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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章 ユグドライン王国編

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幕間 花を知った怪物

 俺たち亜人族は、ひと言で言えば、どこの種にも収まりきらなかった者たちの寄せ集めだ。


 獣人族ほど獣の特徴が強いわけではなく、かといって人族ほど人でもない。耳だけが獣の形をしている者もいれば、尾だけを持つ者もいる。巨大な体を持ちながら、巨人族ほど体が大きくない者。角はあるのに竜人族には数えられない者。肌が岩のように硬いが、どの種にも属せぬ者。鱗を持ちながら水の中では生きられぬ者。背に翼の名残を持ちながら、空を飛べぬ者。人族に似ているが、肌の色も骨格も違う者。


 俺も、その一人だった。


 黒い肌。人族より小柄な体。尖った耳。唇の奥に覗く牙。だが脚だけは、誰にも負けなかった。走れば風を置き去りにできる、とまでは言わねえが、少なくとも、誰かに追いつかれたことはない。


 父も母も、俺が生まれてすぐに殺された。顔も声も知らねえ。


 残された俺を拾ったのは、亜人族の盗賊団だった。奴らが俺に名を与えた。


 ガロウ。


 そう呼ばれたから、俺はガロウになった。


 盗賊団で覚えたのは、走り方と、隠れ方と、奪い方だった。


 夜の森を駆けること。追手の目を欺くこと。商隊の荷を奪うこと。弱い奴から奪い、強い奴に奪われないように逃げる。そんな理屈を、奴らは当たり前のように口にした。


 最初は、それが生きることなのだと思っていた。


 だが、ある時から耐えられなくなった。


 泣き叫ぶ子どもを見た。荷を奪われ、膝をつく商人を見た。女を品物のように縛る仲間を見た。


 俺を育てた連中は、俺の居場所だった。だが同時に、俺が一番嫌いなものでもあった。


 だから、壊した。


 夜明け前、俺は奴らの馬を逃がし、食料庫に火を放ち、頭目の寝床へ忍び込んだ。仲間だった奴らが武器を取るより早く、俺は走り、斬り、叩き伏せた。


 最後に残った頭目が言った。


「誰のおかげで生きてこられたと思ってる」


 俺は答えなかった。答える言葉を知らなかったからだ。


 その夜、俺は盗賊団を捨てた。


 拾われた場所を壊し、与えられた名だけを持って飛び出した。


 行くあてはなかった。


 それでも足は止まらなかった。


 やがて俺は、フィルス連合国の戦士団に拾われた。亜人族たちが寄り集まって作った連合軍。その末端に、俺は加わった。


 そこで初めて、奪うためではなく、守るために戦うことを覚えた。


 フィルスは、最初から国だったわけじゃない。かつて獣人国アースガルの属国だった。力ある獣人たちの庇護の下で生き、代わりに兵と税を差し出す。そういう小さな土地の集まりだった。


 それが変わったのは、五十年前の戦争だ。


 獣人国と周辺諸国を巻き込んだ大きな戦だった。詳しいことは、俺も長老たちから聞いた話でしか知らねえ。だが、その戦の後、フィルスは獣人国から独立した。


 もちろん、俺たちだけの力じゃない。後ろ盾になったのは人族の国、シーグラス帝国だった。


 人族は獣人国への牽制として、フィルス連合国の独立を後押しし、同盟を結んだ。亜人族にとっては、ようやく自分たちの名で国を持ち、対等に外交ができるようになった瞬間だった。


