大失態?!
アパパ宿の浴場は、湯気と石鹸の匂いに満ちていた。
新設されたというだけあって広く、天井も高い。
だが、その中央でぐったりと項垂れている男の存在が、場の空気を完全に別物にしている。
「……すげえなコイツ。ここまでやっても、まだ起きねえとは」
呆れ半分、感心半分でシマが言う。
床に座らされたナトカイは、髪も身体も、シマ、ロイド、オスカー、ユキヒョウの四人がかりで二度洗いされ、垢と臭さはほぼ駆逐されている。
「無精ひげはどうする?」
オスカーが顎に手を当てて聞く。
「コイツ自身にやらせるに決まってるだろ」
即答するシマ。
「そこまで僕たちが世話を焼く義理はないさ」
ユキヒョウも冷静に同意する。
ナトカイは相変わらずピクリとも動かない。
「……さて、浴槽にぶち込むか。さすがに起きるだろ?」
「仕方ないよね」
ロイドが苦笑する。
次の瞬間、四人は息を合わせて両手両足を掴み、浴槽へ――ドッポーンッ!!
「……あびゃびや!! 熱ッ、熱ッ!! お、溺れるッ!!」
盛大な水音と共に、ようやく魂が身体に戻ったらしいナトカイが大暴れする。
「落ち着け」
シマが低い声で言う。
「ここは浴槽ですよ。立てば溺れることはありません」
ロイドが淡々と補足する。
「……あ、……本当だ……」
肩まで湯に浸かり、ようやく状況を理解したナトカイは、きょろきょろと周囲を見回す。
「……ところで……何故僕はここに? それに……き、君たち一体誰なんだ?」
その問いに答える前に、浴場の入口が勢いよく開いた。
「よう! シマ! ロイド! オスカー! お疲れ!」
どやどやとなだれ込んできたのは、ライアン隊の面々だった。
「団長! こっちに着いたなら連絡の一つでもしてくださいよ!」
「ロイド! お疲れさんだったな!」
「オスカー! あのちっこい生き物、可愛いな!」
「アルだっけ? 俺の顔見て“キュウ”って鳴くんだぜ! 思わず頬ずりしちまったよ!」
「お前の酒くせぇ匂いをアルにつけるんじゃねえ!」
即座に副隊長ニールセンの鉄拳制裁(言葉)が飛ぶ。
一気に騒がしくなる浴場。
湯気と笑い声と水音が入り混じる。
「……ライアン……? ニールセン……?」
ナトカイの目が見開かれる。
「……一体どうなってるんだ、これは……?」
「事情はルドヴィカから聞いたぜ」
ライアンが身体を洗いながら言う。
「お前、酔いつぶれて寝てたらしいぞ」
「う、嘘だッ!」
ナトカイは湯を跳ねさせる。
「僕にはそんな記憶はない……!」
「まあまあ、落ち着け」
ニールセンが割って入る。
「ここは風呂場だ。大人しく湯に浸かってろ。お前の言い分は後で聞く」
次々と身体を洗い始めるライアン隊。
その光景を眺めながら、ユキヒョウが静かに口を開いた。
「……ライアン、君たちは旧知の仲だろう?どうやら、事情がありそうだね」
湯気の向こうで、ナトカイは黙り込んだまま、湯の中に沈み込む。
アパパ宿の浴場は、ひと悶着の予感を孕みながら、にぎやかに湯気を立て続けていた。
湯から上がったばかりの身体は、夜気に触れてもまだ芯が温かかった。
シマたちはアパパ宿の酒場兼食堂へと戻る。
扉を開くと、昼の喧騒が嘘のように、室内は落ち着いた灯りに包まれていた。
火鉢の炭がぱちりと小さく弾け、木の香と煮込みの名残が混じる空気が、どこか懐かしい。
カウンターの奥、見慣れた顔が静かに杯を置いた。
灰の爪隊、そしてマリア隊。
視線が合い、言葉より先に互いの無事を確かめ合うように、短い頷きが交わされる。
大仰な歓声も抱擁もない。ただ、同じ夜を越えてきた者同士の、穏やかな再会だった。
「んじゃ、俺たちも風呂に入ってくるぜ」
ギャラガが肩をすくめて言い、仲間たちが続く。
そのとき、テーブルの一角で凍りついたように立ち尽くす男がいた。ナトカイだ。
借り物のライアンの服は少し大きく、袖口を無意識に握りしめている。視線は一点に釘付けだ。
「……ルドヴィカ……ナミ、シャロン、ビルギット、マヌエラ、アマーリエ……?」
名を連ねるごとに声が震え、最後には掠れた囁きになる。「……これは、夢か?」
「んなわけあるか。いいから座れ」
即座にライアンが遮り、背中を軽く押した。
現実へ引き戻すような、乱暴でいて優しい仕草だ。
ナトカイは半ば呆然としながら椅子に腰を下ろす。
ライアンは給仕を呼び、手短に注文を通す。
「エールを」——ライアン隊の面々の分だ。
ロイド、オスカー、ユキヒョウは果実酒。
シマはグラスに映る灯りを見つめ、「ジュースを」と静かに言う。
