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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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16/24

15.外の景色

 壁沿いの道を抜け、しばらく進むと、通りは急に賑やかになった。


 道幅は王宮前の大通りほど広くないが、その分、人の気配が濃い。店先で果物のようなものを売る屋台、焼いた肉の匂いを漂わせる露店、細工物を並べる小さな店、笑いながら肩を寄せて歩く若者たち。夜だというのに、思ったよりずっと明るい。


「……すごいですね」


 気づけば、素でそう呟いていた。


「だろ」


 横でシルヴァンが笑う。


 その声音はいつも通り軽いのに、視線だけはちゃんと動いていた。人の手、角、店の間隔、通りの抜け方。何気なく歩いているようでいて、立ち止まる時は壁際、進む時は新を人波の内側に入れない。遊びに来たと言いながら、気を抜いていないのが分かった。


「王宮の中にいると、全然分かんなかったです」


「そりゃそうだ。お前、客人兼護衛対象みたいな扱いだったし」


「扱いが重いんですよね……」


「実際重いからな」


 軽く返しつつ、シルヴァンは通りの端の屋台を顎で示した。


「まずは食う」


「やっぱりそうなりますか……」


「訓練後だぞ。腹減ってるだろ」


 言われてみれば、その通りだった。焼いた油の匂い、香草の匂い、甘い蜜のような匂いが入り混じる通りの中で、腹が空いていない方が嘘だ。


 炭火を使う屋台が出ていた。串に刺した肉を焼いているらしく、火の上で脂が落ちるたびに音が立つ。


「これにするぞ」


「……やっぱり肉なんですね」


「当たり前だろ、訓練終わりの肉は格別だぜ」


 シルヴァンは二本買って、そのうち一本を新に渡した。


 ひと口かじると、表面は香ばしく、中は想像より柔らかかった。塩気の奥に、少しだけ甘い下味がある。肉汁が熱くて、慌てて息を吐く。


「熱っ……でも、うまい」


「その顔だ」


「え?」


「やっとちゃんと肩の力抜けた顔」


 新は少しだけ目を瞬かせた。言われてみれば、たしかにそうだった。王宮の中にいる時より、ずっと息がしやすい。


 もちろん、何もかも忘れたわけじゃない。それでも、夜の街の空気は思った以上に新鮮だった。


 肉を食べ終えたところで、シルヴァンが少し先の人だかりに目を向けた。


「お、まだやってんな」


「何がですか」


「ちょっと寄る」


 連れて行かれた先には、通りに面した小さな賭場があった。壁のない半屋外の店で、丸い卓の上には浅い真鍮の盆、その横には獣骨を削ったらしい小さな駒がいくつも並んでいる。駒の面には火、水、風、月、獣、王の六つの紋が刻まれていた。


 卓を囲んでいるのは、仕事帰りらしい男や露店の店主、旅人風の女まで様々だ。


紋骨もんこつだ」


 シルヴァンが言う。


「三人でやる遊びだ。参加する三人がそれぞれ好きな紋を一つ選んで、同じだけ賭け金を出す。で、胴元が骨を三つ振る」


 卓の向こうにいた年配の女が、骨駒を指先で弄びながら口を挟んだ。


「出た紋と一致した数がいちばん多い奴の勝ち。同じ数で並んだら振り直し。三人とも一つも当てられなかったら、胴元の勝ちさ。勝った奴が賭け金を総取り。まあ、場代もきっちりもらうけどね」


