32.朝を待つ者たち
馬の背に、身体が揺られていた。
いや、乗っているというよりは、括りつけられていると言った方が正しい。
新は手綱を握っていなかった。握れるほど、まともに身体が動いていない。腰と胸を革紐で固定され、片腕だけがかろうじて鞍に引っかかっていた。
馬は迷うことなく森道を進んでいく。その背に括りつけられたまま、新は奥歯が軋むほど強く歯を食いしばっていた。
「くそっ……くそっ……!」
喉の奥から、潰れた声が漏れる。
怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか、自分でもわからなかった。
叫んだはずだった。喉が裂けるほど叫んだはずなのに、まだ足りなかった。
切り落とされた脚は、すでに肉が戻りかけていた。失われた断面から赤黒い肉が盛り上がり、骨の輪郭が内側から形を取り戻していく。見る者が見れば異様な光景だっただろう。
だが、新にとっては、それすら憎かった。ならばなぜ、あの時動かなかった。エティエンヌの前で、なぜあんなにも無様に倒れた。
「くそ……っ」
馬の首に額をぶつけるようにして、新は呻いた。
シルヴァンがいる。
あの森道で、ひとり残っている。
だから、戻らなければいけない。
そう、思おうとした。
けれど、すぐに別の声が胸の奥で囁いた。
戻ったところで、何ができる。
エティエンヌに敗れた。手も足も出なかった。怒りだけで突っ込み、何も守れず、何も変えられず、結局シルヴァンに助けられた。
戻ったところで、また足手まといになるだけだ。シルヴァンが作った逃げ道を、自分で潰すだけだ。
「違う……」
新は震える声で呟いた。
「違う、そうじゃない……」
言い訳だ。そんなものは全部、言い訳だ。
自分が本当に戻れない理由は、もっと醜くて、もっと情けない場所にある。
怖いんだ。
エティエンヌが怖い。あの圧倒的な強さが怖い。斬られる感触が、脚を失った瞬間の熱が、身体の奥にまだ残っている。もう一度あの刃の前に立てば、また同じように斬られる。そう思っただけで、全身が強張った。
シルヴァンがひとり残っているとわかっているのに、あの森道へ引き返すことを想像しただけで、胸の奥が冷たくなる。
もし戻って、そこにシルヴァンが倒れていたら。
自分を逃がしたせいで、あの人が血の中に沈んでいたら。
自分が生き残った代わりに、あの背中がもう二度と立ち上がらないのだと知ってしまったら。
新は、きっと立っていられない。
「くそっ……!」
新はまた叫んだ。
けれど、その声はもう怒号ではなかった。掠れて、潰れて、泣き声に近かった。
何度も馬から降りようともがいた。だが、シルヴァンが結んだ革紐は固く、ラズは新の抵抗など構いもせず進み続けた。
森の夜は少しずつ薄れていく。
黒かった木々の隙間に灰色の光が差し込み、冷えた空気が肺の奥に刺さった。
叫び疲れた新は、いつしか声も出せなくなっていた。ただ荒い息だけを漏らしながら、馬の背に揺られる。
やがて木々が途切れた。
朝日が地平の端から静かに顔を出そうとしていた。その光の中に、崩れかけた家々の影が浮かび上がる。
廃村だった。
家々の屋根は落ち、壁は大きく崩れていた。焼け焦げた柱が黒く突き出し、道には割れた木片や砕けた石が散らばっている。井戸のそばには折れた槍が転がり、乾いた血の跡が土にこびりついていた。
ここで、戦いがあったのだ。
人の気配はない。だが、何かが壊された痕跡だけが、朝の光の中に生々しく残っていた。
それでもラズは迷わなかった。廃村の中へ入り、崩れかけた道を進み、一角にある比較的形を残した廃屋の前で足を止める。
そして、低く鳴いた。
それは呼びかけるような声だった。
次の瞬間、廃屋の扉が勢いよく開いた。
「アラタ!」
飛び出してきたのはカンナだった。乱れた髪のまま、ほとんど転びそうな勢いでこちらへ駆けてくる。
「待て、カンナ!」
廃屋の奥から、フィオナの制止する声が飛んだ。
しかし、カンナは止まらなかった。フィオナも慌ててその後を追い、外へ出てくる。
カンナはラズの前まで駆け寄ると、馬の背に括りつけられた新を見上げた。
血に濡れた服。全身に刻まれた傷。鞍に引っかかるようにして垂れた片腕。そして、脚のあたりにこびりついた大量の血の跡。
その姿を見た瞬間、カンナの顔から血の気が引いた。
「アラタ……」
震える声で名前を呼びながら、カンナは慌てて革紐に手をかけた。固く結ばれた紐に指をかけ、何度ももつれながら、それでも必死にほどいていく。
やがて最後の紐が解けると、新の身体がぐらりと傾いた。
カンナは息を呑み、両腕でその身体を受け止める。
重かった。
血と泥に濡れた新の身体は、思っていたよりもずっと重かった。
それでも、確かに息をしていた。
カンナは新の肩を抱えたまま、震える声で呟いた。
「無事で……良かった……」
