25.王宮脱出
扉が吹き飛んだ。
割れた木片が床を跳ね、外れた蝶番が石壁に当たって甲高い音を立てる。
その破片が落ちきる前に、フィオナは動いていた。
右手の剣に、青白い光が走る。
刃の根元から雷が噴き上がり、腕へ、肩へ、外套の裾へと絡みつく。乾いた破裂音が、控室の空気を叩いた。
「アラタ、殿下の前へ!」
叫ぶ声と同時に、フィオナの姿が消えた。
新にはそう見えた。
吹き飛んだ扉板の陰を抜け、青白い雷そのものになったように、フィオナが廊下へ突っ込む。
次の瞬間、廊下が白く弾けた。
雷鳴というほど長い音ではなかった。短く、鋭く、耳の奥を殴るような音だった。
入口に詰めていた深緑の外套の兵たちが、まとめて吹き飛ぶ。
剣が床を跳ね、誰かの背中が壁にぶつかる。呻き声が重なった時には、控室の前に立っている者はもういなかった。
フィオナだけが、雷をまとったまま廊下の中央に立っていた。
剣を下げているのに、誰も近づけない。外套の端からまだ細い雷が散り、床に落ちた木片が小さく跳ねた。
新は反射的に動いた。
カンナを守るため、前へ出て腰の剣を抜く。何をすればいいかは、考えるまでもなかった。
フィオナはすでに廊下の中央にいた。新の背後にはカンナがいる。廊下には、控室前を守っていた王宮警護兵が倒れていた。
青い外套が床に広がり、肩口から血がにじんでいる。先ほどまで扉の外に立っていた兵だ。
その向こう側で、深緑の外套の兵たちがこちらを見ていた。
枢機卿付きの私兵。
評議会場を出た後、廊下で目についた外套と同じ色だった。
先頭に残った男の視線は、フィオナと新へ向いている。
「カンナ殿下には傷一つつけるな!」
男が命じた。
「護衛を引き離せ。王女殿下を保護する!」
その言葉で、新にもようやく分かった。
殺す気はないが、カンナの意思を聞かずに連れていく気だと。
新は剣を握る手に力を込めた。
「……その汚い手で、殿下に触れられると思うな」
フィオナの低い声に合わせて、剣にまとわりついた雷がひときわ強く弾けた。
「何事です!」
オギュストの声が飛ぶ。
老枢機卿は杖を握り、震える足で一歩前に出た。
「セレーヌか!リュカか!誰の命で動いている! 殿下の御前で、このような真似が許されると思っているのですか!」
私兵たちは答えなかった。
代わりに、別の男がフィオナへ踏み込む。
フィオナは雷をまとったまま、前へ出た。それだけで、相手の踏み込みが止まる。
次の瞬間、フィオナの剣の腹が男の手首を打った。剣が床へ落ちる。続けて胸を蹴りつけると、男は後ろの私兵を巻き込みながら廊下の壁にぶつかった。
別の私兵が横から抜けようとする。
フィオナは振り向きもしなかった。剣だけが動き、男の膝を払う。踏み出しかけた足が崩れ、深緑の外套が床に倒れ込んだ。
さらに一人が剣を振り上げる。
その腕が下りる前に、フィオナの刃が肩口を浅く裂いた。男は呻き、剣を取り落とす。
誰も死んではいない。だが、誰もカンナに近づくことはできなかった。
「隊長!」
新の背中側から、王宮警護兵たちの声がした。
騒ぎを聞きつけたのだろう。青い外套をまとった兵たちが、曲がり角から駆け込んでくる。
「殿下をお守りしろ!」
フィオナが叫ぶ。
「深緑の外套は敵と見なせ! 殿下を巻き込むな!」
王宮警護兵たちが即座に剣を抜いた。
青い外套と深い緑の外套が廊下でぶつかる。金属音が続けざまに響いた。
新はカンナの前から離れないように、剣を構えた。
だが、その時、カンナが新の横で息を呑んだ。視線の先に、倒れた王宮警護兵がいる。
青い外套の下で、肩口から血が広がっていた。兵の指先がわずかに震え、すぐに力を失いかける。
「殿下、下がってください!」
フィオナの声が飛ぶ。
だが、カンナは倒れた兵から目を離さなかった。
「このままでは死にます」
「今は動かないでください!」
「その指示は聞けません」
カンナはそう言い切って、新の横を抜け、控室の外へ出た。
「カンナさん!」
新は思わず声を出す。
同時に、深緑の外套の一人がこちらへ踏み込んできた。
剣先はカンナではなく、新へ向いている。
「どけぇ!」
男が叫ぶ。
新は剣を構え直した。
怖い。
それでも、ここで退いたらカンナに手が伸びる。
踏み込んできた刃に合わせ、新は半歩ずれた。正面を外す。シルヴァンに何度も叩き込まれた動きだった。
相手の剣が肩先をかすめ、布だけを裂いて抜ける。
