サロン2
シマが語り終えてしばらく。
サロンに満ちていた重い沈黙は、時間の経過とともにようやく薄らいでいった。
ブランゲル侯爵はゆっくりと深呼吸し、エリジェ夫人は胸に手を当てたまま何度か瞬きしている。
ジェイソンはまだ整理の途中といった顔だが、表情は先ほどより落ち着いていた。
アルベルトやエリクソンも口元に手を当て、驚愕から覚めつつある様子だ。
それでも、完全に理解したという者は一人もいない。
むしろ、理解しようとする努力すら追いついていない――そんな空気がサロンに漂っていた。
そんな中、シマは肩を竦めて笑った。
「まあ、まだ完全に呑み込めてないようだが……ひとまず落ち着いてきたな」
ヤコブがふう、と茶をすすり、エリカが困り笑いを浮かべる。
シマは続けた。
「こうして秘密を話したのは――ここにいる皆は信用できると思ったからだ。それとな……」
シマはわずかに意地悪く、皆を見渡しながら言った。
「会議の途中でいちいち驚かれていたんじゃ、話が進まねえだろう?」
一瞬の静寂。
次の瞬間、サロンの空気がふっと和らいだ。
エリカがくすりと笑って肩を寄せる。
「つまり……シマが時々変なことを言うのは気にしないでってことかしら?」
すかさずヤコブが突っ込む。
「エリカ嬢……それでフォローしているつもりなのかのう?」
「あら……ダメだった?」
エリカが小首を傾げると、サロンのあちこちから笑い声が上がった。
大きな緊張が破裂したように、張り詰めていた空気がぱっと明るくなる。
侯爵家の面々も、デシャン男爵も、マリウスも、ネリも、執事のフーベルトとルーファスも、皆がほっと息をついた。
「では――次はワシの番じゃな」
ヤコブが茶器を置き、姿勢を正した。
白髪交じりの髪を指で梳き、厳かな声で言う。
「侯爵家側には既に明かしておりますが……デシャン様、マリウス殿に話しておらぬことがあります」
マリウスが眉を上げ、デシャン男爵が首を傾げる。
「ワシは……違う大陸からこの地に漂着したのじゃ。“エル・カンターレ”という国で生まれ育ちました」
ブランゲル侯爵が穏やかに補足する。
「船が難破して、この大陸に辿り着いたそうだ」
エリジェが静かに頷く。
「公には語られてはいませんが……こういう話は昔から噂として時折ありました。でも、実際に“異大陸出身者”を目にしたのは、ヤコブさんが初めてです」
アデルハイトが、真剣な声で続ける。
「よく調べれば、もっといる可能性はあります」
「うむ、ワシもそう思います。ワシらが知らぬだけでのう」
ヤコブの言葉に、サロンの面々は驚きと興奮の入り混じった表情を浮かべる。
「……船が難破、ということは……」
マリウスは慎重な声で問いかけた。
「大海を航海できる技術を持っているということですね?」
ジェイソンが即座に言葉を継ぐ。
「つまり……私たちよりも造船技術が優れている可能性が高い、ということだね」
ヤコブは大げさに手を振った。
「なに、そう一概に優れているとは言えませぬぞ。確かに“星読み”、造船技術、航海術はワシの故郷の方が発達しておるかもしれぬ。しかし、政治や人の営みはそうそう変わりませんぞ」
シマが苦笑しながら言う。
「食べ物、生態系、肌の色、文化……違いは大きいが、根本は変わらねえんだよな?」
ヤコブは頷く。
「それに、ワシはこの大陸の全ての国を知っているわけではない。他国には大海に出られる船を作れる場所があるかもしれん」
デシャン男爵が感心したように呟く。
「……この国は海に面していないからな。確かに、あってもおかしくはないが……」
エリクソンが頭をかきながらつぶやく。
「だけどよぉ……俺にはまだ想像できねえ。この大陸には八カ国だろ?シマの“前世の世界”では二百カ国以上あったって……」
その言葉に、この場の面々がそろって頷いた。
「確かに……数の桁が違いすぎるな」
「都市に何十万、何百万……想像が追いつきませんわ」
「国境はどうなっているんだ……?」
誰もが呆然としつつも、好奇心を隠せない様子である。
