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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第二章 デュラハル王国編

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33.異形種

 廃村を出てから、しばらく誰も口を開かなかった。


 フィオナは北東へ進路を取っていた。デュラハル王国へ向かうためだった。街道には出ない。人目を避けるように森の縁を縫い、古い獣道に近い細い道を選んで馬を進めている。


 カンナは何度か背後を振り返った。


 そのたびに、何かを言いかけて、結局何も言わなかった。


 新も振り返りたかった。廃村ではない。そのさらに向こう。シルヴァンを残してきた森道の方を。


 けれど、振り返ったところで何が見えるわけでもない。ただ、胸の奥に残ったものが重くなるだけだった。


 新は馬に乗っていた。シルヴァンの馬、ラズだ。


 ラズが一歩進むたび、背中の大剣がわずかに揺れる。革紐が肩に食い込み、そのたびに新は無意識に柄へ手を伸ばしていた。


 冷たい感触が指先に伝わる。それに触れるたび、嫌でも思い出す。


 こちらを振り返らず、ただ前に立ち続けた姿。シルヴァンの名前を呼びそうになって、新は唇を噛んだ。


 シルヴァンは強い。そう簡単に死ぬような男ではないとわかっている。


 けれど、あの場に残してきたことに変わりはなかった。自分たちを先に進ませるために、シルヴァンはあそこに立った。追いつけない背中だけを残して。


 声に出せば、手綱を握る手まで震えてしまいそうだった。


 先頭で馬を進めるフィオナは何も言わなかった。


 カンナはその少し後ろを進んでいる。新の乗るラズが遅れないよう、二人は言葉にせず速度を合わせてくれていた。


 気を遣われているのはわかっていた。


「手、痛くないの?」


 カンナが静かに言った。


 新は少し遅れて顔を上げる。


「え?」


 砕けた口調に少しだけ戸惑う。見た目の年は近いのだからおかしくはない。けれど、王女だと知っているせいで、まだ少しくすぐったかった。


「手綱をずっと強く握ってるから」


 言われて初めて、新は自分の指が白くなるほど手綱を握りしめていることに気づいた。慌てて力を緩めると、ラズが小さく鼻を鳴らした。


「ごめんな、ラズ。俺が怖がってるの、伝わってるよな」


 ラズは何も言わない。ただ新を乗せ、前へ進んでいる。シルヴァンが乗っていた馬に、今は自分が乗っている。その事実が、背中の大剣とは別の重さになって新の中に残った。


「……俺、借りてばかりですね」


 カンナがこちらを見る。


「剣も、馬も。進む理由まで、シル兄に借りたままみたいです」


 言葉にしてから、胸の奥が苦しくなった。自分たちを先に行かせるために、あの場に残った背中。


 カンナはすぐには答えなかった。


 しばらく、馬の蹄が湿った土を踏む音だけが続いた。


「借りてるなら、いつか返す時まで進み続ければいい」


 やがてフィオナが言った。


 新は顔を上げ、カンナもわずかに顔を上げた。


「うん、今はそれでいいと思う」


 カンナが静かに言った。


 新に言い聞かせるというより、自分自身にも確かめるような声だった。


「……はい」


 先頭のフィオナが片手を上げた。


 それだけで、二頭の馬の速度が自然と落ちる。


「もうすぐ聖樹の外へ出る」


 フィオナが言った。


「え?」


 新は思わず聞き返した。


 聖樹。


 その言葉は何度か耳にしていた。けれど新の頭の中にあるのは、どこかに一本の巨大な木が立っているような漠然とした印象だけだった。


「外へ出るって……俺たち、今まで中にいたんですか」


「そうだ」


 フィオナは当たり前のように答える。


 その直後、前方の空気が揺らいだ。


 最初は光の加減かと思った。


 木々の間に、薄い黄色の膜のようなものが張っている。水面に光が差した時のようにゆらゆらと揺れ、向こう側の景色がわずかに歪んで見えた。


 道は、その膜の先へ続いている。