 だが、同盟を結んだからといって、いきなり仲良くなれるわけじゃねえ。


 人族の多くは、俺たちを奇妙なものを見る目で見た。


 獣人の出来損ない。人に似た異物。混ざりもの。半端者。


 口に出す奴もいれば、出さない奴もいた。ただ、目を見ればだいたい分かる。笑っていても、腹の底では見下している。


 それでも、国同士は近づかなきゃならなかった。


 貿易。外交。軍事協力。国境警備。


 その一つとして始まったのが、兵士の相互派遣制度だった。互いの国に兵を送り、訓練や警備を学ばせる仕組みだ。人族の兵がフィルスへ行き、亜人族の兵がシーグラスへ入る。


 俺は、その派遣兵に選ばれた。


 理由は単純だ。足が速かったからだ。


 それ以外に、俺に分かりやすい取り柄はなかった。力なら獣人に劣る。体格なら巨人族には遠く及ばねえ。剣の型だって、人族の騎士が誇るような綺麗なものじゃなかった。


 ただ、他の奴より速く走ることだけはできた。だから俺は、フィルスの派遣兵としてシーグラスへ送られた。


 最初、人族の兵舎ではずいぶん馬鹿にされた。


「小せえな」


「その肌、夜なら見えなくて便利そうだ」


「亜人でも剣は握れるのか?」


 そんな言葉はいくらでも飛んできた。


 俺は怒らなかった。


 怒らなかったというより、怒るのが面倒だった。言い返すより結果を出した方が話が早いと思ったからだ。


 だから俺は走った。


 誰よりも速く。


 伝令では誰にも抜かれなかった。斥候では誰より先に敵を見つけた。訓練では、重鎧を着た人族の兵たちが息を切らす頃、俺は二周目を走っていた。


 それでも、人族の兵たちの目は変わらなかった。


 速い亜人。


 便利な駒。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 扱いが変わり始めたのは、国境近くで盗賊団を潰した時だった。


 奴らは商隊を襲い、村から子どもをさらい、亜人族や人族の女を売り物にしていた。人族領とフィルスの境を行き来しながら、どちらの軍にも捕まらねえように逃げ回る連中だった。


 俺たち派遣兵にも討伐命令が出た。


 だが、人族の指揮官たちは慎重だった。相手の数が思ったよりも多い。巣穴が分からない。人質がいるから盾にされる。天候が悪い。増援を待つべきだ。


 理屈は分かる。


 だが、その間にも誰かが攫われ、売物にされる。


 俺はそれが気に食わなかった。


 俺は昔、同じような場所にいた。奪う側にいた。だからこそ、ああいう連中の考えることは分かった。


 弱い奴から奪えばいい。泣いている奴は放っておけばいい。逃げ遅れた奴が悪い。


 そういう腐った理屈を、俺は嫌というほど知っていた。


 だから、仲間を待たずに一人で突っ込んだ。


 盗賊の数は三十を超えていた。


 俺は夜明け前に奴らの野営地へ入り、見張りを倒し、馬を逃がし、油壺と干し草に火をつけた。混乱した連中を一人ずつ潰し、親玉の喉元に短剣を突きつけた時には、空が白み始めていた。


 助け出した子どもは五人。捕らえられていた商人が二人。殺した盗賊は、数えていない。


 無茶だと、命令違反だと怒鳴られた。だが、俺を見て笑う者は減った。


 化け物を見る目から、厄介な奴を見る目へ。


 馬鹿にする声はまだあった。だが、背中に投げられる言葉の色は変わった。


 その件が、騎士レオンの目に留まった。レオンは帝国でも名の知れた騎士だった。


 シーグラス帝国で騎士と呼ばれる者は、たった六人しかいない。皇帝直属の剣であり、帝国最高の武名を背負う者たちだ。


 俺のような亜人族の派遣兵とは、身分も立場も比べものにならない。


 そう思っていた。だが、レオンは俺を御前試合に出した。


 王都で開かれる大きな試合だった。皇族や貴族たちの前で、兵や将が力を見せる。国の威信。軍の序列。貴族の面子。そういうものが絡んだ、俺にはあまり向いていない場だった。