「……分かりやすいですね」


「分かりやすいからみんな熱くなる」


 胴元がシルヴァンを見るなり、にやりとした。


「あら、歩く寄付箱が来た」


「開口一番ひでぇな」


「だってそうでしょう。あんた、勝ってるところ見たことないもの」


 周りから笑いが漏れる。

 新は思わずシルヴァンを見た。


「……シル兄、もしかして弱いんですか」


「前は流れが悪かっただけだ」


「いつも、でしょ」


 女が即座に返し、また笑いが起きた。


 卓にはちょうど二人、先客が座っていた。露店帰りらしい男と、旅人風の女だ。シルヴァンが懐から硬貨を取り出して卓へ置く。


「月」


「私は獣」

「じゃあ俺は火だ」


 胴元が骨駒を真鍮の盆へ放り込み、カラカラと乾いた音を立てて転がす。

 出たのは火、獣、風。


「火ひとつ、獣ひとつ、月なし。火と獣で並び。振り直し」


「ほらもう嫌な流れだ」


「一回目で泣き言言うな」


 二回目。

 シルヴァンはまた月、旅人風の女は王、男は獣。

 出たのは獣、火、風。


「獣ひとつ。勝ち」

「はい、寄付ありがとね」


「だろうなと思った」


「思ったなら賭けるなよ」


 周りが好き勝手に突っ込み、シルヴァンも笑って返す。悔しがってはいるが、そこまで本気ではないらしい。むしろ、負けるところまで含めていつもの流れなのだと分かる。


 二回目。

 今度は獣に賭けて、旅人風の女と並んで振り直しになり、そのあと外す。


 三回目。

 王に賭けて外す。


 四回目。

 風に賭けて、月と火と獣が出る。


「弱っ」


 思わず新の口から出た。

 周りが一斉に笑い、シルヴァンが振り向く。


「お前、今、普通にひどいこと言ったな」


「だって弱いじゃないですか」


「初心者のくせに偉そうだな」


「見てるだけでも分かりますよ、これ」


 そこで先に座っていた旅人風の女が席を立った。

 胴元が新を見て、楽しそうに顎をしゃくる。


「じゃあ坊や、あんたも一回やる?」


「いや、俺は別に……」


「怖じ気づいたか?」


 シルヴァンが煽る顔をした。

 その顔がちょっと癪だった。


「……じゃあ、一回だけ」


 新は硬貨を一枚出した。


 もう一人の男は獣を選び、シルヴァンはまた月を選ぶ。

 新も少し迷って、なんとなく月を選んだ。


「おい、かぶせるなよ」


「別にいいでしょう」


「こいつと同じなのが嫌なんだよな……」


 胴元が骨駒を投げる。

 盆の上を転がった骨が、乾いた音を立てて止まる。


 月、獣、月。


 卓の周りが「おっ」とざわめいた。


 新は二つ一致。シルヴァンも二つ一致。男は一つ。


「同数だね。振り直し」


「うそだろ」


 シルヴァンが本気で嫌そうな顔をした。


「待ってください、なんでそんなに嫌そうなんですか」


「初心者がいきなり並ぶの、見てて腹立つだろ」


「シル兄が弱いだけでは?」


「お前ほんと慣れてきたな」


 振り直し。

 今度はシルヴァンが王、新はまた月を選ぶ。


 骨が転がる。

 月、風、火。


「月ひとつ。坊やの勝ち」


 胴元が笑いながら硬貨を押し返してくる。賭けた分より少し多い。


「初手でこれか。あんたより向いてるかもしれないね」


「シル兄、弱くないですか」


「一回で判断すんな」


「でも負けましたよね」


「お前ほんと慣れてきたな」


 新は受け取った硬貨を見下ろした。勝ったというより、まぐれだ。やろうと思えばもう一度できるかもしれないが、これ以上やると飲み込まれる気がした。


「……もうやめときます」


「賢いじゃん、坊や」


 胴元が感心したように言う。


「勝ってやめられる奴は少ないのよ」


「そっちはまったく学ばねぇけどね」


 別の客がシルヴァンを指して笑った。


「うるせぇな」


「いや、あんたは本当に弱い」


「この店に来るたび言われてる気がする」


「気のせいじゃないわよ」


 また笑いが起きる。


 新はその光景を見ながら、少し不思議な気分になっていた。シルヴァンは普段と変わらず軽い調子なのに、街の人間に混じると、それがやけに自然に見える。負けて、からかわれて、それでも笑っている。


