34.狩りの勉強
デュラハル王国へ続く山道は、森の奥へ入るほど険しくなっていった。
道幅は狭く、湿った土に石が混じっている。木々は頭上を覆うように枝を伸ばし、昼間だというのに森の中は薄暗い。
フィオナは先頭を歩いていた。
馬の手綱を引きながら、足元の悪い道を迷いなく進んでいく。カンナもその後ろに続き、新はラズの手綱を握りながら最後尾を歩いていた。
ラズが短く鼻を鳴らした。
ほとんど同時に、フィオナの足が止まる。
新も遅れて立ち止まった。森の奥で、土を蹴り上げるような低い音がした。枝が折れる音も混じっている。
何かが来る。
新は背中へ手を回した。
木々の間から、黒い巨体が飛び出してくる。
岩のように盛り上がった肩。湿った土に汚れた毛並み。口元から突き出した太い牙。
巨大な猪だった。
「……今度は、ボルグか」
フィオナが小さく呟いた。
その声が合図になったように、巨猪は地面を削る勢いで突っ込んできた。
新は大剣を留めていた革紐を外した。重い刃を背中から前へ回し、構えようとする。
だが、その瞬間にはもう遅いと分かった。
速すぎる。
真正面から受ければ、剣ごと弾き飛ばされる。
フィオナが前へ出た。
大きく逃げるわけではない。迫る牙の正面から、体の芯だけを外すように横へずれる。
ボルグの牙が、フィオナのすぐ横を抜けた。
すれ違う一瞬、フィオナの剣が低く走る。
斬った音は、ほとんど聞こえなかった。
ただ、ボルグの前脚が崩れた。
巨体は勢いのまま地面を滑り、土を巻き上げながら木の根元に突っ込む。森が揺れた。暴れようとしたボルグの脳天へ、フィオナは迷いなく剣を突き立てる。
動きが止まった。
新は大剣を握ったまま、息を呑んでいた。
あの巨体が、一瞬だった。
フィオナは剣を引き抜き、血を払う。表情はほとんど変わっていない。今の出来事が、彼女にとって特別なものではないかのようだった。
カンナも馬の手綱を握ったまま、倒れたボルグを見つめていた。
「すごい……」
小さな声だった。
フィオナは振り返らず、ボルグの背に回った。
「夜の食料にする。肉を切り出して持っていく」
そう言って、腰の短剣を抜いた。
「こいつ、食べられるんですか?」
新は思わず聞き返した。
「癖はあるが、ボルグはまだ食える方だ」
フィオナは淡々と答え、迷いなくボルグの背に回った。
今倒したばかりの異形種を食料にする。
頭では分かる。森を越える旅で、食べられるものを捨てる余裕などないのだろう。けれど、さっきまで地面を削って突っ込んできた巨猪が、今度は食べ物として扱われることに、感覚が追いつかなかった。
フィオナは迷いなく毛皮に刃を入れた。
血の匂いが濃くなる。新は思わず顔をしかめる。
フィオナは気にした様子もなく、背中側の厚い肉を必要な分だけ切り出していった。全部を持っていくつもりはないのだと、その動きで分かった。
切り出された肉は赤黒く、ずしりと重そうだった。
フィオナは表面の血を軽く拭うと、青色の外套を広げ、その上に肉を置いた。
「いいんですか、それ」
新は思わず聞いた。血が、青い布にじわりと染みていく。
「どこに目があるか分からない。どうせ、町に入る前に捨てるつもりだったからな」
フィオナは端を折り込み、肉を包むようにしてまとめた。
「今使ってしまっても問題ない」
それだけ言って、包んだ肉を荷に括りつけた。カンナは口元を押さえかけたが、すぐに手を下ろした。
「外って、すごいね」
新は思わずカンナを見た。
怖がっているのかと思った。けれど、その声にはほんの少しだけ、知らないものを見つけた時のような響きがあった。
フィオナは肉を包み終えると、周囲を見回した。
「ここも長く留まらずに移動する」
「はい」
新は大剣を背に戻し、革紐を留め直した。
一行は再び山道を進んだ。森はさらに深くなる。斜面を回り込むような細い道が続き、湿った石に足を取られそうになるたび、新はラズの手綱を握る手に力を込めた。