「コイツにもジュースを」
ナトカイを顎で示してライアンが付け足す。
ナトカイは礼を言うのを忘れ、ただ頷いた。
「夜遅くまで悪いな。料理は頼めるか?」
シマが給仕の女性に尋ねると、彼女は少し申し訳なさそうに笑った。
「……あまりものでよければ。おつまみくらいなら」
「お願いします」
エイラが即座に応じ、革袋から二枚の銀貨を差し出す。
「こ、こんなに……!」
給仕の目が丸くなる。
「当然の対価よ。夜遅くまで働いているんだもの」
マリアが穏やかに言い添えた。
給仕は思わずカウンターを見る。
帳簿をつけていた店主が顔を上げ、無言で頷いた。
それを見て、給仕はようやく安心したように銀貨を受け取り、にっこりと笑う。
アパパ宿は、シャイン傭兵団の貸し切り同然だった。
夕刻までは他の酔客もいたが、今は彼らと、その知り合いだけ。
二階では子供たちが眠っている。
「静かに、乾杯だ」
シマの一言で、杯がそっと持ち上がる。
ぶつけ合う音はなく、ただそれぞれが小さくグラスを傾けた。
他愛のない雑談が続く。
道中の天候、馬の癖、宿の風呂の具合。笑い声は抑えられ、灯りの揺れに溶ける。
本題は、ギャラガたちが戻ってきてからだ。誰もがそれを分かっていて、今は敢えて触れない。
ナトカイだけが、いまだ状況を呑み込めずにいた。
目の前の顔、聞こえる声、手の中の冷たいグラス。
その一つ一つを確かめるように、彼はちびちびとジュースを飲む。
甘さが喉を通るたび、夢ではないと身体が教えてくれる。
静かな夜は、ゆっくりと更けていった。
ほどなくして、湯気と石鹸の匂いをまといながらギャラガたちが戻ってきた。
髪はまだ湿り、火照った頬に夜風が心地よいのだろう、皆どこか表情が緩んでいる。
席に着くなり、彼らは給仕に声をかけた。
「エールを頼む」
そう言ったギャラガは、すぐに付け足すように首を振る。
「いや、俺は果実酒だ。甘いのがいい…知ってるだろ、俺は甘党なんだ」
やがて杯が行き渡り、再び卓は穏やかな沈黙に包まれる。
その空気を破ったのはルドヴィカだった。
「……この男」 そう言ってナトカイを指し示す。
「普段はちゃんとしてるのよ。商人としても交渉力があるわ。特に利き酒に関しては超一流で、酒販と仕入れを一手に担当してるの」
ナトカイは居心地悪そうに視線を伏せる。
「……ただなぁ」
ライアンが苦笑しながら続ける。
「一定量を超えると、酔いつぶれるまで飲んじまう」
「そして記憶をなくすの」
ナミが淡々と追い打ちをかける。
「その“一定量”って、どのくらいなんだ?」
ロッベンが首を傾げた。
「分からん……本人も分かってないらしいぞ」
ニールセンが即答する。
「その日の体調にもよるでしょうし、場の雰囲気も関係してくるでしょう?」
ノエルが静かに補足する。
「こいつは極端なんだ。底なしかと思うほど飲んでも平然としてる時もあれば、その逆もある」
ライアンの言葉に、ナトカイは反論できず、ただ小さく縮こまる。
「護衛がついてたはずよ。どこに行ったの?」
ルドヴィカが問いただす。
「……いや、それが……記憶がなくて」
ナトカイの声は消え入りそうだった。
「護衛についていた傭兵団はどこなんですか?」
サーシャが間を逃さず尋ねる。
「シルバーアロー……“銀の矢”よ」
「あいつらか……」
ニールセンが低く唸る。
「依頼を投げ出すような連中じゃねえはずだが……?」
ライアン隊の面々も一様に頷く。
「ギザ自治区じゃ名も通ってる。信頼も実績もある」
ライアンの言葉は重かった。
「差し支えなければ、今回の依頼を聞いても?」
ロイドが慎重に切り出す。
「……依頼主はバルムート公国」
ルドヴィカは一度息を整えた。
「バルムート公国に、厳選したエール、果実酒、ワインを卸しに行く契約だったわ」
「かなりの距離ね」
ミーナが呟く。
「ええ。だからシルバーアローには高い……破格と言っていい護衛料を出してる」
「……逃げたね」
ユキヒョウの一言が、卓の空気を凍らせた。
「もしかすると、バルムート公国もグルかもしれない」
「……金に目がくらんだか?」
ライアンが呟く。
「だが、あいつらが金に転ぶか?」
「ルドヴィカ。ちなみに、シルバーアローにはいくら払ったの?」
シャロンが静かに尋ねる。
「……二百よ。二百金貨。物資も含めれば……」
「痛いですね」
オスカーが顔をしかめる。
「痛いどころじゃないわ……違約金が」
ルドヴィカはそう言って、ユキヒョウの視線がナトカイへ向くのを感じた。
