29.託すもの
エティエンヌは馬上から、新を見下ろしていた。
暗紅色の外套が夜風に揺れている。周囲には同じ外套をまとった私兵が二人、距離を取るようにして馬を止めていた。誰もすぐには動かない。エティエンヌが片手を上げているからだ。
新は剣を握ったまま、息を詰めた。
逃げる馬はいない。
フィオナもカンナも、もう見えない。
森道の奥に、蹄の音だけが遠ざかっていく。
エティエンヌはその音を聞いているのかいないのか、穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと馬から降りた。
「申し遅れました」
丁寧な所作だった。
まるで、王宮の廊下で客人を迎える時のように、エティエンヌは片手を胸に当てる。
「セレーヌ猊下直属私兵長、エティエンヌ・ヴェルネと申します」
新は答えられなかった。
剣を構えた腕が、少しずつ重くなっていく。
落馬した時に打った肩も、胸も、まだ痛い。息を吸うたび、肋骨の奥がきしむ。足元もふらついている。
それでも、剣だけは下ろせなかった。
「評議会では驚きましたよ」
エティエンヌは一歩、近づいた。
「まさか、貴方が守護者様だったとは」
守護者。その言葉を口にしたエティエンヌは、恍惚そうな顔をしていた。
エティエンヌの目は笑っていない。けれど、楽しそうだった。丁寧な笑みの奥で、何かが待ちきれないように揺れている。
「貴方たちが東側へ逃げたことは分かっていました。あの混乱の中で殿下を外へ出すなら、正門や大廊下は使えない。ならば、王宮の東側から抜けようとするだろうと、察しはつきます」
新は息を呑んだ。最初から、逃げ道を読まれていた。
「もちろん、カンナ殿下を連れ戻すのが命令です。けれど……」
エティエンヌの視線が、新の身体を上から下までなぞった。ぞわりと、背筋が冷えた。
「私はね、貴方の身体に興味が湧いたのです」
「……何を」
「評議会で見た印。あの反応。傷を負っても戻るという守護者の身体」
エティエンヌは腰の剣に手をかけた。
金属が鞘を滑る音が、森道に細く響く。
「少し、試させてもらいます」
次の瞬間だった。
エティエンヌの姿が近づいた。
速い。
そう思った時には、もう遅かった。
新は剣を上げようとした。けれど、腕が動ききる前に、左腕に熱い線が走った。
「あ――」
遅れて、痛みが来た。
腕の皮膚が裂け、血が噴き出す。
新は歯を食いしばろうとした。けれど、できなかった。痛みが鋭すぎて、息が喉で引っかかる。
「が、ああっ……!」
剣を落としそうになる。
新は左腕を押さえた。血が指の間から溢れる。傷口が開いている。肉が裂けている。見た瞬間、吐き気が込み上げた。
傷口の奥で何かが蠢くような感覚があり、裂けた肉がじわじわと寄っていく。血が止まり、皮膚が塞がっていく。
痛みは消えない。だが、傷はもう閉じかけていた。
エティエンヌの目が、見開かれた。
次の瞬間、彼は笑った。
最初は小さく。
喉の奥で、押し殺すように。
だが、すぐに抑えきれなくなったように、肩を震わせて笑い始めた。
「は、はは……」
その笑いは、王宮で見た丁寧な笑みとはまるで違っていた。
「はははははっ!」
森の中に、エティエンヌの笑い声が響いた。
二人の私兵が顔を見合わせる。
エティエンヌはそんな部下たちの方へ振り返り、血のついた剣を掲げた。
「見ましたか」
声が弾んでいた。
「今のを見ましたか。斬ったのですよ。確かに斬りました。なのに、もう塞がっている」
エティエンヌの呼吸が、少し荒くなっている。
「素晴らしい」
新は左腕を押さえたまま、後ずさった。
背中に冷たい汗が流れる。
