26.おじいさま
「殿下を王宮から出す。来る奴は武器を取れ」
命令は短かった。
だが、兵舎の中はすぐには動かなかった。
兵たちは互いに顔を見合わせた。
王宮内で異変が起きていることは分かっている。だが、王女を王宮の外へ連れ出すとなれば話は別だった。
それはただの護衛ではない。
命令を出している相手を間違えれば、王女を連れ去る反逆者として扱われてもおかしくなかった。
その迷いを、シルヴァンは責めなかった。
「無理についてこいとは言わねぇ。ここから先は、ただ殿下を外へお連れするだけじゃ済まない。追手と斬り合うことになるし、王宮の中に残る連中を敵に回すかもしれねぇ。俺も、お前ら全員を無事に帰せるとは約束できない」
シルヴァンの声に、いつもの軽さはなかった。兵たちを見る目も、笑っていなかった。
「それでも行く奴だけ来い。殿下を、こんなところで捕まえさせたくねぇ奴だけだ」
それでも、兵たちはまだ動かなかった。
カンナは、新の少し前に立っていた。
回復魔法を使った疲労が残っているのか、肩の上下がいつもよりわずかに大きい。けれど、背筋は伸びていた。
「シルヴァン」
カンナが声をかけた。
シルヴァンは振り返る。
「はい、殿下」
「少しだけ、話をさせてください」
シルヴァンは一瞬だけ眉を寄せた。
長くは止まれない。外の騒ぎが、いつここまで伸びてくるか分からない。
それでもカンナは、兵たちの前へ一歩出た。
「皆さん」
迷っていた兵たちの視線が、少しずつカンナへ向いた。
「今、王宮の中では、私を守るという名目で、私を捕らえようとする者たちが動いています。すでに王宮警護隊にも傷ついた者が出ました」
カンナの声は、兵舎の奥まで届いた。
議場で枢機卿たちに向けていた声とは違う。目の前にいる一人一人へ、きちんと届かせようとする声だった。
「これ以上、皆さんを危険に巻き込むことを、当然のように命じるつもりはありません。残ることも、この王宮を守る大切な役目です。ここに残る者を、私は責めません」
兵たちは黙って聞いている。
カンナは一度、浅く息を吸った。
「それでも、私は王宮を出ます。聖樹の寿命を延ばし、人族との戦を止めるために、外へ出なければなりません」
誰かが、剣帯を握る手に力を込めた。
「私についてくれば、危険な道を進むことになります。家族や大切な人を残して来る者もいるでしょう。それでも共に来てくれるなら、私の命だけではなく、あなたたちが帰る場所と、この世界の明日を守るために、力を貸してください」
兵舎の奥で、年若い兵が唇を結んだ。
隣にいた兵が、その肩を軽く叩く。
年若い兵は一度うつむき、それから武器棚へ歩き出した。
「難しい事情は分かりません。けど、殿下には恩があります」
兵は剣を取り、腰の剣帯へ差した。
「遊撃班は外へ出る任務が多いからって、殿下は危険手当をつけてくださった。古い革鎧も替えてくれた。怪我で動けなくなった奴の給金も、すぐには切られないようにしてくれた」
兵はシルヴァンを見て、それからカンナへ向き直った。
「殿下は、俺たちのことをちゃんと見てくれてました。だったら今度は、俺たちが殿下のために動きます」
それを合図にしたように、他の者たちも動き出す。
「遊撃班、殿下にお供します」
誰かがそう言った。続いて、別の兵が拳を胸に当てる。
「同じく」
「行きます」
「殿下をお守りします」
声が重なった。
カンナは、震えそうになる声を押さえて頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼は王宮を無事に出てからでいいですぜ、殿下」
シルヴァンが口を挟む。その声で、兵たちの動きがまた速くなった。
「了解!」
「弓持ちは後ろにつけ! 足の速い奴は先に出ろ。東の裏門までの道を確認しろ!」
命令が飛び、兵舎内が一気に動き出した。
シルヴァンが兵たちへ指示を飛ばし終えると、カンナたちは兵舎の裏手へ向かった。
新は、引き出された馬を見上げた。
近くで見ると、思っていたよりずっと大きい。蹄が石畳を叩くたび、腹の奥まで響くようだった。
「……俺、馬なんて乗ったことないんですけど」
「安心しろ。馬の方は訓練されてる」
シルヴァンが手綱を新へ押しつける。
