表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章 ユグドライン王国編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/35

29.託すもの

 エティエンヌは馬上から、新を見下ろしていた。


 暗紅色の外套が夜風に揺れている。周囲には同じ外套をまとった私兵が二人、距離を取るようにして馬を止めていた。誰もすぐには動かない。エティエンヌが片手を上げているからだ。


 新は剣を握ったまま、息を詰めた。


 逃げる馬はいない。


 フィオナもカンナも、もう見えない。


 森道の奥に、蹄の音だけが遠ざかっていく。


 エティエンヌはその音を聞いているのかいないのか、穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと馬から降りた。


「申し遅れました」


 丁寧な所作だった。


 まるで、王宮の廊下で客人を迎える時のように、エティエンヌは片手を胸に当てる。


「セレーヌ猊下直属私兵長、エティエンヌ・ヴェルネと申します」


 新は答えられなかった。


 剣を構えた腕が、少しずつ重くなっていく。


 落馬した時に打った肩も、胸も、まだ痛い。息を吸うたび、肋骨の奥がきしむ。足元もふらついている。


 それでも、剣だけは下ろせなかった。


「評議会では驚きましたよ」


 エティエンヌは一歩、近づいた。


「まさか、貴方が守護者様だったとは」


 守護者。その言葉を口にしたエティエンヌは、恍惚(こうこつ)そうな顔をしていた。


 エティエンヌの目は笑っていない。けれど、楽しそうだった。丁寧な笑みの奥で、何かが待ちきれないように揺れている。


「貴方たちが東側へ逃げたことは分かっていました。あの混乱の中で殿下を外へ出すなら、正門や大廊下は使えない。ならば、王宮の東側から抜けようとするだろうと、察しはつきます」