空は少しずつ暗くなっていた。
木々の隙間から差し込む光が弱くなる。森の奥は、昼よりもさらに重い影に沈み始めていた。
フィオナが足を止めたのは、山肌に小さく開いた洞窟の前だった。
入口は人が二人並んで入れるほどの広さで、奥はそれほど深くないように見える。雨風をしのぐには十分だった。
「今日はここで休もうか」
フィオナが言った。カンナが洞窟の入口を覗き込む。
「ここで寝るの?」
「奥を確認する。待っていろ」
フィオナは剣に手をかけたまま洞窟へ入っていった。
新は入口の前でラズを押さえながら、暗い奥を見つめる。しばらくして、フィオナが戻ってきた。
「問題ない」
それを聞いて、新はようやく息を吐いた。
洞窟の中はひんやりとしていた。地面は固く、ところどころに小石が転がっている。三人は入口に近い場所に荷を置き、馬たちは外の木につないだ。
火を起こす準備は、思ったよりも手間がかかった。
フィオナが乾いた枝を選び、湿ったものを避けていく。新も手伝おうとしたが、最初に拾った枝はすぐに弾かれた。
「湿っている。乾いたものを探せ」
「すみません」
新は頷き、別の枝を探した。
カンナもしゃがみ込んで、枝を一本ずつ手に取っていた。
「これは?」
「使えるな」
「じゃあ、これは?」
「それは燃えにくい。やめておけ」
「そっか」
カンナは真剣な顔で枝を選んでいた。
王宮にいた時なら、こんなことをする必要はなかったはずだ。けれど、嫌そうではなかった。むしろ、自分にもできることを見つけようとしているように見えた。
カンナが乾いた枝を小さく組み、両手を近づけた。
「火、つけてみるね」
新が顔を上げる。
「魔法でですか?」
「うん。これくらいなら」
カンナの指先に、小さな赤い光が灯った。
次の瞬間、乾いた枝の先に火が移る。最初は頼りない小さな火だったが、フィオナが細い枝を足すと、炎は少しずつ大きくなっていった。
「便利ですね」
「便利って言われると、ちょっと変な感じ」
カンナは小さく笑った。
「でも、役に立ててるならよかった」
小さな炎が洞窟の壁を照らす。揺れる光が岩肌に影を作った。
フィオナは布に包んでいたボルグの肉を取り出し、短剣で切り分ける。枝に刺し、火にかざした。肉の脂が落ちるたび、炎が小さく跳ねる。
焼ける匂いが洞窟に広がった。
さっきまで異形種だったものだと思うと複雑だったが、匂いは思っていたよりも悪くなかった。
「アラタ、食べられそう?」
カンナが肉を見ながら聞いた。
「分からないです。でも、匂いは悪くないです」
「もっと食べちゃいけない匂いがするのかと思った」
「食べちゃいけない匂いって何ですか」
「分からないけど。なんか、こう、明らかに危ない感じの匂いというか……」
カンナは自分で言って、少し笑った。
その笑い声が洞窟の中で小さく反響する。張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
肉が焼けると、フィオナはまず自分で一口食べた。それから残りを新とカンナに渡す。
「熱いぞ。気をつけろ」
新は枝を受け取り、息を吹きかけてから肉にかじりついた。
思ったよりもずっと硬かった。獣の匂いも強い。けれど噛むほどに脂が染み出し、腹の底に熱が落ちていくようだった。
「……うまい」
思わず漏れた声に、カンナが目を丸くする。
「本当に?」
「硬いですけど」
新が答えると、カンナも恐る恐る口をつけた。
しばらく噛んでから、少しだけ目を輝かせる。
「ほんとだ。硬いけど、おいしい」
「ボルグは食える方だと言っただろ」
フィオナの声はいつもと変わらないものだった。けれど、ほんの少しだけ心外そうにも聞こえた。
新は思わずカンナを見る。
カンナも同じことを感じたのか、口元を押さえていた。
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