そして次の瞬間、シマに向けて矢継ぎ早に質問が飛び始めた。
「空を飛ぶ乗り物があるとは本当か?」
「車というのはなんだ?」
「馬車とは違うのか?」
「電車……とは?」
「世界中と繋がる? どうやって?」
「その“インターネット”というものは魔術か?」
「ビル……百階? 本当に?」
シマは両手を軽く上げ、後ずさる。
「待て待て待て!!」
サロンが静まり返る。
シマは深く息をついて、少し困ったように言った。
「確かに……俺の“記憶”にはそういう世界がある。けどな――実際にこの目で見たわけでも、体験したわけでもないんだ。ただ……記憶の奥にあるだけだ。ぼんやりとな」
その言葉が、サロンの空気をしんと落ち着かせた。
ブランゲル侯爵が穏やかに頷いた。
「……つまり、知識として覚えているが、実感はない、ということか」
「そういうこった」
「それなら……理解できる部分もありますわね」
エリジェ夫人が柔らかく微笑む。
ヤコブが茶をすすりながら言う。
「それでも十分すぎるほど異常じゃがのう」
「それを言うならヤコブさんだって相当では?」
とエリカが笑う。
「むむ……確かに否定はできぬ」
ネリがくすりと笑い、フーベルトとルーファスが控えめに肩を震わせる。
アルはシマの膝に前足を掛けて「キュウ?」と鳴いた。
シマがその頭を撫でながら苦笑する。
「――この仔のことも話しておこう。察しはついているだろうが…」
シマが隣の仔狼へ軽く視線を落とす。
アルは、名を呼ばれ耳をぴんと立てた。
「深淵の森で、ある狼の群れのボスから託された」
室内の温度が一瞬、わずかに下がる。
深淵の森。
その名を口にするだけで、この大陸に住む者たちが顔色を変える禁忌の領域。
「瀕死の状態じゃった…今では考えられんがのう」
ヤコブがやさしい目でアルを撫でる。
撫でられたアルは「キュウ~」と甘えた声を漏らし、喉を鳴らした。
「群れのボスはな、三メートルはあろうかという巨狼だったぜ」
シマの声は淡々としていた。
誇張でも自慢でもなく、ただ“事実を告げている”響き。
だからこそ、重みがあった。
「他の狼たちもでかかった。チョウコ町の周りで狩った狼たちが仔犬に見えるくらいだ」
「……やっぱり深淵の森は魔境ね…」
エリカが小さく肩を抱き、震えるような声音で呟く。
「ワシらの常識では計り知れないところじゃ」
ヤコブが深く頷く。
彼の故郷である“異大陸”の話を聞いたばかりだというのに、その彼でさえ深淵の森には畏怖を隠さない。
エリクソンが腕を組み、低く呟いた。
「噂にたがわぬ…というわけか」
しかしシマは、そんな緊張とは対照的に穏やかな声で言った。
「まあ、なんにせよ……アルは俺たちの家族だ。これからもよろしく頼むぜ」
その一言に、場の空気が柔らかく解ける。
「キュキュウ!」
嬉しそうに跳ねるアル。
その仕草は、巨大狼の血を引く存在とは思えぬほど愛らしい。
エリカが目を細め、膝を叩いた。
「ほら、おいでアル。」
キュッと鳴きながらアルが駆け寄る。
彼女の足元で尻尾を振る姿に、誰もが思わず笑みを浮かべた。
「……強大な森の王が託した仔狼、か」
マリウスがぽつりと呟く。
ジェイソンも静かに頷く。
「……普通なら生き延びられなかった生命。だけど、今こうして皆の前で跳ねている」
「キュッ!」
アルは誇らしげに胸を張るように鳴く。
その声に一同がくすりと笑い、サロンは再び温かな空気に包まれた。
深淵の森の恐怖も、巨狼の威圧も、今は遠い話のようだ。
巨狼の血を引く子であろうと。
深淵の森の王に背負わされた存在であろうと。
この場にいる誰の目にも、アルは“シマたちの家族”でしかなかった。
カシウム城サロンには、先ほどまでの緊張が嘘のように、柔らかな空気が満ちていた。
重い話をいくつも乗り越えた後だからこそ、今この穏やかな時間がひときわ心地よく感じられる。
その中心にいるのは――仔狼アルだった。
「キュウ…」
最初に抱き上げたのはエリカだった。