「バルムート公国から“届いていない”と言われたら、証拠がない」
ナトカイはみるみる青ざめ、手にしたグラスが微かに震えた。
沈黙を破ったのはルドヴィカだった。
彼女は卓上の杯や指先を一度見渡し、現実を切り分けるように語り始める。
「違約金は十倍……つまり、二千金貨よ」
数字が落ちた瞬間、場の空気が一段重くなる。
「バルムート公国からは、前金として二百金貨が、すでにエイト商会に支払われているわ。取引が成立すれば、さらに四百金貨が支払われる契約だった」
淡々とした口調が、かえって金額の現実味を増す。
「シルバーアローには、依頼達成時に二百金貨をエイト商会から支払う取り決めだった」
シマはナトカイに視線を向けた。
着の身着のまま、書類も身分証もない。
「……この状況なら、契約書類は紛失、あるいはシルバーアローに盗まれた可能性が高いな」
続けて静かに断じる。
「そして、連中が逃げた可能性も高い」
誰も反論しなかった。
「違約金は払える」
ルドヴィカは苦笑する。
「エイト商会ならね。大打撃だけど……仕入れ先や販路を縮小すれば、何とか」
その“何とか”が、どれほどの犠牲を伴うかは、誰の目にも明らかだった。
「ナトカイ、城塞都市に、どうやって来たか覚えていることを話せ」
シマに促され、ナトカイは必死に記憶を探る。
「……大きな商隊の、後ろを付いてきた……と思います」
言葉は曖昧で、途中で途切れ途切れになる。
「詳しいことは……分かりません。霧がかかったみたいで……」
「城塞都市には入ったか?」
「はい。入城税を払ったのは、覚えてます」
「金は?」
「……ブーツの中に、一金貨だけ。念のために……」
身分証はない。その一言で、ナトカイは完全に俯いた。
「チッ……」
ギャラガが舌打ちする。
「こういう傭兵団がいるから、いつまでたっても傭兵団は信用ならねぇって言われるんだ」
「……野盗に襲われた可能性は?」
オスカーが慎重に口を挟む。
「ねぇな」
即答したのはライアンだった。
「あいつらは腕はそこそこ立つ。野盗ごときに後れを取る連中じゃねえ」
重い沈黙が落ちる。
「……違約金二千金貨」
その重さを受け止めた上で、シマが静かに言った。
「肩代わりしてもいいぞ。条件付きだけどな」
「おいおい、大丈夫なのかよ、シマ?」
ギャラガが思わず声を上げる。
「ケイト、ユキヒョウ。大丈夫だろ?」
ケイトは短く頷き、ユキヒョウは薄く笑った。
「……そういうことね」
エイラが静かに理解を示す。
サーシャたちも、ようやく察したようだった。
ゾゾ一家。
かつて王都のスラムを支配し、莫大な財を蓄えた一家。
その遺産は今、シャイン傭兵団の手中にある。
クリフたちによって、ゾゾ一家は全滅させられた——そう、一人残らず。
二千金貨など、その莫大な遺産の前では、端金に等しかった。
だが、その金が意味するのは、単なる額面ではない。
「……条件付き、というのを聞かせてくれるかしら?」
静かに切り出したのはルドヴィカだった。
交渉の場に戻った声色だ。
「簡単な話だ」
シマは即答する。
「ナトカイの身柄を、一年間シャイン傭兵団に預けてもらう」
一瞬、時が止まった。
「一年……?」
ナトカイが素っ頓狂な声を上げる。
逃げ場のない視線が、一斉に彼へ向いた。
「拒否権は?」
ルドヴィカが念のために問う。
「ある」
シマはナトカイを見据えたまま答える。
「だが、その場合は肩代わりの話はなかったことになる」
ナトカイの喉が鳴った。
シマは、ふっと視線を和らげ、今度は問いかけるように言う。
「利き酒ができるくらいだ。舌は相当敏感なんだろ?」
「え……?」
「料理の味の違いも分かるんだろ?」
「……まあ、それなりには」
歯切れの悪い返事だった。
「それなり、どころじゃないでしょうに」
すぐさまルドヴィカが口を挟む。
「ナトカイの味覚は、私が保証するわ」
その言葉を聞いた瞬間、シマの中でつながった。
——ハドラマウド自治区、ラドウの街。
陽光に白壁が映える、どこか南国情緒の漂う街並み。
路地に満ちる湿った空気と、鼻を刺すほど強烈で、それでいて食欲をそそる多種多様な香辛料の匂い。
カレー。
作れるんじゃないか?
さらに思考は跳ねる。
キムチ鍋……いや、あれも、応用が利くかもしれない。
ナトカイの異常なまでの味覚。
そして、自分の中に残っている、おぼろげな前世の記憶と知識。
組み合わせれば——「……くくっ」
シマは思わず、笑いを嚙み殺した。
その笑みの意味を正確に理解できた者は、この場にはまだいなかった。




