しょんぼり?!
地下格闘技場は、ようやく“平常”を取り戻しつつあった。
怒号と悲鳴に満ちていた空間は、再び賭け声と歓声に塗り替えられ、血の匂いすら興行の一部であるかのように扱われている。人というものは、驚くほど順応が早い。
殺された“アレ”は、他の闘士たちとは完全に隔離され、厳重な監視下に置かれていた。
そのため、他の闘士に被害が及ばなかったことだけが、今回の事件における唯一の救いと言っていい。
もっとも――チョビ髭の部下たちが命を落とした事実は消えない。
それは彼らにとっては災難であり、チョビ髭にとっては金と人材、両面での大きな痛手だった。
闘技場の奥。
観客席の喧騒から完全に切り離された場所に、地下格闘技場の“顔”とも言える豪奢な部屋がある。
厚い絨毯、金縁の調度品、柔らかなソファ。
血と鉄の匂いが支配する地下とは思えぬ空間だ。
そのソファに、ザックはだらしなく身体を沈めていた。
フレッドは隣で脚を組み、卓上に置かれたワインボトルを掴む。
「……ふぅ」
口を付けてそのままラッパ飲みだ。
テーブルの上には、ずっしりとした革袋が置かれている。
中身は、約束通りの五十金貨。
「悪くねえ夜だな」
ザックが袋を軽く叩く。
「まったくだ」
フレッドは一息でワインを飲み干し、口の端を拭った。
その向かいで、チョビ髭は背筋を正し、何度も頭を下げている。
「本当に……ありがとうございました。お二方が来てくださらなければ……」
「いいってことよ。金さえ貰えればな」
ザックが手を振る。
「それよりだ」
フレッドが真剣な眼差しで聞く。
「――“アレ”は、どうやって手に入れた?」
その問いに、チョビ髭の表情が曇る。
「……奴隷商人からです」
声は低く、慎重だった。
「強く……本当に強く、勧められまして」
「ほう?」
「値段が……あまりにも安かったんです」
地下で生きる者にとって、“破格”という言葉は危険信号だ。
チョビ髭も、それは理解していた。
「裏があると……当然、勘ぐりました」
そう言って苦笑する。
「ですが、奴隷商人の押しが……とにかく強くてですね」
フレッドは、再びワインを口に運びながら聞いている。
「結果、買っちまったと」
「……はい」
チョビ髭は頷いた。
「飯と酒を……とにかく大量に消費する“商品”ではありましたが……最初は……驚くほど素直でした」
チョビ髭は思い出すように語る。
「暴れろ、と言えば暴れる。だが、殺すな、と命じれば、その通りにする…興行が成り立たなくなるので……“苦戦しているように見せられるか?”と聞いたこともあります」
「……それで?」
「頷いて、その通りに実行しました」
ザックが鼻で笑う。
「器用な化け物だな」
「まったくです」
チョビ髭も同意する。
「すぐに頭角を現し……看板闘士になりました」
客は熱狂し、賭けは回る。
金は流れ、闘技場は潤った。
「……ですが」
チョビ髭の声が重くなる。
「次第に、言うことを聞かなくなりました」
「反抗か?」
フレッドが聞く。
「……いえ」
チョビ髭は首を振る。
「反抗というより……」
言葉を選ぶように、少し間を置いてから続ける。
「……人の言葉を、理解していないかのように」
ザックとフレッドは、何も言わずに聞いている。
「時に……目は血走り」
「時に……虚ろで、何も見ていないようで」
「無気力に突っ立っていたかと思えば……突然、暴れ出す」
「……なるほどな」
フレッドが低く呟く。
「理性が……壊れていった、というべきか」
「ええ」
チョビ髭は深く頷いた。
「そして……今回の事件です……あれ以上続けば、いずれ客席に被害が出ていたでしょう」
ザックは、ワインボトルを受け取り、一口飲む。
「で、奴隷商人は?」
「……行方をくらませました」
「だろうな」
フレッドが即答する。
部屋に、短い沈黙が落ちた。
地下闘技場の外からは、再開された興行の歓声が、遠く響いてくる。
まるで、何事もなかったかのように。
「まあいい」
ザックは立ち上がり、金貨袋を肩に担ぐ。
「仕事は終わりだ」
フレッドも立ち、最後にワインを飲み干す。
「次はもうちょっと、マシな“商品”を仕入れろよ」
