27.止まれない
東の裏門を抜けると、王宮の石畳はしばらくして土の道に変わった。
そこから先は、森へ続く道だった。荷車なら二台が並べるほどの幅はある。だが、騎馬が横に広がって走るには狭く、隊列は自然と縦に伸びていく。両側から枝が伸び、夜の中で木々の影が重なっていた。
シルヴァンが先頭を走り、その後ろにフィオナとカンナの馬が続く。新の馬はさらにその後ろを進んでいた。遊撃班の兵たちは左右と後方に散り、道幅に合わせて隊列を細くしながら進んでいる。
新は手綱を握ったまま、馬の首に身を寄せていた。
自分で馬を操っている感覚はほとんどない。前を行く馬につられるように、乗っている馬が走っているだけだった。少しでも身体が浮けば、そのまま落ちそうになる。
「アラタ、手綱引きすぎだ! 馬の口を痛める!」
先頭からシルヴァンの声が飛んできた。
「そんなこと言われても、落ちそうなんです!」
「手綱で身体を支えるな!馬の首につかまれ! 走るのは馬に任せろ!」
「もうつかまってます!」
「なら手綱を緩めろ! 馬まで怯えさせるな!」
言い返したかったが、新は口を閉じた。言われた通りに手綱を少し緩めると、身体が前へ持っていかれそうになり、馬の首に回した腕に力が入った。
王宮の方から、遠く何かがぶつかる音がした。けれど、それもすぐに木々のざわめきに飲まれていく。
王宮の方には、ギヨームが残っている。
オギュストも、倒れた王宮警護兵を支えた者たちも、退避路の前で追手を引きつけた三人も、まだあの中にいる。置いてきた人たちの顔が、一人ずつ、胸の奥に沈んでいった。
それでも馬は止まらない。
止まれば、後ろに残った者たちの意味がなくなる。
フィオナが前を向いたまま言った。
「このまま森の小道へ入ります。しばらくは道なりです」
カンナは鞍の前を握ったまま、短く頷いた。
「分かりました」
「森に入れば枝道が増えます。道幅も狭くなりますから、大人数で追うには不向きです。こちらが先に奥へ入れれば、追手を散らせます」
「目的地は」
「このまま休まず進めば、小さな集落があります。まずはそこを目指します」
カンナの横顔に、疲れは残っていた。
回復魔法を使った後の顔色はまだ完全には戻っていない。だが、弱音を吐く気配はなかった。フィオナの腕の中で背筋を伸ばし、前だけを見ている。
「では、そこまで進みましょう」
カンナの声に迷いはなかった。
蹄が土を叩く音だけが続く。道は少しずつ暗くなり、王宮の明かりは木々の隙間に細く揺れていた。
遊撃班の兵たちは声を交わさず、前の馬との距離を詰めていく。新はその列に運ばれるように、森の奥へ進んだ。
「班長!」
後方の兵が声を上げた。
シルヴァンが振り返る。
「どうした!」
「後ろです! 王宮側の別道から追手が出てきました!」
新は反射的に振り返った。
視界の端で、暗紅色の外套が揺れた。
夜の森の入口に、いくつもの影が現れている。先頭の数騎が枝を折りながら道へ入り、後ろの馬がその背に続く。さらにその後ろから怒号が重なり、暗紅色の外套が森の入口を埋めるように増えていった。
「紅の外套……」
後方の兵が息を呑んだ。
「セレーヌ猊下の私兵です」
シルヴァンは後方を見たまま、息を吐いた。
暗紅色の外套は、森道へ流れ込むように増えていく。先頭だけでもかなりの数がいる。さらにその後ろにも、まだ影が続いていた。
ギヨームたちが止めている追手とは別の道から回り込んできたのだろう。
最初から、逃げ道を読まれていた。
「……見えるだけで五十はいるな」
シルヴァンの声が低くなった。
フィオナは一度だけ後方を見た。
「先遣隊であの数なら、後続に本隊がいると見るべきだ」
遊撃班は三十名そこそこ。追手は、見えている数だけですでにこちらを上回っていた。
