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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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14.大脱走

 特訓が始まってから、一週間が経っていた。


 一週間たって、分かったことが二つある。

 ひとつは、守護者の回復は何でもすぐ治るわけじゃないということだ。擦り傷や打ち身くらいなら普通に残るし、痛みもしばらく引かない。けれど、骨が折れるような大きな怪我になると、身体は目に見えて早く治る。

 

 もうひとつは、シルヴァンが王宮警護隊の遊撃班を率いていることだった。廊下ですれ違う兵たちが、やたらと「班長」と呼ぶからだ。


 特に遊撃班の人達は遠慮がない。


「班長、お疲れっす」

「昨日また無茶したらしいですね」

「報告書、今度は逃げないでくださいよ」


 苦情みたいなことばかり言っているのに、兵たちの顔はみんな笑っていた。シルヴァンも「うるせえな」と返しつつ、誰かが持ってきた報告には足を止める。軽い。けれど、雑ではない。その空気を見ていると、慕われているのが何となく分かった。


 毎日同じようでいて、同じ日はひとつもなかった。


 朝から身体を動かし、木剣を振り、足を動かし、転ばされ、叩き込まれ、息が上がったところでまた立たされる。半歩ずれる、正面を外す、剣より先に足、剣を離すな、目の前だけを見るな。そんなことを飽きるほど繰り返しているのに、翌日になるとまた出来なくなる。出来たと思ったことが、相手が少し速くなっただけで崩れる。やれることが増えた実感より、出来ないことの多さばかりが目につく一週間だった。


 それでも、最初の日とは違う。


 木剣を握る手の位置は少し安定したし、相手に突っ込むしかなかった足も、ほんのわずかだが止めたりずらしたり出来るようになってきた。もちろん、それで勝てるわけじゃない。シルヴァンには相変わらず遊ばれているし、ただ、無駄に真正面から殴られに行く回数は減った。


 フィオナが修練場に顔を出すことはなかった。

 当然だ。カンナの周囲が落ち着いたとは言い難い以上、王宮警護隊長であるフィオナがそちらを優先するのは当たり前だった。その分、新の稽古はシルヴァンが見ている。


 その日の訓練が終わった頃には、腕も肩も張っていて、汗が乾いた肌に夜風がしみた。


 王宮の修練場は、日が落ちると昼間より広く見える。灯りが届く範囲だけが切り取られ、その外が暗く沈むせいだろう。新は木剣を床に置いたまま、その場にしゃがみ込み、膝に肘をついて息を整えていた。


「今日はここまでだな」


 いつも通り軽い声で言って、シルヴァンが木剣を肩に担ぐ。


 息ひとつ乱れていないのが、毎回むかつく。


「……シル兄、絶対まだ動けますよね」


「そりゃ動けるが……」


「こっちはもう腕上がんないんですけど」


「じゃあ今日もちゃんと追い込めたってことだ。よかったよかった」


「よくないです」


 新が顔をしかめると、シルヴァンはけらけら笑って水差しを放ってきた。受け取って喉に流し込む。ぬるい水でも、今は妙にうまい。


 この一週間で、シルヴァンに対する新の喋り方は少し変わっていた。


 最初はもっと固かった。相手が王宮の人間で、自分より年上で、カンナやフィオナとも気安く話す立場にいるとなれば、自然と距離を取っていた。だが、毎日顔を合わせて、毎日ぶつかって、毎日転ばされて、毎日のように馬鹿みたいな軽口を叩かれていると、ずっと固いままでもいられない。


 シルヴァン自身が、そうさせる相手だった。


 命令口調ではあるが押しつけがましくなく、偉ぶることもなく、雑なようでいて必要なところは外さない。年上なのは分かるし、先輩だという感覚もある。だから敬語は残る。けれど、ずっと「はい」「いいえ」だけで話していると、向こうが勝手に距離を詰めてくる。結果、新の言葉も少しずつ崩れていった。


「何ぼーっとしてんだ」


「いや……なんでもないです」


「嘘つけ。疲れすぎて魂抜けてただろ」


「それはちょっとあります」


「素直でよろしい」


 シルヴァンは木剣を壁際に戻しながら、新を横目で見た。


「なあ」


「はい」


「このあと、まだ歩けるか?」


 新は眉をひそめた。


「まだやるんですか」


「訓練じゃねぇよ」


「じゃあ何です」


 シルヴァンは少しだけ口の端を上げた。


「ちょっと外の空気吸いに街に出かけるぞ」


 聞き間違いかと思った。


「……は?」


 新は思わず立ち上がった。


「いや、いやいや、ちょっと待ってください。何言ってんですか」


「だから、街に出て遊びに行くぞって言ってんだ」


「今から?」


「今から」


「この時間に?」


「この時間だからだって」


 平然と言われて、新は本気で言葉に詰まった。

 頭の中に真っ先に浮かんだのは、フィオナの声だった。


 もともと、通行印代わりの木札を渡されたときにも、王宮の外には勝手に出ないよう言われていた。見知らぬ土地で迷えば面倒になるし、王宮の外は新にとって安全を約束できる場所ではない、と。