膝の上に乗せ、指先でふわりと顎の下を撫でると、アルはすぐに喉を鳴らし始める。
「ふふ……ほんとに可愛いわね。あんな話を聞いた後だと、余計に不思議な気分だわ」
エリカはそう言いながら、そっと隣へとアルを差し出す。
「お母様、どうぞ」
「ええ、ありがとう」
エリジェは慎重に、アルを抱き寄せた。
「アル温かいわね……」
小さく呟くその声には、穏やかな喜びが滲んでいる。
アルはエリジェの腕の中で丸くなり、「キュウ」と安心したように鳴いた。
やがてエリジェは微笑み、ブランゲル侯爵へと差し出す。
「あなたも、どうぞ」
「……ふむ」
その巨躯と威圧感に似合わぬ慎重さで抱き上げる姿に、周囲の視線が自然と集まった。
「アルが……あの深淵の森の血を引く仔狼か」
低く呟きながらも、指先は驚くほど柔らかい。
アルは一瞬だけ侯爵の顔を見上げ、それから安心したように身を預けた。
「キュウ」
「……ふっ」
わずかに、ほんのわずかにだが――侯爵の口元が緩んだ。
「ジェイソン」
「はい、父上」
侯爵はそのまま息子へとアルを渡す。
ジェイソンは自然な手つきで抱き上げると、背を撫でた。
「アルは人に慣れているね」
「まあな。こいつ、甘やかされてるから」
シマが肩をすくめると、アルは「キュウ!」と抗議するように鳴く。
その様子に、また笑いが起きる。
そして次に手を伸ばしたのはデシャン男爵だった。
「ジェイソン様、俺にも」
豪快に抱き上げる――かと思いきや、意外にも手つきは慎重だ。
アルの体をしっかり支え、頭を軽く撫でる。
「よしよし……」
そして、にやりと笑った。
「アル、大きくなっても俺を食うなよ? 俺は不味いからな」
「キュウ!」
まるで理解したかのように元気よく鳴くアル。
一瞬の間のあと――
どっと笑いが起きた。
「はははは!」
「それは保証できないんじゃないかしら?」
「確かにのう!」
サロンは完全に和やかな空気へと変わっていた。
ひとしきり笑いが収まったところで、シマがふと思い出したように口を開く。
「……話は変わるが」
視線がエリカへ向く。
「侍女たちは、誰を残すんだ?」
エリカはすぐに頷いた。
「ええ、今夜話すつもだけど——ジェイソンお兄様のところにはベティーナを。ホルダー家にはヘルガを派遣しようと思っているわ」
ジェイソンが思い出したように言う。
「ベティーナは……冷えた果実酒とリンス、それから焼そばだったかな」
「ええ、その通りよ」
マリウスもすぐに続いた。
「ヘルガ嬢はリンスに加えて……ショウチューと唐揚げでしたね…我がホルダー家では給金も出します。“アイキドー指南役”という名目で」
「おう、それはいいな!」
デシャンが興味深そうに身を乗り出す。
「俺も習ってみよう」
アデルハイトがすぐに反応する。
「領軍に取り入れてみるのも良いかもしれませんな」
ブランゲル侯爵も深く頷いた。
「うむ。戦場では何が起こるかわからん。武器を失うことも珍しくない」
シマはそこで手を軽く上げた。
「……過信はするなよ。合気道は護身術だ。戦闘に使えるレベルまで昇華させるには、それなりの修練と才能がいる」
その言葉には、いつもの軽さはなかった。
実戦を知る者の、現実的な重みがあった。
「それなら」
エリカがにやりと笑う。
「私は才能があるってことね?」
シマは即答した。
「間違いなくな」
そして続ける。
「エリカの侍女たちもだ」
「ふふ、当然ね」
エリカは満足げに微笑む。
その流れで、エリジェが少し控えめに口を開いた。
「……私も、習ってみようかしら?」
その一言に、周囲がわずかに驚く。
シマは少し考え、肩をすくめた。
「身体に無理のない範囲でなら、いいんじゃねえか?」
その言葉に、エリジェは柔らかく微笑む。
するとすぐにエリカが勢いよく身を乗り出した。
「お母様!ここにいる間は私が教えてあげるわ!」
「ええ、よろしくねエリカ」
二人のやり取りに、温かな笑みが広がる。
アルはそんな空気の中心で、再び「キュウ」と鳴いた。
まるで、この場のすべてを祝福するかのように。