 そこで俺は、人族の騎士と戦うことになった。


 名は覚えていない。


 覚える気がなかったのかもしれない。


 その男は俺より頭二つ分は大きかった。鎧も剣も立派で、胸には騎士の証があった。


「亜人が、騎士の前に立つか」


 男はそう言った。


「立てと言われたからナ」


 俺が答えると、観覧席のどこかで笑いが起きた。


「膝をつけば、怪我はせずに済む」


「悪いガ、誰かの前で膝をついた覚えはネェんダ」


 男の顔から笑みが消えた。


 試合開始の合図が鳴った。


 まともに斬り合えば勝てない。


 そんなことは分かっていた。


 重い剣。厚い鎧。正面から打ち合えば、俺の腕ごと砕かれる。


 だから俺は、走った。


 踏み込むと見せて横へ跳び、剣の間合いを外す。鎧の継ぎ目を狙い、膝の裏を蹴って体勢を崩す。相手が怒って振り向くたびに、俺はもうそこにはいなかった。


 観覧席の笑い声が消えていった。人族の兵たちのざわめきが大きくなった。


 騎士の剣が空を切る。俺の短剣が鎧の隙間を斬る。


 一度、奴の剣が俺の肩を掠めた。血が飛んだ。だが、それでようやく間合いが分かった。


 次の一歩で、俺は懐に入った。


 柄で喉を打ち、膝を払う。倒れかけた男の腕を絡め、地面へ叩きつけた。


 石畳に、騎士の体が沈んだ。しばらく、誰も声を出さなかった。


 俺は短剣をそいつの喉元に当てた。


「まだやるカ」


 男は歯を食いしばっていた。だが、立てなかった。そこでようやく、審判の声が上がった。


 俺の勝ちだった。


 その日から、人族の兵たちの扱いは決定的に変わった。


 笑う者は、ほとんどいなくなった。


 陰で悪口を言う者はいた。亜人が騎士を倒したことを認められない者も多かった。だが、俺が通ると道を開けるようになった。


 恐れ。警戒。そして、ほんの少しの敬意。それらが混ざった目だった。


 それからしばらくして、帝国では妙なことが続いた。皇位に近い者たちが、次々と死んでいった。


 病死、殉死、事故、戦場での討死。


 俺のような亜人族の派遣兵に、宮廷の奥で何が起きていたかなど分かるはずもない。


 ただ、気づけば皇位は、若いネクサスのもとに転がり込んでいた。


 ネクサスは若くして皇帝となった。


 そして、その新しい皇帝に召し上げられる形で、俺は六騎士の一人に任じられた。


 盗賊団討伐の功。御前試合で騎士を倒した功。フィルス連合国との同盟を示す象徴。


 理由はいくつも並べられた。


 だが、本当のところは分からない。


 ネクサスが何を考えて俺を選んだのか、その時の俺には読み取れなかった。


 亜人族の俺が、人族の六騎士だ。笑える話だろう。


 嬉しかったかと聞かれれば、分からない。誇らしかったかと聞かれても、やはり分からない。


 ただ、俺は人族に拾われた。フィルス連合国の顔として送り出され、人族の騎士として扱われた。飯を食わせてもらい、寝床を与えられ、名を呼ばれた。


 それだけで十分だと思っていた。


 あの人に会うまでは。


 その日、王都には獣人国アースガルの使節団が来ていた。


 アースガルとは、今でこそ表向きの関係は保っているが、腹の中ではいくらでも火種がある。五十年前の独立を、アースガルの古い貴族たちは今でも快く思っていない。


 そんな国の使節団が、人族領へ外交に来た。警備は厳重だった。


 当然、六騎士である俺にも配置が回ってきた。


 ただ、俺に与えられた任務は、会談場の警護ではなかった。使節団の宿泊する離宮周辺の巡回。それも外周だ。


 俺の下には、フィルスから来ていた亜人族の派遣兵たちがつけられていた。六騎士とはいえ、人族の兵を好きに動かせるわけじゃない。俺に預けられるのは、いつも同じように扱いに困る連中だった。


