24.五十年前の守護者
「私たちが、五十年前の守護者に何を背負わせてしまったのかを」
オギュストの声は、かすれていた。
その言葉のあと、控室にいた者たちは誰も口を開かなかった。
カンナは椅子に座ったまま、老枢機卿を見ている。フィオナは扉の近くに立ち、廊下の気配を確かめながらも、意識の半分をこちらに向けていた。
新は、自分の手を見下ろした。
守護者。
この世界に来てから、何度もその言葉を聞いた。聖樹に選ばれた者であり、世界を災厄から救う者。
けれど、オギュストの口から出たそれは、今まで聞いてきたものと少し違っていた。
救いの名ではない、自身の罪の名のように聞こえた。
「……話してください」
先に口を開いたのは、カンナだった。
「オギュスト猊下。五十年前の守護者に、何があったのですか」
オギュストは静かにうなずいた。
「では、順を追ってお話ししましょう」
杖を持つ手に力が入る。
「あの時代、この世界は大きな戦の中にありました。樹人族、人族、獣人族、竜人族、巨人族、亜人族。多くの種族が互いに争い、戦火は各地へ広がっておりました」
「全種族戦争……」
新は小さくつぶやいた。
シルヴァンから、少しだけ聞いたことがある。
五十年前、全種族を巻き込んだ大きな戦争があった。そこに現れた守護者が、戦を止めに行ったのだと。
オギュストは新のつぶやきにうなずいた。
「そう呼ばれるようになったのは、後のことです。当時の我々には、ただ、次の朝を迎えられるかどうかも分からぬ日々でした」
老いた目が、遠くを見る。
「樹人族は、初めから戦に加わっていたわけではありません。我々の役目は聖樹を守ること。各国の争いに不用意に関われば、聖樹そのものが戦火に巻き込まれる。それを避けるため、王宮も評議会も、できる限り中立を保とうとしておりました」
「ですが、その中立も長くは続きませんでした」
杖を握る手に、わずかに力がこもる。
「竜人族が攻めてきました。聖樹を押さえれば戦を有利に運べると考えた者もいたでしょう。樹人族が聖樹を盾に中立を掲げているように見え、それを他種族への裏切りと受け取った者もいた。ともかく、我々は防衛戦に引きずり出されました」
オギュストは、そこで一度言葉を切った。
「当時の私は、今のような枢機卿ではありません。ただの一兵士でした。若く、何も知らず、自分の剣が届く範囲のことしか見えていなかった」
カンナは黙って聞いている。
オギュストが自分を「ただの一兵士」と呼んだことに、新は少し驚いた。今の彼は、評議会の中で発言権を持つ老枢機卿だ。だが五十年前は、彼も命令を受け、戦場に立たされる側だったということだ。
「私は竜人族との前線におりました。竜人族は強い。翼を持つ者も多く、腕力もある。加えて、魔法石を用いた火炎や爆風の扱いにも慣れており、こちらの陣は何度も崩されました」
オギュストの声が低くなる。
「ある日、私は戦場で倒れました。槍を弾かれ、肩から脇腹まで裂かれ、もう立てないような状態まで追い込まれました。竜人族の兵がこちらへ向かってくるのが見えた時、私は自分がそこで死ぬのだと理解しました」
新は息を詰めた。
オギュストは静かに話していた。
それでも新には、その声がまだ戦場の記憶を引きずっているように聞こえた。
「その時です」
オギュストの目が、少しだけ細くなった。
「彼が現れました」
「五十年前の守護者……」
「ええ」
オギュストはうなずいた。
「その時、彼はすでに獣人族からの攻勢を退け、そちらの戦線を落ち着かせた後でした。休む間もなく、竜人族の前線へ送られてきたのです」
フィオナの表情がわずかに動いた。
「送られてきた、ですか」
「そうです」
オギュストは苦く笑った。
「守護者ならば何とかしてくれる。そう考えた者が多かった。私も、その一人です」
新は胸の奥が少し重くなるのを感じた。
守護者なら何とかしてくれる。
その言葉は、今の自分にも向けられているように思えた。
「彼は、私の前に立ちました。まだ若い方でした。ですが、戦場のど真ん中で、両軍に届くような大声で叫んだのです」
オギュストはゆっくりと言った。
「戦いを止めに来た、と」
控室の中が静かになる。
新には、その戦場の様子をはっきり思い描くことはできなかった。
ただ、倒れた兵や火の手、空から襲いかかる竜人族の中で、五十年前の守護者が声を張り上げていたのだと思うと、胸の奥が重くなった。
「それで、止まったんですか」