「こいつは先頭の馬について走る。お前は余計なことしなくていい。振り落とされないようにしがみついとけ」
「それが安心できる説明ですか!?」
「やることが一つで済むからいいだろ」
シルヴァンは笑いながら、馬の首を軽く叩いた。
「殿下、こちらへ」
兵の一人が、他の馬より一回り大きな馬を引いてくる。脚は太く、首も厚い。暴れているわけではないのに、立っているだけで力のある馬だと分かった。
フィオナが迷わず手綱を受け取った。
「殿下は私と同じ馬に。私が手綱を取ります」
カンナは小さく頷いた。
フィオナが先に鐙へ足をかける。馬上へ上がる動きに無駄はなかった。続いて、兵がカンナを支え、フィオナが腕を伸ばして引き上げる。
カンナがフィオナの前に収まった、その時だった。先に東の裏門へ向かっていた兵の一人が、馬房の外から駆け戻ってきた。
「シルヴァン班長」
声は抑えられていたが、表情は硬い。
「東の裏門へ続く道に、兵がいます」
「リュカの私兵か?」
「いえ。サン・クレール家の兵です」
シルヴァンの顔から、わずかに色が消えた。
馬房の外、東の裏門へ続く石畳の先に、人影が並んでいた。
数は多くない。十名に満たない程度。
だが、誰一人として腰が引けていない。盾を持つ者が前に出て、槍を持つ者がその後ろに控えている。さらに背後には、弓を持った兵が二人。
深緑の外套ではない。
濃い灰色の外套。その胸元には、サン・クレール家の紋が見えた。
その中央に、一人の老人が立っていた。
長い外套の裾が、夜気に揺れている。
腰には剣。
顔は暗がりに半分隠れていたが、その姿を見間違える者はいなかった。
「ギヨーム……」
カンナの声が、小さく漏れた。
ギヨーム・サン・クレール。
評議会の枢機卿であり、王族派と呼ばれていた人物。
そのギヨームが、東の裏門へ続く道を塞いでいた。
シルヴァンが、剣の柄へ手をかける。
「ギヨーム猊下。今はちょっと、立ち話してる暇がねぇんですが」
「分かっている」
ギヨームは静かに答えた。
その目は、シルヴァンではなくカンナへ向いている。
「だからこそ、ここでお待ちしておりました」
「ギヨーム猊下。そこをお通しください」
フィオナの声は低く、抑えられていた。
カンナを前に乗せたまま、手綱を握る手にわずかに力が入る。
「それはできぬ」
短い返答だった。
サン・クレールの兵たちが、盾をわずかに上げる。
剣はまだ抜かれていない。だが、通すつもりもない様子だ。
遊撃班の兵たちも、馬の手綱を握ったまま武器へ手を伸ばす。
「あなたも、私を止めるのですか」
カンナが馬上から問いかけた。
「はい」
ギヨームは、迷わず頷いた。
「私は、殿下を外へ出したくありません」
カンナは、すぐには言葉を返せなかった。
ギヨームは、最初からカンナの旅立ちを否定してはいなかった。
評議会の前から、旅そのものの必要は認めていた。
カンナが王宮に留まるだけでは間に合わないことも、外へ出なければ聖樹の寿命を延ばす道は開けないことも、誰より分かっていた。
だからこそ、評議会でもカンナを支えた。
理だけでは押し切れない場で、それでも旅立ちを認める側に立った。
それなのに今、彼は兵まで連れて、東の裏門へ続く道を塞いでいる。
「ギヨーム」
カンナの声には、怒りよりも戸惑いがあった。
「あなたは、最初から私の旅立ちを認めてくださっていました。評議会でも、私に賛成してくださいました」
ギヨームは答えなかった。
ただ、剣の柄に添えた手に力がこもる。
「それなのに、なぜ今、私の前に立つのです」
ギヨームはしばらくカンナを見つめてから、低く言った。
「認めておりました。殿下が外へ出なければならないことも、その道が間違っていないことも」
「なら――」
「ですが、正しい道だからといって、失う覚悟までできていたわけではございません」
そこにあったのは、枢機卿としての判断ではなかった。長く王家に仕えてきた者の迷いだった。
「セレーヌに殿下を渡すつもりはありません。リュカの思惑に従うつもりもない。ですが、王宮の外へ出すことも、私には認められない」
「それで、私をどこへ連れていくおつもりですか」
「翠晶宮の奥にて私の兵でお守りします。セレーヌにも、リュカにも、殿下を渡しはしません。誰にも触れさせません」
「それでは、同じです」
カンナは静かに言った。
