35.離れ町の老竜
扉の向こうから、低く落ち着いた声がした。
「開いております」
フィオナは扉に手を添え、それから静かに開けた。中には、薬草の匂いが漂っていた。
棚には古い本や瓶が並び、壁には、色あせた織物が掛けられている。窓辺には乾いた薬草の束が吊るされ、部屋の奥では小さな火がゆっくりと揺れていた。
奥の椅子に、ひとりの老人が座っている。
人に近い姿ではあるが、こめかみから短い角が伸び、手の甲や首元には硬そうな鱗が見える。背は少し曲がっているが、体は大きい。長い白髭が胸元まで伸び、その奥に赤銅色の目があった。
老人はフィオナを見ると、ゆっくりと目を細めた。
「お久しぶりですな、フィオナ殿」
フィオナは静かに頭を下げる。
「お久しぶりです、ガルゼン殿」
この人が、この町でフィオナが昔世話になったという人物だろうか。
老いた竜人族、ガルゼン。見た目は穏やかで、フィオナを見つめる赤銅色の目には、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
ガルゼンは椅子から立ち上がろうとした。
フィオナがすぐに片手を上げる。
「そのままで」
「では、甘えさせていただきましょう」
ガルゼンは小さく笑い、椅子に座り直した。
そして、改めてフィオナを見つめる。
「あの頃は、まだ髪も肩のあたりでしたな。随分と雰囲気が変わられた」
フィオナの表情はほとんど変わらなかった。
けれど、新にはほんの少しだけ、彼女の目が横へ逃げたように見えた。
フィオナは後ろで高く結った髪に、そっと指先を触れた。
「昔の話です」
「竜人族にとっては、そう昔でもありませんぞ」
ガルゼンは穏やかに笑った。
新は少し意外だった。いつも迷いのないフィオナも、今だけは少し居心地が悪そうに見えた。
カンナも同じことを感じたのか、口元を少しだけ緩めている。
ガルゼンはふと、カンナへ視線を移した。
「おや」
赤銅色の目が、再び懐かしそうに細められた。
「そちらのお嬢さんは……あの時一緒におられた、樹人族のお嬢さんとどこか似ていらっしゃる」
カンナの表情が少し変わった。
「樹人族の?」
「ええ。たしか、シオン殿とおっしゃったか。気が強く、まっすぐな方でした。言葉は少し鋭いが、根はとても優しかった」
ガルゼンはカンナを見つめ、首を傾げる。
「もしや、親族の方かな?」
カンナは一瞬、フィオナを見た。それから、少しだけ姿勢を正す。
「……シオン姉さんも、この町に来たことがあるんですか?」
シオンの名に、新は反応した。
新はカンナの姉であること、それくらいしか知らない。
けれど今のガルゼンの口ぶりからすると、そのシオンという人物は、昔フィオナとこの町に来ていたらしい。
新は思わずフィオナを見る。
「フィオナさん、カンナさんのお姉さんと旅をしてたんですか?」
言ってから、新は少しだけしまったと思った。フィオナの過去に、簡単に踏み込みすぎたかもしれない。
だが、驚きの方が先に出てしまった。
カンナは新を見る。
「あれ、新は聞いてなかった?」
「聞いてないです」
新は正直に答えた。
シオンがカンナにとって大切な姉だということは、これまでの言葉の端々から何となく感じていた。
けれど、フィオナがそのシオンと旅をしていたことは、今初めて知った。
新の中で、フィオナとカンナの関係が少しだけ違って見えた。
ただの主従関係ではない。
この旅が始まってから、フィオナがカンナと気安く言葉を交わしていた理由も、少し分かった気がした。
もっと前から、二人の間には繋がりがあったのだ。
「……昔のことだ」
フィオナはそれだけ答えた。新はそれ以上聞けなかった。
フィオナの声が、静かすぎたからだ。簡単に触れていい話ではない気がした。
ガルゼンは懐かしそうに頷いた。
「そうでしたか。やはり親族の方でしたか。目元や髪の色に、どこか面影がありますな」
カンナは、どこか嬉しそうに目を細めた。
