23.旅立ちの前に
旅立ちの承認が下りても、評議会はすぐには終わらなかった。
書記官が次の議題を読み上げる。王都外縁部の防壁補修、避難民を受け入れるための仮設棟の増築、兵糧庫の拡張。その費用をどこから出すかについて、枢機卿たちは短く意見を交わした。
聖樹祭と言う祭の予備費を回すべきだという声もあれば、民の不安を煽るとして反対する声もあった。王宮修繕費、評議会の緊急積立、王家の管理費。その名が次々に出て、書記官の筆が忙しく動く。
新には、細かな金の流れまでは分からない。
ただ、カンナの旅立ちだけがこの国の問題ではないのだと分かった。ここに残る人たちをどう守るか。逃げてきた者をどこへ収めるか。兵を動かすための食糧をどう蓄えるか。そういう話も、同じ場で決められていく。
いくつかの議題が処理され、評議会はようやく閉じられた。
評議会の間を出ても、カンナはしばらく何も言わなかった。
廊下には、議場の中とは違う静けさがあった。壁際に立つ兵たちは、カンナが通るたびに背筋を伸ばす。けれど、声をかけてくる者はいない。
旅立ちは認められた。王宮の外へ出る道は、ようやく開いた。
それでも、カンナの横顔に安堵はなかった。唇は固く結ばれ、視線は前に向けられたままだった。
新も、何を言えばいいのか分からなかった。
この世界に来てから一か月近く経つ。訓練も受けた。王宮の事情も、少しずつ見えてきたつもりでいた。それでも、評議会で交わされた言葉は、まだうまく整理できていない。だからと言って、今のカンナにそれを尋ねる気にもなれなかった。
フィオナも、カンナの半歩後ろを無言で歩いていた。周囲へ目を配る動きはいつもと変わらない。ただ、その表情は普段よりも硬い。
フィオナは歩きながら、廊下の端に立つ兵たちへ何度か目を向けていた。
「……いつもの評議会後より、多いですね」
フィオナが小さく言った。
カンナが、わずかに顔を向ける。
「枢機卿付きの私兵ですね」
声が少し硬くなる。
「評議会の後に護衛が残ること自体は珍しくありません。ですが……確かに、多い」
「ええ。普段より数が目立ちます」
新は、言われてからようやく気づいた。
王宮警護隊の外套は青い。けれど廊下の端には、深い緑の外套を着た兵が何人もいる。
評議会の警備だと思えば見過ごしてしまいそうだが、二人の反応を見る限り、いつもの数ではないらしい。
「……念のため、控室の前だけは固めます」
フィオナはそう言って、歩調をわずかに早めた。
控室の前まで戻ると、扉の横に立っていた兵がすぐに姿勢を正した。
「異常は」
フィオナが短く問う。
「ありません。廊下の巡回も増やしております」
「控室前の警護を二名増やせ。枢機卿付きの私兵は、この扉に近づけるな」
「はっ」
「ロランにも伝えろ。評議会付きの護衛が普段より多い。配置を確認させろ」
「承知しました」
兵が扉を開けた。
控室は、評議会へ向かう前とほとんど変わっていなかった。長椅子と卓。壁際の棚。窓には厚手の布が下ろされている。
部屋に入って、誰もすぐには腰を下ろさなかった。カンナは卓の前で足を止め、フィオナも扉の内側に立ったまま廊下の気配を確かめている。
評議会へ向かう前にあった緊張とは、少し違う。
何かを決める前の張り詰め方ではなく、決まったことをどう受け止めるかを探しているような沈黙だった。
「殿下」
フィオナが声をかける。
「まずはお掛けください。顔色がよくありません」
「……ありがとう、少しだけ休みます」
カンナはそう答えて、椅子に腰を下ろした。
新も向かいに座るべきか迷った。フィオナが目で促したので、卓を挟んで腰を下ろす。
カンナは卓の上に置かれていた地図へ手を伸ばした。羊皮紙の端には重しが置かれ、王都から各国へ伸びる道が細かく記されている。
「アラタ」
カンナが顔を上げた。
「評議会の承認は得ました。ですが、これで安全に出られるわけではありません」
「むしろ、ここから先の方が危険です。わたしたちが旅に出ると正式に決まった以上、それを止めようとする者が動く可能性があります」