「止まりませんでした」
オギュストは首を横に振った。
「竜人族は突っ込んできました。樹人族も、攻められれば応戦するしかない。誰も彼の言葉を信じなかった。ですが、彼は竜人族を殺しませんでした」
「殺さずに……?」
「止めたのです」
オギュストの手が、杖の柄を握り直す。
「尋常ではない力でした。向かってきた竜人族を掴み、投げ飛ばす。槍を叩き落とし、盾ごと押し返す。翼を広げて飛び込んできた兵を、地面へ叩きつける。それでも、急所は外しておりました。骨は折れても、命は奪わない。殺さずに止める。彼は本気でそれをやろうとしていた」
新は思わず自分の腕を見た。
自分には、そんなことはできない。
相手を倒すだけでも難しい。殺さずに止めるなど、考える余裕すらないだろう。
「竜人族だけではありません。こちらの樹人族が敵を討とうとすれば、彼はそれも止めました。戦いを終わらせに来たと言った以上、どちらか一方の味方にはならない。そう言っておりました」
「そんなの……」
新は言いかけて、言葉を失った。
無茶だ、そう思った。
オギュストは、新の言葉にならない反応を受け止めるように、静かにうなずいた。
「ええ。無茶でした。ですが、彼はそれをやってのけたのです」
老枢機卿の目が、遠い戦場を見るように細められる。
「彼は、一か所に留まりませんでした。竜人族の槍を弾き、こちらの兵が振り上げた剣を押さえ、そのまま次の場所へ走る。翼を広げて飛び込んできた兵を地面へ叩き伏せ、倒れた者にとどめを刺そうとした樹人族を、肩で突き飛ばして止める。殺さず、殺させず、戦場を縫うように駆け回っておりました」
新は、何も言えなかった。
「その速さに、誰もついていけませんでした。竜人族も、樹人族も、目の前の敵ではなく、まず彼の動きを追うしかなくなった。斬り合っていた者たちの手が止まり、叫び声が途切れ、ほんの短い間ですが、戦場が動きを失ったのです」
オギュストは、杖を握る手に力を込めた。
「彼が止めたのは、敵だけではありませんでした。戦場そのものを、力ずくで止めたのです」
「その日の夜、私は彼と同じ火のそばで食事を取ることになりました」
オギュストの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「私を助けたからでしょうか。彼は私の顔を見るなり、死ななくてよかったと笑いました。戦場であれほど暴れた後とは思えないほど、よく笑う方でした」
カンナがわずかに目を伏せた。
「その方は、どのような人だったのですか」
「ニホンという場所から来たと話しておりました」
新は顔を上げた。日本。その言葉だけで、胸の奥が反応する。
オギュストは新を見た。
「あなたのいた場所と、同じなのかもしれませんな」
「……たぶん、そうです」
新は小さく答えた。
五十年前の守護者も、日本から来た。
それは、どこかで予想していたことだった。それでも、はっきり言葉にされると妙な感覚があった。
自分だけではない。
この世界には、以前にも日本から来た誰かがいたのだ。
新は、迷った末に口を開いた。
「その人の名前って、分かりますか」
知っている相手のはずがない。
五十年前の話だ。新が生まれるよりずっと前に、この世界へ来た人間なのだろう。それでも、日本から来たと聞いた以上、名前を確かめずにはいられなかった。
オギュストは少し目を伏せ、記憶をたどるように言った。
「名は、ナオト。確か、ホサカ・ナオトと名乗っておりました」
「ホサカ、ナオト……」
新は、その名を小さく繰り返した。当然だが、知らない名前だった。
「我々は、ナオト殿と呼んでおりました」
オギュストは静かに続ける。
「彼には、向こうの世界に子がいたそうです」
「食事の時も、酒の席でも、ふとした時によく話しておりました。会いたい、と。今頃どうしているだろう、と。剣も魔法も知らない子だが、走るのは速いのだと、誇らしそうに」
新は何も言えなかった。帰りたい。
自分も、そう思っていた。向こうに残した家族も友人もいる。
だが、五十年前の守護者には子どもがいた。その人が口にしていた「帰りたい」は、新が思っていたものより、もっと切実なものだったのかもしれない。
「彼は、戦うだけの方ではありませんでした」
オギュストは続ける。
「浴場の話は、今でも王宮に残っております。浴場を作ったのは彼の願いでした。戦が終わったら湯に浸かりたい。疲れた兵が体を洗い、傷を癒やし、また人の顔に戻れる場所が必要だと」
