お疲れ気味?!
城塞都市の一角、「ゴヴニュの宿」。
その名が、ベガ隊からもたらされた報告の中で、はっきりと告げられた。
「間違いねえ。ミウオ商会の会頭シタマツと、未知傭兵団――今は、あそこに泊まってる」
ベガの言葉は簡潔だったが、確信に満ちていた。
場所は、鍛冶工房が密集する区画からほど近い。
昼間は、金槌が鉄を叩く音、炉の唸り、怒号や笑い声が飛び交い、お世辞にも「静か」とは言えない地域だ。
「夕刻前に戻ってきて、確認も済ませた」
と言うベルンハルト。
「仕事が早いな……」
書斎室で報告を聞いたシマは、素直にそう言った。
「明日、ジトーと一緒に会いに行ってくるわ」
即断だった。
「こっちは任せて」
ロイドが頷く。
写本作業は、まだ始まったばかりだった。
ブランゲル侯爵家の蔵書は、想像をはるかに超える量がある。
戦史、地方史、古地図、医学、建築学、動植物の生態記録――
選び抜いて集めているとはいえ、積み上げられた本の山は、すでに人の背丈を越えつつあった。
(……これは、城塞都市滞在中に終わる量じゃねえな)
シマは、内心でそう判断していた。
そのとき、書斎室の扉が静かに開く。
「皆様」
控えめな声とともに、使用人が一礼する。
「ブランゲル様が、本日の夕餉をぜひご一緒にとのことです」
その言葉に、室内の空気がわずかに緩む。
「俺はパスだな」
すぐに口を開いたのはクリフだった。
「ケイトとメグを迎えに行って、そのまま宿に戻るぜ」
シマたちは、ほぼ同時に視線を交わした。
オスカーの両親――オイゲンとカタリーナ。
対面が、どうなったのか。気にならないわけがなかった。
「……ああ、頼んだぜ、クリフ」
シマの声には、はっきりとした信頼があった。
「今日の作業は、ここまでだね」
ロイドが、机の上を見渡しながら言う。
「片付けた方がいいですか?」
使用人に向けて、丁寧に尋ねる。
「いえ、そのままで結構でございます」
即答だった。
「この部屋に手を付けることは、決して致しません」
「ブレーズ」
シマが声を上げる。
「皆に伝えてくれ。今日の作業は終わりだ」
「了解だ」
そう言って踵を返すブレーズ。
「夕餉は大広間で、との仰せです」
「この人数だからね……」
マリウスが苦笑する。
やがて、自然と散り始めた。妻や恋人を迎えに、劇場へ向かう者。
そのまま街中で食事を取る者。侯爵家の厚意に甘え、城に残る者。
それぞれが、それぞれの場所へ向かっていく。
書斎室には、積み上げられた蔵書と、乾きかけのインクの匂いだけが残った。
カシウム城・大広間の夕刻
磨き上げられた石床の上に柔らかな灯りが落ちていた。
高い天井から吊るされた燭台の炎が、石壁や柱に刻まれた紋章を照らし出し、その影がゆっくりと揺れる。長卓は幾列にも並び、白い布の上には杯や皿、銀の食器が几帳面に配置され、城の格式と迎える客の多さを物語っていた。
そこに集まったのは、今や城塞都市でも名を知らぬ者はいないシャイン傭兵団。
戦場では剣と槍を携える彼らも、今は、穏やかな表情で席に着いている。
その光景は、まるで一つの大きな家族の集まりのようでもあった。
中央の卓に腰を下ろすのはシマ。
その傍らにはジトー、ヤコブ、ユキヒョウが並ぶ。
ヤコブは、相変わらず城内の調度や壁に掛けられた古い紋章、梁に刻まれた意匠にまで視線を走らせ、学者らしい好奇心を隠そうともしない。
ユキヒョウはそんなヤコブを横目に、静かにグラスを手に取り、場の空気を楽しんでいるようだった。
灰の爪隊の面々もすでに集まっているが、ギャラガの姿はない。
彼は妻アンジュを迎えに行っており、今夜はアパパ宿で家族一緒に夕食をとる予定だという。
ルーカス隊も同様で、ルーカス本人は妻ビルギットを迎えに向かい、団員たちだけが卓を囲んでいる。
マックス隊、デリー隊、キーファー隊、ドナルド隊、マーク隊、デシンス隊、ダルソン隊、キリングス隊、リットウ隊、ワーレン隊、そしてベガ隊――これほど多くの隊が一堂に会する光景は圧巻で、大広間がいつもより少し手狭に感じられるほどだった。
マークは落ち着きなく、何度も入口の方へと視線を向けている。
ここにいれば、恋人であるアンネ――エリカ付きの侍女に会えるかもしれない。
その淡い期待が、彼の表情や仕草をわずかに浮つかせていた。
指先で杯の縁をなぞりながら、無意識にため息をつく様子に、隣の団員が苦笑する。
一方で、ダルソンは終始落ち着いていた。
