ダット橋攻防戦
ルナイ川——その水は、まるで戦場の血を洗い流すかのように、激しく、絶え間なく流れていた。
ハドラマウト自治区からギザ自治区へと下るにつれ川幅は徐々に狭まり、やがてズライ自治区とギザ自治区の境界に至る頃には、およそ二百メートル。その分だけ流れは鋭く、荒々しい。
足を踏み入れれば一瞬で呑み込まれるであろう奔流が、重く低い唸り声をあげていた。
その上に架かるのが——ダット橋。
堂々たる石造りの橋は、幾重にも連なるアーチが美しい曲線を描き、長い年月を経てもなお揺るがぬ威容を保っている。幅も広く、馬車同士が余裕ですれ違えるほど。
交易の要衝として、多くの人と物を繋いできた橋だった。
その橋は——戦場と化していた。
「バリケードを作れッ!!家具でも何でもいいッ!!」
ライアンの怒号が橋の上に響き渡る。
その声に押されるように、傭兵たちが壊れた馬車、倒れた荷台、引き剥がした扉や板を次々と積み上げていく。
「馬車を持って来いッ!!橋を封鎖するんだッ!!」
デシンスが続けざまに指示を飛ばす。
「急げッ!!押し込まれるぞ!!」
ベガの声は鋭く、焦りを隠そうともしていなかった。
——戦闘は、既に一昼夜を超えている。
最初は弓矢の応酬だった。
やがて距離は縮まり、やがて刃が交わり、今は完全な肉弾戦へと移行している。
橋という限られた空間。
それが唯一の救いだった。
敵の数は帝国軍第二軍先遣隊、約一五〇〇。
対する守備側は、ライアン隊、デシンス隊、ベガ隊、そしてギザ自治区に拠点を置く七つの傭兵団、さらにエイト商会が募り、かき集めた私兵たち。
数では劣るが——橋の幅が、その差を殺していた。
「来るぞッ!!」
誰かが叫ぶ。
現れたのは『出来損ない』。
異様に肥大した筋肉、歪んだ骨格、理性を感じさせない濁った目。
咆哮すら上げず、ただ命令に従うだけの怪物たちが、橋の上へと押し寄せてくる。
「迎え撃てッ!!」
ライアンが踏み込む。
その剣は荒々しいが無駄がない相手に反撃の隙を与えない。
ズガァンッ!!
振り下ろされた刃が、化け物の肩口から胴を断ち割る。
血飛沫が舞うが——止まらない。
「チッ……!」
倒れながらも腕を振り上げる化け物。
ライアンはそれを、次の一歩で踏み込みながら横薙ぎに叩き落とす。
「一撃でももらうなッ!!」
怒鳴る。
その言葉の意味を、全員が理解していた。
——一撃で終わる、化け物の力は、それほどに重い。
一方、デシンスは対照的だった。
流れるような動き、どこかユキヒョウを彷彿させる。
無駄を削ぎ落とした剣筋は、まるで水のように滑らかに敵を切り裂いていく。
「右、崩れるぞ」
短く告げる。
その声に反応した団員がすぐに位置を調整する。
一閃——化け物の首が、音もなく落ちた。
「焦るな。確実に削れ」
デシンスの声は低いが、よく通る。
その冷静さが、戦線を保っていた。
「う、うあああッ!!」
弓兵の一人が、恐怖に押されるように矢を放つ。
ヒュンッ——矢は化け物の胸に刺さるが、止まらない。
まるで何も感じていないかのように、そのまま前進してくる。
「無駄撃ちするなッ!!」
ベガの怒声が飛ぶ。
「目を狙え!!それが出来ねぇなら構えるな!!」
——ギリギリの均衡だった。
押し寄せる化け物、それを迎え撃つ剣。
削っても削っても、次が来る、橋の上は血で滑り、足場は最悪だ。
誰かが転べば——終わり。
「踏ん張れッ!!」
ライアンの怒号。
「ここを抜かれたら終わりだぞッ!!」
その言葉は事実だった。
