28.背後の狩人
背後の剣戟は、遠ざかっているはずなのに、なかなか消えなかった。
蹄が土を蹴る音に、怒号と金属のぶつかる音が混じっている。木々に遮られているはずなのに、その音だけは森の奥まで追ってきて、新の背中に何度も届いた。
だが、背後を確かめたところで、新にできることはなかった。馬を返すことも、剣を持って駆け戻ることもできない。身体を少しひねるだけで、鞍の上からずり落ちそうになる。
新は馬の首にしがみついたまま、前を見るしかなかった。
少し先を、フィオナとカンナを乗せた馬が走っている。フィオナは手綱を握り、カンナを抱えるようにして前を向いていた。カンナの赤い髪が、夜の風に揺れている。
その後ろを、新の馬が追っていた。
自分で進んでいる感覚はない。ただ、馬に運ばれているだけだった。
シルヴァンが残った。それだけじゃない、後ろで他にも誰かが追手を止めている。それなのに自分は、馬から落ちないようにしがみついているだけだ。
「くそ……」
喉の奥から漏れた声は、蹄の音に消えた。
森道はまだ広い。騎馬が横に並んで走るには狭いが、荷車が通れるだけの幅は残っている。道の端には古い轍があり、ところどころに浮き出た木の根を馬が避けるたび、新の身体は大きく揺れた。
前方で、フィオナが少しだけ速度を落とした。
「このまま森道を進みます」
短く言って、前を見たまま続ける。
「途中で何度か道が曲がります。追手が詰まるなら、そこです」
カンナは鞍の前を握ったまま、息を整えるように頷いた。
「集落までは、どれほどですか」
「馬を止めずに進んでも、半日はかかります」
新は息を呑んだ。
半日。
そんなに先なのか。
「休まずに、ですか」
カンナの声も硬かった。
「はい。途中で馬を替えられれば別ですが、今はその余裕がありません」
フィオナの返事は短い。
「追手を振り切れなければ、集落までは持ちません」
カンナは何も言わなかった。
けれど、鞍の前を握る指に力が入ったのが、新にも見えた。
その時、後方から声が上がった。
「後ろ!」
遊撃班の兵だった。
新は息を詰める。
また、蹄の音が近づいてきていた。
さっきより数は少ない。だが、確実に追いついてきている。暗がりの奥で、暗紅色の外套が枝の間をちらついた。
「抜けてきたぞ!」
兵の声が飛ぶ。
すぐ後ろを走っていた三人が、互いに顔を見合わせた。
「俺たちだな」
「ああ」
「ったく。班長には、とんだ貧乏くじ引かされたもんだな」
誰かがそう言って、短く笑った。
怖くないはずがない。それでも三人は馬を緩め、道を塞ぐように向きを変えた。
「殿下、先へお急ぎください!」
カンナが振り返る。
「死なないでください!」
「死にませんよ!」
兵の一人が、わざと明るく返した。新の馬は、その横を通り抜けていく。
視界の端で、三人の背中が小さくなった。すぐに、剣の音が背後で弾ける。
新は手綱を握りしめた。また置いていった。また何もできなかった。
「アラタ」
前からカンナの声がした。
振り返っているのだろう。
けれど、新は顔を上げられなかった。
「……大丈夫です」
何が大丈夫なのだろうか。それでも、そう答えるしかなかった。
馬は止まらない。道はまだ続いている。
背後の音が少し遠のいたと思った矢先、また別の蹄の音が近づいてきた。
今度は、さらに近い。
「後方、また来ます!」
遊撃班の兵が叫ぶ。
フィオナが一度だけ後ろを見た。
「数は」
「六騎、いや八騎!」
次の三人が、馬を返した。
一人は歯を食いしばっていた。手綱を握る手が震えているのが、新にも見えた。
それでも、その兵は逃げなかった。
「ここで止めます!」
「殿下を頼みます!」
もう一人は声を張ったが、顔は必死だった。
「行ってください!」
カンナが何かを言おうとした。けれど、言葉になる前に三人は隊列を離れていった。
新はそれを見ているしかなかった。
彼らは馬を操り、剣を抜く。怖さを飲み込み、役目を選んで、残っていく。
自分よりずっと自然に戦場の中にいて、自分よりずっと迷わず動いている。
悔しさが、喉の奥に貼りついた。
それからも、同じことが繰り返された。
追手が近づくたびに、遊撃班が三人ずつ残る。
馬を止め、道を詰まらせ、時間を稼ぐ。
倒すためではない。
勝つためでもない。
ただ、カンナを先へ進めるために。
そのたびに、隊列は短くなっていった。
左右を固めていた者たちも、後方から聞こえていた味方の蹄の音も減る。振り返らなくても、残っている者が少なくなっているのは分かった。
道はまだ完全には細くなっていない。
けれど、森の奥へ進むにつれて、馬が横に動ける余裕は少しずつ消えていた。道の片側は木の根で盛り上がり、もう片側は浅く崩れている。大人数で押し込めば、先頭が詰まる場所はいくつかある。
「次は俺たちが残ります」
最後の三人がそう言った。
フィオナが後方を見た。
「まだ距離があるだろう。もう少し引きつけてからでも――」
「いえ。ここで止めます」
兵の一人が首を振った。
「この先は道が開けます。そこで追いつかれたら、止めるのが難しくなります」
フィオナは一瞬だけ黙った。
「……頼んだ」
「はい」
短い返事だった。
その兵の顔にも、余裕はなかった。唇は震えている。けれど、目だけは前を向いていた。
