合同会合4
ラーメンの試食が終わり、その利便性と軍事的価値について議論が深まった頃。
場の空気は、「商談」の色を帯び始めていた。
やがてエイラが静かに立ち上がる。
整った所作で会議卓の中央を見渡し、落ち着いた声で言った。
「では、レシピの対価についてお話しさせていただきます」
誰もが息を呑む。
エイラはわずかな間を置き、はっきりと告げた。
「五百金貨」
その言葉が大会議室に落ちた瞬間――ざわっ……
大きなどよめきが広がった。
誰もが思わず顔を見合わせる。
五百金貨。
それは小さな村なら数年運営できるほどの大金だった。
「……法外な金額だね」
最初に口を開いたのはジェイソンだった。
腕を組みながら苦笑する。
「たった一つの料理のレシピにしては、かなり高額じゃないかな?」
続いてマリウスも慎重に言葉を選んだ。
「エイラ嬢」
少し困ったような表情になる。
「それはいくら何でも……」
しかしエイラは微笑んだ。
まるで予想していた反応だと言わんばかりに。
「あら」
小さく首を傾げる。
「そうでしょうか?」
そして二人をまっすぐ見る。
「聡明なジェイソン様、そしてマリウス様なら乾麺と粉末スープの価値は、すでにお分かりになられているはずです」
一瞬の沈黙。
エイラは淡々と言った。
「私はこれでも、安い金額だと思いますが?」
会議室が再び静まり返る。
彼女はさらに言葉を重ねる。
「これは、軍だけの話ではありません。行商人、旅人、傭兵、移動をする人々——街、村、市場そこへ流せば確実に売れる。作れば作るほどに利益が生まれるでしょう」
会議室の数人が小さく息を呑む。
だがエイラはさらに核心に触れた。
「ただし、問題があります」
その瞬間、空気が張り詰めた。
「これを市場に流通させてよいのか」
その言葉は重かった。
なぜなら――軍事問題に直結するからだ。
エイラは続ける。
「もし他国にも広まれば軍としてのアドバンテージが失われる可能性があります」
その瞬間、大会議室は完全に静まり返った。
誰も声を出さない。ただ、思考だけが高速で動いていた。
(他国に流通すれば……我が領軍の優位性が消える)
アデルハイトが心の中で呟く。
ネリは別の視点で考える。
(市場に出せば……元はすぐに取れる。いや……それ以上になる)
そして二人の若き貴族。ジェイソンとマリウス。
彼らは同時に同じ結論へ近づいていた。
(なるほど……確かに五百金貨でも安いかもしれない)
その時すっと手が挙がった。
ミーナだった。
フーベルトが少し慌てて言う。
「み、ミーナ様」
どうぞ、と続ける声がわずかに揺れている。
先ほどの金額提示が、それほど衝撃的だったのだ。
ミーナは落ち着いた様子で話し始めた。
「乾麺そして粉末スープ」
彼女は机の上の椀を指す。
「その作り方、原価、利益率」
冷静に言葉を並べる。
「それらの観点から見ても」
一拍置く。
「損はありません」
視線が彼女に集中する。
「仮に市場に流通させなかったとしても、それでも十年後、きっと皆様は思うでしょう」
そしてはっきり言った。
「安い買い物だったと」
その言葉は、静かだった。
会議室の誰の耳にも強く響いた。
なぜなら彼女は、感情ではなく計算で語っているからだ。
原価。流通。保存。販売。
すべてを踏まえた上での発言。
会議室の何人かは、ようやく理解し始めていた。
この料理。ラーメンというもの。
それは単なる料理ではない。新しい産業なのだと。
そして今、彼らはその入口に立っている。
その沈黙の中で、ブランゲル侯爵は腕を組んでいた。
そして低く笑う。
「……ふむ」
その目は鋭く光っていた。
まるで新しい武器を見つけた武人のように。
カシウム城大会議室。
今この場で行われているのは、ただの料理の商談ではない。
