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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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16.夜更けの会談

カンナのお話となります。新は出てきません。

 物語は少し前に戻る。


 呼び出しが来たのは、夜も更けてからだった。


 評議の間ではない。王宮東棟の奥、評議会長セレーヌ・ド・ラ・ロシュの執務室。表立った会議ではなく、あくまで内々の話として済ませたいのだろうと、カンナにも分かった。


 廊下には見慣れない兵が立っていた。王宮警護隊ではない。評議会側の直轄兵だ。


 その顔ぶれを一目見て、フィオナの目がわずかに細くなる。


「殿下。中へは……」


 扉の前の兵がそう言いかけたのを、フィオナが一歩前に出て遮った。


「殿下を一人では入れない」


「しかし、猊下からはカンナ王女殿下のみに入室していただくようにと……」


「聞こえている。だから確認する」


 フィオナの声は低く、硬かった。


「この状況で、殿下を評議会長と二人きりにしろと言うなら、その理由をここで聞く」


 廊下の空気がわずかに張る。


 兵が返答に詰まった、そのときだった。


「フィオナも入れ」


 扉越しに、低く落ち着いた声が飛んできた。


 フィオナは一瞬だけカンナを見た。カンナが頷くと、扉を開ける。


 室内は広すぎず、むしろ詰め込まれていた。机の上には軍報と書簡が積まれ、壁には周辺各国の地図と兵の配置を示す札が並んでいる。香を焚いた気配は薄く、紙と蝋の匂いの方が強かった。


 長机の向こうに座っていたのは、セレーヌ・ド・ラ・ロシュ。整えられた髪と穏やかな顔立ちだけを見れば、学識ある貴族にも見える。だが、その目だけは別だった。人を見る目ではない。人の向こうにある利と損を測る目だ。


「お呼びと伺いました、セレーヌ猊下」


 カンナが礼を取ると、セレーヌは軽く片手を上げた。


「今夜は形式ばった場ではありません。どうか楽に」


「では、わたしも形式ばらずにお聞きします。どういったご用件でしょうか」


 カンナが顔を上げたまま言うと、セレーヌの口元がほんのわずかに動いた。


「率直でよろしい。……本来であれば、この件も評議会の場でお話しすべきことでした」


 穏やかな声音だった。


 だが、その言葉にカンナは胸の内で小さく息を吐く。


 ――よくもぬけぬけと。


 評議会の場を開けなかったのが誰の都合によるものか、分からないわけではない。それでも表には出さず、カンナは静かに返した。


「それで、今夜あえてこの場を設けられたのですね」


「ええ。評議会を開けなかった以上、せめて一つ、重要な点だけでも殿下に直接お伝えしておきたかったのです」


 セレーヌはそう言って、机上の地図へ手を置いた。


 カンナは数息だけ黙り、それから小さく頷く。


「……分かりました。聞きましょう」


 そこでようやく、セレーヌが本題に入る。


「では回りくどい前置きは省きましょう」


 彼は机上の地図に手を置き、指先で北西を示した。


「シーグラス帝国は、当面この国に大規模侵攻できません」


 カンナは黙って続きを待つ。


「理由は明白です。支配地域を広げすぎた。兵站線が伸びきっている。加えて、アースガルの制圧が見かけほど進んでいない」


 アースガル。その名が出た瞬間、カンナは目を細めた。


 セレーヌは駒を一つ動かす。


「帝国はたしかにアースガルの主要拠点を押さえました。王都を落とし、街道を取り、旗を立てた。ですが、旗を立てたことと支配が完了したことは同義ではありません」


 さらにいくつかの駒が、アースガル領内に散らされる。


「現地では抵抗が続いています。最初は散発的でしたが、最近は違う。補給所、伝令路、徴発拠点を狙った動きに変わってきた。統制が取れ始めている。反乱軍と呼んで差し支えない段階です」


 フィオナは黙っている。だが、その視線は地図ではなく、セレーヌの手元と表情の変化を追っていた。


「帝国はアースガルに兵を置かざるを得ない。占領地を押さえる兵、補給路を守る兵、反乱を潰す兵。それだけで相当数を食われています。こちらに向ける兵力をまとめる余裕は、しばらくないでしょう」