 こういう場所でも、シルヴァンはちゃんと馴染んでいるらしかった。


「行くぞ」


 シルヴァンが負け分を回収できないまま身を引く。


「もうやめるんですか」


「これ以上やると本当に全部溶ける」


「自覚あるんだ……」


「ある。でもたまに勝てる気がするんだよ」


「だめな人の理屈だ」


「黙れ、初手で当てた奴」


 賭場を離れて少し歩くと、通りの空気がまた変わった。飲み屋が増え、窓から灯りが漏れ、笑い声も近い。楽器の音がどこかで鳴っている。香草だけでなく、酒の匂いも混ざってきた。


「次、どこ行くんですか」


「知り合いの店」


「賭場の次が知り合いの店って、なんか急に駄目な大人感あるな……」


「失礼な。普通に落ち着ける店だよ」


 少し歩いてから、シルヴァンが顎で南の方を示した。


「ほら、門の奴らに言っただろ。南通りの奥の、紹介がないと入れない店」


 新は目を瞬かせた。


「……あれ、本当にあるんですか」


「あるぜ。だから今から連れてく」


「紹介って、門番の人たちを通すための口実じゃなかったんですね」


「失礼な。本当に紹介してやるつもりだったに決まってんだろ」


「半分くらいしか信用できないな……」


「十分だ」


 連れて行かれたのは、南通りの奥、角を二つ曲がった先にある二階建ての店だった。表には青いガラス灯が吊られているが、派手な看板はない。知らなければ、そのまま通り過ぎそうな店だ。


 扉の前で、新は少し足を止めた。


「……ここですか」


「ここ」


 シルヴァンがためらいなく扉を開ける。

 温かい空気と一緒に、酒と香油と花の匂いが流れてきた。


 中は思っていたより明るい。

 壁際に丸卓が並び、客は男ばかりではなかった。商人風の女もいれば、旅装の男女もいる。店の中を回っている給仕は女ばかりで、皆きれいに髪をまとめ、動きやすい服の上に揃いの肩布を掛けていた。歌い手らしい女が一角で静かに弦を爪弾いている。


 騒がしすぎず、下品な酔客もいない。入口近くには腕の立ちそうな用心棒も立っていた。

 客の服も、声の張りも、屋台通りとは少し違う。


「……なんか、思ってたのと違います」


「だろ」


 シルヴァンが肩をすくめる。


「ここは紹介がないと入れねぇし、金もそれなりにかかる。変なのは最初から弾かれる。だから客の質も治安もいい」


「なるほど……」


 入るなり、一人の女がぱっと顔を上げた。赤茶の髪を後ろで束ねた樹人族の女で、手にした盆を軽く持ち上げる。


「シルヴァン!」


 女はそのまま近づいてきて、呆れたように眉を上げた。


「久しぶりじゃない。死んでたのかと思った」


「縁起でもねぇな。死んでたら来られねぇだろ」


「そうね」


 女はあっさり頷いてから、新を見た。

 それから目を細める。


「……珍しい子連れてる」


「俺の後輩」


「後輩っていうか……ずいぶん若い子を連れてきたのね」


 その言い方に、周りにいた女たちがくすっと笑った。


「ほんとだ。若い」

「シルヴァン、ずいぶん可愛いの連れてきたじゃない」


 赤茶の髪の女はふっと笑って、片手を腰に当てた。


「うちは、酒を注いで話し相手をする店。客が望めば、それ以上の遊び方もある。でもその子にはまだ早そうに見えるわ」


 新は何となく返しづらくなって、目を逸らした。


「……シル兄」


「安心しろ。今日は普通に飲んで帰るだけだ」


「その言い方だと逆に不安なんですけど」


 女たちがまた笑う。

 赤茶の髪の女が、少しだけ柔らかい顔になった。


「店主のミレーユよ。坊や、そんなに身構えなくていいわ。ここは乱暴な客も、無理を言う客も入れないの」


「……アラタです」


「そう。よろしくね、アラタ」


 空いていた奥の卓に案内された。シルヴァンは壁を背にできる席へ当然のように座り、新をその向かいではなく横へ座らせる。入口も窓も見える位置だ。遊びに来ているのに、その辺りだけは抜かりがない。


