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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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19/25

18.屋上での決戦

 三週間は、長いようで短かった。


 最初の頃は、木剣を握るたびに身体のどこかが遅れていた。目で見てから動く。相手の剣筋を追ってから受ける。剣道で染みついた正面の意識が抜けず、半歩外すだけのことがうまくできなかった。


 けれど、毎日叩き込まれた。


 正面を受けるな。半歩ずらせ。視線に引っ張られるな。腕だけで振るな。足を止めるな。相手の剣を見るな、相手ごと見ろ。


 木剣で打たれ、投げられ、足を払われ、何度も地面に転がされた。そのたびに息を荒げながら立ち上がってきた結果、少なくとも最初の頃の自分ではなくなったことだけは、新にも分かっていた。


 ただ、それでも。


「はい、終わり」


 軽い声と同時に、木剣の切っ先が喉元で止まった。


 新は肩で息をしながら、その切っ先を睨んだ。あと半歩。いや、一歩もない。踏み込み切れなかった分だけ、また届かなかった。


「……くそ」


「今のは悪くなかったぞ」


 シルヴァンはにやっと笑って木剣を引いた。額には汗が浮いているが、呼吸はまだ崩れていない。新の方は胸が焼けるようで、手のひらも汗で滑っていた。


 夕方の修練場には、もう他の兵の姿はほとんどなかった。壁際の槍掛けに影が長く伸び、開け放たれた窓から冷え始めた風が入ってくる。


「最初なら、あの踏み込みの前で終わってた」


「慰めならいりません」


「慰めじゃねえよ」


 シルヴァンは木剣を肩に担いだまま、新の足元を顎で示した。


「さっきの最後、ちゃんと半歩外しただろ。ああいうのでいい。真正面から噛み合いに行く回数が減ってきた。ようやく頭じゃなくて身体で覚え始めたって感じだな」


 言われて、新は自分の足元を見た。確かに最後の交差で、以前みたいにそのまま受けにいくのではなく、わずかに右へずれていた。意識してやったというより、勝手に足が動いたに近い。


 シルヴァンはそこを見ていたらしい。


「まあ、まだ甘いけどな」


「どっちなんですか」


「褒めてる褒めてる」


 いつもの軽い調子だ。だが、そのあと少しだけ間を置いてから、シルヴァンは何でもない顔で言った。


「夜、空いてるか」


「……夜?」


「東棟の屋上。夜番の鐘が一つ鳴る頃に来い」


 新は眉をひそめた。


「屋上で何するんですか」


「稽古の続きだ」


「まだやるんですか」


「昼とは少しやり方を変える」


 それだけ言って、シルヴァンは木剣を返しに歩き出した。追って尋ねても、振り返りもせずに片手をひらひら振るだけだ。


「来りゃ分かる」


 去っていく背中を見送りながら、新は小さく息を吐いた。


 別、と言われてもろくな予感がしない。


 ただ、来いと言われれば行かない理由もなかった。


 夜番の鐘が一つ鳴った頃、新は東棟へ向かった。


 王宮の東棟は、昼間よりずっと人の気配が薄い。廊下の壁に掛けられた灯りが一定の間隔で揺れ、石床に淡い色の輪を落としていた。警備の兵とすれ違うたびに軽く会釈を返し、さらに奥へ進む。


 屋上へ通じる細い階段を上がりきると、冷たい夜気が一気に頬を打った。


 東棟の屋上は、思っていたより広かった。手すり代わりの低い石壁と、雨を逃がすための緩い傾斜。夜空を遮るものが少なく、見上げれば星がはっきり見える。下を見れば王宮の灯りが点々と並び、その向こうには街の明かりも小さく揺れていた。


