17.仮面を外して
部屋に戻った瞬間、カンナは張りつめていたものを全部放り出した。
扉が閉まる音も待たず、部屋の真ん中まで歩いたところで上着の合わせを乱暴に緩め、そのまま布張りの長椅子へ倒れ込む。横向きに転がり、さらにごろりと仰向けになって、両腕を頭の上まで伸ばして背中を大きく反らせた。足も半分はみ出したまま、とても人に見せられる格好ではなかった。
「……っ、無理。今日はもう無理。ほんとに腹立つ」
王女の顔はもうどこにもなかった。
フィオナは扉に鍵を掛け、念のため窓の外と廊下の気配を一通り確認してから、ようやく振り返る。
「だらけすぎだ、カンナ」
「今はフィオナしかいないからいいの」
「よくない。靴くらい脱げ」
「面倒なんだもん」
「脱げ」
動く気配がないので、フィオナが長椅子の方へ歩み寄る。カンナは仰向けのまま片足だけふらっと持ち上げた。やる気のない協力だった。
靴を脱がせてもらいながら、カンナは天井を睨むみたいに見上げた。
「……セレーヌ、嫌い」
「顔に出ていたぞ」
「出ない方がおかしいでしょ」
カンナは吐き捨てるように言った。
「わたしを王宮に閉じ込めたいだけなのに、兵のため、民のため、この国のため。よくあんな綺麗な言葉で包めるものね」
フィオナは長椅子の脇の椅子に腰を下ろした。向かい合う距離ではない。隣で聞く距離だ。
カンナは片腕を額に乗せたまま、吐き出すように続ける。
「評議会を開けなかったので、一つ重要な点だけでもお伝えしたかった、って。よくもあんな顔で言えるよね。結局あれ、わたしをここに繋ぎ止めたいだけじゃない」
「だろうな」
「口にする言葉だけは、どれも正しいの。兵のため、民のため、この国のため。わたしが王宮に残るだけで支えになる。そう言われれば、反論しづらい」
カンナはそこで腕をどけ、身を起こした。だが姿勢は整えず、長椅子の背にもたれて片膝を立てる。
「そんなの建前に決まってる。あの人が欲しいのはここにいる王女じゃない。ここに置いておける王女でしょ」
フィオナは黙って先を待った。
「父上が今あの状態だから、王族としてかろうじて機能してるのはわたしだけ。そこを押さえてしまえば、自分が主導権を握れる。旅に出られたら困る。自分の目の届くところに置いておきたい。そういう魂胆が丸見えなのに、国のためみたいな顔をするのが腹立つ」
「父上だけじゃない。あの人たち、もう次の形まで考えてる。叔母上まで巻き込んで、わたしをここに縛るつもりなんだと思う」
フィオナの目がわずかに細くなる。
「……そこまで見えているなら、私から言うことは少ないな」
「否定してくれてもよかったのに」
「軽々しく否定はできないな」
カンナはため息をつきながら続ける。
「父上のこともそう」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
フィオナは姿勢を崩さず、しかし表情だけを静かに引き締めた。
「……薬か」
「証拠はない。でも、どう考えてもおかしい」
カンナの声には、怒りだけじゃなく、言いようのない悔しさが混じっていた。
「前はあんなふうじゃなかった。全部を見通してるみたいな人ではなかったとしても、少なくとも今みたいに、何もかもを人に預けてぼんやりしてるような人じゃなかった。なのに今は、評議会が横で何を言っても深く追わない。わたしのことも、国のことも、どこか遠いところから眺めてるみたい」
カンナは立てていた膝を抱き寄せる。
「ただ弱っただけ、と言われたら否定しきれない。でも、それだけで片づけたくないの。あまりにも都合がよすぎる」
フィオナは短く息を吐いた。
「……偶然で片づけるには、出来すぎているな」
「しかもわたしだって、あの時捕まってたら同じようにされてたかもしれない」
カンナの目がわずかに険しくなる。
「刺客に連れ去られそうになって、薬でどうにかされて、言うことを聞くようにされて。それが狙いだったかもしれないのに、セレーヌは今日、わたしを心配してるみたいな顔までしてた」
吐き気をこらえるみたいに、小さく息を吐く。
「ほんとに心配してるなら、最初からあんな流れにしないでしょ。あれじゃまるで、自分は関係ありませんって顔して、失敗した企てのあとだけ拾いに来てるみたい」
「……一番厄介なのは、ああいう顔で近づいてくるところだな。自分は手を汚していないように見せながら、都合のいいところだけ拾おうとする」
「それが一番嫌なの」
少しだけ黙ってから、カンナは低い声で続けた。
「分からない。セレーヌは、聖樹の寿命を知らないわけじゃない。鍵のことも、旅に出なければ間に合わないことも、分かっているはずなのに」
カンナは膝を抱く手に力を込めた。
「それなのに、王宮に残れと言う。兵のため、民のため、この国のため。正しい言葉ばかり並べて、わたしの足を止めようとする」
