30.残った男
ラズの蹄の音が、森道の奥へ遠ざかっていく。
シルヴァンは前を向いたまま、細く息を吐いた。
森道の向こうに、暗紅色の外套をまとったエティエンヌ・ヴェルネが立っている。
剣は血に濡れていた。
口元には、いつもの薄い笑みがある。だが、その目には、先ほどまで新を見ていた時の熱がまだ残っていた。
「さっきは俺の横を素通りしていきやがって。気に入ったもん見つけると、周りが見えなくなりやがる」
「あなたは昔から、余計なことばかり覚えていますね」
「お前みたいな気色悪い奴、忘れたくても忘れられねぇよ」
エティエンヌの笑みが、ほんの少し深くなった。
「口の悪さも変わりませんね、シルヴァン」
「そっちは相変わらず薄気味悪い笑い方してんな」
シルヴァンは、土の上に残った血を視界の端で捉えた。
エティエンヌはそれを見て、笑っていた。
「アラタ殿は、実に興味深い身体でした」
シルヴァンの指に力が入る。
「いつになく楽しそうだったなぁ、お前」
「傷は塞がるのに、痛みは残る。あの反応は、実に見ものでした」
「……ほんと救いようがねぇな」
シルヴァンは剣を握り直した。
エティエンヌの視線が、シルヴァンの背中へ向く。そこにあったはずの黒い鞘の長剣は、もうない。
「兄君の剣はどうされたのです?」
「渡した」
「形見を渡して、いよいよ死ぬ準備はできたということでしょうか」
「違うな」
シルヴァンは、今手にしている剣を軽く振った。
刃こぼれがある。柄は握り慣れているが、特別な剣ではない。王宮警護隊の兵なら誰でも持っている、実用一辺倒の剣だった。
「あれは重いからな。あいつに押しつけただけさ」
「その代わりが、それですか」
「お前相手なら、これで十分だろ?」
エティエンヌの笑みが、わずかに固まった。
「言ってくれますね」
「お前に使うにはもったいねえ」
エティエンヌの剣先に、黒い影がまとわりついた。
煙のような闇が刃を這い、輪郭をぼかしていく。剣先の長さが、見ただけでは分からなくなった。
シルヴァンは舌打ちした。
「相変わらず、気味悪い魔法だな」
「あなたの守護壁よりは、使い勝手がいいと思いますが」
エティエンヌが踏み込んだ。
黒い刃が、まっすぐ喉へ伸びる。シルヴァンは受けない。剣を斜めに当て、刃を横へ流した。
二撃目を半身でかわす。
三撃目は受けるしかなかった。
シルヴァンは剣を上げ、鍔元で刃を受けた。金属音が森道に弾ける。
見えている剣先は、シルヴァンの喉元には届かない位置にあった。
だが、闇に隠れた本当の刃は、そこからさらに奥に残っていた。
踏み込めると思った瞬間、黒い影の中から剣先が伸びるように現れる。
シルヴァンは上体を引いた。
完全には逃げきれない。
剣先が肩口の服を裂き、浅く皮膚を削った。
「惜しいですね」
「当たってんだろ。欲張るなよ」
「首を落としたつもりでしたが、鈍りましたかね」
「物騒な反省してんじゃねぇよ……」
シルヴァンは距離を取った。
だが、エティエンヌは足を止めない。
闇が濃くなり、暗紅色の外套が木陰に紛れた。
正面にいたはずの姿が消える。
次の瞬間、右後ろで落ち葉が鳴った。
振り向くより先に、シルヴァンは背後へ守護壁を置く。
薄い壁に、低く走った刃が当たった。
守護壁に触れた剣は軌道をずらし、膝裏へ入るはずだった刃が、太腿の外側を浅く裂いた。
「っ……」
シルヴァンは痛みに顔をしかめながら、身体をひねって剣を振る。
エティエンヌはすでに身を引き、また木陰の奥へ下がっていった。
「厄介ですね」
「見えねぇところから斬ってくる奴に言われたくねぇよ」
シルヴァンは肩を回した。
傷は浅い。足も動く。
闇で姿を隠し、剣の長さをごまかし、見えない角度から斬ってくる。剣の腕だけなら負ける気はしない。だが、この魔法は面倒だ。
木陰の奥で、エティエンヌがゆっくりと剣を下ろした。