 そこでセレーヌは、今度はユグドライン国を指で囲った。


「ゆえに、今この国が取るべき道は明確です。兵を鍛える。備蓄を増やす。森の防備をさらに厚くする。帝国が疲弊したところで、こちらが反転攻勢に出る」


 その言葉を聞きながら、カンナは地図に目を落としたままだった。


 兵站が伸びていることも、アースガルの占領が安定していないことも、セレーヌの言う通りだ。そこに異論はない。


 問題は、その先だった。


「反転攻勢、ですか」


 ようやくカンナが口を開く。


「ええ。いまはこちらが森を背にして守り、敵がさらに消耗するのを待つ。十分に機が熟せば、こちらから押し返す。それが最も現実的です」


「現実的、という言葉は便利ですね」


 カンナはゆっくりと顔を上げた。


「こちらが森を背にして守る限り、まだ戦えます。けれど森を出た瞬間、優位のかなりを捨てることになる。猊下もご存じでしょう。ユグドラインの兵は、森とともに戦ってこそ強い。平地へ出れば、帝国の軍と真正面から削り合う形になります」


「だからこそ、敵が十分に弱るまで待つのです」


「どこまで弱れば、です?」


 カンナの問いに、セレーヌは少しだけ目を細めた。


「少なくとも、国境線を押し返せる程度には」


「押し返して終わりですか」


「終わりにはならないでしょう。しかし、今の脅威を遠ざけることはできる」


「その程度では、弱いです」


 声を荒げたわけではない。むしろ静かだった。静かだからこそ、はっきり聞こえる。


「帝国が聖樹を狙う限り、押し返したところでまた来ます。こちらが兵を立て直すころには、向こうも立て直す。そのたびに森の縁で血を流して、少し押し返して、また来られて。それを繰り返していたら、世界の方が先に尽きる」


 室内の空気がわずかに張った。


 セレーヌは反論を急がない。相手に言わせるだけ言わせ、その上で潰すつもりの沈黙だった。


「では、殿下はどうなさるおつもりで?」


 ようやく返ってきた声は、驚くほど穏やかだった。


「兵を率いて帝国領へ攻め込むだけが手だとは思っていません」


「少数で動く、と?」


「そうです」


 カンナは迷いなく答えた。


「こちらが正面から軍をぶつけて勝てる見込みが薄い以上、別の勝ち方を探るしかない。大軍を動かさず、要だけを崩す。向こうがいま一番傷んでいる場所から、さらに綻びを広げる」


「アースガルを足場に、ですか」


「はい」


 セレーヌはそこで初めて、興味を示したように顎を引いた。


「続けてください」


「アースガルでは反乱が起きている。兵站は伸び、占領地の統治も安定していない。なら最初に崩すべきはそこです。こちらが軍を出して奪い返すんじゃない。少数で入り込み、向こうの要人を落とす」


 カンナは視線を地図から外さずに続けた。


「一人を落として終わりじゃありません。要人が立て続けに消えれば、残った者は守りを固めるために動かざるを得なくなる。油断していた隙を突いて、向こうの中で混乱を広げる。人族が世界維持会談で各国の要人を皆殺しにし、その混乱に乗じて攻め込んだのと同じです。あのときと同じ形を、今度はこちらが作るんです」


 フィオナの視線が、わずかに動く。


 セレーヌはカンナの顔をじっと見た。


「帝国の中に、会談直後と同じ混乱を生じさせると」


「はい。樹人族が正面から攻め入れば、向こうは守りを固めるだけです。城攻めの経験も薄く、森での戦いを得意とする兵で城を落とそうとすれば、あまりにも時間がかかる。その間に帝国は体勢を整え、こちらは兵を削られ続ける」


 カンナの声に、わずかに硬さが混じる。


「だから、鍵を手に入れつつ動くしかないんです。要人を落として混乱を作り、その隙にさらに奥へ入る。そうしなければ、世界の崩壊に間に合わない」


「理屈としては分かります。しかし、それはあまりにも細い綱です」


 セレーヌは指を組んだ。


「少数で敵地に入り、要人を討ち、なおかつ帰還する。成功すれば見返りは大きいでしょう。ですが失敗した時、失うものもまた大きい。とりわけ、殿下ご自身がその綱の上に立とうとしているのなら」