 新は息を呑んだ。最初から、逃げ道を読まれていた。


「もちろん、カンナ殿下を連れ戻すのが命令です。けれど……」


 エティエンヌの視線が、新の身体を上から下までなぞった。ぞわりと、背筋が冷えた。


「私はね、貴方の身体に興味が湧いたのです」


「……何を」


「評議会で見た印。あの反応。傷を負っても戻るという守護者の身体」


 エティエンヌは腰の剣に手をかけた。


 金属が鞘を滑る音が、森道に細く響く。


「少し、試させてもらいます」


 次の瞬間だった。


 エティエンヌの姿が近づいた。


 速い。


 そう思った時には、もう遅かった。


 新は剣を上げようとした。けれど、腕が動ききる前に、左腕に熱い線が走った。


「あ――」


 遅れて、痛みが来た。


 腕の皮膚が裂け、血が噴き出す。


 新は歯を食いしばろうとした。けれど、できなかった。痛みが鋭すぎて、息が喉で引っかかる。


「が、ああっ……!」


 剣を落としそうになる。


 新は左腕を押さえた。血が指の間から溢れる。傷口が開いている。肉が裂けている。見た瞬間、吐き気が込み上げた。


 傷口の奥で何かが蠢くような感覚があり、裂けた肉がじわじわと寄っていく。血が止まり、皮膚が塞がっていく。


 痛みは消えない。だが、傷はもう閉じかけていた。


 エティエンヌの目が、見開かれた。


 次の瞬間、彼は笑った。


 最初は小さく。


 喉の奥で、押し殺すように。


 だが、すぐに抑えきれなくなったように、肩を震わせて笑い始めた。


「は、はは……」


 その笑いは、王宮で見た丁寧な笑みとはまるで違っていた。


「はははははっ!」


 森の中に、エティエンヌの笑い声が響いた。


 二人の私兵が顔を見合わせる。


 エティエンヌはそんな部下たちの方へ振り返り、血のついた剣を掲げた。


「見ましたか」


 声が弾んでいた。


「今のを見ましたか。斬ったのですよ。確かに斬りました。なのに、もう塞がっている」


 エティエンヌの呼吸が、少し荒くなっている。


「素晴らしい」


 新は左腕を押さえたまま、後ずさった。


 背中に冷たい汗が流れる。


「この身体は、素晴らしい」


「兵長」


 部下の一人が、硬い声で呼んだ。


「カンナ殿下を追わねばなりません。ここで時間を使うのは――」


 言葉は、最後まで続かなかった。


 エティエンヌの剣が、何気ない動きで横に走った。


 部下の首筋から血が噴いた。男は何が起きたのか分からない顔のまま、馬上から崩れ落ちた。


 新は息を止めた。


 残った私兵が、馬上で身を強張らせる。


 エティエンヌは剣についた血を見下ろし、少しだけ眉を寄せた。


「今、非常に気分を害しました」


 声は、また穏やかだった。


「私は話している途中だったでしょう」


「ひっ……」


 もう一人の私兵が、馬を返そうとした。


 逃げようとしたのだと、新にも分かった。


 エティエンヌは落ちた部下の馬に括られていた弓を拾った。


 弦が鳴る。


 矢が夜を裂いた。


 逃げようとした私兵の背中に突き立ち、男は前のめりに落馬した。


 エティエンヌは弓を捨てるように地面へ落とした。


「さて」


 血のついた剣を持ったまま、新へ向き直る。


「続きを始めましょうか」


 新は剣を構え直した。


 手が震える。


 膝も震えている。


 けれど、構えなければならなかった。構えなければ、すぐに斬られる。


「来るな……」


 声が掠れた。


「来るなぁ!」


「動けるうちは、そうやって抵抗してください」


 エティエンヌは楽しそうに言った。


「その方が、色々と分かります」


 また、姿が消えた。


 いや、消えたように見えたのか、新の目が追いつかないだけだった。


 肩を裂かれたと思った次の瞬間には、脇腹に熱が走った。右腕、太腿。痛みが追いつく前に、別の場所が斬られていく。


 新は叫んだ。


 剣を振ろうとしても、エティエンヌはそこにいない。避けようとしても、身体が遅れる。シルヴァンに教えられたことが頭をかすめるが、痛みが来るたびにばらばらに砕けた。


 斬られた傷が熱を持ち、勝手に塞がっていく。だが、痛みが消える前にまた斬られる。どこが治って、どこが新しく傷ついたのか分からなくなる。


 傷が閉じていく感覚が、気持ち悪い。裂けた肉が勝手に寄り、血が止まり、皮膚が戻る。そのたびに、身体の奥から熱が湧いて、痛みだけが残る。


「っ、あ、ああああっ!」


 新は膝をついた。


 だが、すぐに髪を掴まれ、顔を上げさせられる。


 エティエンヌが覗き込んでいた。


「弱い」


 エティエンヌが囁いた。


「本当に弱いですね。剣も遅いし、足も動かない。反応も鈍い」


 新は荒く息をした。


「それなのに、何度痛めつけても壊れない」


 エティエンヌの口元が歪む。


「後で拷問のしがいがありそうですね」


 エティエンヌはそう言うと、掴んでいた髪を乱暴に引いた。


 視界が揺れ、新の身体が地面へ投げ出される。肩から土に落ちた衝撃で、息が詰まった。

 

 痛みが終わらない。


 傷は塞がっていく。けれど、斬られた痛みまで消えるわけではなかった。次にまた刃が来ると分かっているのに、逃げることもできない。身体が治るせいで、痛みだけが何度も積み重なっていく。