 ミレーユが腰に手を当てた。


「で、今日は何にする? いつもの薄酒? それとも、今日は奢りで潰れるまでいく?」


「おい、最後の物騒だな」


「だって、うちに来た時くらいしかあんた本気で酔わないじゃない」


「酔う予定はねぇよ」


「どうだか」


 新は少し首を傾げた。


「奢りって……」


 ミレーユが先に答えた。


「この人は別。うちじゃただ酒よ」


「は?」


 新が思わずシルヴァンを見る。

 シルヴァンは少しだけ面倒そうな顔をした。


「気にすんな」


「気になりますよ」


「昔からの付き合いってやつ」


 それだけ言って誤魔化そうとするから、余計に気になる。


 ミレーユはそんな二人を見て肩をすくめた。


 シルヴァンは薄酒を頼み、新は果蜜水と焼き菓子を注文した。

 酒と菓子が運ばれ、女たちが自然に卓の脇へつく。酌をして、軽く言葉を交わし、押しつけがましくなく場を回す。その距離感が絶妙だった。


「これうまいぞ、同じやつ飲むか?」


 シルヴァンがにやりとしながら新を見る。


「いや、無理です」


「なんで」


「未成年なので」


 シルヴァンが止まった。

 女たちも一瞬、きょとんとする。


「……なんだそれ」


「大人になる前の年齢は酒飲んじゃ駄目って決まりです」


「なんじゃそりゃ」


「いや、そういう決まりなんですって」


 ミレーユが面白そうに身を乗り出す。


「何歳から飲めるの?」


「二十です」


「長っ」


 今度は女たちの方が声を揃えた。


「二十まで駄目なの?」

「体格よかったらいけそうなのに」


「そういう問題じゃなくて……」


「ほんとに、この辺の育ちじゃなさそうね」


「そんなに変ですか」


「変っていうか、感覚が違うのよ」


「酒の決まりなんて、南の方でも聞かないしね」


「言葉の訛り方もちょっと違うし」


 周りの女たちも興味深そうに頷く。


「どこの生まれなの?」


 新は少しだけ言葉を選んだ。


「……遠いところです」


「ざっくりしてるわね」


「細かく言っても、たぶん伝わりにくいと思うんで」


「ああ、それは分かる」


 女たちが笑う。


 横でシルヴァンが杯を傾けながら口を挟んだ。


「まあ、そのへんにしとけ。こいつ、そういうの聞かれると困るんだよ」


「なにそれ、余計気になるじゃない」


「気にしなくていいです。本当に、ちょっと遠いだけなんで」


「ふうん。じゃあ、遠いところの坊やってことにしとく」


「坊やはやめてください」


「だってまだそんな感じだもの」


 また笑いが起きて、新は少しだけ居心地悪そうに目を逸らした。


 店の中は騒がしいのに、不思議と落ち着く。誰も大声で喧嘩していないし、笑い声はあっても荒れていない。シルヴァンが「落ち着ける店」と言った意味が少し分かった。


 果蜜水は甘いのにくどくなく、焼き菓子は香ばしい。

 新がうまそうに食べるたび、女たちが面白がって笑った。


「ほんと分かりやすい顔するね」

「おいしいとすぐ顔に出る」

「いいわね、この子」


「やめてください。なんか餌付けされてるみたいなんで」


「だって見てて楽しいもの」


 横でシルヴァンは、いつもの軽い調子で女たちと話していた。気障ではない。けれど、言葉の返しが自然で、誰と話しても間がもたない感じがない。


 人気があるのは分かる気がした。


「シル兄、こういうとこでちゃんと人気あるんですね」


「どういう意味だ」


「賭場ではあんなにカモなのに」


「それとこれとは別だろ」


 ミレーユがくすっと笑う。


「この人、賭け事は弱いけど、女の子にはちゃんと優しいからね」


「語弊ある言い方やめろ」


「ある?」

「ないと思う」

「ないわね」


 周りが勝手に頷き合う。


 新は少しだけ意外だった。もっと適当に女慣れしていて、軽くあしらうようなタイプかと思っていた。けれど、実際は違う。触れ方も言葉も軽いが、雑ではない。相手の話をちゃんと聞いて、笑わせるところでは笑わせる。だから向こうも気楽に話している。