 その中央に、シルヴァンはいた。


 いつもの軽装ではなく、少し動きやすい上着に着替えている。足元には布に包まれた長いものが二つ置かれていた。


「来たか」


「来ましたけど……」


 新の視線は自然とその包みに向いた。嫌な予感が、さっきよりはっきり形を持つ。


 シルヴァンはしゃがみ込み、布を外した。


 出てきたのは木剣ではなかった。


 鋼の光を返す、本物の剣だ。


 その鈍い光を見た瞬間、あの襲撃の時の刃が脳裏をかすめた。飛び出した自分。振り下ろされる剣。咄嗟に割って入れた腕に走った衝撃。血の匂い。ほんの一瞬のことだったのに、思い出して喉の奥が勝手に狭くなる。


「……本当に、それでやるんですか」


「そうだ」


 片方を拾い上げたシルヴァンが、鞘からわずかに刃を引き抜く。灯りと星明かりを受けて、刃の線が細く光った。


 新は無意識に息を呑んだ。足が、半歩ぶんだけその場に縫いつけられる。


「今さら怖じ気づくなよ」


「いや、怖じ気づきますよ」


 思ったより低い声が出た。


「木剣じゃないでしょう、それ」


「そりゃそうだ。これから真剣でやるんだからな。慣れておかないと困る」


「慣れておくって……」


 そこまで言って、新は口を閉じた。


 慣れておく、という言葉が引っかかった。本物の刃に慣れるなんて、そんなものに慣れたくはない。

だが、ここで引けば、この先の戦いでいきなり真剣と向き合わなければならない。


 シルヴァンは剣を一本、新の方へ差し出した。


「木だと振れるのに、鋼になると急に身体が止まる奴は多い、斬れるって分かった瞬間、踏み込みが鈍って、間合いの見方も、受け方も、全部変わっちまう」


 そこで少しだけ口元を歪める。


「怖がるなって言っても無理だ。だから、一回やっとくぞ」


「一回やっとく、で済ませる内容じゃないですよね」


「死なせはしねえ」


 あっさりした口調で言ってから、シルヴァンは一拍置いた。


「けど、手を抜いたら切る」


「……本気で言ってます?」


「本気だ」


 軽くも重くもなく、ただ当たり前みたいに返ってきた声に、新は黙った。


「そっちが怖がって中途半端に止まる方が危ない。だから本気で来い」


 新は差し出された剣を見た。


 木剣より重い。柄の感触も違う。鞘ごしでも、それが訓練道具ではなく、人を斬るためのものだと分かる。


 心臓が一つ、大きく鳴った。


 手を伸ばすまでに、ほんのわずかに間が空いた。身体のどこかが、やめておけと訴えている。それでも、新は浅く息を吸って剣を受け取った。


「……分かりました」


「そうこなくちゃな」


 新はゆっくり鞘を払った。すっと抜けた刃が夜気に晒される。目の前の空気まで切れそうな感覚に、指がわずかに強張った。


 その変化を、シルヴァンは見逃さなかった。


「力むな。余計怖くなるぞ」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃねえよ。俺も最初はそうだった」


 シルヴァンも剣を抜いた。


 屋上の中央で向かい合う。木剣の時とは違う緊張が、足元から這い上がってくる。相手の剣の長さ。自分の間合い。踏み込めば届くか、届かないか。木剣なら叩かれて終わる距離が、今はそのまま裂け目になる。


「じゃあ、いくぞ」


 合図はそれだけだった。


 次の瞬間、シルヴァンが動いた。


 速い。


 昼間の訓練でも何度も向き合ってきた速度のはずなのに、刃が入っただけでまるで違って見えた。新は反射的に受けに回り、金属がぶつかる高い音が夜気を裂く。


 火花が散った。


 重い。


 木剣と違って、衝撃が腕の骨まで響く。まともに噛み合ったまま押し返そうとして、すぐにまずいと気づいた。シルヴァンの剣がねじれ、横から切っ先が滑り込んでくる。


 新は慌てて身を引いた。


 袖が裂けた。


 皮膚までは届いていない。だが、布がはらりと落ちるのを見た瞬間、背筋が冷えた。食事室で見た刃の光が、嫌でも思い出される。


「ほら、止まった」


 シルヴァンが低く笑う。


「考えるな。いつも通り動け」


「っ……」


 息を整える暇もなく、二撃目が来る。


 上から。見せかけだ。途中で軌道が変わる。新は喉元を狙われると読んで左へ外れたが、シルヴァンはその外れ先にすでに踏み込んでいた。刃同士が擦れ、耳障りな音がすぐ近くで鳴る。