 亜人族である俺たちを、獣人国の高官の目に触れさせたくなかったのだろう。


 六騎士の一人にまでしておいて、そういうところは変わらない。


 別に気にはしなかった。慣れていたからだ。


 事件が起きたのは、その日の夕刻だった。


 俺は亜人族の部下たちを連れ、離宮の外周を巡回していた。


 外周には、一定の間隔で見張りが立つ決まりになっている。俺たちはその持ち場を順に回り、異常がないかを確かめていた。


 西側の庭門に近づいた時、俺は足を止めた。


 そこにいるはずの見張りが、いなかった。


「これは……」


 後ろの部下が、低く声を漏らした。


 俺も同じものに気づいていた。


 血の匂いだ。


「見に行ってクル。ここを見張ってロ」


 俺は部下にそれだけ告げ、庭木の陰へ入った。茂みの奥に、二人の亜人兵が倒れていた。


 一人は喉を裂かれ、もう一人は胸を刺されていた。どちらも武器に手をかける前にやられている。争った跡はほとんどない。声を上げる間もなくやられたのだろう。


 やった奴は、慣れている。


 俺は膝をつき、地面に残った足跡を見た。ただの賊じゃない。


 そう思った瞬間、風に別の匂いが混じった。


 女の髪に使う甘い香油の匂い。それから、鉄と革の匂い。


 匂いは、離宮の裏手から庭園の奥へ続いていた。俺は剣の柄に手をかけ、低い姿勢で駆け出した。庭木の影を抜け、離宮の裏手へ回る。


 そこで見たのは、倒れた侍女と、血を流して崩れた獣人族の護衛たちだった。その奥で、一人の少女が黒衣の男たちに口を塞がれ、庭園の外へ連れ出されようとしていた。


 いや、少女と呼ぶには気高すぎた。


 金色の髪。琥珀の瞳。耳は人のそれよりわずかに鋭く、髪の間から獅子の耳が覗いていた。背にはしなやかな尾が揺れ、首元には王家の紋章が刻まれた飾りが光っていた。


 口を塞がれ、腕を押さえられていながら、その瞳だけは折れていなかった。


 その少女を、黒衣の男たちが庭園の外へ連れ出そうとしていた。


「止まレ」


 俺はそう言った。


 男たちは止まらなかった。


 一人目の膝を蹴り砕き、二人目の喉に肘を入れた。三人目が短剣を抜くより早く、俺はそいつの懐に入り、柄で顎を打ち抜いた。


 残った男が少女を盾にした。


「近づくな。姫の命が――」


 最後まで言わせなかった。


 俺は地面の小石を蹴り上げた。小石は男の片目に当たり、奴が怯んだ一瞬で俺は距離を詰めた。腕をへし折り、少女の体を抱き寄せる。


 軽かった。


 驚くほど、軽かった。


 それが、ライラ・レオナ・アースガルとの出会いだった。


 獣人国の姫。そして、俺が生まれて初めて目を奪われた人だった。


「怪我はネェカ」


 俺が尋ねると、姫は俺の腕の中でしばらく瞬きをしていた。


 恐怖で震えているのだと思った。


 だが違った。


 彼女は俺を見上げ、少しだけ目を細めて笑いながら言った。


「ありがとう、あなた、強いのね」


 それが最初の言葉だった。俺は間抜けにも、返事ができなかった。


 獣人国の姫が誘拐されかけた事件は、すぐに処理された。


 表向きには、賊の単独犯。六騎士の一人だった俺がすぐに対処し、ライラ姫にも大きな怪我はなかった。おまけに、当のライラ姫が、この件を大袈裟にして人族と獣人族の友好を崩すことを望まなかった。


