幕間 追憶の連鎖1
十五の頃、僕にとって世界とは、部屋の中にあるものが全てだった。
机と、本。壁にかかった古い燭台。鍵のかかる扉。厚い布で覆われた窓。
そして、鏡に映る自分の顔。
僕はその顔が嫌いだった。
白すぎる肌も、整いすぎた目鼻立ちも、男にしては柔らかい輪郭も、灰色の髪も。
それらはすべて、母に似ていると言われた。
母は皇帝の妾だった。
身分の高い家の娘ではなく、皇帝が一時だけ気に入り、飽きれば忘れられるような女だった。けれど顔だけはよかったらしい。人目を引くほど美しく、だからこそ宮廷に呼ばれ、だからこそ嫌われ、だからこそ僕を産んだ後には、誰からも守られなかった。
その母に似ているというだけで、僕は生まれた時から疎まれていた。
腹違いの兄たちは、僕の顔を見るたびに眉をひそめた。
兄たちの母親は、僕の灰色の髪を見るたびに、汚らわしいものを見るような目をした。
親戚縁者も、皇帝派の貴族たちも同じだった。口では皇子の一人として扱う。けれど、その声に敬意はなかった。彼らにとって僕は、皇帝の血を引いていながら、正統な席には座れない邪魔な子供だった。
無視されるだけなら、まだよかった。
けれど腹違いの兄たちは、僕の顔を見るたびに母の名を出して笑った。あの女にそっくりだ、男のくせに気味が悪い。その言葉と一緒に、頬を打たれ、腹を蹴られた。
兄たちだけではない。
皇帝の妃たちも、僕の顔を見るたびに目を歪めた。
「この顔が、陛下を惑わせたのね」
そう言って、頬を打たれたこともある。
僕が何かをしたわけではない。けれど彼女たちにとって、母に似たこの顔は、怒りをぶつける理由として十分だった。
頬は熱を持ち、腹の奥はしばらく重く疼いた。それでも、声を上げればさらに面倒なことになるだけだったので、僕は早いうちに黙ることを覚えた。
黙っていれば、いずれ終わる。抵抗しなければ、相手もすぐに飽きる。
泣かなければ、余計な言葉は投げられない。
そうやって、僕は少しずつ、痛みのやり過ごし方だけを覚えていった。
自然と、外へは出なくなった。僕は部屋に閉じこもり、本を読んだ。
帝国の歴史。周辺諸国の情勢。税制。兵站。都市の構造。魔法石の流通。貴族家の系譜。戦争の記録。外交文書。古い条約。反乱鎮圧の報告書。
本だけは、僕を殴らなかった。文字だけは、僕の顔を見て嘲笑わなかった。
本を読んでいる間だけは、少しだけ気がまぎれた。
頭だけは、兄たちより冴えていた。それもまた、僕が嫌われる理由になった。
ある時から、兄たちは僕の部屋へ来るようになった。
最初は気まぐれな嫌がらせだった。
本の虫。部屋にこもって紙とだけ話す、気味の悪い奴。
そう笑いながら、兄たちは机の上の本を破り捨て、書きかけの紙を踏みつけた。
けれどある日、第一皇子である兄が、僕の書いていた紙を拾った。
そこには、西の属州で増え始めていた小さな反乱の鎮め方を書いていた。
兵を増やして対処するのではなく、反乱軍に物資を流している商人たちと、帝都側が秘密裏に取引をする。通行税を下げ、彼らが帝都との取引で利益を得られるようにする。
そのうえで、取引の記録をわざと反乱軍に流す。商人たちが帝都から金を受け取った証拠。
帝都の印が入った契約書。荷の通行を許された記録。
反乱軍は、商人を疑う。商人は、反乱軍から少しずつ、距離を取る。
物資の流れは細り、反乱軍の中には不信が残る。剣で押し潰すより、支えている者同士を疑わせた方が早い。
そう考えて書いたものだった。
兄はそれを読んだ。
そして、笑った。
次の月、その案は兄の献策として軍議に出された。父である皇帝は満足し、兄を褒めたらしい。
僕の部屋には、その夜、兄たちが来た。上機嫌だった。
酒の匂いをさせながら、僕の肩を叩き、次も何か考えろと言った。拒めば殴られた。黙っていれば紙と筆を渡された。
それから、僕は兄たちの頭になった。
もちろん、そんなことを表で言えるはずもない。
僕が考えた税の案も、軍の配置も、貴族たちへの根回しも、すべて兄たちの手柄になった。兄たちはそれを使って父に褒められ、貴族たちの支持を得て、宮廷での立場を強くしていった。
僕に残ったのは、殴られた痕と、書き潰した紙の山だけだった。
そのうち、兄たちは金の使い方も覚えた。
人は正しさでは動かない。恩でも、誠意でも、信頼でも動かない。少なくとも、僕の周りにいた人間はそうだった。
貴族たちは、こちらがどれほど理を尽くしても、損をする話には乗らない。逆に、金と地位と婚姻の約束を並べれば、昨日まで敵だった者が笑顔で膝を折る。
兄たちは暴力で僕を従わせ、金で貴族を繋ぎ止めた。
それで多くのことが解決した。解決してしまった。
だから僕は知った。
暴力と金があれば、大抵の人間は動かせる。