未来の利権を巡る交渉だった。
その静寂の中、ゆっくりと手が挙がる。
フーベルトがすぐに応じる。
「シマ様どうぞ」
シマは椅子の背に軽く寄りかかりながら、ゆっくり口を開いた。
「今は軍事目的で使われても十年後はどうだ?」
その問いは、単なる疑問ではなかった。
未来を見据えた問いだった。
シマは続ける。
「ジェイソン、マリウス」
二人を見る。
「お前らは領主になる」
少しだけ笑う。
「今日よりも明日が、より良い一日になるように、そのために励んでいるだろう」
二人は黙って頷く。
それは領主として当然の使命だった。
シマは続けた。
「平和であれば流通させて売ればいい」
彼は机を軽く指で叩く。
「爆発的に売れるだろう」
それは誰もが理解していた。
「だから、それまでに確立させるんだ」
会議室が静まり返る。
「誰に、どこに作らせるのか工程をどう割り振るのか技術を盗まれないようにするにはどうするのか」
それは完全に産業計画だった。料理の話ではない。国家戦略の話だ。
「まあ今よりも荒れた世界になってる可能性もある」
戦乱の時代。
それは誰にも否定できない未来だ。
「その時は秘匿させるしかねえ」
アデルハイトとエリクソンが頷いた。
現実的な判断だった。
別の手が挙がるジトーだ。
フーベルトが言う。
「ジトー様、どうぞ」
ジトーは椅子に深く座ったまま頭を掻いた。
「十年後どうなってるかなんて俺には想像できねえ」
率直な言葉だった。
「でもよ武器だって変わるだろ、戦い方も輸送方法も食い物だって変わってるんじゃねえか?」
それは誰も否定できない事実だった。
ジトーはそこでシマを見る、そしてニヤリと笑う。
「でもな、確かに言えることがある。乾麺と粉末スープは改良して進化する」
そしてシマを指差した。
「こいつがやる、そうだろ?」
シマは少しだけ笑った。
「まあな、ラーメンは奥が深いからな」
その言葉には、奇妙な説得力があった。
その時、エイラが手を挙げた。
フーベルトが言う。
「エイラ様、どうぞ」
エイラは少しだけ表情を引き締めた。
「正直に言いますと私たちには難点があります」
会議室の空気が少し変わる。
「人手不足です」
その言葉は現実的だった。
「チョウコ町だけでは限界があります。乾麺と粉末スープだけを作っているわけにもいきません」
他にも商売がある。町の運営もある。完全に生産工場にするわけにはいかない。
大会議室の数人が頷く。
「確かにその通りだ」
ジェイソンがゆっくり手を挙げた。
フーベルトが言う。
「ジェイソン様、どうぞ」
ジェイソンは少し考えるような表情をして、そして言った。
「君たちシャイン傭兵団に、いずれスレイニ族とカイセイ族が傘下に入る……と聞いたよ。そうなれば人手不足も解消するんじゃないかい?」
その瞬間、時間が止まった。完全な静寂。
「……は?」
誰かが呟いた。
マリウス側の席から椅子がガタンと鳴る。
「ス、スレイニ族……?」
「カイセイ族だと……?」
数人が本気で腰を浮かした。
侯爵家の面々が全く驚いていない。
ブランゲル侯爵。エリジェ。エリクソン。
執事長フーベルト。次席執事長ルーファス。筆頭側近ネリ。
シャイン傭兵団の面々も、まるで日常の話でもしているかのように平然と座っていた。
その中で必死に笑いを堪えている男がいた。
エリクソン・ブランゲルである。
肩がわずかに震えている。
口元を押さえているが、完全には隠しきれていない。
(これは……面白すぎる)
そう思っているのは明らかだった。
その時、マリウスが静かに言った。
「……父上」
彼はデシャンの方を見る。
「この事をご存じだったのですね?」
視線の先、デシャン・ホルダーの顔は――答えを隠す気がまるでない顔だった。
口元が完全に緩んでいる。ニヤニヤとした表情。それを見れば誰でも分かる。