 店の隅で、弦をつま弾く音が小さく鳴る。

 周囲の笑い声は続いているのに、その一瞬だけ会話が静かになった。


「……王宮ん中にいるとさ」


 シルヴァンが、珍しく落ち着いた声で言った。


「敵がどうとか、誰が怪しいとか、次に何が起きるとか、そういうのばっか頭に残るだろ」


 新は黙って聞いた。


「必要なことだ。実際、気ぃ抜けねぇしな」

「でも、そればっか見てると、守ってるもんが何なのか分かんなくなる時がある」


 新は目を瞬いた。


 シルヴァンは店の中を軽く見回す。笑う客、杯を運ぶ女たち、奥で歌う女、焼き菓子をかじる新。


「こういうのだよ」

「くだらねぇ賭けして、酒飲んで、女に笑われて、うまいもん食って、明日の仕事に文句言いながら帰る」

「殿下が守ろうとしてんのは、こういうもんだ」


 軽く言ったはずなのに、その言葉は新の胸に思ったより深く落ちた。


 王宮の中では、どうしても大きい話になる。

 人族の侵攻。評議会。鍵。守護者。聖樹。


 けれど、守るということは、たぶんそれだけじゃない。

 目の前にあるこういう普通の夜も、その中に入っている。


「……シル兄、たまに真面目なこと言いますよね」


「たまにじゃねぇだろ。いつもだろ」


「いや、それはないです」


 即答すると、シルヴァンが吹き出した。


「ほんと遠慮なくなったな、お前」


「シル兄が慣れさせたんでしょうが」


「いいことだ」


 そのあとも、店では取り留めのない話をした。


 新が顔は幼いわりに体格がいいのはなぜかということ。

 シルヴァンと普段はどんなふうに話しているのかということ。

 訓練中まであの調子なのかということ。


 女たちは面白がって質問し、シルヴァンは横から茶々を入れる。

 そのうち、別の女がシルヴァンの杯に酒を注ぎ足した。


「ねえ、それ八杯目よ」


 ミレーユが言う。


「七杯だ」

「今のを入れたから八杯目」

「数えてんのかよ」

「当たり前でしょ」


 なのに、そのあとも別の女が笑いながら注ぎ、また別の女が「久しぶりなんだから」と杯を押しつけた。


 新は途中で嫌な予感がした。


「……シル兄、飲みすぎじゃないですか」


「薄酒だって言ってんだろ」


「さっきから薄酒って言いながら量が薄くないんですよ」


「細けぇな」


 ミレーユが肩をすくめる。


「ここだと昔からこうなの。止めても無駄よ」


「止めてくださいよそこは」


「止めたことはあるのよ。でも久しぶりに来た日にやると、あっちからもこっちからも杯押しつけられるの」


 言われて周囲を見ると、卓についている女たちが揃って知らん顔をした。


「えぇ……」


 新が呆れている間にも、シルヴァンは上機嫌で笑っている。顔は赤くない。呂律も回っている。だから大丈夫かと思った。


 大丈夫ではなかった。


「……シル兄?」


 新が声をかけた時には、シルヴァンは卓に肘をついたまま、ゆっくり前へ倒れかけていた。


 隣にいた新が慌てて肩を支える。


「え、ちょっと待ってください」


「だから言ったのよ」


 ミレーユがまるで慌てない声で言った。


「この人、うちに来ると気ぃ抜くの」


「抜きすぎでしょ!」


 シルヴァンは何か言おうとしたらしいが、結局「……だいじょぶ」とだけ呟いて、そのまま新の肩にもたれた。


「全然大丈夫じゃないですよ!」


 女たちが笑う。


「久しぶりに見た」

「ほんとに潰れた」

「安心してる時だけなのよね、この人」


 新は半ば抱えるようにしてシルヴァンを椅子へ戻した。重い。見た目通りしっかり重い。


「これ、どうするんですか……」


「少し寝かせれば動けるわ」


 ミレーユが言って、周りの女たちに合図する。卓の上を手早く片づけ、空いた長椅子へシルヴァンを移した。手慣れている。


 新が呆然としていると、ミレーユが向かいへ腰を下ろした。