 新は地面に手をつき、土を掴んだ。指先に砂利が食い込む。


 もう嫌だ。


 帰りたい。


 そう思った瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れた。


 カンナは逃げられただろうか。


 フィオナは、ちゃんと殿下を連れて行けただろうか。


 シルヴァンは。


 そこまで考えたところで、また痛みが頭の中を塗り潰した。


 分からない。


 何も考えられない。


 ただ、これ以上斬られたくなかった。


「さあ、次はどこにしましょうか」


 エティエンヌが剣を上げる。


 新の視界が揺れた。


 体が勝手に動いた。


 握っていた剣を、ただ思い切り振った。


 型も、狙いもない。


 ただ、近づいてくるものを押し返したかった。


 その瞬間、新の身体の奥で何かが外れた。


 背中が焼けるように熱くなる。


 腕の骨が軋んだ。肩が裂けるように痛む。踏み込んだ脚に、嫌な音が響いた。


 それでも剣は振り抜かれた。


 エティエンヌの顔色が変わる。


 彼は咄嗟に後ろへ跳んだ。


 直後、風が爆ぜた。


 剣が触れていない場所で、空気が裂けた。


 エティエンヌの背後にあった木々が、まとめて斜めに切れた。太い幹がずれ、遅れて、轟音とともに倒れていく。


 木々が倒れ、土煙と折れた枝が森道に広がった。


 新は剣を振り抜いた姿勢のまま、息を止めていた。


 何が起きたのか理解する前に、全身へ激痛が走った。


「が、ああああああっ!」


 腕の奥が焼けるように熱く、肩から背中にかけて何かが裂けた。踏み込んだ脚にも力が入らず、膝から下の感覚が遠のいていく。


 新は地面に崩れ落ちた。


 剣が手から離れかける。けれど、指だけは柄に引っかかったままだった。


 エティエンヌは数歩離れた場所で、唇を開いたまま固まっていた。


 暗紅色の外套の端が裂れている。


 頬にも浅い傷が走っていた。


 血が一筋、顎へ落ちる。


「……今のは」


 エティエンヌの声が低くなる。


 エティエンヌの顔から、さっきまでの余裕が消えていた。


 頬を伝う血を指で拭い、その赤を見た瞬間、目が細くなる。


「道具のくせに」


 丁寧な響きが消えた。


「そんな芸当までできるのか」


 新は答えられなかった。痛みで声にならない。息を吸うだけで、全身が悲鳴を上げる。


 エティエンヌが近づいてくる。


 新は剣を動かそうとした。


 動かない。


 腕が言うことを聞かない。


「なるほど。ですが、一度きりですか」


 エティエンヌは新の足元に立った。


 見下ろす目から、さっきまでの楽しげな熱が少し消えていた。代わりに、冷たい苛立ちがある。


「膝から下を落としてしまえば問題ありませんね」


 新は何を言われたのか、一瞬分からなかった。


 剣が振り下ろされる。


 刃が、左脚の膝下を断った。


 一瞬、何をされたのか分からなかった。左脚から力が抜け、身体が地面に沈む。何かが土の上に落ちる音だけが、妙にはっきり耳に残った。


 遅れて、痛みが来た。


 新は口を開けた。叫んだつもりだった。けれど声にはならず、喉の奥から潰れた息だけが漏れた。


 エティエンヌは続けて剣を振った。


 右脚にも同じ衝撃が走る。新は地面に爪を立てた。土を掻き、指先に砂利が食い込み、爪が剥がれそうになる。それでも痛みを逃す場所はどこにもなかった。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 それだけで頭の中が埋まっていく。