新は下から剣をぶつけた。受け止めるのではなく、刃の進む先をずらす。
手首に衝撃が走った。けれど、思ったより軽い。
シルヴァンの剣は、もっと重かった。受けた瞬間、腕ごと持っていかれるような圧があった。
だが、この目の前の相手ならまだやれる。
新は奥歯を噛み、柄を握る手に力を込めた。相手の刃を外へ弾き、体ごと一歩踏み込む。
「チッ」
私兵の体勢が崩れた。
訓練とは違う。相手は本気で、新を排除しに来ている。
それでも、今のは通じた。
新が剣を握り直した直後、別の私兵が斜め前から距離を詰めてきた。
そこへ、王宮警護兵が割り込む。
警護兵の剣が、横合いから迫った刃を受け止めた。
「アラタ殿、殿下を!」
「はい!」
新は一歩退き、カンナの前へ戻った。
カンナは倒れた兵のそばに膝をついていた。
血に濡れた傷口へ手をかざすと、淡い緑の光が指先からにじむ。裂けていた傷がゆっくりと寄り、あふれていた血が止まっていった。
完全に元通りではない。
だが、兵の胸は浅く上下し、青ざめていた顔にもわずかに色が戻る。
「出血は止めました。下げてください」
カンナが告げると、王宮警護兵がすぐに兵を抱え起こした。
そのすぐ横で、フィオナが私兵を押し返す。
「殿下、急いでください!」
「分かっています!」
カンナは立ち上がり、新の背後へ戻ろうとした。
その一歩目で、足元がふらついた。
「殿下」
新は反射的に手を伸ばし、カンナの手首を支えた。触れた手が、思ったより冷たい。
「ありがとうございます、……でも、大丈夫です」
カンナはすぐに体勢を立て直し、新の手から離れた。
「この場を離れましょう」
カンナの声に迷いはなかった。しかし、私兵たちは動きを止めない。
「王女殿下を確保する! 護衛を離せ!」
同じ言葉を繰り返し、さらに、深緑の外套の兵が踏み込んでくる。
フィオナがその前に立ち塞がった。王宮警護兵たちが横から割って入り、廊下は一気に狭い戦場になった。
フィオナは廊下の中央で、さらに私兵をまとめて押し返していた。
さきほどのように、雷を大きく散らしてはいない。
それでも、私兵たちは前へ出られない。振り上げた腕を打たれ、踏み込んだ足を裂かれ、横から抜けようとすれば肩口を斬られて壁際へ押し戻される。
血が床に散り、短い悲鳴が重なった。
それでも、一人もカンナの方へは抜けられない。
「殿下、ここから早く離れてください!」
オギュストが叫んだ。
フィオナが一瞬だけ振り向く。
「猊下!」
「私は残ります!」
オギュストは杖の先を床に打ちつけた。
「私の名で動かせる兵もいる。王宮警護兵と合わせれば、しばらくは押し留められます」
「それは危険です!」
「分かっています! だからこそ、殿下には先へ行っていただくのです!」
老いた声が、廊下に響いた。
「行きなさい。ここで時間を稼ぎます」
王宮警護兵の一人がうなずいた。
「隊長、ここは我々が!」
フィオナは一瞬だけ歯を食いしばった。
だが、すぐに判断した。
「三人、殿下につけ! 残りは猊下を守りながら足止めしろ!」
「はっ!」
王宮警護兵が三人、新たちの周囲につく。
フィオナは最後に一人の私兵を剣の腹で打ち倒し、こちらへ下がった。
カンナはオギュストを見た。
「オギュスト猊下、ご無事で」
オギュストは深く頭を下げた。
「殿下も、どうかご無事で。守護者殿、殿下をお願いいたします」
新は一瞬、返事に詰まった。
それでも、剣を握る手に力を込める。
「……はい」
カンナは唇を結び、短くうなずいた。
フィオナが新たちへ目を向けた。
「退きます!殿下、こちらへ」
新はカンナの横につき、廊下を走り出した。
背後で、剣戟の音が続く。
王宮警護兵たちが、私兵を押しとどめている。怒号、金属音、誰かの短い悲鳴。全部が背中から追いかけてくる。
カンナは走りながら、肩で息をしていた。
「カンナさん、さっきの魔法は……」
「回復魔法です。深い傷では、命をつなぐのがやっとですが」
「疲れてるようですけど……」
「大丈夫です。走れます」
「回復魔法は負担が大きい、……大丈夫には見えません」
前方を警戒したまま、フィオナが言った。
責める声ではなかった。
「ですが、今は止まれません。殿下、苦しくなったらすぐに言ってください」
「分かっています」
カンナは短く答え、足を緩めなかった。
廊下を曲がる。
正面の広い通路には、すでに深い緑の外套が数人立っていた。
