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ふたりの世界の終わり方  作者: 後藤翠
第一章

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13.四人での食事

 風呂上がりの身体は軽い。痛みは残っているが、動くたびに思い出す程度で済んでいた。


 食事に向かう廊下は、昨日よりも兵が増えている。


 角を曲がったところで、見張りの兵が二人、シルヴァンに軽く会釈した。

 シルヴァンは片手をひらりと振って返し、そのまま歩く。


「警備、増えてますね」


「まぁな。殿下が王宮の中で襲われたんだ。昨日までと同じってわけにはいかねぇよ」


 短く答えたシルヴァンは、いつもより少し声が低かった。新は頷いて、それ以上は聞かなかった。


 案内されたのは、大きな食堂ではなかった。

 扉の前に兵が二人立ち、その先には前回、カンナと食事をした部屋がある。あまり人に見られたくない際に使う部屋なのだろう。


 扉が開くと、温かな空気が流れてきた。

 中には四人掛けの円卓がひとつだけ置かれていて、料理はすでに並べられている。焼いた肉の匂いに、香草と油、それから甘い匂いのする香料が薄く混ざっていた。腹が勝手に反応してしまうのが悔しい。


 円卓の奥に、カンナが座っていた。背筋はいつも通りまっすぐで、姿勢にも乱れはない。だが、近くで見ると目の下にうっすら疲れが残っている。


 その斜め後ろにはフィオナが立っていた。扉もカンナも見える位置だ。いつものことだが、立ち方に無駄がない。


「アラタ。……来てくれてありがとう」


 カンナが先にこちらに気づいて呼んだ。新は小さく頭を下げる。


「……殿下」


 その横で、シルヴァンが一歩前に出た。


「カンナ殿下。本日も一段とお美しい」


「……」


 カンナの眉が、ほんの少しだけ動く。返事に困った時の顔だ。


 シルヴァンは止まらない。


「風呂上がりの頬の色、これは反則ですね。国の宝ってやつですか」


 フィオナの拳が動いた。鈍い音。シルヴァンは腹を押さえて息を詰まらせた。


「ぐっ……!」


「黙って座れ」


 フィオナの声は短い。新は思わず目を丸くする。


「いま……殴りましたよね」


「殴った。必要だった」


 あまりに迷いがなくて、逆に突っ込みづらい。


 カンナが小さく咳払いをした。


「……フィオナ。ここは食事の場です」


「失礼しました。ですが、放っておくと長引きます」


「それは……そうですが」


 新は黙って席についた。

 妙な緊張が少しだけ途切れたのは確かだ。シルヴァンは腹を押さえたまま笑っている。大丈夫なのか、それ。


 円卓の上には、すでに料理が並んでいた。

 大きめの皿に、香料を塗った肉。焼き目がついていて、油が薄く光っている。添え物の野菜にも香草が振られていた。

 匂いだけで分かる。うまい。たぶんこれはかなりうまい。


 シルヴァンが鼻をひくひくさせる。


「お、今日は当たりだな」


「食事の前からうるさい」


 フィオナが即座に切る。


「ひでぇ」


「静かに食べれば問題ない」


 カンナが息を整え、新へ視線を向けた。


「……アラタ。ひとつ、聞いてもいいですか」


「はい」


「あなたは、この世界に来る前、何をしていましたか?」


 新は一瞬、言葉に詰まった。

 説明するのは難しくない。だが、この世界に同じ仕組みがあるとも思えない。


「……高校生でした」


「こうこうせい……?」


 やっぱり通じない。

 新は少し考えてから言い直す。


「学生です。大人になる前の年頃で、学ぶための場所に通っていました」


「なるほど……」


 カンナは小さく頷き、続ける。


「では、得意だったことは」


 新は少しだけ迷ってから答えた。


「強いて言うなら……剣道だけは、九年。毎日続けてました」


「けんどう?」


 また通じない。新は苦笑して説明を探す。


「ええと……防具をつけて、竹の剣で打ち合う競技です」


「競技」


「はい。ただ当てればいいわけじゃなくて、ちゃんと打ててるかも見られます。頭とか胴とか腕に、きれいに入れば一本です」


 カンナが興味を持ったように少し身を乗り出す。


「では、強く叩けば勝ち、というものではないのですね」


「そうです。勢いだけでも駄目だし、姿勢が崩れてても駄目です。打った後も気を抜かない、みたいなのも含めて一本になるので」


「……なるほど」


 カンナは小さく頷いた。


「なら、そのずっと続けていた剣道が、好きだったのですね」


「……はい」


 新は答えた。答えたのに、表情がうまく戻らない。


 好きだった。

 それは嘘じゃない。

 でも、それだけで続けていたわけでもない。


(やめたら、空っぽになる気がしてた)


