合同会合6
カシウム城――大会議室。
昼食を終えた一行は、再び大会議室へ戻ってきていた。
つい先ほどまで賑やかだった大広間とは打って変わり、ここには再び交渉の場特有の緊張が漂っている。
焼きそば、唐揚げ、天ぷら、鍋料理――。
先ほど味わった料理の数々は、これまで食したことのないものばかりだった。
それだけに、ブランゲル侯爵家もホルダー男爵家も、交渉に向けて気合を入れ直していた。
ジェイソンは腕を組みながら静かに考え込んでいる。
マリウスも同じように表情を引き締めていた。
「さて……」
ジェイソンが小さく息を吐く。
「どれほどの金額になるのか」
昼食の席での会話を思い出す。
乾麺と粉末スープの時は五百金貨だった。
それに比べれば料理のレシピは安いはず――。
だが、それでも決して安くはないだろう。
そんな空気の中で、エイラが静かに口を開いた。
「では」
机の上に用紙を置く。
「今回の料理のレシピについてですが」
全員の視線が集まる。
エイラは淡々と言った。
「提示させていただく金額は――合わせて十五金貨です」
「…………」
一瞬、誰も反応できなかった。
最初に声を上げたのはジェイソンだった。
「……え?」
マリウスも思わず聞き返す。
「十五……?」
会議室の空気が、妙な形で固まった。
ブランゲル侯爵家の面々も、ホルダー男爵家の者たちも、完全に拍子抜けしていた。
そしてシャイン傭兵団の席から、ぽつりと声が聞こえる。
「やっぱりね、そうなるんじゃないかと思ってたわ」
サーシャだった。
その言葉に、傭兵団の何人かが苦笑する。
エイラは静かに説明した。
「これは、シマの理念――『美味しいものはみんなで共有する』その理念のもと、決めた金額です」
ミーナも小さく頷いた。
「元々、吹っ掛けるつもりもありませんでしたし」
その言葉に、ジェイソンは思わず笑ってしまった。
「……なるほど」
エイラは紙を指差して説明する。
「まず、焼きそば、唐揚げ、天ぷら、合わせて五金貨」
そしてもう一つ。
「鍋料理のレシピは十金貨です」
その鍋料理の中には、昼食で出された料理が含まれていた。
・水炊き鍋・豆乳鍋
・魚醬を使った鍋料理——すき焼き風擬き
これらすべての基本レシピである。
ジェイソンとマリウスは顔を見合わせた。
ジェイソンが言った。
「それなら、ブランゲル侯爵家が十金貨を支払おう」
するとマリウスが続けた。
「ホルダー男爵家が五金貨を支払います」
こうして、交渉はあっけないほどスムーズにまとまった。
エイラが書類を整える。
契約内容が書き込まれ、確認が終わる。
その時、シマがルーファスに紙を渡した。
「これ」
ルーファスが受け取る。
「鍋料理の詳しいレシピです。カシウム城の料理長ミテラン・タスーさん、副料理長アコッジ・イオシスさん、あの二人なら試行錯誤して、もっと美味い鍋料理を作れるかもしれない…挑戦してみてくれって伝えて下さい」
ルーファスは深く頭を下げた。
「ハッ、確とお伝えします」
その言葉には強い敬意が込められていた。
一方――ホルダー男爵家の席では、ジトーがマリウスに紙を渡していた。
「ほら」
レシピを手渡す。
「リーガム街に戻ったら、色々試してみろよ」
マリウスは紙を眺めながら微笑んだ。
「それもいいね。これで食卓も豊かになるよ」
焼きそば。唐揚げ。天ぷら。そして鍋料理。
それらのレシピは、十五金貨という形で両家へ渡ることになった。
これから先、両家の食卓は、確実に変わっていくことになるのだった。
緊張していた空気はすっかり緩み、大会議室にはどこか穏やかな雰囲気が漂っている。
「んじゃ、次の議題に移ろうぜ!」と言うフレッド。
その言葉にブランゲル侯爵もゆっくり頷いた。
「うむ」
まだ話し合うべきことは残っている。
一人の男が静かに手を挙げた。
「……」
次席執事長ルーファスだった。
それに気づいたフーベルトが静かに言う。
「ルーファス」
許可を促す声だった。
ルーファスは一歩前に出て口を開く。