(知っている、しかも楽しんでいる)
マリウスは思わずため息をついた。
キャシーがモーガンへ小声で尋ねる。
「ダグザ連合国のスレイニ族……確か国土の四分の一を支配するって言われていたわよね?」
モーガンは腕を組みながら答えた。
「それは少し古い情報だ」
低い声で言う。
「最新の噂では三分の一近くだな」
キャシーが目を見開く。
「そんなに……?」
モーガンはさらに続けた。
「そしてカイセイ族だが」
少し声を落とす。
「数多の氏族を従えている。連合国内でも屈指の発言力を持つ一大勢力だ」
そして結論を言う。
「両者を合わせればダグザ連合国の半分以上になる」
近くで話を聞いていたカールスルーエ・ヘッセンが言った。
「……と、なれば」
顎に手を当てる。
「領土はブランゲル侯爵家とホルダー男爵家を合わせたより広いな」
モーガンは迷いなく頷いた。
「間違いなく」
その会話を聞いていたヘルモート・ビルングが笑った。
「はは……あいつら想像以上にヤバイ連中だったんだな」
だがその顔には恐怖よりも――どこか楽しそうな表情が浮かんでいた。
その時だった低い声が会議室を貫く。
「静まれ」
ブランゲル侯爵だった。
その一言で空気が変わる。ざわめきが徐々に収まっていく。
侯爵はエイラを見る。
「エイラ嬢、続きを」
エイラは軽く頭を下げた。
「はい、スレイニ族、カイセイ族、いずれは傘下に入るかもしれません。しかし時期は未定です」
シャイン傭兵団の団員たちが頷く。
エイラははっきり言った。
「商人は現実を見ます。希望的観測をしては失格です」
その言葉には商人としての矜持があった。
「ただし」
彼女は少し柔らかい声で言う。
「時とともに解消できる問題でもあります」
そして本題へ戻った。
「それでも、今回、敢えて安い金額を提示した理由があります」
ジェイソンとマリウスが顔を上げる。
エイラは言った。
「ブランゲル侯爵家そしてホルダー男爵家」
その両家を見る。
「この二つの家には、さらに力を持ってほしい。そう願いを込めての提示です」
そして続ける。
「シマから聞きました。ブランゲル様は『俺たちは一蓮托生と考えていいのだな』と…シマもその考えに賛同しました。故にこの提示です」
その時、ブランゲル侯爵がゆっくり頷いた。
「うむ、確かに俺は言った」
そしてすぐに次の言葉を投げる。
「条件はつけられるかな?」
エイラはすぐに答えた。
「はい」
迷いがない。
「他国に流さないこと。市場に流通させないこと。シャイン傭兵団内での消費。改良した商品のレシピの開示。以上の条件でいかがでしょうか?」
会議室が静まる。
ジェイソンは少し考えた後、頷いた。
「……その金額、そして条件で話を纏めよう」
マリウスを見て聞く。
「ホルダー家もそれでいいかな?」
マリウスはすぐに姿勢を正した。
「承知いたしました」
その瞬間。交渉は成立した。
ジェイソンは大きく息を吐いた。
「はあ~……」
苦笑する。
「相変わらず手強い」
その言葉にマリウスも苦笑する。
「同感です」
肩をすくめる。
「提示された金額を下げる交渉の余地も隙もありませんでした」
その言葉を聞いた瞬間。
会議室から笑いが起きた。
「確かに!」
「見事な交渉だった!」
「完全にしてやられたな!」
張り詰めていた空気が一気に緩む。
その余韻の中で、ミーナがゆっくりと立ち上がる。
腰に提げていた革の書類入れから、二枚の用紙を取り出した。
丁寧に折られたその紙には、細かな文字でびっしりと書き込みがされている。
乾麺の製法。粉末スープの作り方。
必要な材料。工程。保存方法。
すべてが簡潔かつ分かりやすくまとめられていた。
ミーナはそれを両手で持ち、静かに前へ歩く。
そしてブランゲル侯爵家の席へ向かい、執事長フーベルトへ差し出した。