「名目が変わるだけで、私は閉じ込められる」
「閉じ込めるのではありません」
ギヨームの声が、少しだけ強くなった。
「殿下をお守りするのです。その間に、聖樹の寿命を延ばす別の手段を探します。殿下が外へ出ずとも済む道を、必ず」
カンナはすぐには返さなかった。
新は、ギヨームの言葉にわずかに息を止めた。
別の手段。
それがあるなら、カンナが危険な旅に出る必要はない。聖樹の内側へ入る必要もない。シオンと同じ道を歩かずに済むかもしれない。
だが、カンナの表情は明るくならなかった。
「……その道は、今まで探されてこなかったのですか」
ギヨームは答えなかった。
「聖樹の寿命を延ばす方法は、ずっと探されてきたはずです。姉上が聖樹へ向かう前も。その後も。私が次に数えられるようになってからも」
「それでも、まだ見つかっていないだけです」
「残された時間は、一年半ほどです」
カンナの声は落ち着いていた。
けれど、その言葉は逃げ道を許さなかった。
「その間に、本当に見つかる保証はありますか」
ギヨームの手が、剣の柄を強く握った。
答えは返ってこない。
「私も、別の道を探すことを諦めたわけではありません」
カンナは続けた。
「ですが、見つかるかどうか分からない道だけに、聖樹の残り時間を預けることはできません。鍵を受け入れ、聖樹の内側へ入る。それが今、確かに残されている手段です」
「殿下……」
「でも、外へ出なければ、見えないものがあります。人族がどこまで進んでいるのか。各国で何が起きているのか。聖樹に頼り続ける以外の道が、本当にどこにもないのか」
ギヨームは何も言わない。
「王宮の奥で守られているだけでは、もう間に合いません」
カンナは言った。
「ここに残れば、私は今日だけは無事かもしれません。けれど聖樹の寿命は延びません。人族の侵攻も止まりません。次に王族の血を引く誰かが、また同じ場所へ押し出されるだけです」
ギヨームの手が、剣の柄を握った。
「あなたが本当に私を案じてくださるなら、ここで止めないでください」
カンナはまっすぐに言った。
「私と共に戦ってください。人族が広げたこの戦を止めるために。王族の誰かが、同じ役目を背負わされ続ける形を終わらせるために」
ギヨームは答えなかった。
夜風が、馬房の匂いを運んでくる。
馬が落ち着かないように前脚を鳴らした。遊撃班の兵が、なだめるように首筋を叩く。
ギヨームは、カンナから目を逸らさなかった。
「私は、シオン様に剣を教えました」
その名が出た瞬間、カンナの肩が小さく動いた。
「初めて木剣を握られた時、あの方はまだ幼く、剣を振るたびに身体ごと持っていかれておりました。それでも、転んでは立ち上がり、手の皮がむけても稽古場へ来た」
ギヨームの目が、ほんの少し細くなる。
「殿下は、その後ろをよく走っておられた。まだ木剣を持つには小さすぎて、落ちていた枝を拾って、シオン様の真似をしておられた」
「……覚えています」
カンナの声は低かった。
「一度、殿下は稽古場の端で転ばれた。膝を擦りむいて、大きな声で泣かれましたな」
カンナは何も言わない。
「その時、殿下は私に向かって仰った。姉上を止めて、と」
新は、カンナの横顔を見た。ギヨームの言葉の中にいる幼い自分を、じっと見ているようだった。
「シオン様が遠くへ行ってしまう気がしたのでしょう。剣を握るたび、前へ進むたび、自分の届かないところへ行ってしまう。幼い殿下は、それが怖かった」
ギヨームの声が、わずかに掠れた。
「私は、その時は笑って言いました。シオン様は強くなられるのです。殿下を置いていくためではありません、と」
カンナの指が、衣の裾を握った。
「ですが、私は後に、本当に止めなければならない時に止められなかった」
ギヨームは、そこで一度言葉を切った。
遠くからは、まだ怒号が聞こえていた。ここで迷っている時間はないと、誰もが分かっていた。
「シオン様が聖樹へ向かわれる時、私は同じ言葉を思い出しました。姉上を止めて。幼い殿下が泣いて私に縋った、あの言葉です」
「ギヨーム……」
「あの時、私は止める理由を探すより先に、止められぬ理由を数えておりました。シオン様の覚悟も、周りの目も、王家の役目も。すべてを言い訳にして、止める覚悟を決められなかった」
ギヨームの手が、剣の柄を強く握る。