「先日――ザック様、フレッド様が地下闘技場で暴れていた大男がいたと。そして、興行主は半年前に奴隷商人から購入したと。その話を、ロイド様からお聞きになりました」
ロイドは静かに頷いた。
ルーファスは話を続ける。
「ですが、ここ一年、城塞都市に奴隷商人が出入りした報告は上がっておりません」
その言葉に会議室の空気がわずかに変わる。
ザックが腕を組んだまま言った。
「俺より二回りはでかかったぞ」
それを聞いたライアンが言う。
「そんな奴がいれば、目立つし噂にもなるな」
アデルハイトも頷いた。
「……カシウム領で、そんな噂は聞いたことはないな」
エリクソンが笑いながら言う。
「いれば、スカウトするな」
それにはアデルハイトも同意した。
「確かにな」
ルーファスは静かに続ける。
「地下闘技場に恐ろしく大きい男が出場しているとの報告は聞いておりました」
机の上に手を置く。
「私も近いうちに足を運ぶつもりでした」
その言葉に、シャイン傭兵団の何人かが互いに視線を交わした。
そしてホルダー男爵家の面々も同じように察していた。
この男——ただの執事ではない。
ルーファスの立ち姿、視線、言葉の選び方。
それらすべてが示している。
ブランゲル侯爵家の諜報部隊を統括する人物。
あるいは、それに準ずる立場。
だが、そのことを口に出して確認する者はいない。
必要がないからだ。見れば分かる。
その時、エリカが首を傾げた。
「……“でした”?と言うことは、もういないってことかしら?」
フレッドがあっさり答えた。
「ああ」
親指でザックを指す。
「俺とザックで一瞬で片づけたぞ」
会議室のあちこちで苦笑が漏れる。
「……だろうな」
「想像はつく」
ジェイソンが腕を組んだまま言う。
「外から入ってきた形跡がないのなら」
視線を巡らせる。
「内側だね」
ノエルが口にした。
「住人……あるいは行商人や旅人を攫って何らかの施術をした……?」
ケイトが頷いた。
「そっちの方が可能性としては高いわね」
その時、メグが不思議そうに首を傾げた。
「でも……施術って?お兄ちゃん、何かある?」
会議室の視線がシマへ向いた。
シマは椅子にもたれながら答える。
「ロイドからその話を聞いた時、最初に思ったのが――『筋肉増強剤』だ」
会議室がざわついた。
「……何だ?」
「きんにく……?」
「ぞうきょう……?」
聞き慣れない言葉だった。
その中で一人、くすりと笑うユキヒョウ。
「ふふ……さすがはシマだね」
その横でマックスも誇らしげに言う。
「ああ、俺たちの団長だからな」
ヤコブが興味深そうに身を乗り出した。
「シマよ、それはどういったものじゃ?」
会議室の空気が再び静まり返る。
誰もがシマの言葉を待っていた。
シマは静かに周囲を見渡す。
(……だが、確証はない)
ザックより二回り大きい体格。
理性を失ったような振る舞い。
痛みを感じている様子がなかったという証言。
それらをつなぎ合わせた時、シマの頭に浮かんだのが『筋肉増強剤』そして『麻薬』。
だがそれは、あくまでも推測にすぎない。
この世界のすべてを知っているわけではない。
この世界は――自分の前世とはあまりにも違う。
科学という体系は存在しない。
医療もまだ発達途上だ。
生活水準も決して高くない。
それなのに、この世界には、説明のつかないものが当たり前のように存在している。
ふと視線を向ける。ジトーの頭の上。
そこに、仔狼アルが丸くなって座っていた。
真っ白な毛並み。そして――赤い瞳。
(……アル)
シマは心の中で呟く。
深淵の森で出会った仔狼。
父親と思われる狼は――三メートルを超える巨狼だった。
あれはもう狼というより、別の生き物だ。
だが、この世界では存在している。
ブラウンクラウン。あの不思議な茸。
身体能力を引き上げる。
成長を促進する。
滋養強壮の効果まである。
さらに――オズワルドとティア。
手術を行った時のことが頭に浮かぶ。
二人は恐ろしいほどの速さで回復した。
シマの常識では説明できない。
前世の医療知識と照らし合わせても、あり得ない回復力だった。
そして薬草。