「この身体は、素晴らしい」
「兵長」
部下の一人が、硬い声で呼んだ。
「カンナ殿下を追わねばなりません。ここで時間を使うのは――」
言葉は、最後まで続かなかった。
エティエンヌの剣が、何気ない動きで横に走った。
部下の首筋から血が噴いた。男は何が起きたのか分からない顔のまま、馬上から崩れ落ちた。
新は息を止めた。
残った私兵が、馬上で身を強張らせる。
エティエンヌは剣についた血を見下ろし、少しだけ眉を寄せた。
「今、非常に気分を害しました」
声は、また穏やかだった。
「私は話している途中だったでしょう」
「ひっ……」
もう一人の私兵が、馬を返そうとした。
逃げようとしたのだと、新にも分かった。
エティエンヌは落ちた部下の馬に括られていた弓を拾った。
弦が鳴る。
矢が夜を裂いた。
逃げようとした私兵の背中に突き立ち、男は前のめりに落馬した。
エティエンヌは弓を捨てるように地面へ落とした。
「さて」
血のついた剣を持ったまま、新へ向き直る。
「続きを始めましょうか」
新は剣を構え直した。
手が震える。
膝も震えている。
けれど、構えなければならなかった。構えなければ、すぐに斬られる。
「来るな……」
声が掠れた。
「来るなぁ!」
「動けるうちは、そうやって抵抗してください」
エティエンヌは楽しそうに言った。
「その方が、色々と分かります」
また、姿が消えた。
いや、消えたように見えたのか、新の目が追いつかないだけだった。
肩を裂かれたと思った次の瞬間には、脇腹に熱が走った。右腕、太腿。痛みが追いつく前に、別の場所が斬られていく。
新は叫んだ。
剣を振ろうとしても、エティエンヌはそこにいない。避けようとしても、身体が遅れる。シルヴァンに教えられたことが頭をかすめるが、痛みが来るたびにばらばらに砕けた。
斬られた傷が熱を持ち、勝手に塞がっていく。だが、痛みが消える前にまた斬られる。どこが治って、どこが新しく傷ついたのか分からなくなる。
傷が閉じていく感覚が、気持ち悪い。裂けた肉が勝手に寄り、血が止まり、皮膚が戻る。そのたびに、身体の奥から熱が湧いて、痛みだけが残る。
「っ、あ、ああああっ!」
新は膝をついた。
だが、すぐに髪を掴まれ、顔を上げさせられる。
エティエンヌが覗き込んでいた。
「弱い」
エティエンヌが囁いた。
「本当に弱いですね。剣も遅いし、足も動かない。反応も鈍い」
新は荒く息をした。
「それなのに、何度痛めつけても壊れない」
エティエンヌの口元が歪む。
「後で拷問のしがいがありそうですね」
エティエンヌはそう言うと、掴んでいた髪を乱暴に引いた。
視界が揺れ、新の身体が地面へ投げ出される。肩から土に落ちた衝撃で、息が詰まった。
痛みが終わらない。
傷は塞がっていく。けれど、斬られた痛みまで消えるわけではなかった。次にまた刃が来ると分かっているのに、逃げることもできない。身体が治るせいで、痛みだけが何度も積み重なっていく。
新は地面に手をつき、土を掴んだ。指先に砂利が食い込む。
もう嫌だ。
帰りたい。
そう思った瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
カンナは逃げられただろうか。
フィオナは、ちゃんと殿下を連れて行けただろうか。
シルヴァンは。
そこまで考えたところで、また痛みが頭の中を塗り潰した。
分からない。
何も考えられない。
ただ、これ以上斬られたくなかった。
「さあ、次はどこにしましょうか」
エティエンヌが剣を上げる。
新の視界が揺れた。
体が勝手に動いた。
握っていた剣を、ただ思い切り振った。
型も、狙いもない。
