合同会合5
乾麺と粉末スープの契約が成立し、会議室に漂っていた張り詰めた空気はようやく緩んでいた。
先ほどまでの緊張感は、まるで嵐が通り過ぎた後のように収まり大会議室のあちこちで小さな談笑が始まる。
その時、静かに手が挙がる——シマだった。
再び会議室の視線が集まる。
フーベルトが姿勢を正す。
「シマ様、どうぞ」
シマは椅子に座ったまま腕を組み、ゆっくり口を開いた。
「冷えた酒の製法のことなんだが」
その言葉に数人の耳がぴくりと動く。
シマは続ける。
「条件付きで無償で教えてもいい」
その瞬間、ブランゲル侯爵が眉を上げた。
「ほう……」
口元に笑みを浮かべる。
「今度はこちらが条件付きか」
腕を組み直しながら言う。
「無償であれば文句は言えんな」
大会議室の何人かがくすりと笑う。
するとマリウスが真面目な顔で尋ねた。
「それなりの理由があるということだね?」
シマは即座に頷いた。
「そうだ」
そして背筋を少し伸ばす。
「写本作りをしていて分かったことがある。大きな戦争が起きたのは二十年前」
大会議室の空気がわずかに変わる。
「アンヘル王国対カルバド帝国。通称――『カシウム領第九次防衛戦』」
その名前は、この土地にいる者なら誰でも知っている。
ブランゲル侯爵は静かに頷いた。
「……ああ」
低い声で言う。
「侵略戦争だ」
シマも頷く。
「だがな、それだけじゃない、アンヘル王国内でも争いは結構あったようだ。領や街どうし、村どうしで小競り合い、奪い合い…原因は食糧難」
その言葉に会議室が静まる。
「写本には飢饉が原因だと書かれていた」
空気が重くなる。
ブランゲル侯爵は静かに腕を組んだ。
「……あったな、確かにあった」
低く呟く。当時を知る者にとって、それは遠い昔の話ではない。
シマは続ける。
「エールを作るには大麦と小麦、果実酒を作るには果物…要するに何が言いたいかっていうと」
会議室を見渡す。
「冷えた酒の製法が知られて、美味いからって理由でエールや果実酒ばかり作られては困るってことだ」
その意味を理解したのはジェイソンだった。
彼は静かに頷く。
「なるほど、つまり再び食糧難の懸念があるというわけだね」
シマは短く答えた。
「そういうことだ」
するとダルソンが腕を組みながら言った。
「…う~ん…パンは作らず酒ばかり作る…そんな状況になられちゃ困るってことだな?」
シマは頷く。
「その認識でいい」
ロイドは静かに言った。
「供給と需要のバランス、それが分かっている領主であれば問題ないんですけど」
「……残念ながら少ないだろうな」
デシャンが苦笑した。
大会議室の何人かも同様に苦笑する。
デシャンは続けた。
「大半は目先の利益に走る」
酒は売れる。すぐに金になる。
だがその代償は――食料不足。
そして再び…飢饉。争い。
その可能性を、シマは見ていた。
会議室の空気が再び静まり返る。先ほどまでの商談とは違う。
「もう一つ分かったことがある」
シマが再び口を開いた
その声に、まだ意識を戻しきれていなかった者たちの視線がゆっくりと彼へ向けられる。
シマは腕を組んだまま続けた。
「作物や植物を生育するのに肥料を使っていないことだ」
その言葉に、会議室の空気がぴたりと止まった。
しかし――誰も反応しない。
シマは構わず話を続けた。
「肥料ってのは土壌を改善するものだ成長を促進して生産性を高める効果がある」
だが――理解が追いついていない様子だった。
シマはさらに言った。
「チョウコ町では今年から来年にかけての肥料作りは終えた」
その言葉で、何人かの者がようやく顔を上げた。
シマは思い出すように言う。
「種類はどれくらいだっけ……?」
するとすぐにノエルが答えた。
「九種類よ…畑や作物、野菜それぞれの区画ごとに試すように指示を出しているわ」
そして冷静に言った。
「結果が出るのは来年になるわね」
農業実験…その言葉の重みを理解した者はまだ少ない。
ヤコブは顎髭を撫でながら言う。
「収穫時期には、どの肥料が適しておるのか判明するじゃろう」
ノエルが小さく頷いた。
「そういうこと」
するとシマが軽く肩をすくめた。