 だから事件は、それ以上広がらなかった。


 だが、俺は信じていない。


 あれだけ警備の厚い離宮に、ただの賊が入り込めるわけがない。


 人族の中には、獣人国との交流を快く思わない連中がいた。


 純血派。


 人族こそが最も優れた種であり、獣人族や亜人族含む他の種族と同列に考えるべきではないとする者たちだ。


 おそらく、あの事件はそいつらの暴走だった。


 獣人国の姫が人族領で攫われれば、会談も同盟も壊れる。獣人族と人族が近づくことを望まない者にとっては、それで十分だったのだろう。


 けれど、真相は俺の手の届くところにはなかった。俺に与えられたのは褒賞と、新たな任務だった。


 しばらくの間、姫の身辺警護を補佐せよ。そう命じられた時、俺は平静を装った。


 だが内心では、どうしようもなく浮かれていた。


 ライラは、不思議な人だった。


 獣人国の姫でありながら、亜人族の俺を見下さなかった。


 ただ、見下さなかっただけじゃない。彼女は俺を見て、当たり前のように笑いかけてくれたのだ。


 亜人族としてでも、人族の六騎士としてでも、フィルスから来た同盟の象徴としてでもなく。


 生まれてはじめて、俺という一人を見ようとしてくれているように感じた。


 誘拐未遂の翌日、俺は離宮の中庭に呼ばれた。


 また、くだらない褒賞の話か、そういうものだと思っていた。


 だが、ライラは人払いをしたあと、俺の前に立ち、じっと俺を見た。


「あなたの名前を、もう一度教えて」


「ガロウ」


「ガロウね」


 彼女は、確かめるように俺の名を口にした。それだけのことに、俺はなぜか胸の奥を掴まれた。


「助けてくれて、ありがとう。ガロウ」


「礼ならいらねェ。任務だったからナ」


「違うわ」


 ライラは静かに首を振った。


「任務だったとしても、あの時のあなたは、それだけで動いていたようには見えませんでした。危ういところにいた私を、あなたはただ迷わず助けようとしてくれたのでしょう」


 何も言えなかった。


 その通りだったからだ。


 あの時、俺は命令のことも、後のことも考えていなかった。ただ、あのまま連れて行かせたくないと思った。


 ライラは、俺の腕に巻かれた包帯へ視線を落とした。


 誘拐犯の刃が掠めた傷だった。大したものじゃない。だが、彼女はそれを見逃さなかった。


「あなたは、とても心の優しい人なのね」


 胸の奥が、妙にざわついた。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。俺はずっと、ただ足が速いだけの亜人族だった。


 亜人族のくせに、騎士の席に座っている。半端者のくせに、人族の顔をして剣を振るっている。足が速いだけの、便利な駒。

 

 そう言われてきた。


 けれど、彼女は違うものを見ていた。


「変なことを言う姫だナ」


 俺がそう言うと、ライラは少し驚いた顔をしたあと、楽しそうに笑った。


「あなたも、ずいぶん失礼な騎士ね」


「よく言われるナ」


「でも、不思議と嫌ではないわ」


 その笑い方を見た時、胸の奥が妙に騒いだ。


 それが何なのか、その時の俺にはまだ分からなかった。


 それから、彼女はたびたび俺に話しかけてきた。


 初めて会った時も、次に会った時も、その次も、彼女は俺の目を見て話した。


「ガロウ、あなたの国では、どんな花が咲くの?」


 ある日、彼女はそう尋ねた。


「花カ?」


「ええ。花よ」


「知らねェナ。食える草なら分かるガ」


 そう答えると、ライラは目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。


「あなた、本当に正直なのね」


「嘘が下手なだけダ」


「なら、文字は?」


「読めねェ」


「手紙は?」


「書いたこともねェ」


 普通なら、そこで笑われる。騎士が文字も読めないのかと。六騎士の席に座っていながら、名を書くこともできないのかと。


 実際、人族の兵たちには何度も笑われた。


 だが、ライラは違った。


「なら、覚えればいいわ」


 彼女は当たり前のように言った。


「遅すぎることなんて、ないもの」


「俺がカ?」


「ええ。あなたが」


「俺みたいな奴が、文字を覚えてどうするんダ」


「私に手紙を書いて」


 その言葉で、俺は黙った。


 ライラは少しだけ頬を赤らめたが、目は逸らさなかった。


「あなたの言葉を、あなたの手で書いてほしいの」


 そう言って、ライラ姫は小さな本を差し出した。子どもが文字を覚えるための、薄い本だった。


「まずは、ここから覚えて」


 俺はその本を受け取ったまま、うまく返せなかった。

 