「アラタ。少しだけ話す?」


「え?あっはい……」


 店の騒がしさはそのままなのに、その一角だけ少し落ち着いた空気になる。


 ミレーユは眠り込んだシルヴァンを見て、苦笑した。


「この人、普段は外で絶対ここまで飲まないのよ」


「でしょうね……」


「飲める場所じゃなくて、酔っても平気な場所っていうのが、たぶん大きいの」


 新はシルヴァンの寝顔を見た。

 さっきまで周りを見ていた目は閉じている。こんな無防備な顔は初めて見た。


「さっき、ただ酒って言ってましたよね」


「ええ」


 ミレーユはあっさり頷いた。


「ここにいる女の大半は、昔この人に助けられてるの。酔った貴族に絡まれてた子、借金で変なところへ売られかけた子、路地で半分死にかけてた子。形は色々」


 新は黙って聞いた。


「私はその一人目」


 ミレーユは少し笑った。


「まだこの店を持つ前。別の店で働いてた時に厄介ごとに巻き込まれてね。あの時この人が片づけてくれた。そこから縁が続いてる」


「……だから、ここに?」


「そう。助けられた女が一人、二人と流れてきて、気づいたらこうなってた」


 店の中で笑っている女たちを見る。

 たしかに雰囲気は明るいが、どこか気安い。それは単に店の空気がいいだけじゃなく、ここにいる女たちの間に共通する何かがあるからなのだと分かった。


「この人、そういうの自分から言わないでしょ」


「全然言わないです」


「でしょうね」


 ミレーユは眠るシルヴァンの額を指先で軽くつついた。


「ほんと、そういうとこだけは昔から変わらない」


 新は少しだけ喉を鳴らした。


「……シル兄、女の子には優しいって言われてたの、冗談じゃなかったんですね」


「冗談半分、本当半分。でも慕われてるのは本当よ。だからうちでは、飲み代なんて取らない」


 そこでミレーユがふっと目を細める。


「まあ、その代わり、こうして潰れた時は面倒見るけどね」


「それ、いつもなんですか」


「毎回じゃないわよ。たまに。ほんとにたまに」


 少し沈黙が落ちる。


 店の奥では弦が鳴っている。

 客たちの笑い声も、杯の触れ合う音も、さっきと変わらず続いていた。


 新は、その光景を見ながら思った。

 王宮の中では見えないものがある。

 シルヴァンが守ってきたもの。カンナが守ろうとしているもの。こうして灯りの下で笑っていられる場所そのものが、たしかにそこにあった。


「……こういう場所も、守ってるってことなんですね」


 ぽつりとこぼすと、ミレーユが新を見た。


「そうね」


 短く、それだけ言う。


「この街には、こういう場所が必要なの。安心して働ける場所も、安心して酔える馬鹿も」


「最後のやつは必要ですか」


「必要よ。いないとつまらないもの」


 新は少しだけ笑った。


 そこでふと、窓の外を見た。

 店の外の月明かりが、さっきより少し落ち着いている。


「……今、どれくらい経ちました?」


 ミレーユが壁際の砂時計へ目を向ける。


「このお店に来て三刻はとっくに過ぎてるわね」


「え?」


 新は固まった。


「嘘でしょ!?一刻半で戻れって言われてるのに!」


 その声に、周りの女たちが一斉にこちらを見た。


「あら、そうなの?」

「そこは早く気づきなさいよ」

「坊や、顔真っ青」


「いや、笑い事じゃないですから!」


 新は慌てて立ち上がり、長椅子のシルヴァンを見る。


「起きてください、シル兄!帰ります!今すぐ!」


「……んー……」


「起きてない!」


 ミレーユが立ち上がり、苦笑しながら手を貸してくれた。


「肩、こっちに回しなさい。ほら、足は動くから」


 どうにかシルヴァンの片腕を自分の肩に回し、半ば担ぐようにして立たせる。重い。さっきよりさらに重い気がした。


「アラタ、大丈夫?」


「大丈夫じゃないです……!」


