表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章 ユグドライン王国編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/35

31.追いついた背中

 その奥で、草を踏む音がした。


 シルヴァンは剣を握り直した。


 息を吸うだけで、脇腹の傷が内側から裂ける。太腿には力が入らない。肩から流れた血は腕を伝い、柄を握る手の中まで入り込んでいた。


 それでも、剣は下げなかった。


 森道の奥から、深緑の外套をまとった兵たちが現れる。一人ではない。二人、三人。木陰から次々と出てくる。さらにその後ろにも、同じ色の外套が並んでいた。月明かりの届かない枝の下で、深緑の影が森道をふさいでいく。リュカの私兵だ。


 剣を持つ者。槍を持つ者。弓を背負う者。中には、深くフードを被って顔を隠している者もいた。


 先頭に立った樹人族の兵が、一歩前へ出た。


 剣を構えたまま、丁寧に頭を下げる。


「そこを通していただけますか」


 声だけ聞けば、道を尋ねているようだった。


 だが、剣先は真っ直ぐシルヴァンへ向いている。


 シルヴァンは鼻で笑った。


「おいおい。傷だらけの俺に剣向けてくるなんて、人の心がねぇのかよ、お前ら」


 兵たちは答えない。剣先も下がらない。


 シルヴァンは肩をすくめようとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。


「……通さねえよ」


 刃こぼれだらけの実用剣を持ち上げる。エティエンヌの首を落とした時の血が、まだ刃にこびりついていた。


「手加減する余裕はねぇ。命知らずだけかかってこい」


 先頭の兵の表情が、わずかに硬くなった。


 次の瞬間、深緑の外套が一斉に動いた。


 正面から三人。左から二人。右の木陰から槍が回り込む。


 シルヴァンは正面の剣を受けなかった。


 少しずれて、最初の一撃を受け流す。踏み込んできた兵の喉へ刃を返した。血が噴き、兵の身体が崩れる。その横から別の兵が剣を振った。


 シルヴァンは踏み込み、相手の胸元へ刃を突き込む。骨に当たる鈍い感触が手に残った。引き抜くと同時に、右から槍の穂先が伸びる。


 身を沈め、槍の柄を脇に挟み込むようにして止めた。


 脇腹に熱い痛みが走り、息が喉で詰まる。


 それでも槍を引き寄せた。持ち主の体勢が崩れる。シルヴァンは柄頭を顔面に叩き込んだ。骨の折れる音がして、兵が仰向けに倒れる。


 背後から剣が迫った。


 シルヴァンは守護壁を出そうとした。いつもなら、背中に薄い壁が生まれるはずだった。


 何も出なかった。


「っ……!」


 刃が肩甲骨の下を裂いた。背中に熱が広がる。シルヴァンは振り向きざまに剣を払った。相手の首筋を裂き、その身体を横から踏み込んできた兵へ蹴り飛ばす。


 守護壁が出ない。


 エティエンヌとの戦いで使いすぎた。魔力はもう底をついている。


 それでも、ここは通せなかった。


「通せねぇな……」


 シルヴァンは、血で滑る柄を握り直した。


 次の兵が斬りかかってくる。受け、流し、払い、突き返す。一人目の剣を弾き、二人目の喉を裂き、三人目の腹へ剣を叩き込む。右足に力を入れた瞬間、太腿の傷が開いた。


 足が一瞬遅れる。


 その遅れを、敵は見逃さなかった。


 横から飛び込んできたフードの兵が、短剣を突き出す。シルヴァンは剣を返して弾いた。


 金属音が鳴る。


 次の瞬間、手の中の剣が砕けた。


 限界だった。刃こぼれだらけの剣は、短剣を弾いた衝撃に耐えきれず、半ばから折れて土の上へ落ちた。


「おっと」


 フードの兵が踏み込んでくる。


 シルヴァンは折れた剣をその顔へ投げつけた。相手が身をそらす。その隙に、左から伸びてきた槍の柄を掴んだ。