 カンナとフィオナを乗せた馬が迷いなく進んだ。


 黄色い膜に触れた瞬間、馬の鼻先から波紋のような光が広がる。けれど抵抗はなく、カンナとフィオナの体も馬もそのままするりと向こう側へ抜けた。


 新は思わず手綱を握り直した。


「大丈夫だ。痛みはない」


 フィオナが振り返らずに言った。


「はい」


 答えたものの、喉が少し乾いた。


 ラズが黄色い膜へ足を踏み入れる。


 次の瞬間、新の体をぬるい風のようなものが撫でた。水でも布でもない。柔らかい膜が皮膚の上を通り抜けていくような感覚だった。


 耳の奥で、低い音が鳴る。遠くで大木が軋んでいるような音。それが消えた時、新たちは膜の外に出た。


 はっきりと空気が変わったことがわかった。


 さっきまで周囲に満ちていた柔らかい温もりのようなものが薄れ、代わりに乾いた冷たさが肌に触れた。森の匂いも濃くなった。土と苔と、何か古い獣の匂いが混ざっている。


 新は振り返った。背後には、今通り抜けた黄色い膜が揺れていた。


 その向こう側は、同じ森のはずなのに少しだけ明るく見えた。


「今のが、聖樹なんですか」


 新が聞くと、フィオナは首を横に振った。


「聖樹そのものではない。聖樹の内側と外側を分ける膜だ」


「内側……?」


「ユグドライン王国と、そのさらに南側の土地の一部は、聖樹の内側にある。聖樹は、遠くから見れば木の姿をしている。だが、ただの木じゃない。膨大な魔力の塊だ。幹も枝も、普通の木とは比べものにならないほど大きく広がっている」


 新はもう一度、背後の薄い黄色の膜を見た。木々の間に揺れる光。


「じゃあ、俺たちは今まで、聖樹の中にいたってことですか」


「そう考えていい。正確には、聖樹の魔力に包まれた領域の中だ」


「でも、そんな……」


 新は言葉を失った。木の中にいたと言われても、すぐには理解できない。


 新が知っている木は、一本の幹から枝が伸び、葉を茂らせるものだった。どれほど大きくても、見上げれば全体を想像できる。けれど、国を内側に抱えるほどの木など、新の常識にはなかった。


「大きすぎませんか」


「そう感じるのは当然だ」


 フィオナは短く認めた。


「聖樹はユグドラインそのものを支えている。王国が王国として存在できたのも、聖樹の加護があったからだ」


「じゃあ、今出たってことは……」


「聖樹の加護が薄くなる」


 フィオナは前を向いた。


「ここから先はデュラハルに近い。聖樹の魔力より、デュラハルの山と谷からの魔力の影響が強くなる」


 カンナが少しだけ眉を寄せた。


「だから空気が重いの?」


「そうだ。馬も敏感になる。気をつけろ」


 新は手綱を握る手に力を込めそうになり、すぐに緩めた。


 ラズの首筋をそっと撫でる。


「ごめん。もう少しだけ、頼むな」


 ラズは答えない。ただ耳を動かし、前へ進んだ。膜を越えた先の森は、明らかに様子が違っていた。


 木々はどれも太く、見上げるほど高い。枝葉が空を覆っているせいで、昼間なのに森の中は薄暗かった。足元には太い根がいくつも張り出し、馬で進むには何度も速度を落とさなければならない。


 鳥の声はせず、虫の音も聞こえない。それなのに、何もいないとは思えなかった。


 木の陰や茂みの奥に、何かが潜んでいる。姿は見えない。けれど、こちらを見ているような気配だけが、森の中に満ちていた。


「……嫌な感じがします」


 新が呟くと、フィオナは小さく頷いた。


「なら、その感覚を信じろ。何も感じない方が危ない。ここは普通の森じゃないからな」


 フィオナは馬上から周囲を見渡した。


 声はいつもより低い。


「ここは聖樹の外だ。だが、魔力が弱いわけじゃない。むしろ、この辺りは土地そのものの魔力が強い」


「聖樹の外なのに、ですか」


「そうだ。聖樹の内側では、魔力の流れがある程度整っている。聖樹が土地を包み、流れを安定させているからだ」


 フィオナは暗い森の奥へ目を向けた。


「だが、ここは違う。聖樹の外で、しかもデュラハルの山と谷に近い。魔力は強いが、流れが乱れやすい。だから空気も変わる。森も変わる。長くここにいる獣も、普通の姿ではいられなくなることがある」