「よく言われます」
「しかし、あの時は本当に賑やかでした。フィオナ殿に、シオン殿。それから――」
「ガルゼン殿」
フィオナが静かに口を挟んだ。声は大きくない。
だが、その一言で空気が止まった。
新はフィオナを見る。
表情は変わらない。けれど、何かを止めたのだと分かった。
ガルゼンもすぐに察したらしい。白い眉をわずかに動かし、それから小さく頷いた。
「……失礼。年を取ると、昔話が長くなっていけませんな」
新は胸の奥に引っかかりを覚えた。
今、ガルゼンは誰のことを言いかけたのか。
フィオナとシオンさん以外にも、旅の仲間がいた。
それは分かる。
でも、フィオナはその話を止めた。カンナに聞かれたくなかったのだろうか。
新はちらりとカンナを見る。
カンナも何かに気づいたようだった。ただ、今は問い詰めなかった。
ガルゼンは空気を変えるように、新へ視線を向けた。
「そちらの若い方は?」
「あ、新です」
新は慌てて名乗った。
「新殿ですな」
「殿なんて、そんな大層な者では……」
「フィオナ殿のお連れ様であれば、客人です」
ガルゼンは穏やかに言った。それから、一行を見回す。
「ところで、今日はなぜロウへ?」
その問いに、フィオナが口を開いた。
「ガルゼン殿。今のデュラハルについて、お聞きしたいことがあります」
「今のデュラハルについて、ですか」
「何が起きていますか」
フィオナの問いは短かった。
ガルゼンはすぐには答えなかった。窓の外を見て、通りに人影がないことを確かめる。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「奥で話しましょう。ここでは、誰かに聞かれるやもしれませぬ」
ガルゼンに案内され、新たちは奥の部屋へ移った。
そこは書斎のような場所だった。壁には古い地図が掛けられ、その周りには本を詰め込んだ棚が並んでいる。大きな机の上にも、何冊もの本が開かれたまま置かれていた。どれも古く、何度も読み返されたのか、表紙や頁の端が擦れている。
ガルゼンは扉を閉めると、重く息を吐いた。
「わしが知っているのは、人伝に聞いた話も多い。ですが、今のデュラハルがまともでないことだけは確かです」
先ほどまでの穏やかさは、もう声になかった。
「ネクサスの大虐殺のあと、人族の騎士が兵士を率いてこの国へ攻め込んできました」
ネクサスの大虐殺。この世界へ来てから、何度か耳にした言葉だった。
「その騎士は、すぐには王都へ攻め入りませんでした。王都ラグナヴェイルの手前にある丘に兵士を陣取らせ、しばらく動かなかったそうです」
「攻めてきたのに、ですか?」
カンナは思わず聞いた。
ガルゼンは静かに頷くと、壁に掛けられた地図を外した。それを机の上に広げ、指先で王都の近くを示す。
「ええ。普通ならば、そのまま王都を攻めると思うでしょう。ですが、その一団は動かなかった。ただ、丘に陣取り続けた」
ガルゼンの金色の目が、机の上の地図へ落ちる。地図の中心には、大きな城の絵が描かれていた。
「しばらくしてからです。王都の様子がおかしくなったのは」
「おかしく?」
カンナが眉をひそめる。
「王族に、貴族たち。さらには王都に暮らす民までもが、まるで何かに取り憑かれたように変わっていったそうです」
ガルゼンは低く続ける。
「最初は、戦うべきだと声を上げていた者もいた。人族を王都へ入れるなどあり得ないと、怒っていた者たちもいた。ですが、数日、また数日と過ぎるうちに、その声は消えていった」
新は黙って聞いていた。フィオナも、カンナも口を挟まない。
「そして、ある事件が起きました」
ガルゼンの声がさらに沈む。
「聖樹教において竜人族を代表していた枢機卿、レオルド・ガライ殿が、実の息子に殺されたのです」
カンナが小さく息を呑んだ。
「父親を、息子が……?」
「ええ。息子の名はアゼル。詳しい経緯は分かりませぬ。ただ、レオルド殿が亡くなったあと、王都はさらにおかしくなったと聞いております」