 エティエンヌの声が聞こえた。


「これで少しは回復に時間がかかるでしょう」


 新は自分の足を見られなかった。


 見たら、何かが壊れる。


 それでも、背中の熱が動いているのが分かる。失われた場所を、身体が必死に戻そうとしている。だが、大きすぎる。痛みが深すぎる。さっきまでの切り傷とは違う。


 エティエンヌが、剣を下ろしたまま近づいてくる。


 新は逃げようとした。けれど、腕にも足にも力が入らない。地面を掻いた指先だけが、土を削った。


 エティエンヌが身を屈め、新の腕を掴もうとした。


 その時だった。


 森の奥から、荒い蹄の音が迫ってきた。


 エティエンヌが顔を上げる。


 黒い馬が、闇の中から飛び出した。鼻息を荒くし、土を蹴り上げながら、エティエンヌへ一直線に突っ込んでくる。


 エティエンヌは舌打ちし、身を引いた。


 その瞬間、馬の背から人影が跳んだ。


 金属音が弾けた。


 エティエンヌの剣が弾かれ、その身体が横へ押し戻される。


 新は土の上から、顔だけを動かした。


 銀色の髪と、血で汚れた青い外套が見えた。


 荒い息を吐きながら、シルヴァンが新とエティエンヌの間に立っていた。


「……シル、兄」


 声になったのか、自分でも分からなかった。


 シルヴァンは振り返らない。


「大丈夫か、新」


 新は答えようとした。


 喉がひゅう、と鳴るだけだった。


 シルヴァンは一瞬だけ横目で新を見た。


 その顔には、笑みがあった。


 無理に作った、いつもの笑みだった。


「約束通り、ちゃんと戻ってきてやったぜ。早かっただろ」


 新は息を吸った。


 痛みの間から、どうにか言葉を押し出す。


「……遅い、ですよ」


「言うじゃねぇか」


 シルヴァンが小さく笑った。


 エティエンヌが剣を構え直す。


「シルヴァンか……」


 声には、はっきりと苛立ちが滲んでいた。


「邪魔しやがって」


 新はその声に、かすかに違和感を覚えた。


 さっきまでの丁寧さが消えている。


 王宮で見た穏やかな私兵長の顔ではなかった。


 シルヴァンもそれに気づいているのか、剣先を下げないまま、口の端を上げた。


「いつもの薄気味悪い笑みはどこいったんだよ、エティエンヌ」


「黙れ」


「うちの弟分に、ずいぶん好き勝手してくれたみてぇじゃねぇか」


 エティエンヌの目が細くなる。


「どきなさい。私はその身体に用がある」


「悪いな」


 シルヴァンは短く返した。


「こいつは持ち帰り不可だ、拷問好きのイカれ野郎」


 その言葉と同時に、エティエンヌが踏み込んだ。


 シルヴァンは剣を合わせた。


 金属音が響く。


 二人の刃が噛み合い、火花が散った。


 シルヴァンは押し返さなかった。刃を斜めに滑らせ、力を横へ逃がす。


 次の瞬間、新とシルヴァン、そして少し離れた位置にいた黒い馬を囲うように、淡い光が薄く走った。


 壁だった。


 透明な膜のようなものが、森道に張られる。


 エティエンヌがすぐに斬り込んだ。


 刃が壁に触れた瞬間、鈍い音がして、衝撃が横へ流れた。真正面で受け止めるのではなく、滑らせるように逸らしている。地面の土が削れ、細い亀裂が走った。


「小賢しい真似を」


 エティエンヌが吐き捨てる。


 シルヴァンは振り返らないまま言った。


「新、聞け」


 エティエンヌを見たまま、シルヴァンは続ける。


「セレーヌとリュカは、人族と繋がってるみてぇだ」


 新は痛みで霞む頭を、必死に動かした。


「……人、族」


「ああ。倒したやつに人族が混じってやがった。外にいる追手も、王宮の中で動いてた連中だけじゃねぇ」


 シルヴァンは低く息を吐いた。


「逃げ道を読まれてたのも、そのせいだ。あいつら、最初から外に兵を置いてやがった」


 エティエンヌの剣が、また壁を叩いた。


 壁が軋む。


 シルヴァンは短く舌打ちし、口笛を吹いた。


 近くにいた一頭の黒い馬が、シルヴァンのそばへ寄ってきた。


 夜の中でも分かるほど艶のある黒毛。鼻息を荒くしながらも、シルヴァンの近くでぴたりと止まる。


「ラズ」


 シルヴァンが呼ぶと、馬は短く鼻を鳴らした。


 シルヴァンは新のそばへ膝をついた。


 新は震える手で、彼の袖を掴もうとした。


「なに、してるんですか……」


「静かにしてろ」


 シルヴァンは素早く新の状態を見た。


 一瞬、目が揺れる。


 足元を見て、奥歯を噛む音がした。


 だが、何も言わなかった。