「アラタ殿は、よく叫んでくれましたよ」
シルヴァンは答えない。
「あれほど痛がってくれるとは思いませんでした。守護者というのは、実に興味深い」
シルヴァンの指が、剣の柄へ沈む。
「……そうか」
低く、それだけ返した。
エティエンヌの笑みが深くなる。
「怒りましたか」
「いいや」
シルヴァンは、足元に守護壁を出した。
「もう十分だ」
地面に対して斜めに置いた、透明な板のような壁。
シルヴァンはそれを蹴った。身体が横へ跳ねる。着地するより先に、空中へもう一枚、薄い守護壁を置く。右足がそこを踏んだ。
壁が淡く揺れ、シルヴァンの身体がさらに角度を変える。地面には下りない。
木々の間に生まれては消える透明な足場を蹴り、上へ、横へ、斜め後ろへと移る。
エティエンヌの目が、わずかに見開かれた。
「……曲芸師の真似事までしますか」
返事はしなかった。
シルヴァンは空中で腰の短剣を一本抜く。
そのまま、エティエンヌの喉元へ投げた。
エティエンヌは剣を返し、短剣を弾く。
金属音が鳴った。
その瞬間には、シルヴァンはもう別の守護壁を蹴っていた。
エティエンヌの剣が、短剣を弾いた位置から戻りきらない。
横へ回ったシルヴァンの刃が、エティエンヌの肩口を裂いた。
「っ……」
エティエンヌが一歩下がる。
シルヴァンはその足元へ着地し、膝を沈めて体勢を低くする。
エティエンヌの剣がその上を払う。シルヴァンの頭上を、闇をまとった刃が抜ける。
その下から、シルヴァンは剣を横に走らせた。刃が、エティエンヌの太腿の外側を切った。
エティエンヌの足が、わずかに沈む。肩と足から血が落ちた。
「これで、おあいこだな」
シルヴァンは地面に降りた。
エティエンヌは肩を押さえ、薄く笑う。
「短剣まで使って、小癪な真似を」
「使うなって決まりでもあんのか?」
シルヴァンは地面を蹴った。足元に薄い守護壁を置き、踏み台にする。蹴りつけた反動で、身体が上へ跳ねた。
エティエンヌの視線が追ってくる。
その頭上から、シルヴァンは落ちるように斬り込んだ。
エティエンヌは半歩下がって避ける。剣にまとわりついていた黒い影が刃先まで広がり、輪郭を覆い隠した。
シルヴァンは目を細め、見える柄の角度とエティエンヌの肩の動きだけを頼りに剣を合わせた。
だが、わずかにずれる。
闇の奥に隠れていた刃が、シルヴァンの脇腹を裂いた。
「っ……!」
傷は浅くなかった。腹の横を、熱いものが流れていく。
シルヴァンは守護壁を蹴って横へ逃げた。だが、エティエンヌも動きに慣れてきている。壁を出す位置も、蹴る角度も、次に飛ぶ方向も、少しずつ読まれ始めていた。
シルヴァンはもう一度、守護壁を蹴って上を取る。
エティエンヌは下がらない。剣にまとわりついた黒い影が刃先を隠し、実際の長さを分かりにくくしていた。
シルヴァンが斬り込んだ瞬間、闇に隠れていた刃が横から現れる。
身をひねったが、間に合わなかった。
刃が太腿を深く裂く。足から力が抜け、次に出した守護壁を蹴るはずの足が届かない。
シルヴァンは地面に膝をついた。
そこへ、エティエンヌの剣が上から迫る。シルヴァンは剣で受けたが、腕が痺れ、脇腹の傷が内側から熱を持った。
「覚えていますか」
エティエンヌが、剣を押し込みながら言った。
「候補兵だった頃、あなたは一度も私に勝てませんでしたね」
シルヴァンは歯を食いしばったまま、口の端だけを上げた。
「懐かしい話すんなよ」
「事実です」
「だからなんだ」
シルヴァンは、剣を押し返しながら吐き捨てるように言った。
「昔の勝ち負けを持ち出さなきゃ、自分の方が上だって確かめられねぇのか」
エティエンヌの目が、細くなる。
「今も変わりません。あなたは私に勝てない」
「そういうのはな」
シルヴァンは荒く息を吐いた。
左手の指が震えている。太腿に力が入らない。