チョビ髭は、何度も何度も頭を下げた。
豪奢な部屋を後にする二人の背中を見送りながら、彼は理解していた。
――あの“化け物”よりも恐ろしい存在が、この世には確かにいるのだと。
歓楽街へと続く石畳を歩きながら、ザックは隣を歩くフレッドに向いていた。
「……なあ」
低い声で呼びかける。
「“アレ”が、そんなに気になるのか?」
フレッドはしばし黙ったまま歩き、やがて短く答えた。
「ああ」
それだけだった。
だが、その一言の裏にあるものを、ザックは察していた。
地下で見た光景――。
槍が刺さり、剣が何本も突き立てられ、鎖で縛られてなお暴れ続ける巨体。
しかも、頭頂部には剣がめり込んでいた。
普通なら、即死していてもおかしくない。
「まあ、確かにあれは、おかしいよな」
ザックが言う。
「一本や二本じゃねえ。それでも、あそこまで動けるか?」
フレッドは視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「……似たのを、知ってる」
その声は、先ほどまでの軽さを失っていた。
「パウル・ベニヒゼン」
ザックは眉を上げる。
「……カルバド帝国の?」
「ああ」
ベガに太ももを短剣で突き立てられながらも動きは衰えず、フレッドに両腕を斬り落とされながらも呻き声一つ漏らさず嗤い、最後は自ら命を絶った男パウル・ベニヒゼン。
しばしの沈黙。
「……なるほどな」
ザックが低く呟く。
「確かに、似てるっちゃあ似てる」
人としての限界を超えた何か。
痛覚や恐怖が欠落した存在。
「一応、シマに報告しておくか」
ザックはそう言って、肩をすくめた。
「明日な」
フレッドは即答する。そして、にやりと笑った。
「今夜は別件が優先だ」
その瞬間、二人の間の空気が切り替わる。
重たい記憶は、酒と欲に塗れた街の闇へと追いやられた。
「目指すは……」
「娼館『熟女』」
声を揃えるように言い、二人は肩を組んだ。
ニヤつきながら歩き出す二人。
その背中は、先ほどまでの死と血の匂いを、あっさりと振り払っていた。
――完全に、テオのことなど忘れ去ったまま。
夜の歓楽街は、そんな男たちを歓迎するかのように、一層きらびやかに、騒がしく輝いていた。
アパパ宿。
夕刻の気配に包まれていく。
外がまだ橙色を残しているうちから、観光に出ていた面々が三々五々、宿へと戻ってきた。
扉が開くたび、外のざわめきと一緒に笑い声や話し声が流れ込み、宿の中は次第に熱を帯びていく。
最初に戻ってきたのはガンザスとダンドス、そして子どもたち――アニー、ウエンス、エバンス、ミライ。
子どもたちは土産を手に目を輝かせ、何を見たのか、何を食べたのかを一斉に喋り出す。
ガンザスとダンドスはそれを苦笑しながら聞き、時折相槌を打っていた。
続いて、ライアン隊の面々と一緒に行動していたルドヴィカとナトカイが戻ってくる。
ナトカイの表情は、ここに来た当初よりも明らかに柔らかい。
頬にはうっすらと笑みがあり、目にも余裕が見て取れた。
「……少しは気が紛れたみたいだな」
誰かがそう呟き、ライアンが無言で頷く。
観光というのは、時に剣よりも酒よりも、よく効く。
さらに、マリア隊の面々が戻ってくる。
その後ろには少年組――ハイド、ビリー、ザシャ、ヴィム、ジーグ。
年相応にはしゃぎながらも、どこか大人たちの動きを気にしているのが微笑ましい。
だが――宿の入口付近で、やけに落ち着かない様子の男が一人いた。
テオである。
扉が開くたび、彼は食い入るように入口を凝視する。
「……まだか……?」
誰にともなく呟き、また扉を見る。
周囲では、サーシャを中心に女性陣が公演の話で盛り上がっている。
舞台の段取り、衣装の調整、照明の位置。
声の通りや、立ち位置の微妙な違いまで、話題は尽きない。
一方、観光に出ていた者たちは、見たもの聞いたものを肴に酒を交わしている。
街並み、屋台、露店、妙に高い値段の食べ物。
誰かが大げさに語るたび、笑い声が上がった。
やがて、料理と酒が次々と運び込まれる。
皿が並び、杯が満たされ、宿の空気は一層にぎやかになる。
