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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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17.仮面を外して

 部屋に戻った瞬間、カンナは張りつめていたものを全部放り出した。


 扉が閉まる音も待たず、部屋の真ん中まで歩いたところで上着の合わせを乱暴に緩め、そのまま布張りの長椅子へ倒れ込む。横向きに転がり、さらにごろりと仰向けになって、両腕を頭の上まで伸ばして背中を大きく反らせた。足も半分はみ出したまま、とても人に見せられる格好ではなかった。


「……っ、無理。今日はもう無理。ほんとに腹立つ」


 王女の顔はもうどこにもなかった。


 フィオナは扉に鍵を掛け、念のため窓の外と廊下の気配を一通り確認してから、ようやく振り返る。


「だらけすぎだ、カンナ」


「今はフィオナしかいないからいいの」


「よくない。靴くらい脱げ」


「面倒なんだもん」


「脱げ」


 動く気配がないので、フィオナが長椅子の方へ歩み寄る。カンナは仰向けのまま片足だけふらっと持ち上げた。やる気のない協力だった。


 靴を脱がせてもらいながら、カンナは天井を睨むみたいに見上げた。


「……セレーヌ、嫌い」


「顔に出ていたぞ」


「出ない方がおかしいでしょ」


 カンナは吐き捨てるように言った。


「わたしを王宮に閉じ込めたいだけなのに、兵のため、民のため、この国のため。よくあんな綺麗な言葉で包めるものね」


 フィオナは長椅子の脇の椅子に腰を下ろした。向かい合う距離ではない。隣で聞く距離だ。


 カンナは片腕を額に乗せたまま、吐き出すように続ける。


「評議会を開けなかったので、一つ重要な点だけでもお伝えしたかった、って。よくもあんな顔で言えるよね。結局あれ、わたしをここに繋ぎ止めたいだけじゃない」


「だろうな」


「口にする言葉だけは、どれも正しいの。兵のため、民のため、この国のため。わたしが王宮に残るだけで支えになる。そう言われれば、反論しづらい」


 カンナはそこで腕をどけ、身を起こした。だが姿勢は整えず、長椅子の背にもたれて片膝を立てる。


「そんなの建前に決まってる。あの人が欲しいのはここにいる王女じゃない。ここに置いておける王女でしょ」


 フィオナは黙って先を待った。


「父上が今あの状態だから、王族としてかろうじて機能してるのはわたしだけ。そこを押さえてしまえば、自分が主導権を握れる。旅に出られたら困る。自分の目の届くところに置いておきたい。そういう魂胆が丸見えなのに、国のためみたいな顔をするのが腹立つ」


「父上だけじゃない。あの人たち、もう次の形まで考えてる。叔母上まで巻き込んで、わたしをここに縛るつもりなんだと思う」


 フィオナの目がわずかに細くなる。


「……そこまで見えているなら、私から言うことは少ないな」


「否定してくれてもよかったのに」


「軽々しく否定はできないな」


 カンナはため息をつきながら続ける。


「父上のこともそう」


 その一言で、部屋の空気が少し変わる。


 フィオナは姿勢を崩さず、しかし表情だけを静かに引き締めた。


「……薬か」


「証拠はない。でも、どう考えてもおかしい」


 カンナの声には、怒りだけじゃなく、言いようのない悔しさが混じっていた。


「前はあんなふうじゃなかった。全部を見通してるみたいな人ではなかったとしても、少なくとも今みたいに、何もかもを人に預けてぼんやりしてるような人じゃなかった。なのに今は、評議会が横で何を言っても深く追わない。わたしのことも、国のことも、どこか遠いところから眺めてるみたい」


 カンナは立てていた膝を抱き寄せる。


「ただ弱っただけ、と言われたら否定しきれない。でも、それだけで片づけたくないの。あまりにも都合がよすぎる」


 フィオナは短く息を吐いた。


「……偶然で片づけるには、出来すぎているな」


「しかもわたしだって、あの時捕まってたら同じようにされてたかもしれない」


 カンナの目がわずかに険しくなる。


「刺客に連れ去られそうになって、薬でどうにかされて、言うことを聞くようにされて。それが狙いだったかもしれないのに、セレーヌは今日、わたしを心配してるみたいな顔までしてた」