「そうしたら」
ブランゲル侯爵とデシャンを見る。
「ブランゲル侯爵家、ホルダー男爵家に肥料を卸してやるよ安価でな」
軽い口調だった。
完全な沈黙。誰も言葉を発さない。
ブランゲル侯爵は固まっている。ジェイソンも動かない。
マリウスは口を半開きにしている。デシャンも椅子に座ったまま微動だにしない。
大会議室全体が、まるで時間停止したかのようだった。
その沈黙を破ったのは――エリカだった。
「お父様!ジェイソンお兄様!しっかりして下さい!」
その声で、ようやく何人かが我に返った。
しかしまだ状況を理解しきれていない者も多い。
その様子を見てメグがくすくすと笑う。
「……マリウス様も口を開けて驚いているわ」
本当にその通りだった。マリウスは完全に呆然としている。
「デシャン様も……ぷっ……」
笑いを堪えているオスカー。
その様子を見てルーカスが肩をすくめた。
「驚いてるのは」
会議室を見渡す。
「俺たち以外全員だな」
その瞬間、シャイン傭兵団の面々が一斉に笑った。
「はははは!」
「そりゃそうだ!」
「肥料なんて概念ないもんな!」
「俺たちだって知らなかったし!」
肥料という概念が存在しない世界、それが意味することは一つ。
作物の生産量は――まだ大きく伸びる余地がある。
作物はただ畑を耕し、種を蒔き、天候に祈るもの。それが常識だった。
だがシマは、あっさりとその常識を覆してみせたのだ。
肥料の話が出た瞬間に起きた衝撃は、まだ完全には収まっていない中、シマが再び口を開いた。
「勘違いするなよ」
腕を組みながら言う。
「一気に広めるつもりはない」
その言葉に、ブランゲル侯爵がゆっくりと視線を上げた。
「何故だ……?」
興味深そうな声だった。
シマは続ける。
「もし肥料で今まで以上に収穫が増えたらどうなる?」
その問いに、会議室の何人かが考え込む。
シマは答えを自分で言った。
「農家は安定した収入を得られる」
それは誰でも分かる。
だが、シマはそこで言葉を止めなかった。
「同時に」
声を少し低くする。
「悪い領主なら」
そしてはっきり言った。
「より重い税をかけてくる可能性もある」
会議室の空気が一瞬で変わる。
ジェイソンとマリウスが顔を見合わせる。
デシャンは小さく頷いた。
「……確かにな」
低く呟く。
それは歴史上、何度も繰り返されてきたことだった。
生産が増える。すると領主は税を増やす。農民は苦しくなる。
結局、豊かになるどころか、逆に苦しくなる。
シマは続けた。
「だから」
指を軽く机に置く。
「取れすぎた小麦は」
一つ目の選択肢を挙げる。
「飢饉に備えて備蓄しておく」
それは非常に現実的な考えだった。
「あるいは」
二つ目。
「他国の商人に売る」
そして三つ目。
「エールを作る」
ここで何人かが反応する。
だがシマは肩をすくめて付け加えた。
「まあ、製法を知っているならな」
その言葉に数人の貴族が苦笑する。
酒作りは――貴族の特権。製法は門外不出。
それがこの世界の常識だった。
シマはさらに言う。
「だが、どれにせよ革新的な技術は小出しにするべきだ」
その言葉に、ヤコブが興味深そうに目を細めた。
「ほう……それはまた、ずいぶん現実的な考え方じゃのう」
シマは少しだけ笑った。
前世の記憶、かつて読んだ一冊の本。
政治思想の古典。
「昔読んだ本に、こんなことが書いてあった」
会議室の視線が集まる。
「君主は民に恩恵を与える時、少しずつ与えよ——逆に罰は一度に与えろ」
その言葉に何人かが眉を上げる。
シマは肩をすくめる。
「そうすりゃ、民は恩恵を長く感じる…もし、肥料も保存食も冷えた酒も全部一気に広めたらどうなる?」
会議室の誰もが想像できた。
「驚きは一度きり」
シマは言う。
「ありがたみもすぐ消える。だから小出しにする」
ブランゲル侯爵がゆっくり笑った。
「はは……なるほどな面白い考え方だ」
ジェイソンも腕を組んだまま言う。
「確かに統治の理屈としては筋が通っている」
マリウスも静かに頷いた。
「長期的な支配を考えるなら理にかなっています」
その時、オスカーが小さく笑った。
「シマ、相変わらずとんでもない知識を持ってるね」