 持ち主が引こうとする。


 シルヴァンは逆に踏み込んだ。肩からぶつかるように距離を詰め、槍を奪い取る。脇腹の傷が開き、熱いものが腰へ落ちた。


 構わず、奪った槍を横薙ぎに振る。


 一人の顎を砕き、もう一人の首を打ち抜く。返す動きで穂先を突き出し、正面の兵の胸を貫いた。


「剣がなくても、まだやれんだよ」


 吐き捨てた声は、自分でもひどくかすれていた。


 兵たちは下がらない。


 倒れた者の後ろから、また別の兵が出てくる。深緑の外套が、森道を埋めていく。


 シルヴァンは槍を構えた。


 足元には、倒れた兵と、エティエンヌの血が混じっている。森道の土は黒く濡れ、踏み込むたびに靴底が重くなった。


 槍を持ったことで間合いは広がったが、まともには扱えない。肩も脇腹も、力を込めれば傷が広がる。太腿は踏ん張るたびに震え、少し気を抜けば膝が落ちそうになる。


 それでも、シルヴァンは前へ出た。


 穂先で牽制し、近づいた者の喉を突く。引き戻す余裕がない時は、柄を短く持って顔面を殴った。背後へ回り込まれれば、腰をひねり、槍の柄尻を相手の胸へ突き込む。


 守護壁を背中に迫る刃を逸らすために、足元に足場を作るために、一瞬だけ敵の動きを止めるために、何度か出そうとした。だが、そのたびに胸の奥が空振りするような感覚だけが残った。薄い光すら生まれない。


 後ろから短剣が刺さった。


「ぐっ……!」


 左の背中に、鋭い痛みが入る。


 シルヴァンは振り返らず、槍の石突きを後ろへ突き出した。手応えがあった。呻き声が落ち、刺さっていた短剣が背中から抜ける。


 血が流れ出す。


 足が揺れた。


 それでも、膝はつかなかった。


「しつけぇんだよ……」


 シルヴァンは槍を回し、前へ出てきた兵の喉元へ穂先を突き込んだ。


 また一人倒れる。


 倒した数は、もう数えていなかった。ただ、立ちはだかる者を止め続けた。


「来いよ!」


 喉が焼ける。血の味が口に広がる。それでも、シルヴァンは叫んだ。


「……俺の後ろへ行けると思うな」


 深緑の外套がまた動く。


 シルヴァンは踏み込んだ。槍の穂先で一人の胸を突き、抜けないと見るや柄を押し込む。相手の身体ごと前へ倒し、その背中を踏んで次の兵へ飛びかかった。


 足がもつれた。


 膝が沈みかける。


 それでも倒れなかった。倒れれば、あいつらが追いつかれる。


「誰が……通すかよ……!」


 シルヴァンは近づいた兵の腕を掴んだ。剣を振り下ろされるより先に、相手の喉元へ頭突きを入れる。額に衝撃が走り、視界が白く弾けた。


 それでも、手は離さなかった。


 奪った短剣を相手の脇腹へ突き込む。兵が崩れる。


 その影から、別のフードの兵が飛び込んできた。シルヴァンは太腿を裂かれながらも、倒れる勢いで相手を押し倒し、短剣を胸へ突き下ろした。


 フードが外れ、顔があらわになる。樹人族ではない。人族だった。


「……さっきと同じかよ」


 セレーヌの私兵の中にも、人族兵が混じっていた。セレーヌとリュカが、人族とつながっている。


「本当に、どうしようもねぇな……」


 横から別のフードの兵が斬りかかってくる。


 シルヴァンは短剣を振った。刃が相手の胸を裂き、血が飛んで視界の端を赤く染める。


 敵兵の数は、ようやく減り始めていた。


 だが、それは倒れた者が増えすぎて、森道が詰まり始めていたからだ。


 深緑の外套も、フードの兵も、倒れた身体を踏み越えて近づいてくる。シルヴァンは奪った短剣を握ったまま、かろうじて立っていた。


 呼吸は荒く、口の中には血の味がする。脇腹から流れた血は腰まで濡らし、背中の傷は息をするたびに開いた。太腿はもう、自分の足ではないみたいに重い。肩は下がり、片腕はほとんど上がらない。


