シマ、語る
カシウム城サロン。
静かに焚かれた香木と、上質な紅茶の湯気が混ざり合ったものだった。
磨き抜かれた床に靴音が反響し、巨大な窓の外ではまだ夕陽が落ちきらずに、橙の光が雪のようにやわらかく降り注いでいた。
その場に居並ぶ顔ぶれは、ブランゲル侯爵、隣には気品を漂わせるエリジェ夫人。
ジェイソンは真剣な眼差しでシマを見つめ、エリカは、いつもの奔放な表情とは少し違う、微妙な好奇の笑みを浮かべている。
ネリは緊張を隠すように背筋を伸ばし、席についている。
執事長フーベルトと次席執事長ルーファスも同様に「話が長くなるから」ということで席に着く。
カシウム領軍団長アルベルト、副団長エリクソン、さらにホルダー男爵とマリウス、シャイン傭兵団からはシマ、ヤコブ、そして仔狼アルが揃っていた。
――全員が揃ったところで、シマは口を開いた。
「荒唐無稽なことだと思う。だが……まずは黙って聞いてほしい」
その声にはいつもの実務的な冷静さではなく、どこか覚悟をにじませる重さがあった。
漂っていた空気が一瞬、固まる。喉を鳴らす者すらいない。
シマはゆっくりとサロン全体を見渡し、深く息を吸った。
「俺には……前世の記憶がある」
瞬間、わずかなざわめきが起こり、すぐに消えた。
ブランゲルたちは表情を変えぬまま固まったが、シマは続ける。
「“地球”という惑星。その中の“日本”という国に生まれた世界だった。先進的な国で、科学が発達していて……人を乗せて空を飛ぶ乗り物もあった。“飛行機”と呼ばれるものだ」
誰も口を挟まない。
説明を遮るという行為の許されない気配が、全員からにじみ出ていた。
「『車』や『電車』というもので人や物が運ばれ、道路や線路が国中に張り巡らされていた。ビルと呼ばれる建物は何十階、百階に迫るような高さ。都市には何万人、何十万人、いや……百万人以上が住む場所もあった」
シマの言葉は静かだが、語る内容はどこか夢物語のように現実感がない。
だが、その声質には嘘をつく人間特有の揺らぎが一切なかった。
「“インターネット”という技術を使えば、遠い場所にいる相手とも映像や音声で会話ができた。世界中の情報に一瞬で触れられた。蛇口をひねれば水が出て、ボタン一つで熱い湯が使えた。医療も発達して……出産や怪我で死ぬことは、ほとんどなかった」
エリジェ夫人が少し目を見開く。
この世界の医療事情を思えば、その言葉はあまりにも眩しかったのだろう。
「寿命もこの世界よりずっと長かった。“死を遠ざける力”が現実に存在していた。俺がいた国は平和で……いや、俺が生まれた時代が運良く平和だっただけだ」
そこでシマは一拍置き、眉をわずかに寄せた。
「俺が生まれる前には大戦があった。何百万人もの人が死んだ。次に大戦が起これば、人類そのものが滅ぶ……そう危機感を持たれていた」
重い沈黙が落ちる。
「その世界には二百以上の国があり、全人口は八十億とも言われていた。言語は六千以上。習慣も風習も国ごと、村ごとに違って……争いも飢饉も災害も、どこかしらで常に起きていた」
誰もが、想像の限界を越えた人口と文明に唖然としているようだった。
「俺の知識や見識は、その日本という国で受けた教育のおかげだ。あの国は教育水準が高く、多くの学問を学ぶ機会があった。……もっとも、俺自身は普通の一般人だったと思う。ただ、大まかなことは覚えているが、詳しいことは霞がかかったように思い出せない」
そう言ってシマは少し肩を落とした。
その姿が、むしろ真実味を加える。
長い、静かな沈黙。
誰もが自分の理解を追いつかせようとするものの、思考が現実に追い付かない。
サロンの空気は、まるで時間が止まったかのように重く張り詰めていた。
やがて――。
「ふふっ」
紅茶のカップが軽く揺れ、エリカが微笑みを浮かべた。
さきほどまで空気に押し潰されていた場が、彼女のその小さな笑いでわずかに緩む。