それを聞いたシャイン傭兵団の面々が笑う。
「ははは!」
「ほんとだよな!」
肥料の話、食糧政策、技術の扱い方。
重い議論が続いていた会議は、まだ余韻を残してる中、大会議室の扉が静かに開いた。
一人の使用人が、遠慮がちに中へ入ってくる。
視線を下げたまま、足早に次席執事長ルーファスの側へ歩み寄った。
そして、周囲に聞こえないように耳元で囁く。
ルーファスは小さく頷くと、すぐに前へ出た。
「ブランゲル様」
姿勢を正して告げる。
「昼食の準備が整ったようです。場所は大広間でございます」
その瞬間だった。
「よっしゃー!!」
元気よく叫んだのはザックだった。椅子から勢いよく立ち上がる。
「飯だ!」
その声に、シャイン傭兵団の面々が一斉に笑う。
フレッドが腕を伸ばしてシマに聞いた。
「ちょうどいいな!グッドで……たらんぽんだっけ?」
シマが即座に言う。
「グッドタイミングだ」
それを聞いたフレッドが大きく頷いた。
「それな!」
大会議室から笑いが起きる。
「ははは!」
「惜しい!」
「たらんぽんって何だよ!」
張り詰めていた空気が、完全にほぐれていた。
ブランゲル侯爵も椅子から立ち上がる。
「さてさて」
腕を組みながら言う。
「どの様な料理なのか楽しみだな」
その隣でエリジェも微笑んだ。
「ええ!本当に」
目を輝かせる。
マリウスも立ち上がりながら言った。
「ふふ……今度はどんな驚きが待っているのやら」
一同はそのまま大広間へ移動した。
カシウム城――大広間。
長いテーブルがいくつも並べられ、すでに料理が整然と並んでいる。
そこには、先ほど試食の話に出ていた料理が並んでいた。
焼きそば。
湯気の立つ麺に、香ばしく炒められた野菜と肉。
ソースの香りが広間に広がる。
唐揚げ。
黄金色に揚がった肉が山のように盛られ、油の香ばしい匂いが漂う。
天ぷら。
衣が軽く揚がった野菜や山菜、魚。美しい黄金色が食欲をそそる。
そして――水炊き鍋。
大きな鍋から白い湯気が立ち上り、鶏と野菜の優しい香りが広がっていた。
それらすべてを用意したのは炊事班班長コーチンと、ティア、リットウ隊。
周囲から声が飛ぶ。
「ご苦労様!」
「今日も美味そうだな!」
「ありがとうな!」
労いの言葉があちこちから掛けられる。
コーチンは少し照れくさそうに笑った。
「いえいえ、お口に合えばいいんですけど」
一方で――侯爵家が用意した料理も並んでいた。
パン。新鮮な野菜。果物。
そして飲み物。
エール。果実酒。ワイン。ジュース。
食卓は実に豪華だった。
その中でも侯爵家の席のテーブルには、少し様子が違う皿が置かれていた。
焼きそばの皿がいくつか。唐揚げも天ぷらも鍋も。
これは――毒味用。
侯爵ともなれば、食事には常にその危険が付きまとう。
それを見てジトーが呟いた。
「侯爵ともなると大変だな」
するとシマが笑った。
「なら俺たちが毒味してやるよ」
ジトーもニヤリと笑う。
「それだな」
ブランゲル侯爵。エリジェ。ジェイソン。エリカ。
そしてシマとジトーが同じテーブルの席に着く。
周囲には興味津々で様子を見ている。
エリジェがフォークを持つ。
そして料理を見渡した。
「では」
軽く微笑む。
彼女は無作為に皿を指さした。
「それを」
焼きそば。
シマがフォークで豪快に取る。
ジトーも同じように皿を引き寄せる。
二人は周囲の目も気にした様子もなく食べ始めた。
もぐもぐ。ガツガツッ。
次は唐揚げ。
大きな口でガブリと食べ咀嚼…エールで流し込む。
「…カァ~ッ!…美味い!美味すぎるッ!」と言うジトー。
その様子を見ていたトーマスが突然叫んだ。
「だ、ダメだッ!!見ていられねえ!!」
そして振り返る。
「おい!俺たちも食うぞ!」
シャイン傭兵団の面々が一斉に反応した。
「それだ!こうしちゃあいられねえ!」
「待ってました!」
「腹減ってんだ!食うぞ!」
彼らは空いているテーブルへ一斉に座る。
椅子がガタガタと動く。皿が引き寄せられる。
「うおおお!」
「美味そう!」
「早く寄こせ!」
カシウム城大広間は宴会のような昼食へと変わっていった。