フィオナが足を止める。
「回り込まれたか」
私兵たちは、やはりカンナへ刃を向けなかった。
代わりに、周囲の警護兵へ剣を向ける。
「殿下、お戻りください」
先頭の男が言った。
「ここから先へは行かせられません」
「誰の命令です」
カンナが問う。
男は答えない。
「わたしの問いに答えなさい」
「殿下には、安全な場所へお戻りいただきます」
「それは、わたしの意思を無視してでも、という意味ですか」
男は沈黙した。
それが答えだった。
フィオナが剣を構え直す。
「保護の名で拉致をするか」
低い声だった。
私兵たちが踏み込む。
王宮警護兵が前へ出た。新も剣を握る。だが、正面の数が多い。
フィオナなら、目の前の私兵たちを突破できる。
新にもそれは分かった。
だが、ここで足を止めれば、その分だけ後ろからの追手が近づいてくる。前を斬り開いている間に、背後を塞がれるかもしれない。
カンナを守りながら戦うには、廊下は狭すぎた。新の手に汗がにじむ。
その時だった。
「なんか騒がしいと思って来てみりゃ……」
横手の廊下から、聞き慣れた軽い声がした。
「おいおい。殿下囲んで何してんだ、お前ら」
シルヴァンだった。
声は軽い。
だが、手にはすでに抜き身の剣がある。
新が名を呼ぶより早く、シルヴァンは動いた。
一人目の膝裏を斬り、男の足が崩れ、倒れかけたところへ、シルヴァンは柄頭を顎に叩き込む。深緑の外套が床に沈んだ。
二人目が剣を振り上げる。シルヴァンは一歩踏み込み、相手の前腕を斬った。剣が床へ落ちる。続けて胸を蹴りつけると、男は壁に背中をぶつけ、そのまま崩れ落ちた。
三人目が身を引くより早く、シルヴァンの刃が肩口を浅く裂いた。
「ぐっ」
男の腕が止まる。
その隙に、シルヴァンはみぞおちへ肘を入れた。息が詰まり、身体が折れる。さらに首筋を柄頭で打つと、男は声もなく床へ倒れた。
「シル兄……」
新は思わず声を漏らした。
「おう、無事か新。漏らしてねぇよな?」
「漏らしてねぇよ!」
「なら上出来だ」
シルヴァンは口の端だけで笑った。新の胸の奥が少しだけ緩む。
助かった。そう思ってしまった。まだ何も終わっていないのに。
シルヴァンは倒れた私兵たちを一瞥し、すぐに通路の先へ目を向けた。
「話は走りながらにしましょう。こっちへ」
シルヴァンが先に駆け出す。
フィオナもカンナを促しながら、その横へ並んだ。
「何が起きている」
フィオナが短く聞く。
「おそらく、セレーヌとリュカの私兵です。王宮内で動いてます。数はまだ読めません。警護班と巡回班も混乱しています」
「やはり、セレーヌとリュカか、遊撃班はどうした」
「状況も分からないまま動かせないので、自分単独できました。まだ兵舎にいます」
「正面の門はもうすでに抑えられています。大廊下も危ない。遊撃班の兵舎へ行きましょう。俺の班なら、今この場で殿下を売るような馬鹿はいないです」
「どの道を使う」
シルヴァンはカンナを見た。
「殿下。王族用の退避路、ありますよね」
新はカンナを見た。
カンナは一瞬だけ目を伏せる。
「……あります」
「詳しい場所までは知りません。けど、あるって話だけは聞いてます」
フィオナがカンナを見る。
「殿下」
「こちらです」
カンナは迷わなかった。
「ただし、本来は王族以外に見せてはならない道です」
「今は規則を守っている場合ではありません」
フィオナは即答した。
「殿下の命が先です」
「同感です」
シルヴァンが軽く剣を振り、刃についた血を落とした。
「案内頼みます。後ろはフィオナ隊長と俺で」
フィオナが三人の警護兵へ視線を向ける。
「二人は前へ。もう一人は殿下の横につけ」
「俺は?」
新が聞くと、シルヴァンがちらりと見る。
「お前も殿下の横だ。前に出すぎんなよ」
「分かってます」
「その顔で言われても信用できねぇな」
「今は茶化さないでください」
「お、言うようになったな」
シルヴァンは少しだけ笑った。
けれど、その目はすぐに鋭く戻る。
「行くぞ」
広い通路を避け、壁際の細い廊下へ入る。王宮の奥へ向かう道だった。普段なら侍女や警護兵が通るような場所だが、今は人影がない。
背後で、また足音が近づく。
深い緑の外套が追ってきている。
カンナは廊下の突き当たりにある小さな扉の前で足を止めた。
中は、身支度に使うための控えの小部屋のようだった。壁際に水差しと布が置かれ、奥の壁には聖樹の枝葉を象った浅い彫刻がある。