森道は狭い。逃げるにはいいが、追いつかれれば逃げ場がなくなる。横に広がれない以上、後ろから押し込まれれば隊列ごと潰される。
シルヴァンは後方の追手を見たまま、短く息を吐いた。迷う時間はなかった。
「遊撃班」
短い呼びかけに、兵たちが反応した。
「はい」
「後ろを押さえる。最初は俺が残る」
新は一瞬、意味が分からなかった。
だが、遊撃班の兵たちはすぐに理解したようだった。誰も聞き返さない。
「待ってください!」
新は声を上げた。
「シル兄が残るんですか!?」
「そうだ」
「駄目です!」
カンナも振り返った。
「シルヴァン、あなたたちも一緒に来なさい」
「それは聞けません、殿下」
シルヴァンは振り返らずに答えた。
「このままじゃ追いつかれます」
「……あなたたちまで、残るつもりですか」
カンナの声が、少しだけ強くなった。
「全員でここを切り抜けます」
「無理です」
シルヴァンは短く言った。その声には、いつもの軽さがなかった。
「誰かが残って止めなきゃ、全員まとめて潰されます」
後方では、暗紅色の外套が木々の間を埋めるように近づいている。馬のいななきと怒号が重なり、土を蹴る音が大きくなっていく。
シルヴァンはその音を背に受けたまま、ようやくカンナを見た。
いつもの軽い笑みはない。
カンナは唇を結んだ。
止めたい。
行かせたくない。
その言葉を飲み込むように、鞍の前を握る指に力が入った。
返す言葉を探すより早く、後方から馬のいななきと怒号が近づいてくる。
「最初は俺が残ります。俺ができるだけ時間を稼ぎます」
シルヴァンは後方を見たまま言った。
「けど、あの数です。全部は止めきれません。何騎かは抜けてきます」
暗紅色の外套が、木々の間で揺れている。
「そのたびに、こっちも三人ずつ残します。馬を止めて、道を詰まらせて、また時間を稼ぐ。倒す必要はありません」
「殿下を逃がすには、それしかない」
「シルヴァン」
カンナの声が、そこで少しだけ細くなった。だが、シルヴァンは首を振った。
「ここは、俺に任せてください」
新は言葉を失った。
シルヴァンは遊撃班の兵たちへ視線を移す。
「俺が最初に後ろを押さえる。次に追いつかれそうになったら、三人ずつ残れ。倒す必要はない。馬を止めて、道を詰まらせろ。できるだけ時間を稼げ」
兵たちが頷く。
「了解」
「次は俺たちが残ります」
「その次は俺らが残ります」
声は短い。
誰も長く話さない。
追手は近づいている。
シルヴァンはそこで、声を少し強めた。
「全員、聞け」
遊撃班の兵たちの視線が集まる。
「無理はするな。やばいと思ったら馬を捨てて森へ入れ。囲まれたら武器を捨てて投降しろ。殿下を逃がすために時間を稼ぐのが役目だ。死ぬことが役目じゃねぇ」
兵たちは一瞬、黙った。シルヴァンは後方を見たまま続ける。
「相手はセレーヌの兵だ。表向きは敵対していなかったんだ。武器を捨てた相手を、その場で斬ることはないだろう」
暗紅色の外套が、木々の間で揺れている。
「捕まるだけでも足止めになる。縛るにも、連れていくにも、人手はいるからな」
そこで、兵の一人が小さく笑った。
「班長が早々に投降するのはなしですよ」
「俺が最初に逃げたら、お前らが後でうるせぇだろ」
「一生言いますね」
「戻ったら酒、奢ってもらいますからね」
「じゃあ逃げねぇよ。ったく、面倒くせぇ」
兵たちが小さく笑った。シルヴァンも口の端だけを上げ、剣の柄を握り直す。
新は手綱を握ったまま、シルヴァンを見た。
「俺も残ります」
「馬をまっすぐ走らせるのも怪しい奴が、何言ってんだ」
「でも!」
「できることをやれ」
シルヴァンの声が低くなる。
「今のお前が後ろに残ったら、足止めにもならねぇ。殿下の近くにいろ。それが今のお前の役目だ」