この橋を突破されれば、ギザ自治区への道が開かれる。
それだけは、絶対に防がなければならない。
「左、押されてるぞ!!」
ベガが叫ぶ。
「分かってるッ!!」
デシンス隊の数名が滑り込むように入り、崩れかけた隊列を支える。
剣が交錯する、肉が裂ける音、骨が砕ける音。
それらが混じり合い、橋の上は地獄と化していた。
一昼夜——戦い続けてなお、誰一人として背を向けていない。
それは誇りか、意地か、それとも責任か。
答えは誰にも分からない、ただ一つ確かなのは——
「……持つ」
ライアンが低く呟く。
剣を握る手に、さらに力を込める。
「ここは……絶対に通さねぇ」
その目は、燃えていた。
橋の向こうから、再び影が押し寄せてくる。
終わりは見えない、それでも——彼らは戦い続ける。
ルナイ川の冷たい風が、帝国軍の陣を容赦なく吹き抜けていた。
その中心に据えられた天幕の一つ——重厚な布で囲われた指揮用のテントの中で、場違いなほど気の抜けた音が漏れる。
「……ふわぁあ~……」
長いあくび、やがて、ゆらりと布を押し分けて現れたのは、一人の男だった。
帝国軍第二軍次席参謀——オジュス・フォン・シローネ。
肩までかかる髪は乱れ、軍装もどこか着崩されている。
戦場に立つ者というより、昼寝から起き出してきた貴族のような風体だった。
目は半ば閉じられ、周囲を見渡すその視線には緊張感の欠片もない。
「……まだ突破できていないのかね?」
気だるげに、側に控えていた兵へ問いかける。
「ハッ! 攻めあぐねておるようです!」
即座に返る答えるその声には、わずかな焦りが混じっていた。
オジュスは一瞬だけ目を細める。
「……いかんな……」
ため息混じりに呟く。
「私の評価が下がるではないか」
その言葉には、戦況への危機感は微塵もない。
ただ己の立場、己の評価——それだけが問題だった。
彼はゆっくりと歩き出す。
雪を踏む足取りは重くもなく軽くもない、歩みの先にあるのは最前線——ダット橋。
怒号と金属音、そして断続的に響く衝突音が、次第に大きくなる。
橋の手前に差し掛かった時、オジュスはようやくその光景を視界に収めた。
バリケードを築き、必死に踏みとどまる防衛側。
そして、その前に積み重なる——『出来損ない』の骸。
「……なんだ、まだいるではないか」
感想は、それだけだった。
目の前で何体もの化け物が斬り伏せられているにも関わらず、興味すら示さない。
むしろ——「出来損ない全員を突っ込ませろ」
淡々と命じる。
「ハッ!?」
側近の兵が一瞬だけ言葉を失う。
「しかし……前方には倒れた個体が——」
橋の上には、既に多数の巨体が折り重なっていた。
進軍の妨げとなり、足場すら悪化している。
その指摘に対し、オジュスはわずかに眉をひそめた。
「邪魔に?」
まるで意味が分からない、とでも言いたげに。
「……川にでも放り込め」
あまりにも軽く、そう言った。
「所詮、出来損ないだ。変わりはいくらでもいる」
その声音には、一切の躊躇がない。
命という概念が、そこには存在しなかった。
ただの“資源”、ただの“消耗品”それ以上でも、それ以下でもない。
「……ハッ!」
兵は強く頷くしかなかった。
命令は絶対。
たとえそれがどれほど非情であろうと、疑問を挟む余地はない。
すぐさま後方へ伝令が走る。
やがて——ズシン……ズシン……と、重い足音が響き始める。
新たな『出来損ない』たちが前線へと押し出されていく。
その後ろでは、別の兵たちが倒れた巨体を引きずり、あるいは無理やり押し転がし——ドボンッ!!