この世界には様々な薬が存在する。
《カレンドラ膏》《タナ草の粉末》《骨煙草の煎じ液》《スルナ包帯》
《錠粒・青印》《毒消し粉》《香煙玉》
これらの多くは、体系化された医学というよりは経験と伝承の積み重ねによって作られている。
だが、それでも確かに効果はある。
この世界は文明としては未発達でも、自然や薬草の力は異常なほど豊かだ。
思考は自然と結論に近づく。
筋力を異常に引き上げる薬が存在しても不思議ではない。
しかも、それが粗雑な形で使われたなら――理性を失い。痛みを感じず。
ただ暴れるだけの怪物になる可能性もある。
自分の知識だけでは、辿り着けない発想もある。
それでも、もし本当にそういう薬が存在するなら――その背後には、必ず誰かがいる。
皆の視線が自分に集まっているのを確認すると、少しだけ肩をすくめて口を開く。
「ああ……済まねえ、少し考え事をしていた…筋肉増強剤だったな。簡単に言えば“無理やり体を強くする薬”だ。普通はな、時間をかけて体を作っていく。でも筋肉増強剤ってのは――その時間をすっ飛ばして体を強くする」
何人かが眉をひそめる。
シマは続ける。
「たとえばだ。ザックみたいな体になるには、普通は何年も鍛える必要がある」
ザックは腕を組んで頷く。
シマは言う。
「だが、その薬を使えば短い時間で筋肉が膨れ上がる」
会議室が静かになる。
「腕が太くなる。力が強くなる。体も大きくなる」
シマは肩をすくめた。
「つまり、無理やり体を強化する薬ってわけだ」
ヤコブが興味深そうに聞いている。
シマは続ける。
「ただし、いいことばかりじゃねえ…体への負担がとんでもなくでかい。筋肉が急に増えれば、骨や内臓はそれに耐えなきゃならない。心臓が持たねえこともある。それから、頭がおかしくなる場合もある」
理性が鈍る。怒りっぽくなる。暴れやすくなる。
シマはフレッドとザックを見る。
「お前らが戦った奴、あれも理性が飛んでたんだろ?」
フレッドが頷く。
「ああ、ありゃ完全に狂ってたな」
シマは頷いた。
「そういう副作用が出る可能性もある」
そして最後にもう一つ付け加える。
「痛みを感じにくくする薬――つまり麻薬みたいなもん、それを一緒に使えばどうなるか?痛みを感じない。体は異常に強い。理性も飛ぶ。そりゃ化け物みたいになる」
会議室は静まり返った。
シマは軽く息を吐く。
「まあ、さっきも言ったが、これは俺の推測だ」
断定はしない。
「だが」
最後に静かに言う。
「もしそんな薬があるなら、作ってる奴がどこかにいるってことだ」
シマの視線が大会議室をゆっくりと巡った。
マリウスが静かに口を開いた。
「シマ、麻薬とは何かな?」
会議室の視線が再びシマに集まる。
シマは「んー…」と小さく唸り、頭をかいた。
「麻薬ってのはな、人の体とか頭をおかしくする薬のことだ」
ざっくりした説明だったが、皆の耳は真剣だった。
シマは続ける。
「たとえばだ、腕を斬られても、腹を殴られても、痛みを感じにくくなる」
デシンスが眉を上げる。
「そりゃ戦いじゃ強そうだな」
シマは頷く。
「そうだな。その代わりに頭がおかしくなる…他にも怒りっぽくなる。判断が鈍る。理性が弱くなる」
何人かが顔をしかめる。
「それに、気持ちよくなる薬もある、頭がふわふわしてな。嫌なことを忘れる。体も楽になる」
そこでヤコブが顎髭を撫でる。
「それは薬としては良いのではないかの?」
シマはすぐ首を振った。
「最初はな。だが、何度も使うとやめられなくなる」
会議室が少し静かになる。
「体が欲しがる。使わないと気分が悪くなる。頭がまともに働かなくなる」
シマは腕を組み直した。
「そうなると、仕事もできない。戦いもできない。まともな生活もできなくなる。最初は薬でも、最後は毒みたいなもんだ」
誰も軽くは聞けない言葉だった。
シマは少し肩をすくめる。
「だから普通は、まともな奴は使わねえ。でも、人を化け物みたいに戦わせたいなら…筋肉増強剤と一緒に使うってのはあり得る話だ」
会議室の空気が、少しだけ重くなった。