ただ、近づいてくるものを押し返したかった。
その瞬間、新の身体の奥で何かが外れた。
背中が焼けるように熱くなる。
腕の骨が軋んだ。肩が裂けるように痛む。踏み込んだ脚に、嫌な音が響いた。
それでも剣は振り抜かれた。
エティエンヌの顔色が変わる。
彼は咄嗟に後ろへ跳んだ。
直後、風が爆ぜた。
剣が触れていない場所で、空気が裂けた。
エティエンヌの背後にあった木々が、まとめて斜めに切れた。太い幹がずれ、遅れて、轟音とともに倒れていく。
木々が倒れ、土煙と折れた枝が森道に広がった。
新は剣を振り抜いた姿勢のまま、息を止めていた。
何が起きたのか理解する前に、全身へ激痛が走った。
「が、ああああああっ!」
腕の奥が焼けるように熱く、肩から背中にかけて何かが裂けた。踏み込んだ脚にも力が入らず、膝から下の感覚が遠のいていく。
新は地面に崩れ落ちた。
剣が手から離れかける。けれど、指だけは柄に引っかかったままだった。
エティエンヌは数歩離れた場所で、唇を開いたまま固まっていた。
暗紅色の外套の端が裂れている。
頬にも浅い傷が走っていた。
血が一筋、顎へ落ちる。
「……今のは」
エティエンヌの声が低くなる。
エティエンヌの顔から、さっきまでの余裕が消えていた。
頬を伝う血を指で拭い、その赤を見た瞬間、目が細くなる。
「道具のくせに」
丁寧な響きが消えた。
「そんな芸当までできるのか」
新は答えられなかった。痛みで声にならない。息を吸うだけで、全身が悲鳴を上げる。
エティエンヌが近づいてくる。
新は剣を動かそうとした。
動かない。
腕が言うことを聞かない。
「なるほど。ですが、一度きりですか」
エティエンヌは新の足元に立った。
見下ろす目から、さっきまでの楽しげな熱が少し消えていた。代わりに、冷たい苛立ちがある。
「膝から下を落としてしまえば問題ありませんね」
新は何を言われたのか、一瞬分からなかった。
剣が振り下ろされる。
刃が、左脚の膝下を断った。
一瞬、何をされたのか分からなかった。左脚から力が抜け、身体が地面に沈む。何かが土の上に落ちる音だけが、妙にはっきり耳に残った。
遅れて、痛みが来た。
新は口を開けた。叫んだつもりだった。けれど声にはならず、喉の奥から潰れた息だけが漏れた。
エティエンヌは続けて剣を振った。
右脚にも同じ衝撃が走る。新は地面に爪を立てた。土を掻き、指先に砂利が食い込み、爪が剥がれそうになる。それでも痛みを逃す場所はどこにもなかった。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
それだけで頭の中が埋まっていく。
エティエンヌの声が聞こえた。
「これで少しは回復に時間がかかるでしょう」
新は自分の足を見られなかった。
見たら、何かが壊れる。
それでも、背中の熱が動いているのが分かる。失われた場所を、身体が必死に戻そうとしている。だが、大きすぎる。痛みが深すぎる。さっきまでの切り傷とは違う。
エティエンヌが、剣を下ろしたまま近づいてくる。
新は逃げようとした。けれど、腕にも足にも力が入らない。地面を掻いた指先だけが、土を削った。
エティエンヌが身を屈め、新の腕を掴もうとした。
その時だった。
森の奥から、荒い蹄の音が迫ってきた。
エティエンヌが顔を上げる。
黒い馬が、闇の中から飛び出した。鼻息を荒くし、土を蹴り上げながら、エティエンヌへ一直線に突っ込んでくる。
エティエンヌは舌打ちし、身を引いた。
その瞬間、馬の背から人影が跳んだ。
金属音が弾けた。
エティエンヌの剣が弾かれ、その身体が横へ押し戻される。
新は土の上から、顔だけを動かした。