「止めるべきだったのは、私です。ですが私は、何もできなかった」
新は、その言葉を聞きながら息を詰めた。
シオンは聖樹へ向かい、そのまま戻らなかったのだろう。新にも、それくらいは察しがついていた。
鍵を集め、聖樹の内側へ入る。
寿命を延ばすという役目の先でカンナ自身が何を求められるのか、新はまだ知らない。
聞きたかった。
けれど、今ここで問いかける場面ではなかった。
カンナはギヨームから目を逸らさなかった。
「だから、私も止めるのですか」
カンナが言った。
「姉上を止められなかったから、今度は私を」
「はい」
ギヨームは答えた。
その答えは重かった。
「殿下が私を恨んでも構いません。臆病者と呼ばれてもよい。ここで殿下を通し、また戻らぬ道へ送り出すくらいなら、私は嫌われる方を選びます」
カンナは、しばらく黙っていた。
馬上から、ギヨームを見つめる。
「ギヨーム」
「はい」
「あなたが姉上を大切に思ってくださっていたことは、知っています。私を案じてくださっていることも、分かっています」
カンナの声は震えていなかった。
「でも、私は姉上の代わりになるために行くわけでも、姉上が背負わされた役目をそのまま受け取りに行くわけでもありません」
ギヨームは答えなかった。
「鍵を受け入れ、聖樹の内側へ入る。ですが、その先で何を求められるのかまで、私は知らされていません」
新は、息を詰めた。
聖樹の寿命を延ばす。
カンナは、これまで何度もそう口にしていた。
だが、それは鍵を届ければ済む話ではなかった。
カンナ自身が、聖樹の内側へ入らなければならない。
そして、そこで何を求められるのかを、カンナもまだ知らない。
「だからこそ、私は行きます」
カンナは言った。
「何を差し出せばいいのかを決められる前に、何を差し出さずに済むのかを探すために」
ギヨームの目が、わずかに揺れた。
「このままでは、私の次も、その次も、誰かが同じように数えられます。王族の血を引いているというだけで、聖樹へ向かう者として扱われる」
カンナは息を吸った。
「私は、その流れを変えたいのです」
その場にいた誰も、すぐには声を出せなかった。
「だから、ここを通してください」
カンナは馬上からギヨームを見つめた。ギヨームは何も言わなかった。長い沈黙だった。
王宮の奥から足音と怒号が聞こえてくる。近づいているのか、遠ざかっているのか分からない。兵舎の外に立つ馬たちは、何度も首を振った。
ギヨームは、まだ退こうとしていない。
剣の柄に添えた手も離していない。
「殿下」
ギヨームがようやく口を開いた。
「もし、聖樹の内側で、シオン様と同じ選択を迫られたなら」
カンナは息を止めた。
「戻れば多くを失う。残れば何かを守れる。そう言われたなら、殿下はどうなさる」
「その時にならなければ、分からないことはあります」
カンナは、ギヨームから目を逸らさなかった。
「けれど、決められた答えを受け取りに行くつもりはありません」
ギヨームの眉間に、深く皺が刻まれる。
「……戻る道が、残されているとは限りませぬぞ」
カンナは一度、浅く息を吸った。
「それでも、私は最後までこの国に戻ることは諦めません」
ギヨームは目を閉じた。
カンナは、急かさず待ったが、視線だけはギヨームから逸らさなかった。
やがて、ギヨームはゆっくりと目を開いた。
「……立派になられた」
小さな声だった。
「シオン様が見れば、きっと驚かれたでしょう。あの小さかったカンナ様が、ここまでご自分の言葉で立たれるようになったと」
カンナは何も言わなかった。
「私は、優柔不断です」
ギヨームは自嘲するように言った。
「評議会では、殿下の理を認めました。けれど心では、まだ止めたかった。こうして兵まで連れてきた。殿下を守るためだと言いながら、私が失うことを恐れているだけなのかもしれません」
「ギヨーム……」
「外へ出せば、殿下は戻られないかもしれない。王宮の奥に隠せば、少なくとも私の目が届く。そう思いたかった」
ギヨームの手が、剣の柄から離れた。
「だが、それで本当に殿下を守れるのかと問われれば、私は答えられない」
サン・クレールの兵たちが、ギヨームを見た。
ギヨームは彼らへ向き直る。
「道を開けよ」
兵たちは一瞬ためらったが、すぐに盾を下ろした。