 胸の奥に浮いた言葉を、そのまま飲み込む。

 今ここで細かく話すことでもない。


 新の顔を見て、シルヴァンがわざと明るく割って入った。


「殿下、こいつの元の世界、夜でもずっと明るいらしいですよ」


 カンナが目を丸くするより先に、フィオナが眉を動かした。


「ずっと朝、ということか」


「朝ってわけじゃなくて……街が明るいんです。強い灯りが夜でも点いてて、遠くから見ると昼みたいに見えるというか」


 そう言うと、フィオナは珍しく目を細めた。


「……そこまで魔法技術が広く使われているのか」


「魔法じゃなくて……」


 新は言いかけて止めた。

 科学と言っても通じる気がしない。その一瞬の間に、シルヴァンが口を挟む。


「それより殿下、こいつの世界の飯も変わってるんすよ。普通そこ食うかってもんまであるらしくて」


 嫌な流れだと、新はすぐ分かった。


「おい、やめろ」


「例えば?」


 カンナが興味を示してしまった。シルヴァンがにやっと笑う。


「味噌ってやつです。豆を発酵させて作るらしいんですけど――」


「待てって…!」


 新が慌てて止めると、シルヴァンは肩を揺らして笑った。


「分かった分かった。そこまで嫌がるならやめとく」


 フィオナがじろりと見ると、シルヴァンはすぐに肩をすくめて引き下がった。


「はい」


 返事だけは素直だ。


 カンナが小さく咳払いをして、場を戻した。


「……話が逸れました。フィオナ、今日ここで話すことを」


 フィオナは一度だけ扉へ視線をやった。


「給仕は下げています。この部屋に近づける者も絞りました」

「ですので、ここでだけ聞いてください」


 新は自然と背筋を伸ばした。

 さっきまでの空気が、そこで切り替わる。


「殿下には、先にご報告しましたので、アラタ、シルヴァン。両名には今から話します」


 カンナが静かに頷く。


「……お願いします」


 フィオナは短く息を整えた。


「拘束した侍女は、牢に入れた後に殺されていました」

「警護隊の中に、裏切り者がいました」


 新は思わず顔を上げた。


「……死んだんですか」


 喉の奥がひやりと冷える。

 口を塞ぐために消された。そう考えるのが自然だった。


  シルヴァンの顔からも、さっきまでの軽さが消える。


「警護隊のやつが、侍女を?」


「そうだ」


 フィオナははっきりと言った。


「侍女は護送の後、牢に収監しましたが、その後、警護隊の者が牢へ入り、侍女を殺害していた」

「本人はその直後に自害しています」


 新は息を詰めた。


「……自害」


「口封じを果たした上で、自分も死んだ。そういうことです」

「少なくとも、捕まって吐くつもりはなかったのでしょう」


 カンナの手が、持っていたスプーンの上で止まる。

 フィオナはカンナへ視線を向けた。


「つまり、評議会の手の者がまだ王宮警護隊の中にいる、かもしれないということですか」


「その可能性が高いです」


 フィオナの声は低いが、答えは明確だった。


「侍女を牢へ運んだ流れも、その後に誰が近づけるかも、警護の中にいる者でなければ把握しきれません」

「こちらが通る経路や、兵の置き方まで外へ漏れていた以上、内側に手が入っていると見るべきです」


 敵が外にいるだけじゃない。こっち側にも紛れているかもしれない。


 シルヴァンが、珍しくふざけない声で聞く。


「……どこまで割れてるんです?」


「裏切り者が一人いたのは確定だ。ほかはまだ不明だが、これ以上いるとは考えたくないものだ」


 フィオナは淡々と続ける。


「警備はすでに強めていますが、内側に手が入っている以上、それだけでは足りません」

「今夜から配置を組み直します。殿下の近くに置く者も絞る。よろしいですか?殿下」


 カンナは短く頷いた。


「構いません。お願いします」


 シルヴァンが低く問う。


「で、ギヨーム猊下は?」


「すでに動いている」


 フィオナが答える。


「評議会そのものをどうにかしようとしているわけではない、評議会に出入りする書記官や伝令役、各所との連絡を担う者たちに人を当てている。誰がどこへ話を流しているか、どこで不自然に手が回っているかを洗わせているようだ」