銀色の髪と、血で汚れた青い外套が見えた。
荒い息を吐きながら、シルヴァンが新とエティエンヌの間に立っていた。
「……シル、兄」
声になったのか、自分でも分からなかった。
シルヴァンは振り返らない。
「大丈夫か、新」
新は答えようとした。
喉がひゅう、と鳴るだけだった。
シルヴァンは一瞬だけ横目で新を見た。
その顔には、笑みがあった。
無理に作った、いつもの笑みだった。
「約束通り、ちゃんと戻ってきてやったぜ。早かっただろ」
新は息を吸った。
痛みの間から、どうにか言葉を押し出す。
「……遅い、ですよ」
「言うじゃねぇか」
シルヴァンが小さく笑った。
エティエンヌが剣を構え直す。
「シルヴァンか……」
声には、はっきりと苛立ちが滲んでいた。
「邪魔しやがって」
新はその声に、かすかに違和感を覚えた。
さっきまでの丁寧さが消えている。
王宮で見た穏やかな私兵長の顔ではなかった。
シルヴァンもそれに気づいているのか、剣先を下げないまま、口の端を上げた。
「いつもの薄気味悪い笑みはどこいったんだよ、エティエンヌ」
「黙れ」
「うちの弟分に、ずいぶん好き勝手してくれたみてぇじゃねぇか」
エティエンヌの目が細くなる。
「どきなさい。私はその身体に用がある」
「悪いな」
シルヴァンは短く返した。
「こいつは持ち帰り不可だ、拷問好きのイカれ野郎」
その言葉と同時に、エティエンヌが踏み込んだ。
シルヴァンは剣を合わせた。
金属音が響く。
二人の刃が噛み合い、火花が散った。
シルヴァンは押し返さなかった。刃を斜めに滑らせ、力を横へ逃がす。
次の瞬間、新とシルヴァン、そして少し離れた位置にいた黒い馬を囲うように、淡い光が薄く走った。
壁だった。
透明な膜のようなものが、森道に張られる。
エティエンヌがすぐに斬り込んだ。
刃が壁に触れた瞬間、鈍い音がして、衝撃が横へ流れた。真正面で受け止めるのではなく、滑らせるように逸らしている。地面の土が削れ、細い亀裂が走った。
「小賢しい真似を」
エティエンヌが吐き捨てる。
シルヴァンは振り返らないまま言った。
「新、聞け」
エティエンヌを見たまま、シルヴァンは続ける。
「セレーヌとリュカは、人族と繋がってるみてぇだ」
新は痛みで霞む頭を、必死に動かした。
「……人、族」
「ああ。倒したやつに人族が混じってやがった。外にいる追手も、王宮の中で動いてた連中だけじゃねぇ」
シルヴァンは低く息を吐いた。
「逃げ道を読まれてたのも、そのせいだ。あいつら、最初から外に兵を置いてやがった」
エティエンヌの剣が、また壁を叩いた。
壁が軋む。
シルヴァンは短く舌打ちし、口笛を吹いた。
近くにいた一頭の黒い馬が、シルヴァンのそばへ寄ってきた。
夜の中でも分かるほど艶のある黒毛。鼻息を荒くしながらも、シルヴァンの近くでぴたりと止まる。
「ラズ」
シルヴァンが呼ぶと、馬は短く鼻を鳴らした。
シルヴァンは新のそばへ膝をついた。
新は震える手で、彼の袖を掴もうとした。
「なに、してるんですか……」
「静かにしてろ」
シルヴァンは素早く新の状態を見た。
一瞬、目が揺れる。
足元を見て、奥歯を噛む音がした。
だが、何も言わなかった。
鞍に括られていた革紐を解き、新の身体を抱え上げる。
その動きだけで、痛みが爆ぜた。
「っ、あああっ!」
「悪い。痛ぇのは我慢しろ」
シルヴァンは短く答え、新をラズの鞍へ乗せた。
乗せるというより、体を預けさせるように、馬の首へ伏せさせる。新の身体はまともに支えられない。腕も、膝から下を失った両足も、痛みと熱でぐちゃぐちゃだった。
シルヴァンは革紐で、新の胴と鞍を結び始めた。