槍を持つ者が半歩下がり、弓を持つ者も弦から指を離す。
東の裏門へ続く道が開いた。
カンナが息を呑んだ、その時だった。
兵舎区画の奥で、金属のぶつかる音が響いた。
新はそちらへ目を向けた。
石畳の向こう、建物の影から深緑の外套がいくつも現れていた。まだ距離はある。けれど、こちらを追っていることは明らかだった。
遊撃班の兵たちが武器を構える。
「追いつかれるぞ」
シルヴァンが低く言った。
ギヨームは深緑の外套を見据えたまま、腰の剣を抜いた。
「サン・クレールの兵は、ここで追手を止める」
先ほどまでカンナの道を塞いでいた盾が、今度は追手の方へ向けられた。
槍の穂先が並び、弓兵が矢をつがえる。
「遊撃班は殿下の周りを固めろ。振り返るな。王宮の外までお連れしろ」
「ギヨーム猊下」
シルヴァンが低く言った。
「それじゃ、あんたらだけが残ることになる」
「この者たちは、私の無理を承知でここまで来てくれた者たちだ」
ギヨームは追手を見たまま言った。
「殿下を止めるために連れてきた。だが、今は違う。殿下をお逃がしするために、私と共に残る」
サン・クレールの兵たちは、誰一人として退かなかった。
シルヴァンは奥歯を噛んだ。それ以上は言い返さなかった。
「全員、殿下の周りを固めろ!」
遊撃班の兵たちが動き出す。
ギヨームはカンナへ振り返る。
「殿下。お行きください」
カンナは動かなかった。拳を握り、ギヨームを見つめている。王女として命じられる側ではなく、幼い頃から知る相手を置いていけない顔だった。
「ギヨーム」
「はい」
「……死なないでください」
ギヨームは一瞬だけ目を伏せた。
それから、深く頷いた。
「必ず」
短い返事だった。
ギヨームは、その顔を見てから、フィオナへ視線を移した。
「フィオナ殿。殿下を、頼んだ」
フィオナは黙って頷いた。カンナを前に乗せたまま、手綱を握り直す。
遠くの深緑の外套が、こちらへ近づいてくる。
サン・クレールの兵たちは盾を並べ、槍の穂先を揃えた。
それでもカンナは、もう一度だけギヨームを見た。
「……おじいさま」
ギヨームの表情が、はっきりと変わった。
険しかった目元が緩む。
ほんの短い間だけ、そこにいたのは枢機卿ではなく、稽古場で幼い王女を見守っていた老人だった。
「久々に、そう呼んでくださいましたな」
カンナの目に涙が浮かびかけた。
けれど、こぼれる前に顔を上げた。
「行ってまいります」
「はい」
ギヨームは剣を構えた。
「行ってらっしゃいませ、カンナ様」
シルヴァンが馬へ飛び乗る。
「出るぞ! 殿下の馬を囲め!」
新も別の馬へ促された。
どうにか馬上へ上がったものの、そこからどうすればいいのか分からない。手綱を握ったまま固まっていると、馬は前の馬について進み始めた。
「余計なことすんな! 手綱握って、落ちねぇことだけ考えろ!」
「それでいいんですか!?」
「今のお前にはそれで十分だ!」
新は慌てて馬の首に身体を寄せた。
背後で、サン・クレールの兵たちが一斉に前へ出た。
盾が並び、槍が低く構えられる。
ギヨームも一歩前へ進んだ。
新は馬上で振り返りかけた。
だが、すぐに前を向いた。
カンナも一度だけ振り返った。
ギヨームの背中が見えた。
深緑の外套を着た追手たちの前に、老いた剣士とサン・クレールの兵たちが立っている。
東の裏門が近づく。
「東の裏門だ! そのまま抜けろ!」
シルヴァンの声が飛ぶ。
馬の蹄が石畳を叩いた。
シルヴァンが先頭で門へ飛び込んだ。
続いて、フィオナがカンナを前に乗せた馬を走らせる。新も手綱にしがみつくようにして、その後を追った。遊撃班の兵たちが左右と後ろを固め、次々と王宮の外へ出る。
背後で、大きな金属音が響いた。
新は振り返らなかった。
カンナは前を向いたまま、何も言わなかった。
けれど、鞍の前を掴む指には力が入っていた。
ギヨームを置いてきた。
オギュストも、王宮警護兵たちも、退避路の前で囮になった三人も。
新は、手綱を握る手に力を込めた。
置いてきた者たちの顔が、夜道に出ても頭から離れなかった。
王宮の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
背後の剣戟も、その灯りと一緒に遠くなっていった。




