表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章 ユグドライン王国編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/35

27.止まれない

 東の裏門を抜けると、王宮の石畳はしばらくして土の道に変わった。


 そこから先は、森へ続く道だった。荷車なら二台が並べるほどの幅はある。だが、騎馬が横に広がって走るには狭く、隊列は自然と縦に伸びていく。両側から枝が伸び、夜の中で木々の影が重なっていた。


 シルヴァンが先頭を走り、その後ろにフィオナとカンナの馬が続く。新の馬はさらにその後ろを進んでいた。遊撃班の兵たちは左右と後方に散り、道幅に合わせて隊列を細くしながら進んでいる。


 新は手綱を握ったまま、馬の首に身を寄せていた。


 自分で馬を操っている感覚はほとんどない。前を行く馬につられるように、乗っている馬が走っているだけだった。少しでも身体が浮けば、そのまま落ちそうになる。


「アラタ、手綱引きすぎだ! 馬の口を痛める!」


 先頭からシルヴァンの声が飛んできた。


「そんなこと言われても、落ちそうなんです!」


「手綱で身体を支えるな!馬の首につかまれ! 走るのは馬に任せろ!」


「もうつかまってます!」


「なら手綱を緩めろ! 馬まで怯えさせるな!」


 言い返したかったが、新は口を閉じた。言われた通りに手綱を少し緩めると、身体が前へ持っていかれそうになり、馬の首に回した腕に力が入った。


 王宮の方から、遠く何かがぶつかる音がした。けれど、それもすぐに木々のざわめきに飲まれていく。


 王宮の方には、ギヨームが残っている。

 オギュストも、倒れた王宮警護兵を支えた者たちも、退避路の前で追手を引きつけた三人も、まだあの中にいる。置いてきた人たちの顔が、一人ずつ、胸の奥に沈んでいった。


 それでも馬は止まらない。


 止まれば、後ろに残った者たちの意味がなくなる。


 フィオナが前を向いたまま言った。


「このまま森の小道へ入ります。しばらくは道なりです」


 カンナは鞍の前を握ったまま、短く頷いた。


「分かりました」


「森に入れば枝道が増えます。道幅も狭くなりますから、大人数で追うには不向きです。こちらが先に奥へ入れれば、追手を散らせます」


「目的地は」


「このまま休まず進めば、小さな集落があります。まずはそこを目指します」


 カンナの横顔に、疲れは残っていた。


 回復魔法を使った後の顔色はまだ完全には戻っていない。だが、弱音を吐く気配はなかった。フィオナの腕の中で背筋を伸ばし、前だけを見ている。


「では、そこまで進みましょう」


 カンナの声に迷いはなかった。


 蹄が土を叩く音だけが続く。道は少しずつ暗くなり、王宮の明かりは木々の隙間に細く揺れていた。


 遊撃班の兵たちは声を交わさず、前の馬との距離を詰めていく。新はその列に運ばれるように、森の奥へ進んだ。


「班長!」


 後方の兵が声を上げた。


 シルヴァンが振り返る。


「どうした!」


「後ろです! 王宮側の別道から追手が出てきました!」


 新は反射的に振り返った。


 視界の端で、暗紅色の外套が揺れた。


 夜の森の入口に、いくつもの影が現れている。先頭の数騎が枝を折りながら道へ入り、後ろの馬がその背に続く。さらにその後ろから怒号が重なり、暗紅色の外套が森の入口を埋めるように増えていった。