アゼル。その名を聞いた瞬間、新はどこかで耳にしたような気がした。だが、いつ、誰から聞いたのかまでは思い出せない。
ガルゼンは一度目を閉じた。
怒りを押し殺すような沈黙だった。
「王族も、貴族も、王都の民までもが、一斉に平和を謳い始めたそうです」
「平和?」
新は思わず聞き返した。
「ええ。人族と争う必要はない。彼らを受け入れるべきだ。これからは手を取り合う時代だと。まるで同じ言葉を教え込まれたかのように、皆が似たことを口にし始めた」
意味が分からなかった。
自分たちの王都が攻め込まれ、目の前には人族の兵士たちが陣取っているのに。
なぜ、突然そんなことになるのか。
「頭がおかしくなっておったのでしょうな」
ガルゼンは静かに言った。その言葉には、怒りよりも深い恐れがあった。
「やがて、王都の民や周辺の町の者たちは、拍手喝采で人族兵を迎え入れたそうです」
「……全員がですか」
カンナが静かに尋ねた。
ガルゼンは首を横に振る。
「いえ。異変を免れた者も、わずかにはいたようです。その者たちは王都を離れ、各地へ逃れたと聞いております」
新は言葉を失った。カンナも信じられないという顔をしている。
「たった数週間のことでした」
ガルゼンは地図の上に置いた手を握りしめた。
「王都ラグナヴェイルは、ほとんど血を流すことなく人族の手に落ちてしまった」
「そんなこと……」
カンナは呟いた。
戦わずに門を開けた。しかも、歓迎するように。新はその光景を想像しようとしても、うまく形にならなかった。
「その後も、大きな反乱は起きておりませぬ」
ガルゼンは続ける。
「王都も周辺の町も、今では人族を受け入れている。表向きは平穏そのものだと聞きます。ですが、我々のような離れ町の者たちは、怖くて近づけませぬ」
「怖くて……」
カンナが低く呟いた。
「何が起きたのか分からないからです」
ガルゼンは答えた。
「何が起きたのか分からない。それが、何より恐ろしいのです。王都へ近づけば、自分たちまで同じようになるかもしれない。何が起きるのかも分からぬ場所へ、進んで足を踏み入れる者はおりませぬ」
新は背筋が寒くなるのを感じた。
それは、ただ国が負けたという話ではない。何かが、竜人族そのものに起きている。
「操られているということでしょうか?」
カンナが言うと、ガルゼンはゆっくり首を横に振った。
「断言はできませぬ。ですが、自然な変化ではありません」
「人族の騎士について、分かっていることはありますか」
フィオナが尋ねる。
「その騎士は深いフードを被り、全身を外套で覆っていたそうです。顔も髪も、身につけていた鎧さえ、はっきり見た者はおりませぬ」
ガルゼンの声には、苛立ちがにじんでいた。
「ただ、その騎士が名乗ったという名だけは、知られております」
「名、ですか」
カンナが聞き返す。
「エレオノーラ・ヴェイル」
その名が出た瞬間、フィオナの目がわずかに細くなった。
カンナも眉をひそめる。
「ヴェイルって……この国の王家の姓じゃないんですか」
「ええ」
ガルゼンは重く頷いた。
「だからこそ、誰もが口を閉ざすのです。人族の騎士を名乗る者が、なぜ王家の姓を名乗っているのか。王都の者たちは、なぜそれを受け入れているのか」
ガルゼンの金色の目が、机の上の地図へ落ちた。
「その真意は人族の騎士にしわかりませぬ」
新は眉をひそめた。
その姿を、はっきり見た者はいない。分かっているのは、エレオノーラ・ヴェイルという名だけだった。その正体の見えなさが、不気味だった。
「この町にも、人族の兵は来ているのですか」
フィオナが尋ねた。
「多くはありませぬが、見回りと称して数名が出入りしております」
「私たちがここに来たことは、知られていますか」
フィオナの問いに、ガルゼンは小さく笑った。
「年寄りの家に誰が来たかなど、気にする者はいないでしょう。……と言いたいところですが、今のデュラハルでは分かりませぬな」