壁の外で、エティエンヌが何度も剣を振るう。
そのたびに薄い壁が震え、衝撃が地面へ逃げていく。土が跳ね、細い光が何本も散った。
長くはもたない。
新にも、それは分かった。
「シル兄……なに、してるんですか」
新はもう一度聞いた。
シルヴァンは答えなかった。
壁の向こうで、エティエンヌが顔を歪める。
「逃がすと思うか!」
シルヴァンは顔を上げず、ただ手を動かした。
革紐を締める。
新の身体が鞍に固定されていく。
その一瞬で、シルヴァンは鞍の横に括られていた黒い鞘を外した。
長い剣だった。
新がこれまで使っていた剣より、明らかに大きい。人の背丈ほどではないが、新の身長より少し短いくらいはある。重そうな鞘に、古い傷がいくつも残っていた。
シルヴァンはそれを、新の身体に沿わせるように鞍へ固定した。
「俺の兄貴の剣だ」
声だけが、少し低くなった。
「お前に託す」
新は目を見開いた。
「なんで……そんなもの、どうして……!」
「落とすなよ」
「シル兄!」
「本当は誰にも渡す気はなかったんだがな……」
シルヴァンは革紐を強く締めた。
「けど、お前になら預けてもいいと思ったんだ」
シルヴァンは少し笑った。
「落としたら、化けて出るからな」
「やめてくれよ……」
新の声が掠れる。
「そういうの、やめてくれよ……」
シルヴァンは答えなかった。
代わりに、新の肩を強く掴んだ。
「新」
初めて、正面から目が合った。
シルヴァンの顔は血で汚れていた。頬にも傷がある。息も荒い。それでも目だけは、いつものように真っ直ぐだった。
「絶対に迷うなよ」
新の喉が詰まった。
屋上で聞いた言葉が、胸の奥で重なる。
「迷ったら、最初に身体が動いた時のことを思い出せ。理由なんて後から考えりゃいい。守りたいもんがあるなら、それを守り通せるくらい強くなれ」
シルヴァンは言葉を切った。
背後で、壁にひびが入る音がした。
「楽しかったぜ、アラタ」
新は首を振ろうとした。
だが、身体が動かない。
「シル兄も、乗ってください!」
必死に言った。
「一緒に行けば――」
「ラズは俺の相棒だ」
シルヴァンは新の言葉を遮るように、馬の首を叩いた。
「利口で、速い。鼻も利く。殿下と隊長の馬の匂いも覚えてる」
「シル兄」
「こいつのことも頼んだぜ」
「嫌だ」
新の声が震えた。
「嫌だ。そんなの、嫌だ!」
シルヴァンは少しだけ笑った。
困ったような、寂しそうな笑みだった。
壁が割れた。
エティエンヌの剣が、淡い光を砕いて迫ってくる。
シルヴァンは即座に振り返り、剣で受けた。
重い金属音が響く。
エティエンヌの顔から、もう笑みは消えていた。
「シル兄!」
新は叫んだ。
シルヴァンは背を向けたまま、ラズの尻を叩いた。
「行け、ラズ!」
黒い馬が地面を蹴った。
新の身体が大きく揺れる。革紐が食い込み、痛みで視界が白くなる。
それでも馬は止まらない。
森道を走り出す。
エティエンヌが追おうとした。
その前に、シルヴァンが立った。
「お前の相手は俺だ」
新は首を上げようとした。
身体が鞍に縛られていて、うまく振り返れない。
それでも、必死に顔を後ろへ向けた。
木々の間に、シルヴァンの背中が見える。
シルヴァンは一度だけ、ほんの少し横を向いた。
新に聞こえたのかどうか分からないほど小さな声で、彼は呟いた。
「元気でな、アラタ」
ラズが速度を上げる。
シルヴァンの姿が、木々の向こうへ遠ざかっていく。
「シル兄ぃっ!」
新は叫んだ。喉が裂けそうだった。
返事はなかった。
代わりに、背後で剣戟が鳴った。
夜の森に、金属音が響く。
新は革紐に縛られたまま、声が枯れるまで叫び続けた。