 馬鹿にされなかったことが、嬉しかった。


 できないと決めつけられなかったことが、苦しかった。


 俺にも何かを覚えられるのだと、当然のように言われたことが、どうしようもなく胸に残った。


 任務が終わり、使節団が帰ったあとも、ライラとの縁は切れなかった。


 最初は彼女からの手紙だった。


 もちろん、俺は読めなかった。


 人族の同僚に読んでもらうのは嫌だった。何を書かれているか分からないまま、他人の口から聞くのが嫌だった。


 だから文字を自力で覚えた。


 訓練の合間に、夜番のあとに、眠気で頭が揺れる中で、俺は本を頼りに木板に何度も文字を刻んだ。


 ガ。


 ロ。


 ウ。


 自分の名を書くのに三日かかった。


 ライラの名を書くのに、さらに二日かかった。


 手紙を書けるようになるまでには、もっとかかった。


 最初の返事は、たった一行だった。


『手紙、読めた。ありがとう』


 今思えば、ひどい返事だ。だが、ライラはそれを喜んだ。


 次の手紙には、薄い紫の花が挟まれていた。最初は枯れた花かと思った。だが、紙のように薄く乾いた花びらは、潰れているのに綺麗な形を残していた。


『これはスミレと呼ばれる花です。花言葉は、小さな幸せ』


 花言葉。


 俺はその言葉を知らなかった。


 手紙には続きがあった。


『遠い昔、守護者と呼ばれた異界の者が、この世界に花へ意味を込める習わしを伝えたそうです。花はただ美しいだけでなく、言葉を持つのだと』


 花が言葉を持つ。


 俺には分からなかった。


 だが、興味深かった。


 花一つに意味を込めるなんて、随分と回りくどい。好きなら好きと言えばいい。嫌なら嫌と言えばいい。


 そう思っていた。


 だが、ライラから届く花を見るたびに、俺はその意味を知りたくなった。


 彼女は何を伝えたいのか。


 なぜこの花を選んだのか。


 俺は他にも本を読み、花を探し、覚えたばかりの文字で返事を書いた。


 俺から初めて送った花は、ヒマワリだった。


 意味は、「あなただけを見つめる」。


 送った後で、亜人族の女官に笑われた。


「ずいぶん真っ直ぐな花を選ばれましたね」


 意味が分からず聞き返すと、女官はさらに笑った。


 数週間後、ライラ姫から返事が来た。手紙の中には、白いカスミソウが添えられていた。


『カスミソウの花言葉は、感謝。あなたの真っ直ぐな心に触れるたび、私は温かな気持ちになります』


 その手紙を、俺は何度も読んだ。


 戦場で傷を縫われている時も、寒い夜番の時も、くだらない侮辱を浴びた時も、俺は懐に入れたその手紙を思い出した。


 俺が彼女に惹かれたのは、美しかったからだけじゃない。


 姫だったからでもない。


 俺を見下さなかったから、だけでもない。


 彼女は、俺のことを勝手に決めつけなかった。


 亜人だからこうだろう。騎士ならこうあるべきだ。文字も知らないなら、粗野な男に違いない。


 そんなふうには見なかった。


 知らないなら、覚えればいい。できないなら、これからできるようになればいい。


 彼女は、当たり前のようにそう言った。


 俺が不器用な字で書いた短い手紙にも、ちゃんと返事を書いてくれた。


 そんな人を、好きにならずにいられるほど、俺は器用な男じゃなかった。


 元々、俺は単純な男だ。


 俺はいつだって、自分が正しいと思った方へ走るだけだった。


 だから、自分の胸の中にあるものにも、すぐ気づいた。


 俺は、ライラに惚れていた。


 亜人族の騎士が、獣人国の姫に。


 笑い話にもならねえ。


 身の程知らずだ。


 そんなことは分かっていた。


 分かっていても、止められなかった。


 そして、あの日が来た。


 後に、ネクサスの大虐殺と呼ばれる日だ。


 人族の治めるシーグラス帝国で、世界維持会談が開かれた。


 獣人族、樹人族、竜人族、巨人族。各国の王や代表が集められ、世界の均衡を保つための話し合いが行われる。そう聞かされていた。