鈍い音とともに、ルナイ川へと突き落としていく。
激流に飲まれ、すぐに姿が見えなくなる骸。
「前進させろ。止めるな」
冷たく、短い命令。
その一言で、戦場の流れが変わる。
押し寄せる圧力が、さらに増す。
質ではなく量——命を積み上げてでも、突破するという意思。
その中心に立つ男は、あくびの余韻を引きずったまま、無表情で戦場を眺めていた。
その姿は、この戦場で最も冷酷な存在だった。
『ダット橋攻防戦』の二日前、エイト商会本店——その空気は、いつもの重厚で落ち着いたものとはまるで違っていた。
廊下を行き交う人々の足取りは早く、帳簿を抱えた者、箱を運ぶ者、怒鳴り声を上げる者。
すべてが切迫している。
倉庫では、武具が次々と箱詰めされていた。
剣、槍、矢束、防具——普段なら丁寧に扱われるそれらが、今は速度を優先して乱雑に積まれていく。
一方で、別の区画では宝石や金貨、契約書類が布袋に詰められていた。
それは「戦うため」と「逃げるため」の準備が、同時に進んでいる証だった。
情報部屋では、伝令がひっきりなしに出入りする。
「ダーリウ自治区、完全に落ちた模様!」
「ヘイレンも同様です!」
「帝国軍、民間人の処理を開始——」
その言葉は、誰もが理解している“処理”の意味を含んでいた。
沈黙が一瞬だけ落ちるが、すぐに次の命令が飛ぶ。
「記録しろ、全てだ!後で役に立つ!」
誰も立ち止まらない。立ち止まれば、恐怖に飲まれるからだ。
——そして、本店商談室。
重厚な扉の内側には、ギザ自治区の名だたる商会の会頭たちが集っていた。
普段であれば、駆け引きと利害が交差する場。
今は違う、生き残るための、会議だった。
中央に座るのはエイト商会会頭、ダミアン。
その隣に副会頭アレン、そしてディープ、トウといった幹部たちが並ぶ。
「……諸君、既に報告は受けているな」
ダミアンの声は低く、しかしよく通った。
「ダーリウ、ヘイレン——壊滅だ。帝国軍は、従わぬ者は皆殺し、従う者も奴隷に落とす」
ざわめきが起こるが反論はない。事実だからだ。
ある老会頭が、震える声で言う。
「……もはや交渉の余地は無い、ということか」
「無い」
即答だった。
ダミアンはゆっくりと全員を見渡す。
「だからこそ、我々は決めた。シャイン傭兵団に協力する」
空気が張り詰める。
「武具、金、物資、人員、情報——すべてだ。出し惜しみはしない」
一人の会頭が眉をひそめる。
「傭兵団が……我々のために命を張る保証は?」
その問いに答えたのはアレンだった。
「ありません」
きっぱりと言い切る。
「彼らは我々の配下ではない。従う理由も義務もない」
一拍置いて、続ける。
「それでも彼らは立ち上がった。ギザ自治区を守るために」
その言葉に、部屋の空気が変わる。
「だからこそ——我々は最大限の支援と敬意を示すべきです」
全員が静かに、しかし力強く。
ディープが腕を組みながら呟く。
「……損得勘定だけで動くには、状況が悪すぎるな」
「そういうことだ」
ダミアンが頷く。
トウが軽く笑みを浮かべながら口を開く。
「まあ、君たちに言うまでもないが——逃げる算段も忘れないようにね?」
場にわずかな苦笑が広がる。
「逃走経路、退避先、資産の分散。全部やっておけ。商人は最後まで商人であるべきだ」
ダミアンの現実的すぎる言葉だった。
老会頭が再び口を開く。
「ダミアン殿……一つ聞きたい。どこへ逃げるのが最も安全かのう?」
その問いに、ダミアンは迷わなかった。
「チョウコ町だ」
即答。
「……やはり、か」
老会頭は深く頷く。
「シャイン傭兵団の本拠地。あそこ以上に安全な場所は、今は存在しない」
ダミアンが腕を組みながら言う。
「皮肉なものだね。商人の国が、傭兵に守られるなんて」と言うトウ。
「時代だな」
ディープが短く答える。
その時——バァンッ!!
商談室の扉が勢いよく開かれた。
全員の視線が一斉に向く。
息を切らしたルドヴィカが、扉の前に立っていた。
「ダミアンッ!!」
その声には、緊張と、わずかな高揚が混じっている。
「ジトーたちが来たわ!」
——空気が変わる。
会頭たちの目に、わずかな希望の光が宿る。
ダミアンは静かに立ち上がった。
「……通せ」
短い言葉。
しかし、その声には確かな重みがあった。
戦う覚悟と、託す覚悟。
商人たちは理解していた。
ここから先は——自分たちだけでは、生き残れないということを。