カンナが鞍の前を握る指に力を込める。
「必ず、戻ってきてください」
「もちろんです」
兵は笑った。
無理に作った笑顔だった。
「戻らなかったら、班長に酒を奢らせられませんから」
そう言い残して、三人は馬を返した。
新は唇を噛んだ。
置いてきた人数を、数えようとしてやめた。
シルヴァン。最初の三人。次の三人。その次も、その次も。
名前も知らない兵の背中まで、まだ目の奥に残っている。数えれば、その重さに、息ができなくなりそうだった。
やがて、森道に残った味方の蹄の音は二頭分だけになった。
フィオナとカンナの馬。
新の馬。
左右に兵はいない。後ろから声を飛ばす遊撃班もいない。
フィオナは前を向いたままだった。けれど、その背中はさっきより硬く見えた。手綱を握る腕にも、余計な力が入っている。
新にも分かった。
もう余裕がない。
「集落までは」
カンナが問う。
「まだ遠いです」
フィオナの返事は短かった。
カンナは黙った。
新も何も言えなかった。
悔しさは、まだ胸の中に残っている。
だが、悔しいだけだ。
誰かを助ける力にはならない。ただ息を詰まらせるだけだった。
その時、遠くで枝が折れる音がした。
新は反射的に振り返った。
暗紅色の外套が見えた。
まだ遠い。けれど確かにいる。木々の間を縫うように、数騎の影がこちらへ向かってきていた。
「また……!」
声が掠れた。
フィオナも後方を見る。その瞬間、短い風切り音がした。
新には、それが何の音か分からなかった。
次の瞬間、乗っていた馬が大きく跳ねた。
馬の悲鳴が夜の森に響く。
新の身体が浮いた。
「え――」
手綱が手から抜け、足が鞍から離れる。
視界が回った。
土が迫る。
肩から地面に叩きつけられ、息が一気に抜けた。
胸が潰れたように苦しい。息を吸おうとしても、うまく空気が入ってこない。耳の奥で、蹄の音だけが遠く響いていた。
「アラタ!」
カンナの叫びが聞こえた。
新は土の上で咳き込みながら、顔を上げた。
自分の馬が少し先で倒れていた。立とうとしているのに、後ろ脚がうまく動いていない。後ろ脚の付け根あたりに、矢が突き立っている。
「……っ、う……」
声を出したつもりはなかった。けれど、喉の奥から勝手に漏れた。
フィオナの馬が、一瞬だけ速度を落とした。手綱が引かれかける。戻ろうとしたのだと、新にも分かった。
フィオナの手綱を握る指が、白くなる。
だが、後方には暗紅色の外套が迫っている。
戻れば、追いつかれる。
そうなれば、シルヴァンが残ったことも、遊撃班の兵たちが一人ずつ道を塞いだことも、すべて無駄になってしまう。
新は剣の柄を掴んだ。膝に力を入れる。
身体中が痛い。息も整わない。それでも、立てた。
「先に行ってください!」
声は思ったよりはっきり出た。
カンナが馬上で身を乗り出す。
「何を言っているのです! すぐに――」
「行ってください!」
新は叫んだ。
「俺は大丈夫です! だから、先に!」
「アラタ!」
「フィオナさん!」
新はフィオナを見た。
「カンナさんをお願いします!」
フィオナの目が、新を捉えた。
ほんの一瞬だけ、戻ろうとする気配があった。だが、次の瞬間には消える。
フィオナは歯を食いしばるようにして、手綱を握り直した。
「……殿下、伏せてください」
「フィオナ!」
「行きます!」
フィオナが馬腹を蹴った。
馬が前へ跳ねる。カンナの身体が大きく揺れた。それでもフィオナは止まらない。
カンナが振り返る。
赤い髪が夜の中で揺れた。
「アラタ!」
その声が遠ざかっていく。
返事をしたかった。
大丈夫だと言いたかった。
けれど、声を出せば何かが崩れそうだった。新は、代わりに剣を抜いた。
怖い。
手の中の剣は震えている。握り直しても指先の震えは消えず、膝にも力が入りきらない。暗紅色の外套が近づいてくるたび、逃げ出したい気持ちが喉元までせり上がってくる。
それでも、新は奥歯を噛みしめた。
ここまで来る間に、何度も背中を見た。
震える手で手綱を引き、それでも馬を返した兵がいた。必死な顔で剣を抜き、無理に笑ってカンナを先へ行かせた兵もいた。
誰も、怖くなかったわけじゃない。それでも残った。なら、今度は自分の番だ。
みんなができた。
だったら、俺にもできるはずだ。
新は剣を握り直した。
もう逃げる馬はいない。
味方もいない。
新は一人で、森道の真ん中に立っていた。
剣を構える。
暗紅色の外套が近づいてくる。
一騎。二騎。その後ろにも影がある。
蹄の音が近づき、先頭の馬が新の少し手前で速度を落とした。
馬上の男が片手を上げる。
後ろの私兵二人が、それに合わせて左右へ広がった。
新は息を呑んだ。
見覚えのある顔だった。
丁寧に整えられた笑みと穏やかそうな目。王宮の廊下で、角と尻尾のある使者のそばに立ち、評議会にも姿を見せていた私兵長。
エティエンヌ。
暗紅色の外套をまとったその男は、馬上から新を見下ろしていた。
笑みは、以前見た時と変わらない。
けれど、目だけが違っていた。
新を見る目が、妙に生き生きとしている。
エティエンヌはゆっくりと口を開いた。
「先ほどぶりですね、アラタ殿」
穏やかな声だった。
「その身体、少し確かめさせてください」