彼もまたエリカの侍女コリンナと恋人同士だが、その関係は表向きには伏せられている。
もっとも、長く共に行動してきた者たちの中には、すでに察している者も少なくない。
当の二人もそれを承知の上で、今は距離と節度を守り、視線と言葉少ななやり取りだけで互いの存在を確かめ合っていた。
キリングスは妻アマーリエを迎えに行き、ワーレンもまた妻ソフィアを迎えに出ている。
それでも不満や不安はなく、大広間には笑い声と雑談が混じり合い、戦場とはまるで異なる穏やかな空気が満ちていた。
ロイドの姿は見当たらない。
リズを迎えに行き、今夜はアパパ宿でリズの家族と共に夕食を取る予定だという。
トーマスもまたノエルを迎えに行き、そのまま自身の家族――カウラス一家と共に、同じくアパパ宿で食卓を囲むことになっていた。
それぞれが大切な者のもとへ向かい、束の間の安らぎを選んでいる。
マリウスは大広間の一角で、側近のハインツ、ビリャフと共に座り、そこには元王家監察官であるモーガンとキャシーの姿もあった。
その雑談の輪を乱すように、一人の男が疲労困憊といった様子で大広間に現れた。
「……疲れた」
そう漏らしながら足を踏み入れたのは、デシャン男爵だった。
背筋は曲がり、足取りも覚束ない。
ふらふらと歩いた末、空いていたマリウスの隣に腰を落とすと、深く息を吐く。
「父上?どうなされたのですか?」
驚いて声を掛けるマリウスに、デシャンは苦笑とも溜息ともつかぬ表情を浮かべた。
「……ブランゲル様に、扱き使われた」
その一言で、周囲にいた者たちは大方の事情を察した。
詳しく聞けば、数日後にはブランゲル侯爵家が招いた貴族たちが次々と城に到着する予定であり、その中にはシャイン傭兵団の公演を見せる意図も含まれているという。
だが、それだけでは終わらない。
城内に滞在する貴族たちの部屋割り、警護体制、警備計画――その細かな打ち合わせに、デシャンも半ば強制的に参加させられたのだ。
「逃げ場はなかった……」
弱々しくぼやくデシャンに、マリウスは肩をすくめ、苦笑を返すしかなかった。
その時、使用人が一礼して一同に告げる。
「エリカお嬢様がお帰りになられました。まもなく、こちらにお顔をお出しになります」
間を置かず、大広間に明るい声が響いた。
「ただいまー!シマ。みんな。アル!」
エリカが軽やかな足取りで駆け込み、そのまま小さな身体を胸に抱き上げる。
「キュウ!」
アルが嬉しそうに鳴き、周囲から自然と笑みがこぼれた。
続いて、侍女たち――アンネ、コリンナ、バルバラ、ベティーナ、ヘルガが整然と入ってくる。
マークは思わずアンネに小さく手を振り、アンネも気づいたように、ほんの一瞬だけ視線を向け、控えめに微笑んだ。そのやり取りは短いが、互いの胸を確かに温めていた。
ダルソンとコリンナの視線が静かに交わる。
言葉は交わさない。ただ、その一瞬で互いの無事と存在を確かめ合う。
それで十分だった。今はまだ、彼女たちは侍女としての役割を果たす時間なのだ。
「お疲れ、エリカ。サーシャたちは?」
シマが声を掛ける。
「宿に帰ったわ」
「リハーサルは順調か?」とジトーが続ける。
「日に日に完成度が高まってるわ!」
エリカは誇らしげに胸を張り、その表情には疲れよりも充実感がにじんでいた。
「それは楽しみじゃのう」
ヤコブが目を細め、心からの期待を込めて頷く。
「ええ、私たちも楽しみなの!」
そう言って、エリカは侍女たちを振り返る。
「……ちょっと湯浴みしてくるわね」
一同に軽く手を振り、エリカたちは浴場の方へと歩き出していった。
その背中を見送りながら、大広間には再びざわめきが戻り、近い未来への期待と静かな高揚感が、ゆっくりと満ちていった。
重厚な扉がゆっくりと開かれ、まず姿を現したのはブランゲル侯爵だった。
長身の身体をやや前傾させ、肩にかかる重みをそのまま引きずるような足取りには、隠しきれない疲労の色がにじんでいる。昨夜の「バッカス酒場」の余韻を引きずっているのは明らかだった。
その後ろにエリジェ夫人、続いて嫡子ジェイソン。
さらに、侯爵の側近ネリを先頭に五人の側近たちが整然と続き、エリジェ夫人の侍女たち、ジェイソン付きの側近たちがそれぞれの位置を保ちながら入場する。
最後に、執事長フーベルトと次席執事長ルーファス、そして使用人とメイドたちが大広間へと姿を現し、場は一気に“日常”へと戻った。
「……待たせたな。ふう……」
深く息を吐きながら、ブランゲル侯爵は片手を軽く振る。