フィオナは何も言わず、火の向こうで肉をかじっている。その沈黙が、かえっておかしかった。
「危ないのは分かってるけど、こういうのも悪くないね」
新はカンナを見た。カンナは火を見つめたまま、肉をもう一口かじる。
「私、聖樹の外に出たの初めてだから」
その言葉に、新は少しだけ驚いた。もちろん、そうなのかもしれないとは思っていた。けれど、本人の口から言葉にされると、急にそれがはっきりと形を持った。
「初めて、ですか」
「うん。王宮の外には出たことがあっても、聖樹の外には出たことがなかった。外の世界って、もっと遠い場所だと思ってたの。地図の上にあって、話の中に出てくるだけの場所で」
カンナは洞窟の外を見た。入口の向こうには、夜の森が広がっている。
「怖くはないんですか?」
新は思わず聞いた。カンナは少しだけ目を伏せる。
「怖いよ。異形種をあんな近くで見たのも初めてだったし、洞窟も寒い」
カンナは小さく息を吐いた。
「でも、少しだけ楽しい」
「楽しい、ですか」
「知らないことばっかりだから。怖いけど、ちゃんと見ておきたいの」
新はカンナを見た。
怖いと言いながら、カンナは外の暗い森から目をそらしていなかった。
自分はどうだろう。新は背中の大剣へ視線を向けた。
今日も、何もできなかった。
ボルグが突っ込んできた時、大剣を構えるだけで精一杯だった。フィオナがいなければ、きっと吹き飛ばされていた。
悔しかった。もっと強くならないと。
守られているだけじゃなくて、自分も誰かを守れるようになりたい。
新は大剣の柄に触れた。いつかこの重さに負けないようにならなければならない。
ボルグを食べ終えると、フィオナは肉を包んでいた青色の外套を火にくべた。血と脂の染みた布に炎が移り、すぐに黒く縮れていく。
夜が深くなるにつれ、洞窟の外は闇に沈んでいった。
森の奥では、時折何かが枝を揺らす音がした。そのたびに新は顔を上げたが、フィオナは動かなかった。警戒していないのではない。動く必要がある音と、そうでない音を聞き分けているのだろう。
「寝るか」
フィオナが短く言った。
「明日の昼には森を抜ける」
新とカンナは顔を上げる。
「森を抜けたら、そこがデュラハル王国なんですか」
「ああ。正確には、王都から離れた小さな町だ」
フィオナは火を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「昔、世話になった人がいる」
新はフィオナを見た。
それ以上、フィオナは何も言わなかった。
フィオナは洞窟の入口へ視線を向ける。
「見張りは私がする。二人は寝ておけ」
「フィオナさんは休まなくていいんですか」
「一日くらい眠らなくても問題ない」
当たり前のように言われて、新は返す言葉に詰まった。
「でも」
「明日も険しい道を歩く。お前たちは眠れる時に眠れ」
その言い方に、逆らえる余地はなかった。
カンナは少し心配そうにフィオナを見たが、やがて小さく頷いた。
新も大剣の位置を確認してから、洞窟の壁に背を預ける。
眠れる気はしなかった。それでも目を閉じる。
火の熱が頬に届く。外からラズの静かな息遣いが聞こえた。
洞窟の入口では、フィオナが黙って夜の森を見ていた。
翌朝、森には薄い霧がかかっていた。
洞窟の外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。夜の間に火は小さくなり、灰の下で赤い熱だけが残っている。
フィオナは荷をまとめ、馬の様子を確認している。新も慌てて立ち上がり、荷を背負った。
カンナは洞窟の入口で大きく息を吸っていた。
「朝の森って、こんなに空気が澄んでるんだね」
その声には、眠気よりも少しだけ弾んだ響きがあった。
「寒くないですか」
新が聞くと、カンナは肩をすくめる。
「寒いけど、なんか気持ちよくない?」
そう言って、白く曇る息を見て少し笑った。