 新は思わず周囲を見回した。


 細い道は、道と呼べるほどはっきりしたものではなかった。土は湿り、ところどころ草に埋もれている。


「デュラハルは、どこもこんな感じなんですか」


「違う」


 フィオナはすぐに答えた。


「本来の街道は今も使われている。人も馬車も通る。見回りもある。だが、そこを通れば目立つ」


「追われているから……」


「そうだ。安全な道ほど、人の目がある。今の私たちには使えない」


 フィオナは手綱を軽く引き、倒れた枝を避けた。


「この道は古い抜け道だ。昔は使われていたが、今はほとんど人が通らない。人の気配が消えた道は、すぐに森に呑まれる。そうなれば獣も入り込む」


 フィオナは周囲の暗い木々を見た。


「ただの森なら、それだけだ。だが、この土地は魔力の流れが荒い。長くここに棲みついた獣は、その影響を受けて異形種になることがある」


「異形種……」


 新がその言葉を繰り返す。


「元は普通の獣だ。鹿や猪、狼、鳥……そういうものが、乱れた魔力を長く浴びて姿を変える」


「体が大きくなるだけじゃない。角や牙が異様に伸びたり、皮膚が硬くなったり、普通ならありえない動きをすることもある。中には、体に溜めた魔力を吐き出すものもいる」


「獣が、魔法を使うんですか」


 新は思わず聞き返した。


「正確には魔法そのものではない。体に溜まった魔力を、本能で放つだけだ。だが、受ける側からすれば魔法と変わらない」


 新は言葉を失った。


 こちらの世界に来てから、何度も常識は壊されてきた。それでもまだ、壊れるものは残っているらしい。


「こっちを襲ってくるんですか」


「縄張りに入れば、相手が人でも獣でも敵とみなす。腹を空かせていれば獲物として見る。傷を負って気が立っていれば、近づいただけで襲ってくることもある」


「考え方は普通の獣と変わらない。ただ、その強さがまるで違う」


 フィオナは森の奥へ視線を向けた。


 新は息を呑んだ。獣と同じなら話し合うことも、事情を説明することもできないだろう。出会ってしまえば、逃げるか、戦うしかない。


「フィオナさんは、何度も戦ったことがあるんですか」


「ああ」


「危ない相手なんですよね」


「大抵の個体なら対処できる」


 フィオナは淡々と言った。


「だが、油断はできない。土地に深く馴染んだ個体や、群れで動くものは厄介だ。馬を連れているなら、なおさら気をつける必要がある」


 大抵なら対処できる。そう言われても、新の胸は軽くならなかった。


 フィオナにとっては戦える相手でも、自分にとっては違う。剣を抜くことさえできるかどうか、今の新にはわからなかった。


 その時、森の奥で何かが折れる音がした。枝ではない。もっと太いものが、力任せにへし折られる音だった。


 ずしん、と地面が揺れる。


 ラズが短く嘶いた。


 新の体が鞍の上で跳ねる。手綱を握る指に、また力が入った。


 フィオナはすでに剣の柄に手をかけていた。


「降りろ。馬を木に繋ぐ。新はラズを頼む」


 フィオナはカンナを先に降ろし、自分たちの馬を近くの幹へ寄せた。


 新も慌ててラズから降りる。地面に足が着いた瞬間、膝が少し震えた。


 カンナが新のそばへ駆け寄る。


「手綱をこっちの木に回そう。すぐ外せるくらいでいいから!」


「は、はい……!」


 新は震える手で、ラズの手綱を幹に回した。


 黒い幹の間から、白い息が漏れた。次の瞬間、それが姿を現した。鹿だった。


 少なくとも、形だけを見れば。だが、新の知っている鹿ではなかった。


 人の何倍もある巨体。岩のように厚い胴。灰色がかった黒い毛並み。長く伸びた角は幾つにも分かれ、先端は刃物のように尖っている。


 赤い目が、三人と二頭の馬を見下ろした。


 カンナとフィオナの乗っていた馬が悲鳴のように嘶く。カンナが手綱を強く引き、馬の首筋に触れた。


「大丈夫。動かないで」


 馬に向けた声だったが、それでも、新の胸にもわずかに届いた。


 鹿がゆっくりと首を下げる。角の間に淡い光が集まっていく。


 狙いは、カンナの方だった。


「伏せろ」


 フィオナが言った。


 カンナが新の肩を押し下げる。新は反射的に身を低くした。


 直後、角の間から光が走った。


 見えない刃のようなものが、カンナへ向かって飛んでくる。


 フィオナの指先に、青白い光が弾けた。


 小さな雷鳴が鳴る。その瞬間、見えない刃の軌道が横へずれた。


 刃はカンナのすぐ横を抜け、背後の大木を斜めに裂いた。轟音とともに幹が倒れ、土と葉が降りかかる。馬たちが一斉に暴れた。


 カンナは手綱を離さなかった。


 新もラズのそばに踏みとどまろうとした。けれど、足がうまく動かない。


 新は身を低くしたまま、鹿を見る。獣が、魔法のような力を本当に使った。


 剣を抜くことも、前に出ることもできない。立たなければ。何かしなければ。そう思うのに、指先が震えるだけだった。


 鹿が再び角を下げる。だが、その前にフィオナが動いた。