 もちろん、俺も警護に入るものだと思っていた。


 ライラも、王の家族としてシーグラスへ同行していた。会談の場に出るわけではない。代表たちの家族は、城内の別区画で待機させられる決まりだった。


 だから俺は、せめてその周辺警護に就くつもりでいた。


 だが直前になって、配置を外された。


 理由は告げられなかった。


 別任務があるから控えておくように言われた。


 他の六騎士は配置されているのに俺が、なぜ外されたのか。


 納得はできなかった。だが、命令は命令だ。俺は人族の騎士として召し抱えられた身だ。従わなければならなかった。


 それが、考えなしで、どれほど愚かなことだったのか気づくのは遅かった。


 知らせが届いた時、俺は王都の南門にいた。


 最初は、混乱した伝令の叫びだった。


 次に、血まみれの兵が戻ってきた。


 そして、噂が一気に広がった。


 シーグラスの城塞で、会談が血に沈んだ。


 円形広間にいた各国の代表も、護衛も、ほとんどが殺された。


 ライラの父親である獣人国の王も死んだ。


 俺は、その言葉を聞いた瞬間、呼吸の仕方を忘れた。


 ネクサスが、広間の扉を閉ざし、一人も外へ出すなと命じたのだという。


 最初は信じられなかった。


 信じたくなかった。


 だが、戻ってきた兵たちの顔を見れば分かった。


 誰も勝った顔をしていなかった。青ざめた顔で、目も合わせず、血に濡れた手を震わせていた。あれは、逃げ場のない者を斬った者の顔だった。


 俺の膝から、力が抜けそうになった。


 だが、まだ終わりじゃなかった。


 ライラは会談の広間にはいなかった。王の家族として、別区画に待機していたはずだった。


 ならば、生きているかもしれない。いや、生きていてくれ。


 それだけを考えた。


 その日の夜、俺は知った。


 ライラは捕らえられていた。


 会談に同行していた各国の家族や従者たちは、殺されなかった。殺されず、拘束された。表向きには保護。だが、実際には人質だった。


 ライラは、王都の外れにある旧砦を改修した監視所へ移されていた。


 獣人国の王が死に、その娘が人族の手に落ちた。


 それが何を意味するか、馬鹿な俺にも分かった。


 人族には恩がある。俺を拾い、六騎士にまでしてくれた。フィルス連合国にとっても、人族との同盟は命綱だ。


 ここで俺が動けば、裏切り者になる。亜人族の立場も悪くなる。フィルスに迷惑がかかる。


 全部、分かっていた。


 分かっていたが、足は止まらなかった。


 俺は単純な男だ。


 好きになった人が泣いているなら、助けに行く。


 それだけだ。


 夜明け前、俺は旧砦へ向かった。


 門番は知った顔だった。


「ガロウ殿? このような時間に――」


 返事の代わりに、俺はそいつの腹を剣の柄で打った。


 門を抜けると鐘が鳴った。


「侵入者だ!」


「ガロウ殿だ!」


 声が飛び、剣が抜かれる。俺は走った。


 狭い石廊を駆け抜け、矢を避け、槍の穂先を蹴り上げる。


「ガロウ殿が乱心されたぞ!」


 誰かが叫んだ。


 乱心。


 そうかもしれない。


 恩を仇で返し、国を捨て、命令を破り、たった一人の姫を助けるために砦へ斬り込んでいる。まともじゃない。


 だが、俺は笑った。


 まともでいられるなら、最初からこんな恋はしていない。階段を駆け上がる。


 上層の扉には、鉄の閂がかかっていた。


 俺は肩からぶつかった。


 一度目で骨が軋んだ。


 二度目で扉が歪んだ。


 三度目で閂が外れた。


 部屋の中に、ライラはいた。


 窓のない石の部屋、床に落ちた王家の飾り。彼女は壁際に座っていた。


 金色の髪は乱れ、頬には涙の跡があった。けれど、俺を見た瞬間、その琥珀の瞳に光が戻った。


「ガロウ……?」


「迎えに来たゾ、ライラ」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 姫は立ち上がろうとして、足をふらつかせた。俺は駆け寄り、彼女の体を支えた。