「食事の用意を」
その短い指示に、フーベルトは即座に一礼し、無言で采配を始めた。
と、その瞬間だった。
「キュウキュウ!」
甲高い鳴き声とともに、小さな影が勢いよく跳ね上がる。
「おっとと……!」
反射的に腕を広げたブランゲル侯爵の胸元に、アルが見事に飛びついた。
「…フハハハ! こやつは癒しだな」
豪快に笑いながら、侯爵はアルを抱え上げ、その柔らかな毛並みに目を細める。
「あなた、私にも抱かせて!」
すかさずエリジェ夫人が声を上げる。
「母上、私にも」
ジェイソンも手を伸ばし、三人の間でアルの争奪戦が始まりかける。
その光景は、つい先ほどまでの厳粛な入場とは打って変わり、家族の温もりに満ちていた。
「ブランゲル、少しお疲れ気味のようだな。昨夜、飲み過ぎたんじゃねえか?」
シマの言葉に、ブランゲルは酒場バッカスでの記憶が呼び起こされる。
「……否定はできんな」
ブランゲルは苦笑しながら肩をすくめる。
「ジトーたちは平気か?」
「ハハハ! 俺たちにとっちゃあ、あれくらいの酒の量じゃ足りないくらいだぜ」
胸を張って答えるジトーに、団員たちも笑いながら頷いた。
「……これが若さというものか。やれやれ、年は取りたくないものだ」
ぼやくブランゲル侯爵に、ネリが一歩前へ出る。
「おそれながら……彼らは普通ではありませんから」
淡々とした一言が、逆に真実味を帯びていた。
「父上、エリクソンから聞きましたよ。随分と羽目を外し、暴飲していたと」
ジェイソンの指摘に、侯爵はわずかに視線を逸らす。
「いや……つい楽しくてな……」
その表情には、武人らしからぬバツの悪さが浮かんでいた。
「ブランゲル様の飲みっぷりは、気持ちいいくらいでしたよ!」
デリーが声を張り上げる。
「そうそう!豪快だったよな!」
「ジトーやトーマス、ザック、フレッドにも負けないくらい飲んでたしな!」
「いやあ、さすがはブランゲル様だ!」
「アンヘル王国一の武人の異名は伊達じゃねえ!」
シャイン傭兵団の面々が口々に称え立てると、侯爵は思わず頭をかいた。
「……お前らがそうやっておだてるから、俺もついつい飲み過ぎてだな……」
一瞬の静寂のあと、
「……プッ」
誰かの吹き出す音を合図に、
「ワハハハハハ!」
大広間いっぱいに笑い声が広がった。
重厚な石壁に反響するその笑いは、昨夜の宴と同じように、場の緊張をすっかり溶かしていったのだった。
笑い声の余韻がまだ大広間に残る中、控えめな足音が——
現れたのはカシウム城料理長、ミテラン・タス―。
白衣の胸元を正し、周囲の様子を一瞬だけ見渡すと、まっすぐに執事長フーベルトの元へ歩み寄る。
彼は声を潜め、わずかに身をかがめて耳打ちした。
フーベルトの表情が、ほんの一瞬だけ変わる。その変化を見逃す者は少なかった。
執事長は一歩前に出ると、丁寧に一礼し、なぜかシマの方を向いた。
「シマ様。昨日頂戴した“ブラウンクラウン”を、エリジェ様にお出ししてもよろしいでしょうか?」
「……へ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「……なんで俺に聞く?」
心の中でははっきりと思っていた――(ブランゲルに聞けよ)。
シマは一度フーベルトを見て、それから侯爵へと視線を移す。
「もう侯爵家に譲ったものだ。好きに使ってくれ」
ブランゲル侯爵は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに大きく頷いた。
その反応に、フーベルトは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「シマ、心していただくわ」
エリジェ夫人は穏やかな笑みを浮かべながらも、その声音には確かな期待が滲んでいた。
“ブラウンクラウン”――それがただの食材ではないことを、ここにいる者たちはよく知っている。
侯爵家に譲られた五株。
そして同時に、ホルダー男爵家にも同数が渡されている。
「父上、帰ってからが楽しみですね」
そう声をかけたのはマリウスだ。
「ああ!」
即座に応じたデシャン。
「またあの味を味わえると思えば、疲れなんぞ吹き飛ぶ!」
つい先ほどまで、いかにも疲労困憊といった顔をしていた彼の表情は、まるで別人のように明るい。
それを見て、周囲から小さな笑いがこぼれる。
料理ひとつで、空気が変わる。
味の記憶ひとつで、人はここまで生き生きとする――。