 ミレーユが扉まで一緒に来る。

 見送りに出た女たちが口々に笑った。


「坊や、頑張ってー」

「それ、途中で落とさないでよ」

「次は時間見なさいね」


「次はないです……たぶん!」


 外に出ると、夜気が一気に冷たかった。

 街の賑わいはまだ残っているが、明らかに行きより遅い時間だ。


 新はシルヴァンを引きずるようにして歩いた。

 足元はよろけるし、本人はたまに妙なタイミングで体重を預けてくるし、まったく戦力にならない。


「シル兄、ほんとに起きてください……!」


「……だいじょぶ、歩ける……」


「歩けてない!」


 どうにか王宮の外壁沿いの細い道へ戻るころには、もう汗だくだった。


 そして小門の前に辿り着いた瞬間、新は足を止めた。


 門の前に、いた。


 フィオナが。


 月明かりの下で、腕を組んで立っている。

 いつもの無表情に見えて、その実、空気がまるで違った。冷たい。静かなのに、はっきり分かる。ものすごく怒っている。


 門番たちは揃って視線を逸らしていた。


 新の背筋がぞくりとした。


「……ただいま、戻りました」


 情けない声になった。


 フィオナの視線が、まず新を見て、次に肩にもたれたシルヴァンへ移る。

 数拍の沈黙。


「説明を」


 低い声だった。


「えっと、その、街を見せてもらって、屋台で肉食べて、紋骨やって、それから紹介の店に行って……」


「簡潔に」


「シル兄が飲みすぎて潰れました」


「見れば分かります」


 その一言が怖すぎた。


 フィオナがゆっくり近づいてくる。

 シルヴァンはその気配に薄く目を開けたらしい。


「……フィオ、ナ隊長……?」


「黙りなさい」


「はい」


 酔っていても即答だった。


 フィオナはこめかみを押さえ、深く息を吐いた。

 だが怒りはまったく消えていない。


「外に出さないよう伝えたはずだが」


「……はい」


「それを独断で王宮の外へ出し、挙げ句、一刻半どころかとうに時間も過ぎている。さらに、自身が歩けなくなるまで飲むとは。隊長命令を何だと思っているんだ」


「……すみません」


「あなたもです、アラタ」


 不意に矛先が来て、新は肩を震わせた。


「はいっ」


「止めなさい」


「止めました!一応!でも止まりませんでした!」


「言い訳は不要です。もっと早く戻る判断もするべきでした」


「はい……」


 フィオナは数秒、新を見つめた。

 怒っている。怒っているが、無事を確認して少しだけ安堵しているのも分かった。だから余計に心が痛い。


「……怪我は」


「ないです」


「本当に?」


「はい」


 フィオナは一度だけ目を閉じた。

 それから、今度はシルヴァンの襟首を容赦なく掴んだ。


「うわっ」


「起きているなら歩いてください」


「いやその、ちょっと今、世界が揺れて――」


「歩いてください」


「はい」


 新はそのやり取りを見て、ほんの少しだけだけど、今夜見たどんな場面よりも「終わった」と思った。


 門番たちの一人が気まずそうに咳払いをする。


「その……お帰りなさいませ」


 空気が全然温かくない。


 小門をくぐって王宮の内側へ戻る時、新はぼそりと呟いた。


「……悪くはなかったんですけどね」


 フィオナが振り返らずに答える。


「感想は明日聞きます」


 その声で、新は完全に黙った。


 たぶん明日、ものすごく怒られる。

 シルヴァンはもっと怒られる。


 でも、肩に残る重みと、服に移った街の匂いと、頭の中に残る灯りは消えていなかった。


 守るべきものが、少しだけ分かった夜だった。

 そして同時に、勝手なことをすればどうなるかも、よく分かった夜だった。


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