「紅の外套……」


 後方の兵が息を呑んだ。


「セレーヌ猊下の私兵です」


 シルヴァンは後方を見たまま、息を吐いた。


 暗紅色の外套は、森道へ流れ込むように増えていく。先頭だけでもかなりの数がいる。さらにその後ろにも、まだ影が続いていた。


 ギヨームたちが止めている追手とは別の道から回り込んできたのだろう。


 最初から、逃げ道を読まれていた。


「……見えるだけで五十はいるな」


 シルヴァンの声が低くなった。


 フィオナは一度だけ後方を見た。


「先遣隊であの数なら、後続に本隊がいると見るべきだ」


 遊撃班は三十名そこそこ。追手は、見えている数だけですでにこちらを上回っていた。


 森道は狭い。逃げるにはいいが、追いつかれれば逃げ場がなくなる。横に広がれない以上、後ろから押し込まれれば隊列ごと潰される。


 シルヴァンは後方の追手を見たまま、短く息を吐いた。迷う時間はなかった。


「遊撃班」


 短い呼びかけに、兵たちが反応した。


「はい」


「後ろを押さえる。最初は俺が残る」


 新は一瞬、意味が分からなかった。


 だが、遊撃班の兵たちはすぐに理解したようだった。誰も聞き返さない。


「待ってください!」


 新は声を上げた。


「シル兄が残るんですか!?」


「そうだ」


「駄目です!」


 カンナも振り返った。


「シルヴァン、あなたたちも一緒に来なさい」


「それは聞けません、殿下」


 シルヴァンは振り返らずに答えた。


「このままじゃ追いつかれます」


「……あなたたちまで、残るつもりですか」


 カンナの声が、少しだけ強くなった。


「全員でここを切り抜けます」


「無理です」


 シルヴァンは短く言った。その声には、いつもの軽さがなかった。


「誰かが残って止めなきゃ、全員まとめて潰されます」


 後方では、暗紅色の外套が木々の間を埋めるように近づいている。馬のいななきと怒号が重なり、土を蹴る音が大きくなっていく。


 シルヴァンはその音を背に受けたまま、ようやくカンナを見た。


 いつもの軽い笑みはない。


 カンナは唇を結んだ。


 止めたい。

 行かせたくない。


 その言葉を飲み込むように、鞍の前を握る指に力が入った。


 返す言葉を探すより早く、後方から馬のいななきと怒号が近づいてくる。


「最初は俺が残ります。俺ができるだけ時間を稼ぎます」


 シルヴァンは後方を見たまま言った。


「けど、あの数です。全部は止めきれません。何騎かは抜けてきます」


 暗紅色の外套が、木々の間で揺れている。


「そのたびに、こっちも三人ずつ残します。馬を止めて、道を詰まらせて、また時間を稼ぐ。倒す必要はありません」


「殿下を逃がすには、それしかない」


「シルヴァン」


 カンナの声が、そこで少しだけ細くなった。だが、シルヴァンは首を振った。


「ここは、俺に任せてください」


 新は言葉を失った。


 シルヴァンは遊撃班の兵たちへ視線を移す。


「俺が最初に後ろを押さえる。次に追いつかれそうになったら、三人ずつ残れ。倒す必要はない。馬を止めて、道を詰まらせろ。できるだけ時間を稼げ」


 兵たちが頷く。


「了解」


「次は俺たちが残ります」


「その次は俺らが残ります」


 声は短い。


 誰も長く話さない。


 追手は近づいている。


 シルヴァンはそこで、声を少し強めた。


「全員、聞け」


 遊撃班の兵たちの視線が集まる。


「無理はするな。やばいと思ったら馬を捨てて森へ入れ。囲まれたら武器を捨てて投降しろ。殿下を逃がすために時間を稼ぐのが役目だ。死ぬことが役目じゃねぇ」


 兵たちは一瞬、黙った。シルヴァンは後方を見たまま続ける。


「相手はセレーヌの兵だ。表向きは敵対していなかったんだ。武器を捨てた相手を、その場で斬ることはないだろう」


 暗紅色の外套が、木々の間で揺れている。


「捕まるだけでも足止めになる。縛るにも、連れていくにも、人手はいるからな」


 そこで、兵の一人が小さく笑った。


「班長が早々に投降するのはなしですよ」


「俺が最初に逃げたら、お前らが後でうるせぇだろ」


「一生言いますね」


「戻ったら酒、奢ってもらいますからね」


「じゃあ逃げねぇよ。ったく、面倒くせぇ」


 兵たちが小さく笑った。シルヴァンも口の端だけを上げ、剣の柄を握り直す。

 