シルヴァンから聞いた浴場の話が、新の中でつながった。
風呂に入りたい。
軽い願いのように聞こえたそれは、戦場にいた人間にとって、もっと切実なものだったのかもしれない。
「それだけではありません。彼は、ニホンの知識をいくつも伝えてくれました。中でも、セッケンと呼ばれるものは大きかった」
「石鹸……」
新は思わず言った。
「アラタは知っているのですか」
カンナが聞く。
「はい。俺の世界では、普通に使っていました。手を洗ったり、体を洗ったりするものです」
オギュストはうなずいた。
「この世界にも、体を清める習慣はありました。薬草や灰を用いる方法もあった。ですが、ナオト殿が教えたセッケンは、油や血の汚れを落とし、傷口や手を以前より清潔に保つことができたのです。戦場では、傷そのものより、その後の腫れや熱で命を落とす者も多い。セッケンは、そうした死を減らしました。王宮でも、村でも、兵たちの陣でも、多くの命がそれによって救われた」
オギュストはゆっくり息を吐いた。
「今でも救われております。彼が残したものは、戦の記録よりも、人々の暮らしの中に多く残っている」
新は、少しだけ救われたような気がした。
五十年前の守護者は、ただ戦っただけではない。
壊れていったと聞かされても、その人が確かに誰かを救い、生活を変え、笑っていた時期があったのだと分かった。
「彼は、竜人族との戦いを抑えました。その後、巨人族、人族、亜人族、各地の戦線へ向かいました。もちろん、すべてがうまく進んだわけではありません。何度も裏切られました。停戦を結んだ翌日に別の部隊が攻め込むこともあった。彼を利用しようとする者も、担ぎ上げようとする者もおりました」
オギュストの声が少し沈む。
「それでも彼は、戦を終わらせようとしていた。種族ごとに話を聞き、武器を置かせ、必要なら力で止めた。いつしか、彼の周りには各種族の者が集まるようになりました。私も、その一人として帯同しました」
「オギュスト猊下も、旅に?」
「旅というより、戦場から戦場へ渡り歩く日々でした」
オギュストは苦い顔をした。
「最初の頃、ナオト殿はよく笑う方でした。くだらぬ冗談を言い、向こうの世界の話もしてくれた。子の話になると、特によく笑っておりました。ですが、戦場を渡り歩くうちに、少しずつ口数が減っていった。裏切りが重なり、止めたはずの戦がまた起こるたびに、笑うことも少なくなっていったのです」
新は息を止める。
「それでも、もうすぐ終わると喜んでいた時期がありました。竜人族も巨人族も人族も、大きな戦線は沈静化しつつあり、各種族の中に、戦を止めたい者たちも増えていきました。このままいけば、本当に終わるかもしれない。彼自身も、そう言っておりました」
オギュストの目が、暗くなる。
「その矢先でした」
「獣人族に従属させられていた亜人族の一部が、反乱を起こしました。彼は、それも止めに向かいました。獣人族に対しても、亜人族に対しても、これ以上血を流すなと説くために」
オギュストは唇を引き結んだ。
「その中に、ナオト殿と共に戦を終わらせると誓った亜人族の戦士がおりました。ナオト殿は信じていた。私も信じておりました」
次の言葉を言うまでに、少し間があった。
「その者が、ナオト殿を後ろから刺しました」
控室の空気が冷えた。
新は思わず息を呑む。
「どうして……」
「この機を逃せば、亜人族は獣人族から独立できない。そう考えたのでしょう」
オギュストは目を伏せた。
「戦がここで終わってしまえば、従属関係もそのまま固定される。獣人族と亜人族の間には、長い支配と恨みがありました。ナオト殿は、それを終わらせる前に戦そのものを止めようとした。ですが、亜人族の戦士にとっては、それでは足りなかった」
カンナの表情が苦しく歪む。
「裏切った側にも、理由はあったということですか」
「理由はありました。ですが、あの一撃が彼を変えました」
オギュストの声が震えた。
「ナオト殿は、それまでにも傷つきすぎておりました。骨が折れ、肉が裂け、魔法で焼かれ、槍で貫かれ、それでも聖樹の力で戻される。何度も、何度も。自分の身体が壊れても戻るという事実に、彼自身も、我々も慣れてしまっていた」
新の手に力が入る。
訓練で傷が戻った時の感覚がよみがえった。
気持ち悪さ。
痛みが残っているのに、身体だけが動ける形へ戻されるあの感じ。