新は喉の奥が詰まるのを感じた。
評議会では認められた。だが、それで全員が納得したわけではない。
セレーヌは最後に採決を認めた。けれど、あの沈黙を思い出すと、素直に安心することはできなかった。
「まず、王宮警護隊の件です」
カンナはフィオナへ視線を向けた。
「フィオナ。引き継ぎはどうなっていますか」
「すでに済ませております」
フィオナは姿勢を正して答えた。
「私が王宮を離れる間、警護隊の指揮は警護班長のロランに預けます。巡回班長のマチューには、外周の巡回と伝令経路の確認を任せております。王宮内の配置も、殿下の旅立ちを前提に組み直すよう指示しました」
「遊撃班は」
「現時点では、シルヴァンが王宮に残る前提で組ませています。ただ、同行することになれば、遊撃班の動きはロランとマチューの下に組み込み直します」
新は地図から顔を上げた。
「シル兄が来るかどうかで、王宮側の警備も変わるんですね」
「ええ」
フィオナは新に視線を向けた。
「遊撃班は、王宮外の不測の事態に対応する班です。シルヴァンが残れば、王宮周辺で何か起きた時の対応力は保てます。だが、殿下の旅に同行するなら、その穴を他の二班で補う必要があります」
「警備が薄くなる場所は出るんですか?」
「避けられません」
フィオナはごまかさずに答えた。
「ですが、薄くなる場所を把握していれば、補い方はあります。ロランには門と控室周辺、マチューには外周と伝令経路を重点的に見させます。問題は、殿下の旅に同行できる者をどこまで絞るかです」
新は黙ってうなずいた。
フィオナは王宮警護隊長だ。
本来なら、王宮に残って全体を見るべき立場なのかもしれない。
だが、カンナが外へ出るなら、フィオナは同行する。それだけは、初めから決まっているようだった。
「そこで、アラタにお願いがあります」
カンナが新を見た。
「シルヴァンを、もう一度説得してもらえませんか」
新は一瞬、言葉を詰まらせた。
シルヴァンは、旅への同行を一度断っている。
王宮に残る理由もある。兄が消えた事件のことを、新は少しだけ聞いていた。
「俺から言って、変わるでしょうか」
「分かりません」
カンナは正直に答えた。
「ですが、わたしが命令として連れていくことはできません。彼には彼の事情があります。それを無視して同行を強いれば、かえって動きは悪くなります」
「シル兄は、命令されたら従う気もしますけど」
「だからこそです」
カンナは静かに言った。
「彼は、命じられれば従うでしょう。ですが、今回必要なのは、命令された場所に立つだけの兵ではありません。自分で判断し、道を開ける人です」
フィオナがうなずいた。
「シルヴァンは遊撃班長として、予定外の事態に対処してきました。敵の注意を引きつける、味方の退路を作る、混戦の中で時間を稼ぐ。そうした動きは、正面から剣を振るうだけではできません」
「フィオナさんだけじゃ、厳しいんですか」
「殿下を守りながら、すべてを同時に見ることはできません」
フィオナは淡々と言った。
「敵が正面から来るとは限らない。横からも後ろからも来る。逃げ道が塞がれることもある。そういう時、殿下のそばを離れずに対処できる範囲には限界があります」
新は、そこでようやくカンナが自分に頼んだ理由を理解した。
シルヴァンが必要なのは、単に強いからではない。
少人数で多数を相手にするために、戦いの形を変えられる人間が必要なのだ。
「説得できるとは約束できません」
新は言った。
「でも、話してみます」
「ありがとうございます」
カンナは小さく頭を下げた。
「無理にとは言いません。ただ、彼が来てくれるなら、この先の動き方は大きく変わります」
カンナは地図の上に指を滑らせた。
王都から西へ。森を抜け、川を越え、山に囲まれた国の名へ。
「最初に向かうのは、獣人国です」
新は地図を覗き込んだ。
そこには、山の形と城の印が描かれている。
「獣人国は、今は人族に押さえられています。ですが、完全に従っているわけではありません。王都の中にも、まだ反乱勢力が残っているはずです」