 そこから先を、セレーヌははっきり口にした。


「私は、殿下に旅へ出ていただきたくない」


 部屋の空気が静まる。


 フィオナは動かない。だが、いつでも言葉を挟めるように呼吸だけが浅く整っていた。


「なぜなら今この国に必要なのは、どこかへ向かう王女ではなく、ここにいる王女だからです」


 セレーヌはカンナをまっすぐ見た。


「殿下ご自身が前に出る必要はありません。殿下は、殿下であるだけで十分に国を支えておられる」


 穏やかな声音だった。


 だからこそ、カンナにはその言葉が余計に不快だった。


 ――わたしが、わたしであるだけで?


 それは支えるというより、動くなと言っているのに等しい。


 カンナは指先に力が入るのを感じながらも、口調だけは崩さなかった。

 

「それは、王女であれば中身は問わないと聞こえます」


 セレーヌの声は相変わらず落ち着いている。


「中身を問わぬとは申しておりません。むしろ逆です。殿下だからこそ、そのお立場の重みを理解していただきたいのです」


「いま兵が必要としているのは、殿下のお覚悟ではなく、殿下がここに在るという事実です」


「だから、わたしはここで旗になれ、と」


「そうです」


 セレーヌは一切ためらわなかった。


「殿下が不在のまま軍備再編を進めれば、必ず綻びが出ます。貴族たちは騒ぎ、兵は不安を覚え、民の間にも噂が走る。旅が成功するかどうかも分からない賭けに、いま国の要を乗せるべきではない」


 カンナはその言葉を聞き終えるまで黙っていた。


 セレーヌの理屈そのものは間違っていない。そこがいちばん厄介だった。


「猊下のお考えは分かりました」


 カンナは静かに言った。


「国を守るために、わたしにはここにいてほしい。兵を鍛え、守りを固め、帝国がさらに弱るのを待ったうえで反攻する。それが、いま取れるいちばん現実的な道だと」


「ええ」


「でも、それだけでは兵は最後まで持たない」


 セレーヌの目が細くなる。


 カンナは続けた。


「王女が王宮にいることが兵の支えになるのは確かです。けれど、王宮にいるだけが支えじゃない。前線に出る王族がいる方が、兵の指揮は上がる。自分たちと同じ危険の近くに立っていると分かる方が、人は動ける」


「殿下自ら前線に立つおつもりで?」


「少なくとも、王宮に座って待つつもりはありません」


 カンナはまっすぐにセレーヌを見た。


「兵を鍛えるのも、防備を固めるのも必要でしょう。でも、それだけでは足りない。帝国の綻びが見えている今だからこそ、こちらも動かなければならない。でなければ、守ることしかできないまま、ずっと削られ続けます」


「それでも、私は殿下の不在に賛同しかねます」


「わたしも、守りを固めてから正面から押し返すだけで終わる策に国を賭けるつもりはありません」


 言葉は丁寧だった。けれど、互いに一歩も引いていないのは明白だった。


 少しの沈黙ののち、セレーヌが先に息をつく。


「……今夜はここまでにしましょう。互いの見解は十分に分かりました」


「はい」


「ただ一つだけ、申し上げておきます」


 カンナが礼を取りかけたところで、セレーヌが続ける。


「ご決断は慎重に。いまこの国で、殿下の軽挙はそのまま多くの者の死に繋がる」


 カンナは振り返らなかった。


「だからこそ、間違えられないんです」


 それだけ言って、扉へ向かう。


 フィオナが半歩遅れて続き、執務室の扉が静かに閉まった。


 廊下に出た途端、部屋の中の重たい空気が少しだけ遠のく。


 しばらく無言で歩いてから、フィオナが低く言った。


「カンナ」


「なに」


「よく抑えたな」


 カンナは前を向いたまま、息を吐く。


「半分くらいは抑えた」


「残り半分は?」


「今から部屋で言う」


 フィオナは小さく鼻で笑った。


「聞こう」


「ちゃんと聞いてよ。今日のはかなり腹立ったから」


「ああ。分かってる」


 そこでようやく、カンナも少しだけ肩の力を抜いた。

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