言いながら、カンナはふと口を閉じた。
「……違う」
「何がだ」
「今を守りたいだけなら、あそこまで必死に閉じ込めようとはしない」
声が低くなる。
「旅が危ないから止めたいんじゃない。わたしが外へ出ること自体が困るんだと思う」
フィオナはすぐには答えなかった。
カンナの言葉を確かめるように、しばらく黙ってから口を開く。
「あれは、カンナの身を案じる者の止め方じゃなかった」
「……フィオナも、そう見えた?」
「ああ」
フィオナは短く答えた。
「危険だから行くな、という類のものではない。手の届かない場所へ出るな、という止め方だ」
カンナは唇を引き結んだ。
自分の考えすぎではない。そう分かったのに、少しも楽にはならなかった。
「やっぱり、別の狙いがある」
「表に出している理屈だけでは足りないな」
フィオナは少し視線を落とした。
「今ある秩序を崩したくない、という気持ちはあるだろう。兵も民も王宮も、今ここにあるものを失うのが怖い。それ自体は分かる」
「でも、それだけじゃない」
「ああ」
フィオナの声は冷静だった。
「口では国のためと言っていた。だが、あれは国だけを案じる者の目ではない」
カンナは小さく息を吐いた。
「自分が握れるものを、離したくない顔?」
「そう見えた」
「……最悪」
吐き捨てるように言って、カンナは長椅子の背に身体を預けた。
腹立たしさは消えない。けれど、自分の中だけで膨らんでいた疑いに、ようやく形が与えられた気がした。
カンナは長椅子の上で身体をずらし、今度は横向きになって肘掛けに頬を押しつける。髪が少し乱れ、王女というより疲れた年頃の娘にしか見えない。
「平和になったら、こういうの考えなくて済むのかなぁ」
「無理だな」
「即答」
「お前は平和でも何かしら抱える。祭りの準備が遅いとか、城下の子が暗い顔してたとか、そういった小さなことでも普通に悩む」
「そんな細かいかな」
「細かいな」
カンナは少し笑って、それからふっと表情を変えた。
「……アラタのことも、ちょっと心配なの」
「何がだ」
「抱え込みそうなところ」
フィオナは視線だけを向ける。
カンナは少し考えてから言葉を選ぶように続けた。
「やっぱり引っかかるの。こっちに来たばっかりで、まだ何も分からないことだらけなのに、ああいう時に身体が先に出るの。知り合ってそんなに経ってない相手のために、ためらいなく前に立つの、正直ちょっと怖い」
「危なっかしいか」
「かなり」
カンナは即答した。
「助けてくれたのは嬉しいし、ありがたい。でも、それとこれとは別。自分を雑に使いすぎてる気がする。守護者だから治るって分かってるせいで、余計に線引きが甘くなったら絶対よくない」
「治るのと、自分を雑に扱っていいのは別だということだな」
「そう、それ」
カンナは勢いよく顔を上げた。
「言いたいの、そこなの。アラタは真面目すぎるのよ。自分が前に出れば済むって思ったら、たぶん普通に傷つく方を選ぶ。頼りないんじゃなくて、逆。ちゃんとしようとしすぎるから危ない」
フィオナは短く頷いた。
「私もそこは見てる。放っておくと、自分を後回しにする」
「でしょ。旅に出たら、あれを何回もやるかもしれないって思うと……ちょっと嫌」
「心配なんだな」
「うん。かなり」
カンナは視線を逸らしながら言った。
「助けてもらったことはちゃんと感謝してる。でも、ありがとうとそのやり方やめては両立するでしょ」
「ああ、両立する」
フィオナはそこで少しだけ声を柔らかくした。
「なら、お前から伝えるべきだ」
カンナは少し黙り込んだ。
「……言葉を選ばないと、たぶんきつくなる」
「それでいい。甘く包む必要はない」
「でも、あんまりきついと、ただの説教になる」
「説教で止まるなら安いものだ」
カンナは小さく息を吐いた。
「それはそうなんだけど」
「助けてもらったことはありがたい。でも、自分を削るようなやり方はやめてほしい。そう伝えるだけで十分だ」
カンナはその言葉を頭の中で転がすように少し黙った。
「……それなら言えるかも」
「お前が言うならそれでいい。伝われば十分だ」
カンナは少しだけ肩の力を抜いた。
「……うん。そっちの方が、たぶん私らしい」
少しだけ笑ってから、カンナはまた長椅子に沈み込んだ。
今度は完全に力が抜けていた。さっきまで胸の中を渦巻いていた苛立ちが、ようやく言葉になって外へ出たせいかもしれない。
フィオナはそんなカンナを見て、小さく息をついた。
「がんばりすぎだ、お前は」
カンナは目を閉じたまま答える。
「だって、誰かが考えないと」
「そうやって昔から、自分の分まで抱える」
「フィオナにだけには言われたくない」
「だから言ってる。お前に一人で抱えさせる気はない」
カンナは薄く目を開けた。