その言葉を聞いた瞬間、新は顔を歪めた。
無事。
その言葉が胸に刺さった。
無事なはずがない。何も無事ではない。自分は逃げてきただけだ。守られて、括りつけられて、ここまで運ばれてきただけだ。
カンナは新の腕を支え、廃屋の壁際に座らせた。カンナもそのすぐそばに腰を下ろす。
フィオナがラズへ視線を移す。その表情が険しくなった。
「なぜ、シルヴァンの馬がここにいる」
新はすぐには答えられなかった。
喉が乾いていた。言葉にした瞬間、胸の奥で何かが決定的に壊れてしまうような気がした。
それでも、言わなければならなかった。
「シル兄は……俺を助けてくれました」
新は俯いたまま、途切れ途切れに続ける。
「俺は……エティエンヌに負けました。何もできなくなって……動けなくなって……」
声が喉の奥で詰まる。
「それでも、シル兄は俺をラズに乗せて……ここまで逃がしてくれたんです」
カンナの表情が強張った。
フィオナの目が、わずかに細くなる。
新は血と泥に濡れた手を握りしめた。
「シル兄は……まだ、あそこにいます」
その言葉で、カンナの瞳が揺れた。フィオナの顔から、わずかに色が引いた。
助けられた。
自分だけが。
その事実が、胸の奥を潰していく。
「俺は……何もできなかったのに」
言葉を重ねるたびに、自分の惨めさが形になっていった。
フィオナは黙って聞いていた。
そして、低く吐き捨てるように言った。
「あの馬鹿者が……」
怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。
カンナは両手を胸の前で握りしめる。
「シルヴァンさん……」
その声は、消え入りそうだった。
新は俯いた。
自分の手を見る。血と泥にまみれた手。誰かを守るために伸ばしたはずの手。
だが、何も掴めなかった。
「俺なんかが……残ってしまいました」
言った瞬間、胸の奥が潰れた。
「無様に負けて……何もできなくて……それなのに、シル兄を置いてきました」
異世界に来てから、誰よりも世話になった。
戦い方も、身の守り方も、この世界の歩き方も教わった。ぶっきらぼうで、口は悪くて、何を考えているかわかりにくい男だった。
だが、何度も助けられた。背中を押された。生き延びる術を教えてもらった。
その男を、自分は置いてきた。
「俺が……俺が残るべきだったんです」
声が震えた。
「なのに……」
カンナは何か言おうとして、唇を開いた。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
新のせいじゃない。
そう言いたかった。
だが、その一言で済ませていいほど、失ったものは軽くなかった。
カンナは俯いたまま、新のそばへ歩み寄る。
「……そんなふうに、言わないで」
ようやく出た声は、小さく震えていた。
新は顔を上げなかった。
カンナも、それ以上は続けられなかった。それでも、彼女はその場を離れなかった。
朝日は昇り始めているのに、廃村の空気は冷たい。誰も次の言葉を見つけられなかった。
沈黙だけが、三人の間に落ちる。その沈黙を破ったのは、フィオナだった。
「嘆くのは後です」
静かな声だった。だが、その声には刃のような硬さがある。
新が顔を上げる。カンナもフィオナを見た。
フィオナは一度、森の方角へ目を向けた。
そこにシルヴァンの姿はない。ただ、薄い朝の光に沈む木々があるだけだった。
それでも、彼女は目を逸らすように南東の空を見た。
「この先、獣人族方面は抑えられていると見ていいでしょう」
「アースガルへは……行けないんですか」
カンナが小さく尋ねた。
フィオナは頷いた。
「セレーヌとの会合で、獣人族の反乱組織と接触する話はすでに出ています。敵がそれを読んでいないはずがありません。街道は抑えられていると見た方がいいでしょう」
「では……どこへ行くんですか」
新の声はまだ弱かった。
フィオナは少しだけ北東の空を見た。
そして言った。
「デュラハル王国へ向かいます」
カンナが顔を上げる。
「デュラハル……竜人族の国ですか」
「ええ」
フィオナは静かに頷いた。
「あそこは山間部にある国です。道は険しいですが、私は一度だけ行ったことがあります。比較的通りやすい道も、身を隠せそうな街の位置も、おおよそは把握しています」
カンナは眉を寄せた。
「だから、アースガルよりは動きやすい……ということですか」
「少なくとも、何も知らない土地へ逃げ込むよりはましです」
フィオナの声は淡々としていた。
「それに、デュラハルは不気味なほどに反乱が起きていない。人族との戦争でも、早々に降伏したと聞いています」
カンナの表情が曇る。
「反乱が起きていないなら……味方を作るのは難しいんじゃありませんか」
「その通りです」
フィオナは否定しなかった。