 軽かった。


 初めて助けた時と同じくらい。


「父上が……」


 ライラの声が震えた。


「父上が、死んだのです」


 俺は何も言えなかった。


 慰めの言葉など知らない。


 花の意味なら少し覚えた。手紙の書き方も覚えた。だが、大切な人を失った相手に何を言えばいいのかは、どの本にも書いていなかった。


 だから、俺はただ膝をついた。


「悪いナ、ライラ」


 俺は頭を下げた。


「違います」


 ライラは首を振った。


「あなたのせいではありません」


「けどヨ」


「違うの、ガロウ」


 彼女の手が、俺の頬に触れた。細い指だった。


 震えていた。それでも、温かかった。


「あなたが来てくれたから、私はまだ、絶望せずにいられます」


 胸の奥が熱くなった。俺は彼女を抱き上げた。


「掴まってろヨ」


「ええ」


「少し揺れるガ、落としはしねェ」


「信じるわ、あなたなら絶対落とさないもの」


 こんな時に、彼女は少しだけ笑った。俺はその笑みを見て、もう迷わなかった。


 砦を出るまでのことは、よく覚えていない。


 剣を弾いた。


 槍を避けた。


 通路の明かり窓を破った。


 屋根を走った。


 矢が肩を掠め、血が流れた。だが、ライラに当たらなければそれでよかった。


 下では兵たちが叫んでいた。


「止めろ!」


「姫を奪われるぞ!」


「ガロウを討て!」


 俺の名が敵として呼ばれていた。


 昨日まで共に飯を食っていた者たちが、俺へ刃を向けていた。


 不思議と、怒りはなかった。ただ少しだけ、寂しかった。


 それでも俺は走った。


 砦の外壁から飛び降りた時、腕の中でライラが息を呑んだ。


 着地の衝撃で膝が砕けそうな痛みが走る。


 だが止まらない。森へ飛び込む。


 木々の隙間から、夜明けの淡い光が差し込み始めていた。


 追手の声が遠ざかるまで、俺は走り続けた。


 そして、川辺でようやく足を止めた。


 川辺には、朝露を含んだ小さな青い花が群れていた。


 ライラを下ろすと、彼女はその場に崩れ落ちた。


 泣いた。


 声を殺すこともなく、獣のように、子どものように、父を呼んで泣いた。


 俺は隣に座った。何も言えなかった。


 ただ、そこにいた。


 朝日が昇り、川面が金色に光る頃、ライラはようやく顔を上げた。


 目は赤く腫れていた。


 それでも、その瞳は折れていなかった。


「ガロウ」


「何ダ」


「私は、アースガルへ戻ります」


 彼女の声はかすれていた。


 だが、はっきりしていた。


「父上は死にました。多くの者が死にました。国は混乱するでしょう。私が戻ったところで、何ができるかは分かりません」


 ライラは、震える手で胸元の飾りを握った。


「それでも、私は王の娘です。逃げたままではいられません」


 俺は頷いた。


「なら、俺もついて行ク」


「あなたは戻れなくなります」


「どうせ、もう戻れねェ」


「人族の騎士ではなくなるのですよ」


「構わねェ」


「フィルスにも、迷惑がかかるかもしれません」


「分かってル。けど、ここでお前を一人にする方が、俺には無理ダ」


 ライラ姫は、泣き腫らした目で俺を見た。


「それが、あなたの選ぶ道なのですね」


「ああ」


 俺は頷いた。


「俺は、お前と行ク」


 ライラ姫は、泣き腫らした目のまま、ほんの少し笑った。


「あなたは、本当に単純な人」


「よく言われるナ」


「でも」


 彼女は川辺に咲いていた小さな青い花を摘んだ。


 それを俺に差し出す。


「あなたのそういうところに、私は何度も救われました」


 俺は花を受け取った。小さな花だった。薄い青の花びらが、朝の光を受けて震えていた。


「その花の意味はなんダ?」


 俺が尋ねると、ライラは少しだけ目を伏せた。


「……今は、言えません」


 その声は、泣きそうなほど小さかった。


「そうカ」


 俺は頷いた。


「なら、いつか聞かせロ」


 ライラは答えなかった。


 ただ、泣き笑いのような顔で俺を見た。俺は立ち上がった。


「行くゾ、ライラ」


「ええ」


 彼女は立ち上がった。


 涙の跡を残したまま、獣人国の姫は前を向いた。


 俺はその隣に立つ。


 人族の騎士ではなく、フィルスの戦士でもなく。


 六騎士の一人でもなく。


 ただ、ライラ・レオナ・アースガルという一人の女に惚れた、愚かな亜人族として。


 俺たちはアースガルへ向かった。

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