肉の香り、焼き物の匂い、酒精の甘さが混ざり合い、腹と気分を刺激する。
その中で、テオだけが浮いていた。
食事にはほとんど手を付けず、酒も口をつけては置く程度。
視線は相変わらず入口へ。
それに気づいたロッベンが、眉をひそめる。
「テオどうしたんだ?上の空じゃねえか」
「……ね、眠くなったら……こ、こまるから……」
テオは意味不明な言い訳を口にし、顔を赤らめる。
ロッベンは一瞬きょとんとしたが、隣にいたトーマスが小声で耳打ちする。
「……娼館に行く予定なんだよ」
「ああ……」
一拍置いて、ロッベンは深く納得したように頷いた。
「そういうことか」
だが、そのやり取りを聞いていたギャラガが、腕を組んで言う。
「……けどよ、この時間になってまで帰ってこねえってのは……」
「忘れてるな」
即座に答えたのはライアンだった。
「賭けか、地下格闘技場か……何だか知らねえが、大方金が入り込んで浮かれてるパターンだ」
「あー……」
周囲から、納得と諦めが混じった声が漏れる。
ロイドはテオの隣に座り、穏やかに声をかけた。
「テオさん、今日のところは諦めて、飲みましょう」
「え、え?でも……チャチャッと済ませてくるって……?」
テオの声は、かすかに震えている。
それを聞いたトーマスが、肩をすくめて言った。
「あいつらはな、自分が言ったことなんて、一々覚えてねえぞ」
「……」
テオは言葉を失い、杯を見つめる。
「うんうん」
「間違いねえ」
「今頃、肩組んで歩いてるだろ」
シャイン傭兵団の面々が、揃って頷いた。
宿の中は賑やかで、温かく、それぞれの一日が、それぞれの形で終わりへと向かっていく。
ただ一人、しょんぼりしたテオを除いて。
「リユニオン宿」は、夜の灯りに包まれて穏やかな賑わいを見せていた。
劇場まで迎えに行ったクリフは、ケイトとメグを伴って宿の扉をくぐる。
木の床を踏む音、湯と食事の匂い、重なり合う話し声。
視線の先、広間の一角で、オスカー、オイゲン、カタリーナが同じテーブルを囲み、杯を手に談笑しているのが見えた。ぎこちなさはなく、笑顔も自然だ。
(……わだかまりは解けたか?)
胸の奥にあった小さな引っかかりが、すっとほどける。
その空気を感じ取ったのか、隣のケイトとメグも、互いに目を合わせて柔らかな笑みを浮かべた。
その直後だった。
「あー!ケイトお姉ちゃんだー!」
「メグお姉ちゃーん!」
「クリフお兄ちゃん!」
元気な声と共に、小さな影がいくつも飛び出してくる。
元スラム出身の子供たちだ。
勢いそのままに駆け寄ってきて、裾を掴み、腕にしがみつき、満面の笑顔を向けてくる。
この「リユニオン宿」には、クリフとケイトを中心に、元スラムの住人や子供たち四十人が滞在している。
総勢二百五十人を超える移動団の中で、彼らは他の宿にも分散して泊まっていたが、ここはその一つの拠点だった。四十人のうち、大人は八人。
さらに、ユキヒョウ、ベガ、オイゲン夫妻も同宿している。
元スラムの大人たちは、騒ぐ子供たちの後ろで一歩下がり、クリフたちに軽く会釈をする。
その表情には、警戒よりも信頼が滲んでいた。
「ぼく、はじめてお買い物したよ!」
「わたしも!」
「あのお菓子、おいしかったね!」
口々に報告する子供たち。
クリフはカシウム城へ向かう前、子供たちに小遣いを渡していた。
「そうか」
一人一人の頭に手を置き、くしゃりと撫でる。
髪の感触はそれぞれ違い、少し硬いものもあれば、驚くほど柔らかいものもある。
「……みんないるか?」
そう問いかけると、少し離れた場所から元スラムの大人の一人が答えた。
「問題ありません。全員、無事です」
その一言で、クリフはようやく肩の力を抜いた。
子供たちをあやしつつ、オスカーたちのテーブルへと歩み寄る。
近づくなり、オスカーが顔を上げ、にっと笑った。
「メグ!お疲れ様!」
「クリフとケイトも、お疲れ」
続いて、オイゲンとカタリーナも席を立ち、穏やかに頭を下げる。
宿の中では、子供たちの笑い声と大人たちの低い談笑が重なり「リユニオン宿」という名の通り、再び結び直された縁が、静かに息づいていた。