 吐き気をこらえるみたいに、小さく息を吐く。


「ほんとに心配してるなら、最初からあんな流れにしないでしょ。あれじゃまるで、自分は関係ありませんって顔して、失敗した企てのあとだけ拾いに来てるみたい」


「……一番厄介なのは、ああいう顔で近づいてくるところだな。自分は手を汚していないように見せながら、都合のいいところだけ拾おうとする」


「それが一番嫌なの」


 少しだけ黙ってから、カンナは低い声で続けた。


「分からない。セレーヌは、聖樹の寿命を知らないわけじゃない。鍵のことも、旅に出なければ間に合わないことも、分かっているはずなのに」


 カンナは膝を抱く手に力を込めた。


「それなのに、王宮に残れと言う。兵のため、民のため、この国のため。正しい言葉ばかり並べて、わたしの足を止めようとする」


 言いながら、カンナはふと口を閉じた。


「……違う」


「何がだ」


「今を守りたいだけなら、あそこまで必死に閉じ込めようとはしない」


 声が低くなる。


「旅が危ないから止めたいんじゃない。わたしが外へ出ること自体が困るんだと思う」


 フィオナはすぐには答えなかった。


 カンナの言葉を確かめるように、しばらく黙ってから口を開く。


「あれは、カンナの身を案じる者の止め方じゃなかった」


「……フィオナも、そう見えた?」


「ああ」


 フィオナは短く答えた。


「危険だから行くな、という類のものではない。手の届かない場所へ出るな、という止め方だ」


 カンナは唇を引き結んだ。


 自分の考えすぎではない。そう分かったのに、少しも楽にはならなかった。


「やっぱり、別の狙いがある」


「表に出している理屈だけでは足りないな」


 フィオナは少し視線を落とした。


「今ある秩序を崩したくない、という気持ちはあるだろう。兵も民も王宮も、今ここにあるものを失うのが怖い。それ自体は分かる」


「でも、それだけじゃない」


「ああ」


 フィオナの声は冷静だった。


「口では国のためと言っていた。だが、あれは国だけを案じる者の目ではない」


 カンナは小さく息を吐いた。


「自分が握れるものを、離したくない顔?」


「そう見えた」


「……最悪」


 吐き捨てるように言って、カンナは長椅子の背に身体を預けた。


 腹立たしさは消えない。けれど、自分の中だけで膨らんでいた疑いに、ようやく形が与えられた気がした。


 カンナは長椅子の上で身体をずらし、今度は横向きになって肘掛けに頬を押しつける。髪が少し乱れ、王女というより疲れた年頃の娘にしか見えない。


「平和になったら、こういうの考えなくて済むのかなぁ」


「無理だな」


「即答」


「お前は平和でも何かしら抱える。祭りの準備が遅いとか、城下の子が暗い顔してたとか、そういった小さなことでも普通に悩む」


「そんな細かいかな」


「細かいな」


 カンナは少し笑って、それからふっと表情を変えた。


「……アラタのことも、ちょっと心配なの」


「何がだ」


「抱え込みそうなところ」


 フィオナは視線だけを向ける。


 カンナは少し考えてから言葉を選ぶように続けた。


「やっぱり引っかかるの。こっちに来たばっかりで、まだ何も分からないことだらけなのに、ああいう時に身体が先に出るの。知り合ってそんなに経ってない相手のために、ためらいなく前に立つの、正直ちょっと怖い」


「危なっかしいか」


「かなり」


 カンナは即答した。


「助けてくれたのは嬉しいし、ありがたい。でも、それとこれとは別。自分を雑に使いすぎてる気がする。守護者だから治るって分かってるせいで、余計に線引きが甘くなったら絶対よくない」


「治るのと、自分を雑に扱っていいのは別だということだな」


「そう、それ」


 カンナは勢いよく顔を上げた。


「言いたいの、そこなの。アラタは真面目すぎるのよ。自分が前に出れば済むって思ったら、たぶん普通に傷つく方を選ぶ。頼りないんじゃなくて、逆。ちゃんとしようとしすぎるから危ない」