「だからこそ、表に出ていない理由を探る必要があります。本当に反乱の芽すらないのか。それとも、誰かに押さえ込まれているだけなのか」
カンナは口をつぐんだ。
フィオナは続ける。
「前回、竜人族の者がセレーヌに会いに来ていました。獣人国の反乱勢力からの使者だったようですが、結局、会えずに終わったようです」
「つまり……表には出ていないだけで、デュラハルの中にも、もしかしたら、協力者がいるかもしれない、ということですか」
カンナが言うと、フィオナは頷いた。
「可能性はあります。竜人族の戦士を味方につけられれば、こちらにとって大きい。まずは潜伏しながら、協力者を探します」
フィオナは淡々と話していた。
感情を押し殺しているのがわかった。
王宮に残してきた警護隊のこと。自分たちを逃がすために傷つき、残った者たちのこと。そのすべてを考えていないはずがなかった。
それでも、今ここで感情に流されてはいけない。
フィオナは、それを誰より理解している。
「その上で協力者が見つかれば、共闘してデュラハルを治めている騎士を倒したい」
「騎士……ですか」
「その騎士は、新参者だと聞いています」
フィオナの声が少し低くなる。
「だからこそ、不気味です。なぜその者がデュラハルを治めているのか。なぜ反乱が起きていないのか。何か理由があるはずです」
新は返事ができなかった。
正しいと思った。
今、最も冷静に状況を見ているのはフィオナだ。自分はただ、後悔に沈んでいるだけだ。
フィオナはカンナを見た。
「時間はありません。けれど、デュラハルで何もできそうにないなら、しばらく潜伏したのち、別の道からアースガルへ向かう。それが現実的です」
カンナはまだ俯いていた。その顔には暗い影が落ちている。
フィオナは彼女の前に歩み寄った。
「カンナ」
名前を呼ばれ、カンナはゆっくり顔を上げる。
フィオナはカンナの前まで歩み寄ると、静かに膝をついた。
「皆が、お前をここまで連れてきた」
その言葉に、カンナの唇が震えた。
「背負え、と言っているのではない」
フィオナはカンナを責めることなく、まっすぐに見据えた。
「忘れてはいけない。ここまで来るために、多くの者が傷つき、残り、命を懸けて道を開いた。お前は、その想いに応えなければならない」
カンナは何も言えなかった。
「私は、お前の前に立ちはだかる何者をも打ち倒す」
フィオナの声に、迷いはない。
「そして、守り抜いてみせる」
カンナは目を閉じた。
しばらく何も言わなかった。
朝の光が、廃村の壊れた屋根を照らす。冷たい風が、三人の間を抜けていく。
やがて、カンナは静かに息を吸った。
そして、顔を上げる。
その瞳には、まだ悲しみが残っていた。迷いも、恐怖も、消えてはいない。
それでも、彼女は前を見た。
「……そうね」
カンナは小さく頷いた。
「立ち止まっている時間は、ないものね」
そして、新へ視線を向ける。
「アラタ」
名前を呼ばれ、新は息を止めた。
カンナは無理に笑おうとはしなかった。ただ、真っ直ぐに見ていた。
「一緒に来て」
新は答えられなかった。
気持ちの整理など、ついていない。シルヴァンを置いてきた罪悪感も、エティエンヌへの恐怖も、無様に生き残った自分への嫌悪も、何ひとつ消えていなかった。
けれど、進むしかない。
ここで立ち止まっても、何も戻らない。シルヴァンが作った道を、無駄にしてはいけないと自分に言い聞かせた。
新は歯を食いしばり、戻ったばかりの脚に力を込めた。
立ちあがろうとした新の身体が大きく傾いた。脚は戻っている。だが、身体はまだ、脚を失った時の感覚を覚えていた。
カンナが思わず手を伸ばす。だが、新は片手でそれを制した。
「……行きます」
掠れた声で言った。
「俺も、行きます」
カンナが小さく頷く。
フィオナは一度だけ廃村の外、彼らが来た森の方角を見た。
そこにやはり、シルヴァンの姿はない。ただ、朝の光に染まり始めた道が続いているだけだった。
それでも三人は、振り返り続けるわけにはいかなかった。
ラズが静かに鼻を鳴らす。
まるで、先を急げと言うように。
新は拳を握った。
新はもう一度ラズの背に身体を預けた。今度は括りつけられるのではなく、自分の手で鞍を掴み、どうにか身体を支える。
カンナはそれを見届けると、フィオナとともに廃屋の脇へ向かった。そこには、二人がここまで乗ってきた馬が繋がれている。
フィオナが手綱を取り、先に鞍へ上がった。カンナはその前に乗り、振り落とされないように鞍を掴む。
朝日が廃村の道を照らしていた。
彼らの影は長く伸び、壊れた家々の間を越えていく。
失ったものを背負ったまま、残された者たちは次の国へ向かう。
竜人族の国、デュラハル王国へ。
まだ見ぬ協力者を探すために。
そして、いつか必ず、置いてきた者たちの想いに応えるために。
新は顔を上げた。
涙は乾いていなかった。
けれど、その目は前を向いていた。