「刺された時、何が起きたのか、今でも正確には分かりません」
オギュストは言った。
「傷つきすぎた身体と、ナオト殿自身の認識がずれたのか。心が限界を越えたのか。守護者としての力が暴走したのか。あるいは、そのすべてだったのか」
老枢機卿は、新を見た。
「彼は変わりました」
カンナの指が、椅子の肘掛けを握った。
「それまでも、ナオト殿の力は尋常ではありませんでした。身体が壊れても戻る。傷ついても立ち上がる。けれど、あの時からは違った。痛みを避けることも、身体を守ることも、しなくなったのです」
フィオナの目が細くなる。
「守りを捨てた、ということですか」
「それだけではありません」
オギュストは首を横に振った。
「怪力、というだけならまだ理解できました」
オギュストは、かすれた声で続けた。
「ナオト殿は、自分の身体を守る歯止めを失っておりました。腕を振れば、敵は吹き飛ぶが、その肩は裂ける。踏み込めば、誰よりも速く、その脚は潰れる。殴れば、相手の鎧が砕け、その拳も砕ける」
新は、思わず自分の手を握った。
訓練で傷が戻った時の、あの気味の悪い感覚がよみがえる。
「それでも聖樹は、裂けた肩も、潰れた脚も、砕けた拳も、また動ける形へ戻してしまう」
オギュストの声が、さらに沈んだ。
「ナオト殿は、戻された身体で、また力を振るった。身体が壊れることが、もう止まる理由になっていなかったのです」
新は言葉を失った。壊れることを前提に動く。自分の身体が砕けても、戻るから構わない。
そんな戦い方を続けたら、人はどうなるのか。考えるだけで、喉が渇いた。
「ナオト殿は、誰彼構わず襲いました。獣人族も、亜人族も、樹人族も、人族も。止めに入った仲間にさえ、牙を剥いた。戦場にいた者たちの目には、もはや守護者ではなく、全ての種族に襲いかかる化け物に見えたでしょう」
カンナが小さく息を呑む。
フィオナの手が、無意識に剣の柄へ近づいていた。
「皮肉なことです」
オギュストはかすれた声で言った。
「それまで互いに殺し合っていた者たちが、彼を止めるために初めて同じ方向を向きました。竜人族も、獣人族も、亜人族も、人族も、巨人族も、樹人族も。彼に救われた者たちが、彼を抑え込むために集まった」
「倒したんですか」
新の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「倒せませんでした」
オギュストは首を振る。
「殺すことなどできなかった。いえ、できたとしても、誰も本気でそれを望んではいなかった。多くの犠牲を出しながら、ようやく動きを封じました。鎖で縛り、魔法で抑え、巨人族が押さえ込み、竜人族が翼を裂かれながらも上から覆いかぶさった」
オギュストの手が震える。
「それでも、彼は暴れておりました。壊れた身体が戻るたびに、また力を出そうとする。あれはもう、戦っているのではなかった。帰りたいと願っていた一人の人間が、どこにも戻れなくなっている姿でした」
新は、胸の奥を掴まれたような気がした。
帰りたい。
その願いが、遠くから自分に重なる。
「その後、管理人様が現れました」
カンナの目がわずかに動いた。
「管理人様が……」
「はい」
オギュストはうなずいた。
「管理人様は、彼を回収するとだけ告げました。元の世界へ帰すのか、聖樹へ戻すのか、治すのか、何も説明はありませんでした。ただ、彼の身体は光に包まれ、我々の前から消えました」
オギュストは、そこで一度息を詰まらせた。
「そして、去り際にこう告げられました。このことは、むやみに語ってはならない、と。守護者は聖樹に選ばれし救いの存在であり、その名を傷つける話を広めれば、人々の信仰と秩序を乱すことになる。そう言われたのです」
「その後は」
「分かりません」
オギュストは静かに言った。
「ナオト殿が元の世界へ帰れたのか。帰れたとして、理性を取り戻せたのか。子に会えたのか。それを知る者は、少なくとも私の周りにはおりません」
新は何も言えなかった。日本に帰れたのか、子どもに会えたのか。それすら分からない。
「……それで、記録が残っていないんですか」
新が尋ねると、オギュストは苦い顔でうなずいた。
「ええ。すべてが消されたわけではありません。浴場やせっけんのように、暮らしに残ったものもある。ですが、ナオト殿が最後にどうなったのかを記したものは、ほとんど残されませんでした」
カンナが、静かに眉を寄せる。
「では、なぜ今、その話を」