 鞍に括られていた革紐を解き、新の身体を抱え上げる。


 その動きだけで、痛みが爆ぜた。


「っ、あああっ!」


「悪い。痛ぇのは我慢しろ」


 シルヴァンは短く答え、新をラズの鞍へ乗せた。


 乗せるというより、体を預けさせるように、馬の首へ伏せさせる。新の身体はまともに支えられない。腕も、膝から下を失った両足も、痛みと熱でぐちゃぐちゃだった。


 シルヴァンは革紐で、新の胴と鞍を結び始めた。


 壁の外で、エティエンヌが何度も剣を振るう。


 そのたびに薄い壁が震え、衝撃が地面へ逃げていく。土が跳ね、細い光が何本も散った。


 長くはもたない。


 新にも、それは分かった。


「シル兄……なに、してるんですか」


 新はもう一度聞いた。


 シルヴァンは答えなかった。


 壁の向こうで、エティエンヌが顔を歪める。


「逃がすと思うか!」


 シルヴァンは顔を上げず、ただ手を動かした。


 革紐を締める。


 新の身体が鞍に固定されていく。


 その一瞬で、シルヴァンは鞍の横に括られていた黒い鞘を外した。


 長い剣だった。


 新がこれまで使っていた剣より、明らかに大きい。人の背丈ほどではないが、新の身長より少し短いくらいはある。重そうな鞘に、古い傷がいくつも残っていた。


 シルヴァンはそれを、新の身体に沿わせるように鞍へ固定した。


「俺の兄貴の剣だ」


 声だけが、少し低くなった。


「お前に託す」


 新は目を見開いた。


「なんで……そんなもの、どうして……!」


「落とすなよ」


「シル兄!」


「本当は誰にも渡す気はなかったんだがな……」


 シルヴァンは革紐を強く締めた。


「けど、お前になら預けてもいいと思ったんだ」


 シルヴァンは少し笑った。


「落としたら、化けて出るからな」


「やめてくれよ……」


 新の声が掠れる。


「そういうの、やめてくれよ……」


 シルヴァンは答えなかった。


 代わりに、新の肩を強く掴んだ。


「新」


 初めて、正面から目が合った。


 シルヴァンの顔は血で汚れていた。頬にも傷がある。息も荒い。それでも目だけは、いつものように真っ直ぐだった。


「絶対に迷うなよ」


 新の喉が詰まった。


 屋上で聞いた言葉が、胸の奥で重なる。


「迷ったら、最初に身体が動いた時のことを思い出せ。理由なんて後から考えりゃいい。守りたいもんがあるなら、それを守り通せるくらい強くなれ」


 シルヴァンは言葉を切った。


 背後で、壁にひびが入る音がした。


「楽しかったぜ、アラタ」


 新は首を振ろうとした。


 だが、身体が動かない。


「シル兄も、乗ってください!」


 必死に言った。


「一緒に行けば――」


「ラズは俺の相棒だ」


 シルヴァンは新の言葉を遮るように、馬の首を叩いた。


「利口で、速い。鼻も利く。殿下と隊長の馬の匂いも覚えてる」


「シル兄」


「こいつのことも頼んだぜ」


「嫌だ」


 新の声が震えた。


「嫌だ。そんなの、嫌だ!」


 シルヴァンは少しだけ笑った。


 困ったような、寂しそうな笑みだった。


 壁が割れた。


 エティエンヌの剣が、淡い光を砕いて迫ってくる。


 シルヴァンは即座に振り返り、剣で受けた。


 重い金属音が響く。


 エティエンヌの顔から、もう笑みは消えていた。


「シル兄!」


 新は叫んだ。


 シルヴァンは背を向けたまま、ラズの尻を叩いた。


「行け、ラズ!」


 黒い馬が地面を蹴った。


 新の身体が大きく揺れる。革紐が食い込み、痛みで視界が白くなる。


 それでも馬は止まらない。


 森道を走り出す。


 エティエンヌが追おうとした。


 その前に、シルヴァンが立った。


「お前の相手は俺だ」


 新は首を上げようとした。


 身体が鞍に縛られていて、うまく振り返れない。


 それでも、必死に顔を後ろへ向けた。


 木々の間に、シルヴァンの背中が見える。


 シルヴァンは一度だけ、ほんの少し横を向いた。


 新に聞こえたのかどうか分からないほど小さな声で、彼は呟いた。


「元気でな、アラタ」


 ラズが速度を上げる。


 シルヴァンの姿が、木々の向こうへ遠ざかっていく。


「シル兄ぃっ!」


 新は叫んだ。喉が裂けそうだった。


 返事はなかった。


 代わりに、背後で剣戟が鳴った。


 夜の森に、金属音が響く。


 新は革紐に縛られたまま、声が枯れるまで叫び続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