それでも、剣は下げなかった。
「最後まで戦ってから言えや」
エティエンヌの眉が、わずかに動いた。
シルヴァンは足元に守護壁を出した。
「またですか」
「芸がなくて悪いな」
シルヴァンは壁を蹴った。
傷のない足で無理やり身体を持ち上げる。
一度目と同じ軌道で上へ跳び、空中の壁を踏み、角度を変える。
太腿が焼けるように痛んだ。脇腹から血が落ちる。指先は細かく震え、力を込めても止まらない。
エティエンヌは目で追っている。今度は対応できる。そう判断したのだろう。
シルヴァンは腰へ手を伸ばし、残っていた短剣を抜いた。
エティエンヌは鼻で笑った。
「同じ手を二度も」
シルヴァンの手から短剣が飛んだ。一度目と同じように、まっすぐエティエンヌへ向かう。
エティエンヌは剣で弾いた。
金属音が鳴る。
そのまま踏み込もうとした足が、止まった。
「なっ……」
エティエンヌの膝が崩れた。
ふくらはぎに、別の短剣が深く刺さっている。横から突き込まれた刃に足を奪われ、エティエンヌの身体が大きく傾いた。
そこへ、シルヴァンの剣が落ちる。
エティエンヌは受けようとしたが、足が利かない。踏ん張れず、剣を上げる腕の角度もわずかにずれた。
シルヴァンの刃が、その隙間を抜ける。肘の少し上から、左腕が落ちた。
エティエンヌの悲鳴が、森道に響いた。
「ぐ、あああああっ!」
左腕が土の上に転がる。
血が暗紅色の外套を濡らしていく。
エティエンヌはよろめきながら下がり、自分の足に刺さった短剣を見た。
「どこで……投げた……」
シルヴァンは肩で息をしながら答えた。
「一本だけに見えたか?」
エティエンヌの目が、森道の横へ動く。
そこには、薄く消えかけた守護壁が浮かんでいた。
「あの時、二本投げたんだよ。一本はお前に。もう一本は、あの壁に」
斜めに置かれた透明な板に当たった短剣が跳ね返り、エティエンヌの足を横から貫いていた。
左腕を失い、足もまともに動かせない。剣先にまとっていた闇も形を保てず、煙のように揺らいでいた。
シルヴァンも無傷ではない。
脇腹から血が流れ、太腿の傷も深い。守護壁を連続で出したせいで、次に同じことができるだけの力は残っていなかった。
「腕はねえし、足も使い物にならねえ。もう降りろ」
エティエンヌはうつむいた。
荒い息が漏れている。
やがて、低い声で答えた。
「……分かりました」
顔を上げる。口元だけが、また笑っていた。
「降伏します」
そう言いながら、エティエンヌは剣を下げなかった。
足を引きずりながら、一歩近づいてくる。右手はまだ、剣の柄を握ったままだった。
シルヴァンはため息をついた。
「降伏する奴の態度じゃねぇよ……」
剣を構え直す。
「来い」
エティエンヌの顔から、取り繕った笑みが消えた。
「死ね」
短く吐き捨て、エティエンヌが踏み込んできた。
闇はもうまとえない。シルヴァンにも、守護壁を出す余力は残っていなかった。
エティエンヌの踏み込みは浅い。だが、剣に込められた殺意だけはまだ鋭かった。
シルヴァンは半歩だけ軸をずらす。
刃が顔をかすめた。
構わず踏み込む。
刃こぼれした剣が、下から跳ね上がった。
エティエンヌは受けようとしたが、片腕では間に合わない。
シルヴァンの剣が、エティエンヌの首を捉えた。
暗紅色の外套が崩れ落ち、頭部が土の上を転がった。
シルヴァンは剣を下げた。
肩からも、脇腹からも、太腿からも血が流れている。息を吸うたび、脇腹の傷が内側から裂けるように痛んだ。
シルヴァンは剣についた血を振り払い、荒く息を吐いた。
「……格好つけたのに、生き残っちまったな」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。
笑う余裕はなかった。
森道には、血の匂いと、風に擦れる葉の音だけが残っている。
その奥で、草を踏む音がした。