フィオナが短く告げる。
「行くぞ」
一行は洞窟を出て、再び山道を進んだ。
朝の森は静かだった。足元の草は湿り、枝葉から落ちる雫が土に小さな跡を作っている。
昨日よりも視界は明るい。それでも、油断できる場所ではなかった。
しばらく進んだところで、フィオナの足が止まった。新もすぐに立ち止まる。
茂みが小さく揺れていた。
昨日のような、地面を震わせるような音ではない。枝を折る音もない。草の間から、兎に似た獣が姿を現した。
普通の兎より一回り大きい。後ろ脚だけが不自然に太く、額には短い角が一本生えている。白い毛並みは土で汚れ、赤い目が新たちを見ていた。
「ピクルか」
フィオナが言った。
ピクルはすぐには跳んでこなかった。低く身を沈めたまま、こちらとの距離を測るようにじっとしている。
ボルグに比べれば、あまりにも小さい。だが、新は気を抜けなかった。小さくても異形種だ。
フィオナが新を見る。
「新、やれるか」
命令ではなかった。無理なら下がれ。そう言われているのだと分かった。
「やってみます」
新は背中へ手を回した。その手を、フィオナが止める。
「大剣は預かる」
「え?」
「大剣はやめておけ、相手が小さい。振り下ろす前に懐に入られる」
フィオナは腰の後ろから、短い剣を抜いた。
剣というより、大きめのナイフに近い。片刃で、刃渡りは新の前腕ほどしかない。
フィオナはそれを柄から新へ差し出した。
「これを使え」
新は短剣を受け取る。
大剣とはまるで違った。手に収まり、腕を持っていかれる感覚がない。
ピクルが、じり、と前脚を動かす。
フィオナは新の背中から大剣を外し、片手で受け取った。
「カンナ、下がれ」
「うん」
カンナが馬を引いて後ろへ下がる。
その直後、ピクルが低く身を沈めた。
跳んでくる、そう思った時には、もう白い体が目の前にあった。新は慌てて横へ飛ぶ。
ピクルの角が、さっきまで新の足があった場所を突く。湿った土が小さく弾けた。
新は体勢を崩しながら短剣を振る。
刃は空を切った。
ピクルは軽々と着地し、すぐに向きを変える。
「動きが大きい」
フィオナの声が飛ぶ。
新は唇を噛んだ。分かっている。
大きく避けたせいで、刃を出す頃には相手がいなかった。怖さに任せて動けば、次が遅れる。
ピクルがまた身を沈める。新は短剣を握る手に力を込めた。
真正面から受けるな。少しだけ、ずらせ。
シルヴァンの声が、頭の奥によみがえる。
ピクルが跳んだ。新は下がりそうになる足をこらえた。
今度は大きく逃げない。新は踏みとどまり、体だけを横へずらした。
ピクルの角が、服のすぐ横を抜けていく。
新はその勢いに合わせて、短剣を振った。
刃はピクルの毛先をかすめただけだった。
ピクルは短く鳴き、数歩先でまた向き直る。新の息が荒くなる。
当てられなかった。けれど、さっきよりは近かった。
相手の動きも、少しだけ見えてきた。
ピクルは速い。だが、複雑ではない。身を沈めて、跳んで、角で突く。それだけだ。
なら、正面を外して、通り過ぎるところを狙えばいい。
ピクルが三度目の姿勢を取る。
新は短剣を構えたまま、息を止めた。
フィオナはもっと大きな異形種を一度で終わらせていた。シルヴァンなら、もっと静かに倒していただろう。けれど今ここに立っているのは自分だ。
自分の足で動くしかない。
ピクルが跳ぶ。赤い目が近づく。角が迫る。
新は目を逸らさなかった。
体をずらす。角が服のすぐ横を抜けた。新は踏み込み、短剣を横から突き出した。
振るのではなく、そこに刃を置くように。
手応えがあった。
刃がピクルの胴を捉える。小さな体が地面に転がり、二度ほど跳ねるように動いたあと、静かになった。
新は短剣を下ろせなかった。
肩で息をしながら、倒れたピクルを見ていた。
手は震えている。息も整わない。格好よく勝ったとは言えない。それでも、怪我もなく自分の力で倒すことができた。