 それでも、目だけは前を向いていた。


 血と泥にまみれ、折れた剣や倒れた兵の間に立つシルヴァンは、幽鬼のような姿になっていた。


 兵たちの足が止まる。


 誰かが息を呑んだ。別の兵が半歩下がる。目の前の男に近づくために、前へ出ることに怯えていた。


 その時、兵たちの後ろで足音が鳴った。


 深緑の外套をまとった私兵たちが、左右へ分かれる。


 森道の奥から、一人の男が現れた。整えられた服と乱れていない髪。


 王宮の評議会で見せていたのと同じ、穏やかな顔。


 リュカ・アルノー。


 評議会の枢機卿の一人。昔から、やわらかく笑って人の間に立つ男だった。荒事を嫌い、剣よりも言葉を選び、血の匂いがする場所には近づかない。


 シルヴァンは、血に濡れた短剣を握ったまま、目を細めた。


「……よう」


 リュカは足元の死体を一瞥した。その視線には、怒りも驚きもない。血に濡れた道を前にしても、目の端すら揺れなかった。


「ずいぶん粘ったな、シルヴァン」


「おかげさまでな」


「もう限界だろ」


「そう見えるか?」


「ああ。立ってるのが不思議なくらいだ」


「じゃあ、近づいて確かめてみろよ」


「お言葉に甘えて、そうさせてもらおうか」


 シルヴァンは、思わず目を見開いた。


 リュカは周囲の兵へ視線を向けた。


「下がれ」


 兵たちが戸惑う。


 リュカは穏やかな顔のまま、声だけを少し冷たくした。


「聞こえなかったか。下がれと言ったんだ。誰も近づけるなよ。私が指示するまで手を出すな」


 兵たちは互いに顔を見合わせたが、やがて倒れた仲間の身体を避けながら下がっていった。何人かは、シルヴァンから目を離せないまま後退する。怯えが残っているのが分かった。