 新は手綱を握ったまま、シルヴァンを見た。


「俺も残ります」


「馬をまっすぐ走らせるのも怪しい奴が、何言ってんだ」


「でも!」


「できることをやれ」


 シルヴァンの声が低くなる。


「今のお前が後ろに残ったら、足止めにもならねぇ。殿下の近くにいろ。それが今のお前の役目だ」


 新は手綱を引いた。


 馬の向きを変えようとした。


 だが、馬は前の馬について進もうとする。新の手の動きに首を振っただけで、道を外れない。


「くそ……」


 もう一度引こうとして、身体が傾いた。


 慌てて馬の首にしがみつく。


 手綱を引いても、馬は止まらなかった。

 向きを変えようとしても、首を振られるだけだった。


 自分の乗っている馬一頭さえ、新は思い通りにできない。奥歯を噛んでも、悔しさはどこにも逃げなかった。


「シル兄!」


 新が叫ぶ。


 シルヴァンは振り返った。新の顔を見ると、いつもの調子を崩さないまま言った。


「そんな顔すんな。俺が強いのは、お前が一番知ってんだろ」


 シルヴァンは、いつものように口の端を上げた。


「すぐ追いつくさ」


 新は言い返せなかった。


 シルヴァンは笑みを消し、前を向いた。


「だから前を見ろ、アラタ」


 その声は、いつもより静かだった。


 カンナがもう一度声を上げる。


「シルヴァン」


 シルヴァンは馬首を返しかけたまま、カンナへ向き直る。


「はい、殿下」


「……戻りなさい。これは命令です」


 命令の形をした願いだった。


 シルヴァンは一瞬だけ目を伏せた。それから、軽く頭を下げる。


「はい。できる限り、従います」


 声は穏やかだった。


「ですから、殿下は前へ進んでください。こっちは俺たちでどうにかします」


 カンナは唇を噛んだ。


 言葉を続けようとして、続けられなかった。


 フィオナが前を向いたまま言う。


「殿下、行きましょう」


「フィオナ」


「ここで迷えば、シルヴァンたちが稼ぐ時間を捨てることになります」


 フィオナはカンナを抱える腕を緩めなかった。その声に迷いはなかった。


「私の役目は、殿下を先へ進めることです」


 カンナは何も言わなかった。


 フィオナの腕の中で、鞍の前を握る指に力が入る。


 カンナが止めたいのは、新にも分かった。それでも、フィオナは馬を返さない。

 

 進むしかないことは分かっているのに、納得なんてできなかった。


 シルヴァンは手綱を引いた。

 馬が土を蹴って身をひるがえし、追手の方へ向き直る。


 暗紅色の外套が、森の入口からこちらへ迫っている。蹄の音が重なり、枝の間を怒号が抜けてきた。


 シルヴァンは剣を抜いた。


「行け!」


 フィオナが馬をそのまま走らせた。


 カンナは振り返ったまま、何かを言おうとした。けれど、その声は馬の加速に飲まれた。


 新の馬も、それにつられて前へ出る。


「待っ――」


 新は手綱を引いた。


 だが、馬は止まらない。前の馬に追いつこうとする。身体が大きく揺れ、手綱を握った指が痛むほど締まった。


「止まれよ……!」


 声が漏れた。


 馬は止まらなかった。


 背後で、シルヴァンの声が響いた。


「おい、セレーヌの手下ども! 殿下ばっか見てんじゃねぇよ」


 剣が月明かりを弾く。


「こっちに男前が残ってるだろうが!」


 馬のいななきが上がった。


 続いて、剣と剣がぶつかる音が森に響いた。


 新は振り返れなかった。


 少しでも身体をひねれば、鞍から落ちる。落ちれば、シルヴァンを助けるどころか、足を引っ張ってしまう。


 分かっているから、前を見るしかなかった。


 守護者だと言われて、壊れても戻る身体もある。

 シルヴァンに戦い方も教わった。


 それなのに今の新は、馬から落ちないようにしがみつくことしかできない。


 馬を止めることも、振り返ることもできなかった。


 シルヴァンを止められない。

 カンナを助ける言葉も出ない。

 ただ、馬に運ばれている。


 新は奥歯を噛んだ。


 森の小道はさらに細くなっていく。


 枝が肩をかすめ、葉が頬を打った。前を行くフィオナの背中が揺れている。カンナは、その前で何も言わない。


 ただ一度だけ、肩が小さく震えた。


 背後の戦いの音は、すぐには消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