 そして襲撃のとき、その注意はただの忠告ではなくなった。


『今は勝手に外へ出ないでください』

『王宮の中でも、出来る限り一人にならないでください。外は論外です』


 あのときの低い声を、新はちゃんと覚えている。

 覚えているからこそ、今の提案は無茶苦茶に聞こえた。


「いや、無理でしょ。フィオナさんに外出るなって言われてますし」


「言われてるな」


「覚えてるならなおさら駄目じゃないですか」


「だから内緒で行くんだよ」


「もっと駄目だろ、それ」


 即答すると、シルヴァンは笑った。


「いい反応だな」


「笑いごとじゃないですって。見つかったらどうすんですか」


「怒られて殴られてぶっ飛ばされる」


「分かっててやるんですか」


「分かってるからやるんだろ」


 理屈になっていない。

 新は額を押さえた。


「いや、ほんとに無理です。あとで絶対面倒なことになる」


「見つからなければ問題ないさ」


「問題になる予感しかしないですけど……」


「でもお前、この一週間ずっと修練場と客室と食堂と風呂しか行ってねぇだろ」


「……まあ、そうですね」


「それじゃ息が詰まる」


「いや、詰まるとかそういう問題じゃ」


「そういう問題だよ」


 さっきまで笑っていたシルヴァンの声が、少しだけ真っすぐになった。


「危ないのは分かる。怒られるのも分かる。けど、王宮の中で縮こまってるだけじゃ余計に視野が狭くなる。お前、もともと知らねぇ場所に来て、知らねぇ連中に囲まれて、訓練まで詰め込まれてんだぞ。たまには別の空気吸え」


 新は黙った。


 言っていることは分かる。

 分かるが、それとこれとは別だろ、とも思う。


「……だったら昼間に出ればいいじゃないですか」


「昼は目立つ」


「夜の方が危なくないですか」


「危ない場所には行かねぇよ」


「そういう問題でも……」


「それにな」


 シルヴァンは新の反論を軽く切って言った。


「ずっと気張ってられる奴なんていねぇ。強い弱いじゃなく、張り詰めたままの奴から先に心が壊れる。息抜きは必要だぜ?」


「……それ、フィオナさんに言ったら絶対顔しかめそうですね」


「だから言わねぇんだろ」


 開き直った顔で言われて、新はまた黙るしかなかった。


 たしかに、フィオナはこういう理屈に理解は示しても、今この状況で夜に連れ出すとなれば確実に止めるだろう。カンナも同じだ。たぶんもっと柔らかい言い方はするだろうが、結論は同じになる。


 納得はしない。

 けれど、シルヴァンが本気でやめる気がないのも伝わってくる。


「……俺が嫌だって言ったら?」


「引っ張ってく」


「最悪だな」


「褒め言葉として受け取っとく」


「褒めてないです」


 新がそう言うと、シルヴァンは一歩近づいてきた。


「大丈夫だ。危ない真似はさせねぇし、何かあったら俺が引っ張って逃がす」


「その言い方、全然安心できないんですけど」


「細けぇな」


「細かくもなりますって」


「じゃあこう言うか。俺が連れ出したってことは、戻すとこまで込みで考えてる」


 それは、さっきまでの軽い調子とは少し違った。


 冗談めかした空気は残っている。

 けれど、その奥に「本当に無計画ではない」という響きがある。


 新は小さく息を吐いた。


 たぶん、この人はこういう時、強引だ。

 反対されることも見越している。

 それでも、必要だと思ったら押し切る。


「……ほんとにちょっとだけですよ」


「よし、決まり」


「まだ完全には頷いてないんですけど」


「頷いたようなもんだろ」


「雑だなあ……」


 新が呆れて言うと、シルヴァンは満足そうに笑った。


 棚から薄手の上着を一枚取り、新に放る。


「これ着とけ。王宮の中の服だってすぐ分かるのは面倒だ」


「用意いいですね……」


「最初から連れてく気だったしな」


「最初からかよ」


「おう」


 悪びれない。


 新は半ば諦めて上着を羽織った。少し大きいが、動きにくくはない。白が基調の訓練着の上から着ると、たしかに王宮の人間らしさは薄れる。


 腰の小袋に手をやる。鳴石はちゃんと入っていた。


「で、どっから出るんですか」


「西の裏手から出る」


「そんなのあるんですね」


「荷の搬入とか夜の見回り交代で使う小さい門がある」


「それ、普通に見張りいません?」


「いるな」


「じゃあ無理じゃないですか」


「今夜あそこ当たってる奴、顔見知りなんだよ」


「ほんと大丈夫なのかな、それ……」


「大丈夫じゃなかったらその時考えればいいだろ」


「雑!」


 思わず声が上がって、慌てて周囲を見る。幸い、近くに人影はない。シルヴァンは肩を震わせて笑った。


「声出すなお前」


「シル兄のせいでしょうが」


「そうやってたまに敬語抜けんの、慣れてきた証拠だな」


「別に、そんなんじゃないです」


 反射で言い返したものの、うまく否定しきれず、新は視線を逸らした。


 王宮の廊下は夜になると静かだ。昼間は侍女や兵や役人が行き交っていても、今は灯りの下を見回りが通るくらいで、人の気配は薄い。石床に靴音がやけに響く気がして、新は無意識に足を控えめにした。