「まず、その人たちと会うんですね」
「はい。現地の地形、城の守り、人族の兵士の配置。外から来たわたしたちだけでは分からないことが多すぎます。反乱勢力と接触し、協力を得る必要があります」
「すぐに協力してもらえるとは限らないですよね」
カンナの表情が少し曇る。
「はい……世界維持会談で各国の要人が討たれてから、国同士の信頼は大きく崩れました。ユグドライン王国から来たと言っても、すぐに信じてもらえるとは限りません。むしろ、最初は疑われると思っていた方がいいでしょう」
カンナは地図上の城の印を指した。
「獣人国の王城、牙嶺城。山肌を削るように築かれた城です。正面から攻めれば、落とすまでにかなりの時間がかかります」
「牙嶺城……」
新は小さくその名を繰り返した。
地図の上では、ただの印だ。
だが、カンナとフィオナの顔を見るだけで、簡単に攻め落とせる場所ではないことは分かった。
「今、その城を押さえているのが、人族の騎士ヴァルガスです」
カンナの声がわずかに硬くなった。
「ヴァルガスは獣人国支配の中枢です。彼がいる限り、人族の兵はまとまって動きます。逆に言えば、彼を討てば、獣人国の支配は大きく揺らぎます」
「でも、大軍で攻めた方が確実じゃないんですか」
「大軍を動かせば、こちらの意図も動きも隠せません」
カンナは首を横に振った。
「大規模な攻勢を察知すれば、ヴァルガスは牙嶺城へ引きこもります。城門を閉じ、警戒を引き上げ、周辺の道を塞ぐでしょう。そうなれば、こちらは城攻めを強いられます」
フィオナが地図の城へ指を添えた。
「牙嶺城は守る側に有利です。山道は狭く、攻め手は兵を広げられない。上から矢や石、魔法を浴びせられれば、城門へ近づくまでに兵が削られる。そこへ人族の援軍が来れば、こちらは城の前で挟まれることになります」
「援軍は、そんなに早く来るんですか」
「人族は周辺の街道を押さえています。こちらが城に張りついたまま時間を食えば、十分に間に合うでしょう」
フィオナの説明は淡々としていた。
だからこそ、新にも状況の悪さが伝わってきた。
正面から攻めれば城は落ちにくい。時間をかければ援軍が来る。援軍が来れば、獣人国を取り戻すどころではなくなる。
「だから、城攻めになる前にヴァルガスを討つんですね」
「はい」
カンナはうなずいた。
「反乱勢力と接触し、内側の情報を得る。その上で、少人数でヴァルガスへ近づき、彼を討つ。指揮が乱れたところへ、樹人族の兵を投入します」
「そして、一気に制圧するんですね」
「時間をかけずに、です」
カンナの指が牙嶺城の印を押さえた。
「獣人国を長く戦場にすれば、それだけ民が傷つきます。人族に立て直す時間も与えてしまいます。だから、動くなら一息に動かなければなりません」
「その後に、鍵を手に入れるんですね」
「はい」
カンナの指が、城の近くから少し離れた場所へ動いた。
「獣人国には、聖樹の内側へ向かうために必要な鍵の一つがあります。鍵は王都内の聖樹教の施設に保管されているはずです。ただ、今は人族の支配下にあります。施設の警備がどう変わっているのか、鍵が無事に残されているのか、外からでは分かりません。それを知るためにも、現地の協力が必要です」
「鍵って、集めれば終わりじゃないんですよね」
「はい。鍵は、段階を踏んで体へ受け入れるものです。王族の血を引く者でなければ、最後まで扱えません。だから、わたし自身が行かなければならない」
その言葉で、新の胸に、さっきの疑問が戻ってきた。
鍵を集めて聖樹へ向かう。その目的は、これまで何度も聞いてきた。
カンナが鍵を集め、聖樹へ向かわなければならない。
それが聖樹の寿命を延ばすためだということは、新も分かっている。
けれど、そのためにカンナ自身がどうなるのか。
そこだけは、まだ誰もはっきり口にしていなかった。
シオンは、聖樹へ向かった後どうなったのか。
カンナの母親も、同じ場所へ向かったのか。