「こちらになります」
落ち着いた声だった。
フーベルトは一瞬だけ目を細める。
このニ枚の紙の価値を理解しているからだ。
彼は慎重に受け取る。
紙の重さはほとんどない。
だがその価値は、五百金貨…いや、それ以上だ。
隣に立つ次席執事長ルーファスも覗き込み、内容を確認する。
二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
フーベルトはその用紙をジェイソンへ渡す。
ジェイソンは椅子に座ったまま紙を受け取り、ざっと目を通した。
「……ほう」
感心したように呟く。
「実に整理されている」
読みながら頷く。
次にもう一枚の紙はマリウスへ渡った。
マリウスは真剣な顔で文章を追う。
材料、分量、工程、保存。
どれも明快だった。
しばらくして彼は顔を上げる。
「確かに」
静かに言う。
「これなら再現できる」
その時、トーマスが腕を組みながら口を開いた。
「で?金額は二百五十ずつか?」
会議室の視線がジェイソンとマリウスへ向く。
その瞬間、ジェイソンが軽く手を振った。
「いや」
笑みを浮かべる。
「我々が三百金貨を支払うよ」
会議室が少しざわめく。
ジェイソンは続けた。
「ホルダー男爵家には二百金貨をお願いする」
マリウスが少し驚いた顔になる。
ジェイソンは肩をすくめて言った。
「面子というものがあるんでね」
その言葉には軽い調子があったが、意味は明確だった。
ブランゲル侯爵家。この国の大貴族。
その家が主導する形を整える。それが貴族社会の流儀でもある。
その意図を理解したデシャンがすぐに立ち上がった。
深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
横にいたマリウスも同じように礼をする。
父子そろっての感謝だった。
ジェイソンは軽く手を振る。
「気にしないでくれ」
そのやり取りを見守っていた侯爵家秘書官が、机に向かっていた。
彼らはこれまでの交渉内容をすべて書き留めていたのだ。
羽根ペンが紙の上を滑る。さらさらと文字が並ぶ。
契約内容。金額。条件。すべてが記録される。
書き終えた秘書官はその紙を持ち上げ、ブランゲル侯爵とエリジェ夫人の前へ差し出した。
二人は並んでそれを読む。
侯爵は腕を組んだまま目を通し、エリジェは静かに内容を確認する。
しばらくして侯爵が言った。
「うむ」
短い言葉。
エリジェも頷いた。
「問題ありませんわ」
秘書官は再び席へ戻り、清書を始める。
先ほどの記録を正式文書へ書き直す。
美しい筆致で文章が整えられていく。
やがて書き終えると、契約内容が書き込まれたその文書を侯爵の前へ置いた。
そして家紋印章が運ばれてくる。
重厚な金属の印。
ブランゲル侯爵家の紋章が刻まれている。
侯爵はそれを手に取り、赤い封蝋の上へ押し当てた。
ぐっと力を込める。そして持ち上げる。そこにははっきりと刻まれていた。
ブランゲル侯爵家の家紋。
正式な契約成立の証である。
エイラが立ち上がる。そしてジェイソンへ歩み寄った。
「ジェイソン様、ありがとうございました」
そう言って右手を差し出す。
ジェイソンも立ち上がり、その手を握った。
しっかりとした握手。互いに微笑む。
「こちらこそ」
ジェイソンは言う。
「実に面白い商談だったよ」
その隣でミーナも立ち上がっていた。
彼女はマリウスの前へ歩く。
「マリウス様、引き続きお手柔らかにお願いします」
マリウスも立ち上がり、その手を握った。
「はは…それはこちらのセリフだよ」
大会議室のあちこちから小さな拍手が起きる。
こうして――乾麺と粉末スープ。
ラーメンの未来を巡る交渉は五百金貨と条件付き契約という形で、静かに幕を閉じたのだった。