隠し通路があるようには見えない。
警護兵の一人が、廊下の奥へ目を向ける。追手の足音が近づいていた。
「隊長。我々が追手を引きつけます」
新は思わずその兵を見た。
若い兵だった。顔には恐怖が残っている。それでも、剣を握る手は下がっていなかった。
「追手に、この部屋を見せるわけにはいきません」
もう二人の警護兵もうなずく。
「殿下をお連れください。時間を稼ぎます」
フィオナは一瞬だけ目を細めた。
「無理はするな。引けるところで引け」
「承知しました」
兵たちは短く答えた。だが、その目を見て、新には分かった。必要なら引かない覚悟もしていることが。
「アラタ、行くぞ」
シルヴァンの声で、新は我に返った。
警護兵の三人が廊下を駆け出す。
「殿下をお守りするのだ!」
わざと大きな声を上げ、足音を響かせながら角を曲がっていく。
追手の怒号が、そちらへ流れた。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
声と足音が遠ざかっていく。
「時間がありません」
フィオナが言う。
カンナは部屋の奥へ向かった。
聖樹の彫刻の中央に、小さな葉の形をしたくぼみがある。
カンナはそこに指を差し入れた。小さく、何かが外れる音がした。石壁がわずかに沈み、横へずれる。
暗い隙間が口を開けた。新は息を呑む。王宮の中に、こんな道があるとは思わなかった。
「これが王族用の退避路です」
カンナが言う。
「外へ直接は出られません。ですが、遊撃班の兵舎に近い区画までは抜けられます」
「十分です」
フィオナがうなずく。
「俺が先に入ります、殿下はその後ろで道案内お願いします」
シルヴァンが短く言った。
カンナはうなずく。
「分かりました」
シルヴァンが先に身を滑り込ませる。中を一瞬だけ見て、すぐに手で合図した。
「大丈夫です。殿下」
カンナが続き、新もその後へ入った。
石壁の内側は狭く、ひんやりとしていた。灯りはほとんどない。壁に埋め込まれた小さな魔法石が、淡い緑の光を放っているだけだ。
背後で、フィオナが最後に入る。
カンナが壁の内側にある突起を押した。
石壁がゆっくりと閉じる。
閉じきる直前、遠くで金属音が響いた。警護兵たちが、まだ追手を引きつけているのだろう。
新は奥歯を噛んだ。
石壁が完全に閉じると、その音も厚い石に遮られて鈍くなった。
新は息を吐いた。
だが、安心するには早すぎた。
細い通路を進む間、誰も大きな声を出さなかった。
先頭を行くシルヴァンが、曲がり角のたびに足を止める。カンナはその少し後ろから、進む方向を小さく示した。
新はカンナのすぐ後ろについた。
カンナの足取りは乱れていない。けれど、さっきより呼吸は浅い。
新は声をかけようとして、やめた。
今ここで立ち止まるわけにはいかない。
最後尾ではフィオナが警戒を解かず、足音を殺してついてくる。壁の向こうの怒号はもう聞こえない。それでも、新の背中にはずっと追われている感覚が残っていた。
通路を途中で何度か曲がった。
王宮の内側にこんな空間があることを、新は知らなかった。狭い石壁に肩が触れそうになるたび、逃げ道というより、どこかへ押し込まれていくような息苦しさを覚える。
やがて、通路の先に小さな扉が見えた。
カンナが足を止め、壁のくぼみに指をかける。
「この先が、東側の兵舎区画です」
シルヴァンが前へ出た。
「俺が先に出ます。フィオナ隊長、殿下を頼みます」
「分かっている」
シルヴァンが扉を押し開けた。
外から冷たい空気が流れ込む。
そこは王宮の外縁に近い、石造りの細い通路だった。少し先に、低い建物が並んでいる。警護隊の兵舎区画だ。
その中でも、奥にある建物の前に、遊撃班の紋が掲げられていた。
「着いた」
シルヴァンが短く言う。
だが、安心した様子はなかった。
彼はすぐに建物へ駆け寄り、扉を乱暴に叩いた。
「総員、装備を取れ! もたもたしてる暇はねぇぞ!」
返事より早く、シルヴァンは扉を開ける。
中にいた兵たちが、一斉に顔を上げた。
休んでいた者。武具の手入れをしていた者。机に向かっていた者。全員が、シルヴァンの顔と、その後ろのカンナを見て動きを止める。
「班長、これは――」
「説明は後だ」
シルヴァンは剣を握ったまま言った。
「殿下を王宮から出す」
兵たちの顔色が変わる。
シルヴァンは一息置き、低く続けた。
「来る奴は武器を取れ」