「無理もないわ。私だって最初に聞いたときは、信じられなかったもの」
エリカは優雅に紅茶を口に運んだ。
その仕草は、場の張り詰めた緊張と対照的に軽やかで、優しくさえあった。
「ほっほ、それもそうじゃな」
ヤコブが湯飲みを持ち上げて笑う。
「シマでなければ、気が狂っていると思われても仕方ない話じゃからな」
「キュウ~?」
仔狼アルが首を傾げ、赤い瞳でシマを見る。
「アルにはまだ難しいようじゃな」
ヤコブが目を細めると、アルは「キュウッ」と返し、サロンの空気がほんの少し和らいだ。
「いいのよ、アル。シマはシマなんだから。ほら、おいで。ミルクをあげるわ」
エリカが手招くと、アルは嬉しそうに尻尾を振り、弾むように彼女の足元へ駆け寄った。
「キュウ!」
エリカが膝に抱き寄せ、ミルク皿を用意する。
シマは肩をすくめて水の杯を手に取った。
「……さて。ブランゲルたちが正気に戻るまで少し待つか」
ブランゲル侯爵たちは、理解が追いつかないままではあるが、シマが大嘘をつく男でないことを彼らは誰よりも知っている。だからこそ、余計に衝撃が大きかった。
サロンには、紅茶の香りと静かな呼吸音だけが漂っていた。
ブランゲル侯爵視点——
シマの「荒唐無稽な話」という言葉が落とされた瞬間、俺は胸の奥に、得体の知れぬ“予感”がざわつくのを感じていた。
――また、常識が揺らぐのだろう。
これまでの交流の中で、シマが一度として“凡庸”だったことはない。
もし、別の誰かが同じ前置きをすれば冗談か狂気のどちらかだが……シマが言うのなら、そのどちらでもない“第三の領域”が必ずある。
俺も、ジェイソンも、アルベルトも。
サロンにいる者は、すでにシマが異質であることを理解していた。
しかし――。
「前世の記憶がある」
その一言は、思考を完全に凍らせるには充分すぎた。
前世、だと?
転生譚は吟遊詩人の脚色としては珍しくないが、それを“自分の体験”として語る者を、俺は一度も見たことがない。
だがシマの声音は、いつも通り静かで、嘘の影がない。
軽口を叩く性質でもなく、奇をてらう男でもない。
そして――この場にいる誰よりも“世界を遠くから見ている目”をしている。
……本気で言っているのだ。
確信した瞬間、俺は無意識に背筋を伸ばしていた。
しかし、次に語られた内容は、俺が知るどの神話、どの伝承をも超えていた。
“人を乗せて空を飛ぶ乗り物”
“世界中と繋がる情報網”
“百階に迫る建物が林立する都市”
“八十億に達する人口”
想像すら追いつかない。
これほどの規模の文明が存在すれば、この世界の地図はまるで子どもの落書き同然になってしまう。
そして、そこに生きる人間は、我々以上の速度で歴史を動かしているに違いない。
驚愕しながらも、俺はシマの言葉を完全には否定できなかった。
理由はひとつ。
――シマなら、本当にそんな世界から来たと言われても、まったく不自然ではないからだ。
シマの判断力、行動力、思考の跳躍はすべて“異常値”だった。
軍略、戦略、戦術、経済、医学、さらには治療法や保存食の工夫まで……どれを取っても、一人の人間が独学で身につけられるものではない。
シマはこの世界のあらゆる常識から“浮いていた”。
だが、その“浮き方”は無理のない、自然なものだった。
なるほど――前世の記憶か。
その理由付けは、あまりにしっくり来すぎていた。
俺の呼吸が浅くなる。
隣のエリジェが小さく肩を震わせているのがわかった。
無理もない…彼女は医療の話に深く反応していた。
ジェイソンはといえば、拳を固く握り、真摯に耳を傾けていた。
幼い頃から聡明だが、今はそれを超えた表情をしている。
アルベルトは顔を強張らせ、エリクソンは顎を押さえたまま固まっていた。
デシャンは、言葉以前の段階で理解を放棄したような顔をしている。
――仕方あるまい。
誰が、この話を初見で受け止められる?