 途中、客室へ戻る通路が視界の端をよぎる。


 フィオナは、きっとまだ起きているだろう。

カンナも、仕事や話し合いが終わっていれば、そろそろ自室に戻っている頃かもしれない。

 

 黙って抜け出すのは、やっぱり後ろめたい。


 新がわずかに足を鈍らせると、前を歩いていたシルヴァンが振り返った。


「どうした?今さらビビってんのか?」


「……別に」


 むっとして言い返し、新はそのまま歩き出した。

 怒られるだろうなとは思う。けれど、今ここで引き返すのもなんだか負けた気がした。


 西棟の裏手に回るころには、王宮の灯りも少し遠くなっていた。石壁に沿って細い通路が伸び、その先に人ひとりが通れる程度の門がある。たしかに小さい。これなら表から目立たないのも分かる。


 門の脇には兵が二人立っていた。


 見つかった瞬間、新の身体がわずかに固くなる。


 兵たちはシルヴァンの顔を見るなり、揃って露骨に嫌そうな顔をした。


「……やっぱり班長ですか」


「小門を開けてくれ。少しだけ外に出る」


「駄目です」


 片方が即答した。


「今の状況で、アラタ殿を王宮の外に出せるわけないでしょう」


「少し外の空気を吸わせるだけだ。すぐ戻る」


「そういう話じゃありません」


 もう片方も眉を寄せる。


「隊長はご存じで?」


「知ってたら止める」


「でしょうね」


 返答が早すぎて、新は少しだけ目をそらした。


 兵は呆れたように息をついたが、すぐに表情を引き締めた。


「シルヴァン班長。今、王宮がどういう状況か分かっていますよね」


「分かってる。だから危ないところには行かねぇし、アラタからも目を離さない」


「その言い方がもう不安なんですよ」


「ひでぇな」


「事実です」


 ぴしゃりと返されても、シルヴァンは気にした風もなく、ふと思い出したように口を開いた。


「そういやお前ら、この前、南通りの奥にある店の話してただろ」


 二人のうち片方の眉が、ぴくりと動いた。


「……何の話ですか」


「紹介がないと入れない店がどうとか言ってたじゃねぇか」


「班長」


 低い声で遮ったのは、さっきまで一番きつい顔をしていた方だった。


 だが、その顔つきはさっきよりわずかに苦くなっている。


 シルヴァンは口の端だけで笑った。


「今度、そこ俺の紹介で入れるようにしてやるよ」


「いや、買収じゃないですか」


 思わず新が口を挟むと、兵の片方がうっすら頷いた。


「情報提供だ」


「言い方変えただけでしょう」


 兵たちは一度だけ視線を合わせた。


 露骨に揺れたわけではない。だが、完全に突っぱねる空気でもなくなっていた。


「……本当なんですね、班長」


 片方が念を押すように言う。

 シルヴァンは悪びれもせず、軽く肩をすくめた。


「今さらそこ確認すんのかよ」


 だめだ、こいつらも押し切られる。

 新は半ば呆れながら、心の中でそう思った。


 やがて、もう片方が大きく息をつく。


「……一刻半です」


「十分だ」


「それ以上かかったら、すぐ報告します」


「分かった」


 もう片方が新を見る。


「アラタ殿。危ないと思ったら、すぐ戻ってください」


「はい」


兵が門に手をかける。


「本当に、一刻半ですからね」


「分かってるって」


「その台詞が一番信用できないんですよ」


 門が静かに開いた。

 隙間から、夜の空気が流れ込んでくる。


 少し湿り気を含んだ風だった。石と土の匂いに、どこか人の暮らしの気配が混ざっている。王宮の中の整った空気とは、少し違う。


 新は思わず足を止めた。


 門の向こうには、王宮の壁沿いに細い道が伸びていた。その先には街の灯りが見える。窓からこぼれる明かり、店先の光、行き交う人影。遠くからは笑い声のようなものまで聞こえた。


 街そのものは、ここへ来る途中にも見ている。

 けれど、あの時は周りを見る余裕なんてなかった。こうして夜の灯りを眺めていると、同じ街でもまるで違って見えた。


「行くぞ」


 シルヴァンが先に門をくぐる。


 新は一瞬だけ、小門の内側を振り返った。

 戻ろうと思えば、まだ戻れる。けれど、門の向こうの灯りから目を離せなかった。


「……ほんとに、少しだけですからね」


「分かってる分かってる」


「たぶん分かってないな、この人……」


 ぼやきながら、新も門をくぐった。


 王宮の敷地を一歩出た瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなかった。怒られるかもしれない、という後ろめたさはある。


 でもそれ以上に、外の空気が少しだけ新鮮だった。

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