 抜かれた剣が銀の線を引き、フィオナは鹿の懐へ飛び込んだ。


 鹿が角を振り下ろすより早く、フィオナは横へ跳ぶ。倒れかけた木の幹を蹴り、巨体の横を駆け上がるように宙へ上がった。


 剣が振り下ろされ、硬いものが砕ける音がした。角の一本が根元から斬り落とされ、地面に突き刺さる。


 鹿が咆哮した。


 それは鹿の鳴き声ではなかった。腹の底まで震わせる、濁った怒りの声だった。


 首を大きく振り、フィオナを弾き飛ばそうとする。


 だが、フィオナはその動きに合わせるように身を翻し、鹿の首筋へ刃を走らせた。


 銀の光が一閃する。


 巨体が傾き、ずん、と地面が鳴る。鹿は膝を折り、そのまま森の土へ倒れ込んだ。


 土煙の中で、フィオナが静かに着地する。


 鹿はまだ動いていた。喉から濁った息を漏らし、赤い目だけを新の方へ向ける。


 新は動けなかった。


 もう立ち上がる力は残っていないはずなのに、その目にはまだ力があった。


 フィオナが鹿のそばへ歩み寄る。


 鹿はまだ息をしていた。大きな体をわずかに震わせ、赤い目だけを新の方へ向けている。


 フィオナは剣を構え直し、鹿の首元へ刃を沈めた。鹿の体が一度だけ大きく震える。そして、動かなくなった。


 森に静けさが戻った。


 新はしばらくその場から動けなかった。手が震えている。ラズの手綱の感触だけが指先に残っている。


 また、見ていただけだった。


 誰かが前に立ち、誰かが戦い、自分はその後ろで震えていた。


 カンナがそばまで来る。


「アラタ、怪我はない?」


「……自分は大丈夫です」


「よかった」


 カンナの言葉は短かったが、視線は新の手元を見ていた。震えに気づいているのだと思った。


 新はゆっくり息を吐いた。


 地面に立っているはずなのに、まだ足元が揺れているような気がする。背中の大剣が、さっきよりも重く感じた。


「馬は大丈夫だったか?」


 戻ってきたフィオナが聞く。


「怪我はないよ。怯えてるだけだと思う」


 カンナが答えた。


「そうか」


 フィオナは短く言い、倒れた鹿を見る。


「あれはグラウゼという鹿が異形化したものだ。この辺りでは珍しくない。今のは強い個体だが、グラウゼ自体は一頭だけじゃない」


 新は倒れたグラウゼを見た。


 さっきまで、あれは確かに生きていた。息を吐き、怒り、こちらに向かってきた。


 もしフィオナがいなければ、自分は殺されていた。


 その事実が、新の喉を締めつけた。フィオナは剣についた血を払った。


「……俺、何もできませんでした」


 新はぽつりと言った。フィオナは新を見る。


「馬から降りても、結局震えて、見ていただけでした。シルヴァンなら、きっと……」


 名前を出した瞬間、喉が詰まった。


 新は言葉を止める。


 フィオナは少しだけ目を伏せた。


「シルヴァンと自分を、無理に比べる必要はない」


 静かな声だった。


「あれは、あれだけの経験と技量を積んで、今あそこに立っている。今のお前に同じことができないのは当然だ」


「でも」


「足りないものがあるなら、これから覚えればいい。だから今は、死なないことを考えろ。周りを見て、私の指示を聞け。剣を振るのは、その後でいい」


 新は背中の大剣に触れる。まだ自分で扱えてはいない。それでも、背負って進むことはできる。


 新は小さく頷いた。


 カンナが少しだけこちらを見る。


「大丈夫だよ、アラタ。フィオナは強いから」


「……はい」


 安心させようとしてくれているのはわかった。けれど、その言葉は新の胸に少しだけ引っかかった。


 フィオナがいるから、大丈夫。


 それはつまり、自分ではまだ誰かを安心させることもできないということだった。


 フィオナが森の奥を見る。


「急ごう。血の匂いで別のものが寄ってきてしまう」


 新は森の奥を見た。


 どこかで、また枝の擦れる音がした。


「……ここには長くいたくないですね」


 カンナが小さく頷いた。


 三人は再び馬に乗った。倒れたグラウゼの横を通り過ぎる時、新は一度だけその亡骸を見た。


「フィオナさん」


「なんだ」


「異形種を避けて進むことはできないんですか」


「できるだけ避けている。だが、見つかった時は逃げ続けるより、すぐ倒した方がいい」


 フィオナは森の奥へ目を向けた。


「音を立て続ければ、それだけ別の異形種も寄ってくる」


 その言葉に、新はもう一度頷いた。


 森の奥で、また何かが鳴いた。低く、長い声。ラズが耳を伏せる。新は手綱を握る手に力を込めそうになり、すぐに緩めた。


 大丈夫だと伝えるように、首筋をそっと撫でる。自分の方が、よほど大丈夫ではないのに。

 

 森はさらに深くなる。


 光は遠ざかっていく。


 それでも三人は、デュラハル王国へ向かって進み続けた。

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