「早ぇな……」


 フィオナはカンナへ視線を向けた。


「殿下、殿下を守る名目で、人を動かせる形も整えているようです」

「表向きは警備強化ですが、実際には周囲を固めるための配置替えになるそうです」


 新は思わず口を開いた。


「……味方なんですよね。ギヨーム猊下は」


 フィオナは少しも迷わなかった。


「味方です。少なくとも、今この状況で殿下を見捨てる人ではありません」


 カンナも小さく頷く。


「……あの人は昔から、そういう人です」


 新は肉を一口切って口に入れた。

 うまい。ちゃんとうまいのに、さっきまでみたいに素直に味わえない。


 カンナが新とシルヴァンを見た。


「……今は、どんな訓練をしているのですか」


 新は口の中のものを飲み込んでから答えた。


「剣の稽古もしていますけど、それより先に、崩された時にどう動くかを叩き込まれてます」


 シルヴァンが横から補う。


「剣を持ってる前提で考えるな、ってやつです。落とした時、距離を詰められた時、どう逃がすか」

「今はそこを優先してます」


 フィオナが短く言った。


「王宮警護隊でも基礎になる動きです。剣がなくなった時に死なない動きを、先に身体へ覚えさせます。守るのはそのあとです」


 カンナは小さく頷く。


「……なるほど」


 シルヴァンも頷いた。


「逃げるのをサボらない。明日からはそこも優先だな」


 新はスプーンを握る。少しだけ手が震えているのに気づいた。疲れだろう。

 状況が状況じゃなければ、飯をもっと素直に喜べた気がする。


 カンナが、少しだけ言いづらそうに口を開いた。


「それと……シルヴァン」


「ん?」


「この先を考えるなら、あなたにも旅に加わってほしいと思っています」


 新は思わず顔を上げた。

 シルヴァンは一瞬だけ動きを止め、それから笑った。だが、いつもの軽さより薄い。


「殿下、重い話をさらっと出しますね」


「重い話です。だから、ここで言います」


 フィオナは黙って見ている。

 この沈黙は、返事を待っている沈黙だ。


 シルヴァンは笑みを消しきらないまま、首を振った。


「悪いですが、俺は行けません」


「理由を聞いても?」


「……言いたくありません」


 短いが、さっきまでの調子ではない。

 それだけで、軽いはぐらかしじゃないと分かる。


 シルヴァンの視線が一瞬だけ扉の方へ流れた。新はそれを見逃さなかった。


 カンナの眉がわずかに寄る。


「あなたが必要です」


「それだけ信頼して必要としてくれてることはありがたいですが、どうしてもついて行くことはできません」


 答えは早い。だが、声の軽さだけが少し浮いている。


 フィオナが口を開く。


「事情があるなら、今ここで無理には聞かん。殿下、よろしいですね?」


「……分かっています」


  カンナはそう答えたが、納得した顔ではなかった。


 重くなりかけた空気を切ったのは、フィオナだった。


「殿下。この話はここまでにしましょう」


 短い声だったが、それで十分だった。

 カンナは一度だけ目を伏せ、小さく息を吐く。


「……そうですね」


 シルヴァンもそれ以上は何も言わなかった。

 笑ってはいたが、さっきまでみたいな軽さはない。


 新は黙って皿の肉を切った。

 口に運ぶ。うまい。ちゃんとうまいのに、さっきまでみたいに素直には食えない。


 そんな空気を少しだけ和らげるように、カンナが言った。


「せっかくの食事です。冷める前に食べましょう」


「はい」


 新が答えると、シルヴァンが肩をすくめる。


「そうですね。俺まで気まずい顔してたら、せっかくの飯がもったいない」


「お前は少し黙って食べろ」


 フィオナが横から切る。


「はいはい」


 返事は軽いが、妙に素直だった。


 それ以上は誰も踏み込まなかった。

 食器の触れ合う音だけが、しばらく小さく続く。


 新は向かいを見る。

 カンナは静かに食事を続けていたが、ときどき考え込むように手が止まる。

 シルヴァンは普段より口数が少ない。

 フィオナはいつも通りに見えるが、少し動きが硬い様に感じる。


 誰も何も言わない時間が続いたあと、シルヴァンが小さく息を吐いた。


「……まぁ、アラタの方はちゃんと鍛えますよ」


 新が顔を上げる。


「話の切り替え方が雑じゃないですか」