動かせない相手は、排除すればいい。
信頼など、弱い者がすがるために作った言葉でしかない。少なくとも、僕はそう思うようになっていた。
その日も、僕は部屋にいた。
窓には厚い布がかかっている。昼なのか夕方なのかも分からない。机の上には、北の国境付近の地図が広げられていた。兄の一人が、次の軍議で使うための案を欲しがっていたからだ。
国境沿いの砦を増やすべきか。
それとも、街道の整備を優先して兵の移動を早めるべきか。
僕は羽根ペンを動かしながら、答えはそのどちらか一つではないと思っていた。先に見るべきは砦の数でも、街道の幅でもない。冬を越すための穀倉がどこにあり、そこから前線までどれだけの時間で兵糧を運べるかだ。
兵は武器ではなく、兵糧で動く。
国境の砦だけを増やしても、そこへ兵糧が届かなければ意味がない。街道だけを整えても、運ぶべき兵糧が遠すぎれば、冬の前線はすぐに干上がる。
ならば必要なのは、穀倉を前線に近い街へ移すこと。加えて、そこから砦までを結ぶ街道を整えることだった。
どれほど勇ましい命令を出しても、腹が減れば兵は進めない。
そんなことを考えていた時だった。
扉の向こうが、妙に騒がしくなった。足音と誰かが叫んで制止する声。
僕は顔を上げた。
兄たちではない、と思った。あの人たちは、僕の部屋へ来る時に止められたりしない。使いの者なら、これほど騒ぎにはならない。
では、誰だ。
そう考えかけて、すぐにやめた。
僕には関係ないことだ。
この部屋の外で何が起きようと、僕の世界は変わらない。変わるはずがない。
無視しようとした。
しかし次の瞬間、部屋の扉が轟音とともに弾け飛んだ。
木片が床を跳ね、金具が壁にぶつかる。蝶番ごと外れた扉が、部屋の内側へ倒れ込んだ。
僕は椅子から立ち上がることもできず、ただ固まった。
扉のあった場所から、光が差し込んでいた。
その光の中に、一人の少女が立っていた。
赤い長い髪を、後ろで高く結っている。
年は、僕とそう変わらないように見えた。けれど、その立ち姿は妙に堂々としていた。細身なのに弱々しさはなく、背筋が伸び、顎が上がっている。
髪の隙間から、長い耳が見えた。
樹人族。
そう理解するより先に、彼女の顔が目に入った。
麗しい、という言葉が頭に浮かんだ。
けれど、それは宮廷の女たちのような、飾り立てられた美しさではなかった。光を背負っているせいか、彼女は部屋の空気そのものを変えてしまったように見えた。
僕の部屋は、ずっと灰色だった。
本と紙と閉じた窓と、息苦しい静けさだけでできていた。
その灰色の中へ、彼女は遠慮なく踏み込んできた。
「私はシオン!」
少女は胸を張って名乗った。
僕は何も言えなかった。扉を壊して入ってきた相手が、いきなり名乗ったのだ。
意味が分からなかった。少女は床に転がった扉を一瞥し、それから僕を見る。
「あなたが、部屋に隠されている妾の子ね」
あまりにも真っ直ぐな声だった。
侮辱のようにも聞こえる言葉なのに、そこに嘲りはなかった。彼女はただ、聞いたままの事実を、そのまま口にしただけのようだった。
「……何をしに来た」
「名前」
「は?」
「私は名乗ったわ。だから、あなたも名乗りなさい」
僕は言葉を失った。名乗れと言われたことなど、ほとんどなかった。
宮廷の者たちは、僕を名前で呼ばない。
妾の子。あの女の息子。
僕の名前など、誰も必要としていなかった。
「聞こえなかったの?」
シオンは腕を組んだ。
「名前を聞いているの」
シオンは、僕を見下ろしていた。凛とした佇まいだった。
扉を壊して入ってきたくせに、そこに乱暴さはなかった。背筋を伸ばし、まっすぐに僕を見ている。
「……ネクサス」
声が掠れた。
「僕は、ネクサスと言う」
少女は満足したように頷いた。
「そう。ネクサスね」
彼女は確認するように、もう一度その名を口にした。それだけのことなのに、胸の奥が妙にざわついた。
シオンは部屋の中を見回した。
床に散らばった紙。机に広げられた地図。壁際に積まれた本。踏みつけられたままの書き損じ。
彼女の目が、それらを一つずつ追っていく。
「やっぱり、あなたなのね」
「……何が」
「西の属州の反乱鎮圧と税の改め方。宮廷で出た案よ」
息が止まった。
誰にも知られていないはずだった。
あれは兄たちの手柄として宮廷に出された案だ。僕が考えたものだと他人に知られれば、兄たちが何をするか分からない。
それを、この少女は何のためらいもなく口にした。
「あの人たちに、こんな案を考えるだけの教養も知性も感じられなかったもの」
シオンは、机の上の地図に視線を落とした。
「彼らが見るのは、敵と手柄だけ。けれど、これは違う」
彼女は、散らばった紙を見た。