その問いに、オギュストはすぐには答えなかった。
杖を握る手に、力が入る。
「守護者殿が、再び現れたからです」
老枢機卿の目が、新へ向いた。
「この話を民へ広めるつもりはございません。ナオト殿の名を貶めるためでもない。ですが、あなた方には知っておいていただかねばならないと思いました。何も知らぬまま、また守護者にすべてを背負わせれば、我々は五十年前と同じ過ちを繰り返すことになる」
オギュストは、深く息を吐いた。
「管理人様の言葉に背くことになるのかもしれません。それでも、今黙っていることの方が、私には耐えられませんでした」
五十年前の守護者は、世界を救ったのかもしれない。戦争を止めたのかもしれない。石鹸や浴場を残し、多くの人を救ったのかもしれない。
それでも、その人自身がどうなったのかは誰も知らない。
「私は、ずっと後悔しております」
オギュストの声が、ひどく静かになった。
「あの方に頼りすぎた。守護者だから大丈夫だと、誰もが思ってしまった。傷ついても戻るなら、まだ戦えると。痛みに耐えられるなら、もう一度前へ出てくれると。本人が笑っているうちは、その裏で何が削れているのかを見なかった」
新は、オギュストを見た。
老枢機卿の背中は丸い。
けれど、その声には長い時間が乗っていた。
「守護者殿」
オギュストは新へ向き直った。
「これからの旅で、あなたは自分の力以上のものを求められるかもしれません。身体が傷つこうとも、前へ出なければならない場面があるかもしれない。守護者である以上、それは避けられぬ時もあるでしょう」
新は喉を鳴らした。
「ですが、どうか覚えておいてください」
オギュストは深く頭を下げた。
「あなたの身体は、道具ではありません。壊れて戻るからといって、壊してよいものではありません。痛みを無視し続ければ、心もまた、無事ではいられない」
その言葉は、新の胸に重く落ちた。
「カンナ殿下、フィオナ殿」
オギュストは、二人へ向き直った。
「守護者殿に頼らねばならぬ時は、必ず来るでしょう。ですが、守護者だからといって、どこまでも背負わせてよいわけではございません」
カンナは唇を結んだ。フィオナも、すぐには答えなかった。
「守護者殿が、自分の痛みを数えなくなった時は、どうか止めてください。力で無理なら、言葉でもよい。殿下でも、あなたでも、誰でもよい」
オギュストは深く頭を下げた。
「あの方を止められなかった私が言えることではありません。ですが……どうか、同じことを繰り返さないでください」
少しの沈黙の後、カンナが小さくうなずいた。
「……忘れません」
フィオナも、遅れて短く答えた。
「承知しました」
カンナは、改めて新を見た。
その目には、評議会の時とは別の痛みがあった。
「アラタ」
「……はい」
「あなたに、そこまで背負わせるために旅へ出るつもりはありません」
新は反射的に首を横に振りかけた。
けれど、言葉が出る前にカンナが続ける。
「それでも、きっと頼ってしまう時が来ます。だから、今の話は、わたしも忘れません」
新は何も返せなかった。
頼られることが嫌なわけではない。
むしろ、何もできないまま守られるだけの方が嫌だ。
けれど、五十年前の守護者の話を聞いた後では、簡単に「大丈夫です」とは言えなかった。
「俺も……覚えておきます」
ようやく、それだけ言った。
その時だった。
扉の外で、慌ただしい足音が聞こえた。
フィオナの顔がすぐに変わる。
さっきまでの重い沈黙が、一瞬で別の緊張に変わった。
「何事だ」
フィオナが扉の方へ向かうより早く、外の兵の声が飛んだ。
「止まれ! ここから先は――」
言葉は途中で途切れた。
鈍い音が続く。
何かが床へ倒れた音。
次いで、金属が引きずられる音がした。
新の身体が強張る。
フィオナはすでに剣に手をかけ、カンナの前へ出ていた。
「殿下、お下がりください」
声は低い。
カンナが椅子から立ち上がる。
オギュストも杖を握り直したが、フィオナが視線だけで制した。
「アラタ」
フィオナが短く呼ぶ。
「殿下の左へ。扉から離れろ」
「はい!」
新はカンナの横へ動いた。
心臓が激しく鳴っている。
扉の外で、複数の足音が止まった。
フィオナが剣を抜く。刃が控室の薄い光を拾った。
「扉を破られる。構えろ」
直後、扉の向こうから重い衝撃が叩きつけられた。木が裂ける音がした。
次の瞬間、蝶番が飛び、控室の扉が内側へ吹き飛んだ。