 身体が強張る。


 だめだ、と新は奥歯を噛んだ。


 木剣ならもっと踏み込める。もっと寄れる。なのに鋼の光が目に入るたび、どこかで身体が止まる。斬られる、と頭が先に叫んでしまう。


 遅れたら終わる。

 その感覚は、怖さと一緒に、別の記憶も引きずってきた。


 襲撃の際に身体が動いた時、考えてはいなかった。考える前に前へ出た。今は違う。相手の動きも、間合いも、来る場所も見えている。だったら、怖くても動けるはずだ。


 そこへ膝を狙う低い一閃が飛んできた。


 新は跳ぶように避け、着地と同時に前へ出た。引いてばかりでは切られる。半歩、さらに半歩。教わった通り、真正面ではなく少しだけ軸をずらして、相手の正面から外れる。


 シルヴァンの眉が、ほんの少し動いた。


 新はそのまま剣を振り下ろす。


 受けられた。だが構わず、もう一歩。剣を噛み合わせたまま身体を寄せる。これも散々言われたことだ。届かないなら、届くところまで入る。


 金属が悲鳴みたいな音を立てた。


 シルヴァンが笑う。


「そう、それだ」


 押し返される前に、新は刃を外して右へ回った。以前ならここで足が止まり、次の一手を考えていた。だが今は違う。考える前に身体が続く。相手の手元。足運び。肩の向き。全部がはっきり見えているわけじゃない。ただ、木剣の時よりも、自分の身体が先に答えようとしていた。


 斜めから切り込む。


 シルヴァンは受けずに下がった。


 その一歩に合わせて、新も詰める。踏み込みが深くなる。間合いの怖さを、動いている間だけ忘れられた。


 だが甘い。


 新が前に出た瞬間、シルヴァンの剣が下から跳ね上がった。柄に近いところでこちらの刃を押し上げ、空いた脇へ横薙ぎが来る。


 新は咄嗟に身をひねった。


 今度は肌を掠めた。


 脇腹に熱が走る。浅い。表面だけだ。だが、その熱が逆に頭を冷やした。


 痛い。けれど動ける。


 だったら、止まる理由はない。


「まだ!」


 自分でも驚くような声が出た。


 新は踏み込み直し、あえて真っ向から打ち合った。重い衝撃を受け流しきれず腕が痺れる。だが一度、二度、三度と続けるうちに、金属音の向こうで相手の呼吸が聞こえるようになった。


 シルヴァンの剣筋は鋭い。無駄がない。けれど、見えないわけじゃない。怖いままでも、追えないわけじゃない。


 右肩が沈む。次は下から来る。


 新は一歩引くふりをして、逆に左へ踏み込んだ。


 刃と刃がすれ違う。ほんの紙一重で喉元を外し、その内側に潜る。至近距離。シルヴァンの目がわずかに見開かれた。


 取った。


 そう思った瞬間、シルヴァンが半歩踏み込み、肩をぶつけてきた。

 体勢が浮き、剣先が逸れる。


 体勢が崩れる。


 同時に、自分の剣が下から跳ね上げられていた。手から離れこそしなかったが、切っ先が上を向く。空いた胸元に衝撃が入った。柄頭だ。息が詰まる。


 よろめいた新の喉元に、冷たい刃がぴたりと止まった。


「終わり」


 荒い息の合間に、その一言だけが妙にはっきり聞こえた。


 新は数瞬、動けなかった。


 喉の前にある細い光。ほんの少し押し込まれれば、そこで全部終わる。さっきまでの打ち合いの熱が一気に引き、代わりに遅れて足が震えた。


 シルヴァンが刃を引く。


「今のは良かった」


 新はその場で膝に手をつき、何とか息を吐いた。


「……負けましたけど」


「そりゃ俺が勝つに決まってるだろ」


「堂々と言いますね」


「事実だからな」


 シルヴァンは剣をくるりと返して血の有無を確かめると、鞘に納めた。新も遅れて剣を収める。脇腹の掠り傷がじくじく痛んだが、深くはない。言った通り、寸止めのつもりなのだろう。それでも、十分すぎるほど怖かった。