「考えている人間が違うわ」
「……偶然だ」
「嘘が下手ね」
「帰れ」
「嫌よ」
即答だった。
シオンは壊れた扉を足で押しのけ、さらに部屋の中へ入ってきた。
「私は、仲間を探しているの」
「仲間?」
彼女は机の前に立ち、広げられた地図を覗き込んだ。
「腕の立つ者には、もう心当たりがあるわ。命令に従う者も、探せばいくらでもいる」
それから、僕を見た。
「でも、ここまで考えられる人間は少ない」
「……僕に、何をさせる気だ」
「私には、変えたいものがあるの」
「変えたいもの?」
「今は言わないわ」
「信用しろと?」
「そんなことは言ってないわ」
シオンは顔を上げた。
「私も、まだあなたを信用していないもの」
あまりにも当然のように言われて、僕は言葉を失った。
仲間を探していると言ったその口で、信用していないと言う。意味が分からなかった。
「信用していない相手を、仲間にするのか」
「最初から信じ合える仲間なんて、気持ち悪いだけよ」
シオンは少しも迷わずに言った。
「信頼なんて、後からついてくるわ。今必要なのは、同じものをおかしいと思えることよ」
「同じものを?」
「ええ」
彼女は僕を見た。その目に、同情はなかった。憐れみもない。
「あなたは、この部屋にいるべきじゃない」
「なぜ、君にそんなことが分かる」
シオンは、床に散らばった紙と、机に広げられた地図を指した。
「これだけ考えられる人間が、誰にも名前を出されずに、兄たちの手柄にされている。おかしいでしょう」
「……同情ならいらない」
「してないわ」
即答だった。
「可哀想だから来たんじゃない。あなたの頭が必要だから来たの」
その言葉は、兄たちが僕に向けるものと似ているはずだった。
けれど、どこか違っていた。兄たちは僕の名前を必要としなかった。僕の意思も、僕の考えも、僕自身も見ていなかった。
この少女は、僕の名を聞いた。僕のことを見つけた。そのうえで、必要だと言っている。
「僕を利用するつもりか」
「そうよ」
シオンは少しも悪びれなかった。
「私にはあなたの頭が必要。あなたは、この部屋の外に出たい。お互い様でしょう」
「勝手に決めるな」
「嫌なら断ればいいわ」
シオンはそう言って、少しだけ笑った。
「もっとも、断っても明日また来るけど」
「……迷惑だ」
「そんなこと知らないわ」
あまりにも堂々としていた。
僕の部屋へ踏み込み、扉を壊し、名を聞き、必要だと言い、断ってもまた来ると言う。
彼女の言葉は、どれも無遠慮だった。けれど、不思議と嘲りはなかった。
「ネクサス」
少女はもう一度、僕の名前を呼んだ。
「兄たちの道具で終わるくらいなら、私の共犯者になりなさい」
共犯者。
その言葉は、奇妙に胸の奥へ残った。友でも家族でも臣下でも主でもない。
共に罪を背負い、共に、壊してはならないものを壊す者。
「……何をする気だ」
「今は秘密と言ったでしょ?」
「それで来いと?横暴過ぎないか?」
「よく言われるわ」
悪びれもせず、彼女は手を差し出した。その手は、扉を壊したばかりとは思えないほど細かった。
けれど、弱々しくは見えなかった。壊れた扉の向こうから、光が差していた。僕の部屋は、ずっと灰色だった。本と紙と閉じた窓と、息苦しい静けさだけでできていた。
その灰色の中で、彼女の赤い髪だけが、燃えるように見えた。僕は、差し出された手を見た。
罠かもしれない。外へ出れば、兄たちに見つかるかもしれない。殴られるかもしれない。もっと深く、閉じ込められるかもしれない。利用されることも、奪われることも、きっと変わらない。
けれど、この部屋に残っても同じだった。僕はこの先も、兄たちのために考え続ける。僕の名前はどこにも残らない。僕の言葉は、僕のものではなくなる。僕の世界は、この部屋の中で腐っていく。
「……僕は、君を信用しない」
「だから言ったわよね」
シオンは、まるでそれが当然の真理であるかのように言った。
「信頼なんて、後で作ればいいの」
僕は、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の手に触れる。
温かかった。その温度に、胸の奥がざわついた。
「ネクサス」
シオンが言った。
「あなたの頭を貸しなさい。私が、あなたを外に連れ出すから」
僕は初めて、壊れた扉の向こうを見た。
そこには廊下があり、光があり、僕の知らない世界が続いていた。その日、僕の世界は部屋の外へ広がった。
それが救いだったのか、破滅の始まりだったのか。当時の僕には、まだ分からなかった。
プロローグで登場したネクサスのお話になります。
各章の終わりに書いていきますので、お待ちください。
これにて1章終了となります。
次の話から2章となります。