フィオナが近づいてくる。
倒れたピクルを一度見てから、新へ視線を移した。
「よくやった。怪我は」
「ないです」
「そうか」
フィオナは短く頷いた。
それだけだった。けれど、新には十分だった。新は手の中の短剣を見た。
「シル兄に、教わったんです。真正面から受けるなって」
フィオナの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「良い教えだ」
フィオナは新へ大剣を返した。
新は短剣も返そうとする。
フィオナは受け取らず、新の手元へ視線を落とし、布を渡してくる。
「刃を拭け。血を残すな」
「あ、はい」
新は慌てて布で短剣を拭った。血が布に染みる。斬った感触が、まだ手に残っていた。
カンナが嬉しそうな顔で、馬を連れて戻ってくる。
「アラタ、ちゃんと戦えてたね」
「かなりギリギリでしたけど」
「でも怪我してないなら上出来だと思うよ?」
カンナはそう言って、少しだけ笑った。
新も小さく息を吐く。
たった一体の小さな異形種を倒しただけだ。それでも新にとっては、確かな一歩だった。
フィオナは周囲を確認し、すぐに歩き出した。
「行くぞ」
「はい」
新たちは再び山道を進んだ。
森は少しずつ薄くなっていく。
頭上を覆っていた枝葉の隙間から、灰色の光が差し込む。足元の湿った土は、やがて踏み固められた道に変わった。
木々の間から、石造りの家々が見え始める。
新たちは足を止めた。
高い城壁はない。あるのは、古びた石の家と、低い屋根と、狭い通りだった。
町の入口には、竜の紋章が刻まれた石柱が立っている。長い年月を経たせいか、紋章の端は削れ、苔が張りついていた。
「ここが……」
新が呟くと、フィオナが頷いた。
「デュラハル王国の離れ町、ロウだ」
町には人影があった。
頭の側面に小さな角を持つ者。首筋や手の甲に、薄く鱗のようなものが見える者。新はそれが竜人族なのだと分かった。
だが、通りに活気はない。誰も大きな声で話していない。
石畳の上を歩く人々は、新たちを見ると、すぐに視線を逸らした。
見慣れない者を警戒しているのだろう。
だが、それだけではない気がした。誰もが余計なことに関わらないよう、静かに息を潜めている。
森とは違う重さがあった。
町全体が、どこか張り詰めていた。
カンナも町の空気に押されるように、小さな声で言った。
「静かだね」
「ああ」
フィオナは短く答えた。
その視線は町の奥へ向いている。
新はフィオナの横顔を見た。
「フィオナさん」
「なんだ」
「この町に、来たことがあるんですよね?」
短い沈黙のあと、前を向いたまま言う。
「昔、世話になった人がいる」
「その人に会うんですか」
「そうだ」
それ以上、フィオナは話さなかった。
新も続けて聞けなかった。
フィオナの過去を、新はほとんど知らない。カンナの姉であるシオンのことも、まだ断片しか知らない。
フィオナがこの町で誰と出会い、何を見てきたのか。
今はまだ、聞ける空気ではなかった。
町の入口をくぐると、近くにいた竜人族の男がこちらを見た。
年の頃は四十を少し過ぎたくらいだろうか。片方の角が欠け、目元には疲れたような皺が刻まれている。男はフィオナの顔を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
だが、すぐに視線を伏せる。
何も言わず、道の端へ下がった。
新はその様子に息を呑む。
フィオナは足を止めなかった。
まるで、そうされることを予想していたように。
カンナも黙って歩いている。
馬の蹄が石畳を叩く音だけが、静かな通りに響いた。
フィオナは一軒の石造りの家の前で足を止めた。
古い家だった。
扉の横には、削れた竜の紋章が小さく刻まれている。
フィオナは一度だけ息を整える。
それから、扉を叩いた。
町の静けさの中で、その音だけがやけにはっきりと響いた。




