上げた。
「やめろ!」
新は背負っていた大剣の柄を掴み、一気に抜き放った。吐いた直後の身体は力が抜け、足元もわずかに揺れていた。
この剣をまともに扱えないことなど、自分が一番よく分かっている。
それでも、足は止まらなかった。
考えるより早く、新は地面を蹴っていた。