新は手綱を引いた。
馬の向きを変えようとした。
だが、馬は前の馬について進もうとする。新の手の動きに首を振っただけで、道を外れない。
「くそ……」
もう一度引こうとして、身体が傾いた。
慌てて馬の首にしがみつく。
手綱を引いても、馬は止まらなかった。
向きを変えようとしても、首を振られるだけだった。
自分の乗っている馬一頭さえ、新は思い通りにできない。奥歯を噛んでも、悔しさはどこにも逃げなかった。
「シル兄!」
新が叫ぶ。
シルヴァンは振り返った。新の顔を見ると、いつもの調子を崩さないまま言った。
「そんな顔すんな。俺が強いのは、お前が一番知ってんだろ」
シルヴァンは、いつものように口の端を上げた。
「すぐ追いつくさ」
新は言い返せなかった。
シルヴァンは笑みを消し、前を向いた。
「だから前を見ろ、アラタ」
その声は、いつもより静かだった。
カンナがもう一度声を上げる。
「シルヴァン」
シルヴァンは馬首を返しかけたまま、カンナへ向き直る。
「はい、殿下」
「……戻りなさい。これは命令です」
命令の形をした願いだった。
シルヴァンは一瞬だけ目を伏せた。それから、軽く頭を下げる。
「はい。できる限り、従います」
声は穏やかだった。
「ですから、殿下は前へ進んでください。こっちは俺たちでどうにかします」
カンナは唇を噛んだ。
言葉を続けようとして、続けられなかった。
フィオナが前を向いたまま言う。
「殿下、行きましょう」
「フィオナ」
「ここで迷えば、シルヴァンたちが稼ぐ時間を捨てることになります」
フィオナはカンナを抱える腕を緩めなかった。その声に迷いはなかった。
「私の役目は、殿下を先へ進めることです」
カンナは何も言わなかった。
フィオナの腕の中で、鞍の前を握る指に力が入る。
カンナが止めたいのは、新にも分かった。それでも、フィオナは馬を返さない。
進むしかないことは分かっているのに、納得なんてできなかった。
シルヴァンは手綱を引いた。
馬が土を蹴って身をひるがえし、追手の方へ向き直る。
暗紅色の外套が、森の入口からこちらへ迫っている。蹄の音が重なり、枝の間を怒号が抜けてきた。
シルヴァンは剣を抜いた。
「行け!」
フィオナが馬をそのまま走らせた。
カンナは振り返ったまま、何かを言おうとした。けれど、その声は馬の加速に飲まれた。
新の馬も、それにつられて前へ出る。
「待っ――」
新は手綱を引いた。
だが、馬は止まらない。前の馬に追いつこうとする。身体が大きく揺れ、手綱を握った指が痛むほど締まった。
「止まれよ……!」
声が漏れた。
馬は止まらなかった。
背後で、シルヴァンの声が響いた。
「おい、セレーヌの手下ども! 殿下ばっか見てんじゃねぇよ」
剣が月明かりを弾く。
「こっちに男前が残ってるだろうが!」
馬のいななきが上がった。
続いて、剣と剣がぶつかる音が森に響いた。
新は振り返れなかった。
少しでも身体をひねれば、鞍から落ちる。落ちれば、シルヴァンを助けるどころか、足を引っ張ってしまう。
分かっているから、前を見るしかなかった。
守護者だと言われて、壊れても戻る身体もある。
シルヴァンに戦い方も教わった。
それなのに今の新は、馬から落ちないようにしがみつくことしかできない。
馬を止めることも、振り返ることもできなかった。
シルヴァンを止められない。
カンナを助ける言葉も出ない。
ただ、馬に運ばれている。
新は奥歯を噛んだ。
森の小道はさらに細くなっていく。
枝が肩をかすめ、葉が頬を打った。前を行くフィオナの背中が揺れている。カンナは、その前で何も言わない。
ただ一度だけ、肩が小さく震えた。
背後の戦いの音は、すぐには消えなかった。