シマは語り終えると、少し疲れたように水を口にした。
「ブランゲルたちが正気に戻るまで少し待つか」
正気とは……まさしくその通りだ。
だが、不思議なことに腹は立たない。
むしろ、笑ってしまいそうなほど的を射ている。
エリカが紅茶を飲みながら微笑む。
仔狼アルが甘え、ヤコブが茶をすする。
その平和な光景が、逆に現実の輪郭を保っているように思えた。
俺はようやく深い息を吐いた――。
ジェイソン視点——
シマが語り始めた瞬間、胸の奥のどこかがざわめいた。
父上が驚愕している。母上が目を見開いている。
アルベルト団長もエリクソンも固まっている。
――だが私は、奇妙なほど“納得していた”。
シマは、そういう人物だ。
初めて会った時から感じていた。
戦士の目とも違う。学者の目とも違う。
もっと広い世界を見てきた者の目をしている、と。
そして何より母上はシマに命を救われている。
シマはただ冷静に、必要な箇所だけを見ていた。
「食事の吸収が追いついてない。鉄が足りてない。」
その一言で母上の未来が変わった。
豆乳プリンを作り出し、食事の改善を指示し、無理のない運動まで提案した。
誰よりも母上の体を理解し、尊重してくれたのは彼だ。
だから私は、彼を尊敬している。信頼している。彼の言葉なら聞く価値がある。
……とはいえ。
「飛行機」「八十億人」「百階建て」「世界中と繋がる通信」
どれもこれも、まったく想像が追いつかない。
空想の物語かと思うほど現実離れしている。
だが、シマは嘘を言っている顔ではない。
むしろ――“やっと話せた”そんな安堵すら滲んでいた。
私は、自分でも驚いたことに、シマの話が進むにつれ、胸の鼓動が早くなっていくのを感じた。
この世界とは比べものにならない文明。
争いの規模。 医療の発達。八十億の人口。
シマは、そんな世界を知り、その知をこちらに持ち込んでいる。
……ならば、私がすべきことは決まっている。
その隣に立つ資格を持てるよう、強くならなければならない。
私は拳を握りしめ、静かに息を吸った。
シマが語り終え、エリカが微笑み、ヤコブが茶をすすり、アルが甘えた声を上げる。
不思議なほど日常的な光景だが、場の空気は確実に変わった。
マリウス視点——
シマが「前世の記憶」と口にした時。
私は、誰よりも早く“受け入れてしまった”自分に気づいていた。
普通なら笑うだろう。
突拍子もない話だと切り捨てるだろう。
だが、シマが言うなら、きっと本当なのだろう。
そう思ってしまう自分が確かにいた。
理由は簡単だ。
私は一度、彼に救われている。
――いや、「何度も」だ。
あれは父上が病に伏した頃のことだった。
父上の顔は日に日に土色に変わり、吐き気と痺れを訴え、医師たちは結論を出せずにいた。
「体質だ」「慢性的な消化不良だ」「奇病だ」など……皆が口々に言うばかりだった。
だが、シマは――違った。
「ヒ素だな。慢性中毒だ。」
医学者でもない彼が、どうしてそんな判断ができたのか。
あのときの私は驚愕を通り越し、ただ背筋が冷えた。
あの時、私は確信したのだ。この男は常識の枠にいない。
我々が使っている“知識の辞書”とは違うものを持っている、と。
彼が「日本? 飛行機? 八十億?」などと言い始めたところで――私はもう驚けなかった。
驚きよりも、やはり、常人では辿り着けぬ場所を見てきたのだな、という妙な納得の方が勝っていた。
サロンの中心で語るシマを眺めながら、私は息をついた。
――信じるさ。君が言うなら。
シマは誰かを利用するために言葉を飾るような性質ではない。
必要なこと以外は語らず、語るときは必ず意味がある。
「俺は普通の一般人だったと思う」と言った時。
その言葉にこそ、彼の本質があるのだろう。
常人ならざる知識を持ちながらも、それを誇ることはない。
むしろ、その重荷を背負い続けているように見える。
サロンの空気が凍りつく中、エリカが笑い、ヤコブが茶をすすり、仔狼アルが甘える姿に空気が和らぐ。
そんな中で、シマがふと呟いた。
「ブランゲルたちが正気に戻るまで待つか」
思わず吹き出しそうになった。
だが、その通りだ。
ここにいる全員が――私も含め――まだ理解の途中にいる。