 新がまだ呼吸を整えていると、シルヴァンは少しだけ真面目な顔になった。


「でも、ほんとによくなった」


「……どのへんがですか」


「最後の踏み込みは悪くなかった。最初なら、あそこまで来れてねえ」


 シルヴァンは新の足元を見た。


「あと、途中から足が止まらなかった。怖いのは悪いことじゃない。生き残るには必要なことだ。消さなくていい。抱えたまま動けたなら上出来だ」


 褒められているのに、悔しさの方が先に来た。


 届きかけた。けれど届かなかった。そこがはっきり分かるからこそ、歯がゆい。


 そんな新の顔を見て、シルヴァンは笑った。


「その顔できるなら、まだ伸びるな」


 そう言ってから、屋上の端へ歩いていく。


「少し休むか」


 新もその後を追った。


 石壁の向こうに、夜の王都が広がっていた。窓明かりや通りの灯が点々と見える。その上の空には、日本で見るよりずっと多くの星が浮かんでいた。空気が澄んでいるのか、ひとつひとつが妙にはっきり見える。王宮の屋根越しに広がる夜空は、思っていたよりずっと大きかった。


「……綺麗ですね」


「だろ」


 シルヴァンは石壁にもたれ、空を見上げた。


「ここ、兄貴がよく来てたんだよ」


 新は横目で見た。


 さっきまでの軽い調子が少しだけ薄れている。だから口を挟まず、続きを待った。


「昔さ。俺がまだ今よりずっとどうしようもなかった頃、兄貴、気が向くとここでぼーっとしてた。夜空を見ると頭が静かになる、とか言ってな」


 シルヴァンは苦笑した。


「当時の俺には意味が分かんなかったけど」


「……お兄さんが、いたんですね」


「……ああ、いた」


 短く返して、シルヴァンは一度だけ視線を落とした。


「俺と違って、出来た人だったよ。腕も立ったし、周りからの信頼も厚かった。何より、困ってる人を見たら放っておけない人だった」


 新は黙ったまま聞く。


「昔の俺は逆だ。自分さえ無事ならそれでいいって思ってた。面倒事なんか首突っ込まずに済むなら、その方がいいって。たぶん、かなり本気でそう思ってた」


 それは少し意外だった。今のシルヴァンからは想像しづらい。


 だが、本人は冗談めかすこともなく続けた。


「兄貴、昔は巡回班の班長だったんだ」


 新は黙って続きを待った。


「あの頃、王宮の中でも街でも、人が消えることがあった。争った跡も、血も、連れ去られた跡も残らねえ。昨日までそこにいたやつが、そのまま消える」


 背筋が冷えた。


「兄貴はその件を追ってた。巡回のついでじゃない。本気で、ずっと調べてた」


「……手掛かりはあったんですか」


「たぶんな。ある日、兄貴が言ったんだ。人に会ってくるって」


 そこでシルヴァンは一度言葉を切った。


「誰に会うのかは言わなかった。確証がないうちに話して、こっちまで危ない目に遭わせたくなかったんだろうな」


 新は唇を引き結んだ。


「それっきりだ。戻ってこなかった」


「……それで」


「そのあとだ。王宮の中でも街でも起きてた人消えが、ぴたりと止まった」


 風が吹き抜ける。石の床を撫でた夜気が、やけに冷たかった。


「音沙汰もない。兄貴の遺体も出てこねえ。けど、あの件が止まったのがその直後なら、無関係なわけがない」


 シルヴァンの声は低いままだった。


「だから俺は、今でも探してる。兄貴が会いに行った相手を。人を消してた首謀者を」


「……」


「だから俺は旅に出られない」


 食事の席で、シルヴァンは旅への同行を断っていた。その時は事情があるとしか言わなかった。今、その理由がようやく分かった。


「いや、見つけて殺したい、だな。綺麗に言っても仕方ねえ」


 冗談っぽく崩したつもりなのかもしれない。だが、その笑いは少しも軽くなかった。


「それが、俺がここに残る理由だ」