 フィオナは短く頷いた。


「私もそこは見てる。放っておくと、自分を後回しにする」


「でしょ。旅に出たら、あれを何回もやるかもしれないって思うと……ちょっと嫌」


「心配なんだな」


「うん。かなり」


 カンナは視線を逸らしながら言った。


「助けてもらったことはちゃんと感謝してる。でも、ありがとうとそのやり方やめては両立するでしょ」


「ああ、両立する」


 フィオナはそこで少しだけ声を柔らかくした。


「なら、お前から伝えるべきだ」


 カンナは少し黙り込んだ。


「……言葉を選ばないと、たぶんきつくなる」


「それでいい。甘く包む必要はない」


「でも、あんまりきついと、ただの説教になる」


「説教で止まるなら安いものだ」


 カンナは小さく息を吐いた。


「それはそうなんだけど」


「助けてもらったことはありがたい。でも、自分を削るようなやり方はやめてほしい。そう伝えるだけで十分だ」


 カンナはその言葉を頭の中で転がすように少し黙った。


「……それなら言えるかも」


「お前が言うならそれでいい。伝われば十分だ」


 カンナは少しだけ肩の力を抜いた。


「……うん。そっちの方が、たぶん私らしい」


 少しだけ笑ってから、カンナはまた長椅子に沈み込んだ。


 今度は完全に力が抜けていた。さっきまで胸の中を渦巻いていた苛立ちが、ようやく言葉になって外へ出たせいかもしれない。


 フィオナはそんなカンナを見て、小さく息をついた。


「がんばりすぎだ、お前は」


 カンナは目を閉じたまま答える。


「だって、誰かが考えないと」


「そうやって昔から、自分の分まで抱える」


「フィオナにだけには言われたくない」


「だから言ってる。お前に一人で抱えさせる気はない」


 カンナは薄く目を開けた。


 フィオナの声は静かだったが、そこだけは迷いがなかった。


「王女だからって、何もかも一人で背負う必要はない。立たなきゃいけない時は立てばいい。でも、その分を一人で抱え込むな。背負うなら、一緒に背負ってやる」


 カンナはしばらく黙っていた。


 その言葉が胸の奥に落ちるのに、少し時間がかかった。


「……それ、ずるい」


「何がだ」


「そういうこと、そんな顔で言うから」


「どんな顔だ」


「ちゃんと断れなくなる顔」


 フィオナは小さく息を吐いた。


「断るな」


 カンナは少しだけ笑ってから、視線を上げる。


 フィオナも真っ直ぐ見返した。


「私はお前を行かせる。止めても行くんだろ、お前は」


「……行く」


「なら、私がやることは最初から決まってる」


 フィオナは一つひとつ言葉を置くように続けた。


「評議会が何を言おうが関係ない。ヴァルガスでもその先の連中でも、道を塞ぐなら斬る。シオンとの約束だからな。お前は絶対に守ってやる」


 その名前が出た瞬間、カンナの目が揺れた。


 姉の名は、今でも胸の奥のいちばん柔らかいところに触れる。痛みというより、力が抜ける感じに近い。


 カンナはすぐには言葉を返せなかった。


 しばらく黙ってから、小さく頷く。


「……うん」


 王女の返事ではなかった。


 フィオナの前でだけ出る、年相応の、少し弱い声だった。


 フィオナはその返事を聞いて、ほんの少しだけ表情を緩める。


「その表情を、外でも出せるような世の中になるといいな」


 カンナは一瞬だけ目を丸くした。

 そういう言い方はずるい、と思う。


「……何それ」


「本心だ」


 あまりにもまっすぐ返されて、カンナは少しだけ視線を逸らした。


「そんなふうに言われたら、ちょっと困る」


「困るな」


「うん。調子が狂う」


 フィオナは小さく息を吐いた。


「それでも、そうなってほしいとは思ってる」


 カンナはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「……そうだね」


 フィオナは立ち上がり、扉の方へ向かったところで、不意に扉が控えめに叩かれた。


「隊長」


 外から聞こえた声に、フィオナの表情がすっと戻る。


「何だ」


「申し上げます。シルヴァン殿が、アラタ殿を連れて王宮の外へ」


 一瞬、部屋の空気が止まった。


 次の瞬間、フィオナのこめかみにぴくりと筋が浮く。


「……は?」


 いつもより低い声が、妙に怖かった。


 扉の向こうの兵も、遅れて言葉を継ぐ。


「西棟裏の小門です。見張りの兵が、遊撃班長殿の強引な押しで……」


「開けたのか」


「は、はい……」


 フィオナは目を閉じ、短く息を吐いた。怒鳴っていないのに、それだけで怒っているのが分かる。


「その門の兵は動かすな。戻ってきたら、通す前に必ず知らせろ。遊撃班にも伝えろ。シルヴァンの行き先は読める。南通りの店を先に押さえろ」


 そこでフィオナは扉を開け、廊下へ視線を走らせた。


「……ロランはいるか」


 すぐに、廊下の奥から一人の男が進み出た。年嵩の、体格のいい兵だった。派手さはないが、立ち姿に無駄がない。王宮警護隊・警護班長ロランだった。


「ここにおります、隊長」


「ロラン。私が戻るまで、殿下の護衛を任せる」


 ロランは即座に膝を折る。


「はっ」


「この部屋の前に二人、窓の外にも一人置け。出入りは私の許可がある者だけだ。顔見知りでも通すな」


「承知しました」


 ロランの返答には一切の迷いがなかった。


 フィオナはその声を聞いてから、ようやくカンナを見る。


「殿下、私は一度席を外します。ロランに任せておけば問題ありません。何かあればすぐに知らせてください」


「分かりました」


「扉は開けないでください。私が戻るまで、この部屋でお待ちを」


「ええ」


 フィオナはそこで目を細めた。


「あの馬鹿者、帰ってきたらただでは済まさんぞ」

 

 最後だけ、完全に私情が漏れていた。


 そのまま踵を返し、足早に廊下を進んでいく。


「……覚悟しておけ、シルヴァン」


 吐き捨てるような声が、閉まりかけた扉の向こうに残った。


 その背を見送りながら、カンナは少しだけ目を細める。


「……怒ってますね」


 小さく零すと、扉脇に控えたロランが微かに口元を引き締めたまま答えた。


「かなり、かと」


 カンナは思わずくすりと笑う。


「ええ。でも、少し安心しました」


 ああいうふうに怒って出ていく背を見ていると、不思議と少しだけ安心した。


 ロランが部屋を出て行くのを見届けてから、カンナは長椅子へもう一度身体を預け、静かに息を吐いた。


 止まって守るだけでは、たぶん間に合わない。

 それだけは、もうはっきりしていた。


 アラタにも、いつか、ちゃんと伝えなければならない。助けてくれたことは嬉しい。けれど、自分を雑に扱うような戦い方はしてほしくない、と。


 明日になれば、また王女の顔で立たなければいけない。

 だから今だけは、目を閉じて息を抜いた。

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