フィオナの声は静かだったが、そこだけは迷いがなかった。
「王女だからって、何もかも一人で背負う必要はない。立たなきゃいけない時は立てばいい。でも、その分を一人で抱え込むな。背負うなら、一緒に背負ってやる」
カンナはしばらく黙っていた。
その言葉が胸の奥に落ちるのに、少し時間がかかった。
「……それ、ずるい」
「何がだ」
「そういうこと、そんな顔で言うから」
「どんな顔だ」
「ちゃんと断れなくなる顔」
フィオナは小さく息を吐いた。
「断るな」
カンナは少しだけ笑ってから、視線を上げる。
フィオナも真っ直ぐ見返した。
「私はお前を行かせる。止めても行くんだろ、お前は」
「……行く」
「なら、私がやることは最初から決まってる」
フィオナは一つひとつ言葉を置くように続けた。
「評議会が何を言おうが関係ない。ヴァルガスでもその先の連中でも、道を塞ぐなら斬る。シオンとの約束だからな。お前は絶対に守ってやる」
その名前が出た瞬間、カンナの目が揺れた。
姉の名は、今でも胸の奥のいちばん柔らかいところに触れる。痛みというより、力が抜ける感じに近い。
カンナはすぐには言葉を返せなかった。
しばらく黙ってから、小さく頷く。
「……うん」
王女の返事ではなかった。
フィオナの前でだけ出る、年相応の、少し弱い声だった。
フィオナはその返事を聞いて、ほんの少しだけ表情を緩める。
「その表情を、外でも出せるような世の中になるといいな」
カンナは一瞬だけ目を丸くした。
そういう言い方はずるい、と思う。
「……何それ」
「本心だ」
あまりにもまっすぐ返されて、カンナは少しだけ視線を逸らした。
「そんなふうに言われたら、ちょっと困る」
「困るな」
「うん。調子が狂う」
フィオナは小さく息を吐いた。
「それでも、そうなってほしいとは思ってる」
カンナはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……そうだね」
フィオナは立ち上がり、扉の方へ向かったところで、不意に扉が控えめに叩かれた。
「隊長」
外から聞こえた声に、フィオナの表情がすっと戻る。
「何だ」
「申し上げます。シルヴァン殿が、アラタ殿を連れて王宮の外へ」
一瞬、部屋の空気が止まった。
次の瞬間、フィオナのこめかみにぴくりと筋が浮く。
「……は?」
いつもより低い声が、妙に怖かった。
扉の向こうの兵も、遅れて言葉を継ぐ。
「西棟裏の小門です。見張りの兵が、遊撃班長殿の強引な押しで……」
「開けたのか」
「は、はい……」
フィオナは目を閉じ、短く息を吐いた。怒鳴っていないのに、それだけで怒っているのが分かる。
「その門の兵は動かすな。戻ってきたら、通す前に必ず知らせろ。遊撃班にも伝えろ。シルヴァンの行き先は読める。南通りの店を先に押さえろ」
そこでフィオナは扉を開け、廊下へ視線を走らせた。
「……ロランはいるか」
すぐに、廊下の奥から一人の男が進み出た。年嵩の、体格のいい兵だった。派手さはないが、立ち姿に無駄がない。王宮警護隊・警護班長ロランだった。
「ここにおります、隊長」
「ロラン。私が戻るまで、殿下の護衛を任せる」
ロランは即座に膝を折る。
「はっ」
「この部屋の前に二人、窓の外にも一人置け。出入りは私の許可がある者だけだ。顔見知りでも通すな」
「承知しました」
ロランの返答には一切の迷いがなかった。
フィオナはその声を聞いてから、ようやくカンナを見る。
「殿下、私は一度席を外します。ロランに任せておけば問題ありません。何かあればすぐに知らせてください」
「分かりました」
「扉は開けないでください。私が戻るまで、この部屋でお待ちを」
「ええ」
フィオナはそこで目を細めた。
「あの馬鹿者、帰ってきたらただでは済まさんぞ」
最後だけ、完全に私情が漏れていた。
そのまま踵を返し、足早に廊下を進んでいく。
「……覚悟しておけ、シルヴァン」
吐き捨てるような声が、閉まりかけた扉の向こうに残った。
その背を見送りながら、カンナは少しだけ目を細める。
「……怒ってますね」
小さく零すと、扉脇に控えたロランが微かに口元を引き締めたまま答えた。
「かなり、かと」
カンナは思わずくすりと笑う。
「ええ。でも、少し安心しました」
ああいうふうに怒って出ていく背を見ていると、不思議と少しだけ安心した。
ロランが部屋を出て行くのを見届けてから、カンナは長椅子へもう一度身体を預け、静かに息を吐いた。
止まって守るだけでは、たぶん間に合わない。
それだけは、もうはっきりしていた。
アラタにも、いつか、ちゃんと伝えなければならない。助けてくれたことは嬉しい。けれど、自分を雑に扱うような戦い方はしてほしくない、と。
明日になれば、また王女の顔で立たなければいけない。
だから今だけは、目を閉じて息を抜いた。