 リュカは一人で近づいてくる。


 血と泥を踏みながら、それでも顔色は変わらない。靴の先が赤黒く汚れても、気にした様子はなかった。


 シルヴァンは口の端を上げた。


「リュカ様が、こんな森の奥までお出ましか。ずいぶん勇敢になったじゃねぇか」


「その必要があったんだよ」


「必要があっても、お前なら来ねぇだろ」


 リュカの眉が、ほんの少しだけ動いた。


「ひどい言い方だな」


「昔のこと忘れたのかよ。候補兵の訓練場で、鼻血出した奴を見ただけで青ざめてたくせに」


「そんな昔の話を、よく覚えてるな」


「他人の失態は、忘れねぇ方なんだよ」


 シルヴァンは、足元に倒れた兵たちを顎で示した。


「今は平気なのか。血も、死体も」


 リュカは答えなかった。


 ただ、いつものように柔らかく笑っている。その笑みは、怯えを隠す笑みではない。


 シルヴァンの胸の奥に、嫌なものが残った。


「で、何しに来た。まさかただの見物じゃねぇだろ」


「回収しに来たんだよ」


「何をだ」


「お前が守護者に渡したものだよ」


 シルヴァンは、血に濡れた口元をわずかに歪めた。


「……兄貴の剣か」


 リュカは答えなかった。


 否定も、肯定もしない。ただ、穏やかな笑みだけを浮かべている。


「そりゃ残念だったな」


「残念?」


「あれはもう、ここにはねぇ」


 シルヴァンは、かすれた声で笑った。


「とっくに行ったよ。俺の手が届かねぇところまでな」


 リュカの目が、ほんのわずかに細くなる。


「そうか」


「取り返したいなら、追えばいい」


 シルヴァンは短剣を握り直した。


「もっとも、俺の後ろへ行けるならな」


「本当に厄介なやつだ」


 リュカは静かに言った。


「兄弟そろって、踏み込まなくていい所へ踏み込む」


 シルヴァンの眉が動いた。


「……何で今、兄貴の話をする」


 その言葉だけで、胸の奥に残っていた古い傷が開いた。


 リュカは、変わらない笑みのまま一歩近づく。


「あの男もそうだった。見逃せばいいものを、わざわざ見にきた」


 シルヴァンは短剣を握る手に力を込めた。


「兄貴が消えた理由を、知ってるのか」


「知っているとも」


 リュカは穏やかに答えた。


「私が消したんだから」


 シルヴァンの中で、何かが音を立てて切れた。


「てめぇ……!」


 叫んだ瞬間、喉の奥に血が絡んだ。


 それでも踏み込もうとした。


 だが、足が動かない。太腿の傷が力を奪い、背中の刺し傷が呼吸を止める。脇腹から流れる血で、身体の芯が冷えていた。


 リュカは、倒れた兵の血を避けもせずに近づいてくる。


「お前の兄貴は、俺に会いに来た」


 声は低かった。


「あの事件について、聞きたいことがあると言ってね」


 人が痕跡なく消えていた、あの事件。兄が巡回班長として追いかけていた。


 シルヴァンの喉が、ひゅっと鳴った。


「兄貴は……お前が、あの事件に関わってるんじゃないかって気づいてたのか」


「ああ。話を聞けば分かるはずだとでも思ったんだろう。証拠を掴む前に、まず本人に確かめに来た。真面目な男だったよ」


 ゆっくりと、リュカの剣が抜かれる。


「だから、消してやった」


 森道の音が、一瞬遠くなった。


 風に擦れる葉の音も、兵たちの息遣いも、血が土に落ちる音も、薄く離れていく。


 シルヴァンは、リュカの顔を見た。


 評議会で見た、穏やかな男の顔。


 昔から知っている、血を見るだけで顔を青くしていた男。だが、今目の前にいる男は違う。


 倒れた兵を見ても、エティエンヌの死体を見ても、何も動かない。血に濡れた道を歩いても、眉ひとつ寄せない。


 それだけではない。


 兄が追っていた事件に、リュカ本人が深く関わるはずがなかった。あの男は、危ない橋を渡らない。自分の手が汚れる場所には近づかない。人が消えるような事件に名を残す危険など、リュカなら絶対に選ばない。


 臆病者だからだ。


 シルヴァンは、低く笑った。


「……そうかよ」


「何だ?」


「やっと分かった」


 シルヴァンは、血の混じった息を吐いた。


「誰だ、お前」


 リュカは笑った。


「何を言うかと思えば。俺はリュカ・アルノーだ」


「違うな」


 シルヴァンは即座に返した。


「リュカは、こんな場所に来ねぇ。血の匂いがするだけで嫌な顔をして、死体なんか見たら目を逸らす。あいつは臆病で、荒事が嫌いで、自分の手で誰かを殺す覚悟なんか持てねぇ奴だ」