「気づいても言うな、流せ」


 そう言ってから、シルヴァンはわざとらしく口元を上げた。


「安心しろ。明日もきっちり地獄見せてやる」


「そこは安心できないです」


 新が返すと、カンナの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「……ほどほどにしてください」


「善処します」


「信用できません」


 新が言うと、シルヴァンが笑う。

 フィオナは呆れたように息を吐いたが、止めはしなかった。


 少なくとも、さっきよりは食事の場らしい空気に戻っていた。


  食事が終わり、席を立つ。風呂と食事のおかげで、身体はだいぶ楽になっていた。


 扉が開かれ、部屋の外へ出る。

 廊下には入る時と同じように兵が立っていたが、その数はやはり多い。警備の組み直しは、もう始まっているらしい。


 そこで、カンナが足を止めた。


「アラタ」


 呼ばれて、新も立ち止まる。


「しばらくは警備の都合で、こうしてゆっくり話す時間は取りにくくなると思います」

「ですから……訓練、頑張ってください」


 静かな声だった。命令というより、まっすぐな励ましに近い。


 新は少しだけ姿勢を正す。


「はい。ちゃんと役に立てるように頑張ります」


 カンナは小さく頷いた。


「無理はしすぎないでくださいね」


「はい。気をつけます」


 その横で、フィオナは何も言わなかったが、いつものように無駄のない立ち姿のまま、新を見てわずかに頷いた。

 新はそちらにも軽く頭を下げる。


 カンナもフィオナも、そのまま別の廊下へ向かった。

 新は二人の背中が見えなくなるまで見送ってから、ゆっくり息を吐く。


 その横で、シルヴァンが新の肩を軽く叩いた。


「よし、アラタ。戻るぞ」


「はい」


 二人で廊下を歩き出す。

 前から警護の兵が二人、並んで歩いてくる。

 シルヴァンはその二人に軽く声をかけ、そのまますれ違った。


 しばらく黙って歩いたあと、シルヴァンが前を向いたまま口を開いた。


「……ああいう奴らの中に、手ぇ回してるやつがいるかもしれねぇってのは、嫌なもんだな」


 新は隣を見る。


 シルヴァンはいつもの軽い顔をしていなかった。


「顔見りゃ分かるやつもいる。たまに組むやつもいるし、名前くらい知ってるやつもいる」

「そういうのの中に、どこまで混じってるのか分からねぇってなると、さすがに気分はよくねぇな……」


 新は少しだけ言葉を探してから聞いた。


「……たしかに、仲間を疑いながら過ごしたくはないですよね」


「まぁな」


 シルヴァンは短く笑ったが、いつもの調子ではなかった。


 廊下の先では、別の兵が持ち場を入れ替わっている。

 その動きひとつ取っても、今は少し気になってしまう。


 部屋の前まで来たところで、シルヴァンが足を止めた。


「……アラタ」


「はい?」


 シルヴァンは腰の小袋から、小さな石をひとつ取り出して投げてよこした。

 掌に収まるくらいの、灰色の石だった。


「持っとけ。鳴石めいせきだ」


「鳴石?」


「強く握るか、床に叩きつけろ。外に響くくらいでかい音が鳴る」


 新は石を見下ろす。


「これが鳴れば、少なくとも俺とフィオナさんは気づく、近くの兵も来るだろうが、まずはそれで十分だ」


 新は石を握り直した。

 思ったより少しだけ重い。


「……分かりました」


「守護者だからって、無駄に刺されていい理由にはならねぇからな」

「やばいと思ったら、迷わず鳴らせ」


「はい」


 シルヴァンはそこでようやく、少しだけいつもの調子で笑った。


「アラタ、お前は明日も訓練だ。逃げんなよ」


「逃げませんよ、逃げるとこもないですし」


「それ言われると困るわ……」


 シルヴァンがようやく少しだけ笑った。


 部屋の前まで来ると、シルヴァンが軽く手を上げる。


「じゃ、また明日な。ちゃんと寝ろよ」


「はい。よろしくお願いします」


 新も小さく頭を下げる。


 扉を開けて部屋に入り、ベッドに腰を下ろした瞬間、張っていた気が少し抜ける。

 

 廊下の向こうで、兵の足音が規則正しく通り過ぎていった。


 鳴石を枕元に置き、新は横になった。

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