 新はすぐには返せなかった。


 復讐。その言葉自体は単純だ。けれど、その中に兄の死と、見過ごしたくないものを見過ごせなかった人の背中と、そこに届かなかった悔しさが全部混ざっている気がした。


 シルヴァンは空を見上げたまま続ける。


「兄貴がいなくなったあと、しばらくは余計にどうでもよくなった。誰がどうなろうが知るかって、本気で思ってたんだ」


 だが、と小さく息を吐く。


「無理だった」


「……」


「南通りの店、覚えてるだろ」


 新の脳裏に、あの夜の店が浮かぶ。赤茶髪の店主。落ち着いた空気。そこにいた女たちの顔。


「あそこにいる女たちが困ってても助けずに、昔の俺なら見て見ぬふりしてただろうな」


 シルヴァンは苦く笑った。


「でも兄貴の背中見ちまったせいで、無理だった。ああいうの見たら、放っとけなくなったんだ。面倒だし、損だし、別に俺がやらなくてもいいのに、結局手ぇ出すようになっちまった」


 その言い方はいつものシルヴァンらしかったが、滲むものは軽くない。


「だから今の俺は、たぶん兄貴のせいだな」


「……悪い言い方ですね」


「だろ。でもそうなんだよ」


 少しだけ、二人の間に笑いに近いものが落ちる。


 それが消える頃を見計らったように、シルヴァンは横目で新を見た。


「アラタ」


「はい」


「強くなるのは大事だ。けどな、いちばんまずいのは、肝心なところで自分が何のために剣を振ってるのか分からなくなることだ」


 新は目を瞬いた。


 急に話の向きが変わったように感じた。だが、シルヴァンの顔は真面目だった。さっきまでと違って、一つも笑っていない。


「迷ったら思い出せ。お前が最初に身体を張った理由を」


 脳裏に、あの日の食事室がよぎる。


 飛び出した自分。剣。血。カンナの顔。考えるより先に身体が動いた、あの瞬間。


「誰のためでもいい。意地でも、恩でも、守りたいでもいい。けど、そこだけは手放すな」


 夜風が少し強くなった。


 新は返事をするのを忘れたまま、その言葉を聞いていた。


 それは訓練の助言として聞けば、その通りだ。剣を振る理由が抜ければ、土壇場で迷う。さっきの真剣勝負だけでも、それは十分分かった。


 けれど、シルヴァンの声にはそれ以上の重さがあった。


「芯が抜けたまま振る剣は、土壇場で止まる」


 新はゆっくり息を吐いた。


「……急に、なんですか」


「別に」


 シルヴァンはすぐに答えた。


「兄貴づらしたくなっただけだ」


「兄貴づら」


「なんだよ、その顔」


「いや……似合わないなと思って」


「うるせえな」


 そう言って笑った顔は、ようやく少しいつもの調子に戻っていた。


 だが、新の胸には、さっきの言葉がそのまま残った。


 何のために剣を振るのか。


 守りたいから。恩があるから。放っておけないから。


 うまく言葉にはできない。けれど確かに、自分の中にあるものだった。


 シルヴァンは再び空を見上げた。


「……ここ、ほんとに綺麗だろ」


「はい」


「……なんでか、お前にも見せときたかったんだ」


 新も同じように空を見た。


 東棟の屋上から見える夜空は広く、静かだった。王宮の灯りも、遠くの街の明かりも、その下にちゃんと人の暮らしがあると分かる程度には見えている。


 明日は評議会だ。


 その先に何が待っているのかは分からない。けれど、今日ここで言われたことだけは、たぶん簡単には忘れない。


 新は黙ったまま夜空を見上げ続けた。


 隣でシルヴァンが何を思っているのかは分からない。


 ただ、兄を思い出しているのだろうということだけは、何となく分かった。

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