 リュカの笑みが、少しだけ薄くなった。


「ひどい評価ですね」


 口調が変わった。


 声は同じだった。だが、そこにある冷たさは違っていた。


 シルヴァンは口の端を歪めた。


「けどな、あいつは一度受けた恩を忘れるような奴じゃねぇ」


 リュカの目が、わずかに細まる。


「臆病で、情けなくて、肝心な時に震えるような奴だったよ。けど、平気で誰かを裏切れるような人間じゃなかった」


 シルヴァンは、血に濡れた短剣を握り直した。


「兄貴にも、俺にも、あいつは借りがあった。それを笑って踏みにじれるほど、器用な奴じゃねぇんだよ」


 低く、息を吐く。


 シルヴァンは目の前の男を睨み上げた。


「てめぇは誰だ」 


「なるほど。本当によく見ている。さすが、あの男の弟です」


 シルヴァンは、地面に片膝をついたまま睨み上げた。


「何のために、リュカの面かぶってやがる」


「知ってどうします?」


「てめえを倒す理由が増えるだけさ」


「その身体で?」


「殺す方法はいくらでもある」


 リュカは、少しだけ笑った。


「本当に、あなたの兄上によく似ています」


 シルヴァンは短剣を支えにして立とうとした。


 立てなかった。


 膝が土をこする。視界が揺れ、倒れた兵たちと深緑の外套と、人族の顔がぼやけて混ざった。


 それでも、リュカから目は逸らさなかった。


「兄貴も、最後には気づいてたのか」


「ええ。だから死にました」


「……そうかよ」


 シルヴァンは小さく笑った。


 笑うと、胸の奥が痛んだ。


「兄貴も、ちゃんと見抜いてたんだな」


「その結果、何も残せませんでしたが」


「それでもだ」


 シルヴァンはリュカを睨んだ。


「てめぇみたいなのを見逃すより、よっぽど兄貴らしい」


 リュカの剣先が、シルヴァンの胸元へ向いた。


「では、あなたも兄上と同じように終わりましょう」


 シルヴァンは短剣を動かそうとした。指が滑る。力が入らない。


 それでも、目だけは逸らさなかった。


「残念だったな」


 リュカが足を止めた。


「何がです?」


「お前はもう、あいつらに追いつけねぇ」


 シルヴァンは、かすれた声で言った。


「殿下も、フィオナさんも、アラタも……もう行った。てめえの手が届かねぇところまでな」


 リュカは、ほんの少しだけ目を細めた。


「だから何です」


「分かんねぇか」


 シルヴァンは笑った。


「お前の目的が何かは知らねぇ。リュカの面かぶって、何を企んでるのかもな」


 血の混じった息を吐く。


 シルヴァンは、最後の力で顔を上げた。


「あいつらは、必ずお前のところまでたどり着く」


 リュカは黙って見下ろしていた。


「いつか、お前を倒す時が来るだろうな」


「ずいぶん買いかぶりますね」


「そうかもな」


 シルヴァンは、口の端を上げた。


「でも、俺がここで一人で終わるよりは、ずっと先がある」


「先、ですか」


「ああ」


 シルヴァンは、血に濡れた唇で笑った。


「誰かに託すってのは、そういうもんだ」


 リュカはしばらく黙っていた。


 そして、静かに剣を構え直した。


「もう十分です」


「そうかよ……」


 シルヴァンは、かすかに口の端を上げた。


「こっちも、十分すぎるほど時間は稼いだ」


 リュカの剣が動いた。冷たい刃が、シルヴァンの胸を貫いた。


 息が止まる。


 音が遠くなった。


 リュカが剣を引き抜く。


 シルヴァンの身体が前へ傾き、短剣が土に落ちた。膝が崩れ、視界が地面へ近づいていく。


 倒れる寸前、森道の奥が見えた。


 月明かりの届かない道の先は、もう静かだった。


 それでよかった。


 シルヴァンは、土に倒れた。


 頬に冷たい土が触れる。血の匂いが濃い。風に擦れる葉の音が、ひどく遠く聞こえた。


 胸の奥から、温かいものが抜けていく。


 ぼやけた視界の中に、いくつかの顔が浮かんだ。


 泣きそうな顔で、必ず戻れと命じた殿下。


 感情を押し殺して、それでも前へ進むことを選んだフィオナ。


 痛みに歪みながらも、森道の奥へ運ばれていった新。


 南通りの店で、呆れたように腰へ手を当てていたミレーユの顔も浮かんだ。助けた女たちの笑い声が、その後ろでかすかに重なる。


 シルヴァンは、ほとんど動かない唇で息を吐いた。


「……誰かの役には、立ててたよな。俺も……」


 声になったかどうかは分からなかった。


 その時、ふいに、遠くに人影が見えた。


 シルヴァンが何度手を伸ばしても、届かなかった背中。


 その人影が、ゆっくりと振り返る。


 兄がいた。


 昔と変わらない顔で、にこりと笑っている。


 何も言わない。ただ、こっちを見ていた。


 シルヴァンは、小さく笑った。


 ああ。


 やっと、少しは追いつけた気がした。


 森道の奥へ、風が抜ける。


 その先へ進んだ者たちの背中を追うように、葉が小さく揺れた。


 次の瞬間、シルヴァンの視界は暗く落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