冗談めかしてはいたが、目は笑っていなかった。フィオナは少し考えるように沈黙した。
「ひとつ、手がかりになるかもしれぬ話があります」
ガルゼンが静かに言った。
フィオナが顔を上げる。
「何ですか」
「レオルド殿を殺した息子、アゼルが捕らえられております」
「生きているのですか」
「ええ。今は交易の中心地ヴェルガントにある収容所に入れられているそうです」
ガルゼンは机に広げた地図へ目を落とし、ゆっくりと指を滑らせた。
その指先が、一つの町で止まる。
「ヴェルガントは、王都へ向かう街道の途中にある交易の町です。物も人も多く集まる。王都へ送る前に、一時的に人を留めておくには都合がよいのでしょう」
「そのアゼルなら、何か知っている可能性があるのですね」
フィオナが静かに尋ねる。
ガルゼンは頷いた。
「父を殺した理由も、王都で何が起きていたのかも、アゼルなら何か知っているはずです。あの者は、父親に刃を向けるような人物ではありませんでした。それでも父を殺し、その後は逃亡している。何か事情があったと考えるべきでしょう」
フィオナの目がわずかに鋭くなる。
「その収容所の守りは、どの程度ですか」
「王都ほど堅くはありませぬ。ヴェルガントの収容所は古く、造りも甘い。交易の町ゆえ、人の出入りも多い。危険はありますが、王都に移送されてからでは手が出せなくなる」
ガルゼンはゆっくりと息を吐いた。
「聞き出すなら、今しかないかもしれませぬ」
部屋の中が静まり返った。
新はフィオナを見る。次に向かうべき場所は、もう決まったように思えた。
「フィオナ殿」
ガルゼンが静かに言った。
「あなたがここへ来たということは、いずれ王都へ向かうおつもりなのでしょう」
「そのつもりでした」
「ならば、先にヴェルガントへ向かわれるのがよろしいかもしれませぬ」
フィオナはすぐには答えなかった。
新には、彼女が何を考えているのかまでは分からない。
けれど、その沈黙は迷いというより、道筋を組み直しているように見えた。
「今の王都は、昔あなた方が訪れた場所とは違います」
「それでも、確かめなければならないことがあります」
ガルゼンは長くフィオナを見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「ならば、わしが知る限りのことはお話ししましょう」
「感謝します」
フィオナが深く頭を下げた。新もつられて頭を下げる。カンナも同じようにした。
ガルゼンは少しだけ表情を和らげる。
「今日はもう日も傾いております。外を動くには向きませぬ。よければ、この家を使ってくだされ」
「ご迷惑では?」
「昔の恩があります。フィオナ殿を追い返すほど、わしは薄情ではありません」
昔の恩とは何なのか。新はまた、聞きたいことが増えた。
奥の部屋を出ると、外は夕暮れになっていた。窓の外の石畳が赤く染まっている。
通りを歩く人影は、さらに少なくなっていた。
ガルゼンの家の裏手には、小さな厩があった。
フィオナが馬をそこへ連れていき、水と飼葉を与える。新も手伝いながら、フィオナが戻った後もラズの首筋を撫でた。
「お前も疲れたよな」
ラズは鼻を鳴らし、飼葉に口をつけた。その様子を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
家の中へ戻ると、フィオナが窓辺に立っていた。
外を見ている。その横顔は、夕陽に照らされて赤く染まっていた。
新は声をかけようとして、やめた。フィオナはきっと、昔のことを思い出している。
カンナのお姉さんと、この町に来た頃のこと。そして、ガルゼンが言いかけた誰かのこと。
新にはまだ分からないことばかりだった。
新は窓の外に目を向けた。町には、夜の気配が広がり始めていた。
ロウは静かだった。誰もが息を潜めている。その静けさが、新には、怖かった。