そして、もし自分がカンナを聖樹まで送り届けたとして、その先でカンナはどうなるのか。
新は、地図の上に置かれたカンナの手を見た。
細い指が、紙の端を押さえている。指先には、わずかに力が入っていた。
「……カンナさん」
気づけば、新は名前を呼んでいた。
カンナが顔を上げる。
「はい」
「聞いてもいいですか」
「何でしょう」
新は一度、言葉を探した。
軽く聞いていい話ではない気がする。それは分かっている。だが、聞かないまま旅に出るには、さっきの評議会で聞いた言葉が重すぎた。
「鍵を手に入れて、聖樹の中に入ったら……その後、どうなるんですか」
カンナの手が止まった。
フィオナの視線が新に向く。
責める目ではなかった。だが、そこには明らかな緊張があった。
「アラタ」
フィオナが低く呼んだ。
強く止める声ではない。
けれど、その問いが簡単なものではないことは、声だけで伝わった。
新はフィオナを見て、それからカンナに視線を戻した。
「すみません。でも、さっきの評議会で気になったんです。鍵を集めて、聖樹へ向かうところまでは分かりました。でも、その後、カンナさんがどうなるのかだけ、誰も言っていない気がして」
カンナの表情が、苦く歪んだ。怒りでも、困惑でもない。もっと奥にしまっていたものに触れられたような顔だった。
「それは……」
カンナが言いかけた。
その時だった。扉の外で、控えめなノックが響いた。
警護兵が扉越しに声をかける。
「殿下。オギュスト猊下がお見えです。お話があるとのことです」
評議会で、誰よりも早く旅立ちに賛成した老枢機卿。けれど、あの時の目は、希望に動かされたものには見えなかった。
フィオナはすぐに扉へ向かわず、まずカンナを見た。
「殿下、いかがなさいますか」
カンナは一度だけ息を整えた。
「通してください。ただし、護衛がいるなら外で待たせてください」
「承知しました」
フィオナが扉を開けると、廊下にはオギュストが一人で立っていた。
枢機卿の正装をしている。だが、評議会の時よりも背が丸く見えた。杖を握る手にも、力が入っている。
「突然の訪問をお許しください、殿下」
「構いません。ですが、今は旅立ちの段取りを確認しているところです。長くは取れません」
「承知しております」
オギュストは深く頭を下げた。それから、ゆっくりと新へ視線を向ける。
その目を見た瞬間、新の背筋がわずかに強張った。
敵意ではない。けれど、ただの好意でもなかった。
「守護者殿にも、聞いていただきたい」
オギュストは言った。
「私が今日、殿下の旅立ちに賛成した理由を」
カンナの眉がわずかに動く。
「理由、ですか」
「私は、殿下の主張に理があると思いました。今動かなければ間に合わない。それは確かです」
そこで、声が少し低くなる。
「ですが、それだけではございません。私は、守護者に償わなければならないことがあります」
控室の中が静まり返った。
新は、すぐに言葉を返せなかった。
「守護者に、ですか」
オギュストは、杖の柄を握る手に力を込めた。
「五十年前、私は守護者に救われました。そして、その方が壊れていくのを止められなかった者の一人です」
フィオナの表情が硬くなった。カンナも黙ったまま、オギュストを見ている。
オギュストの視線が、新へ向いた。
「今日、あなたを見て、あの方を思い出しました。何も知らぬまま、同じ道を歩かせてはならない。そう思ったのです」
新は、自分の手を見た。
守護者。
まだ自分には、実感の薄い言葉だ。
だが、オギュストはその言葉の中に、別の誰かを見ている。
五十年前の守護者。救ったはずの人たちの前で、壊れていった人。
「五十年前の守護者に、何があったんですか」
新が尋ねると、オギュストはすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、静かに頭を下げる。
「殿下が旅立たれる前に、お話ししておくべきだと思いました」
老枢機卿の声は、かすれていた。
「私たちが、五十年前の守護者に何を背負わせてしまったのかを」




