「赤ッ鼻」のナトカイ
カシウム城からアパパ宿へと続く石畳の道。
城塞都市特有の柔らかな灯りに包まれていた。
城壁に取り付けられたランタンが等間隔に並び、行き交う人々の影をゆっくりと地面に落とす。
昼間の喧騒とは違い、どこか穏やかで、胸の奥が静かになる。
そんな帰り道で、ひときわ目を引いていたのが、シマの腕に抱かれた小さな存在――アルだった。
真っ白な毛並みの仔狼は、月明かりとランタンの光を受けて淡く輝き、初めて見る子どもたちの視線を一身に集めている。
「わあ……!」
「なにあれ、かわいい!」
「さわってもいい?」
子どもたちはもちろん、大人たちまで足を止め、興奮気味に集まってくる。
アルは最初こそきょとんとしていたが、悪意のない視線と歓声にすぐ慣れたのか、くるりと首を傾げ、小さく「キュウ」と鳴いた。
その仕草がまた人々の心を射抜いた。
「見て見て、鳴いたわよ!」
「仔犬……いや、狼? でも全然怖くないわね」
撫でようとする手が伸びるたび、シマは苦笑しながらも制止はしなかった。
アル自身が嫌がっていないことを、抱いている腕越しに感じ取っていたからだ。
アルはというと、撫でられるたびに目を細め、時折くすぐったそうに身をよじらせている。
まるで自分が注目の的であることを理解しているかのようだった。
その少し後ろで、リズは姉のリタを伴い、ロイド、シマ、オスカーの前に立つ。
「お姉ちゃん、紹介するね」
誇らしげな声だった。
「こっちが……団長のシマ。シャイン傭兵団の。」
「団長のシマだ。よろしくな」
短く、しかしはっきりとした挨拶。
続いてオスカーが一歩前に出る。
「オスカーです。よろしくお願いします」
リタは二人に丁寧に会釈し、それから自然と視線をロイドへ向けた。
――その瞬間、彼女の表情がわずかに変わる。
爽やかな笑顔。穏やかな物腰。
背は高く、細身に見える体つきだが、歩き方や立ち姿から、服の下に無駄のない筋肉が隠れているのが一目でわかる。
そして何より、傭兵でありながらも、どこか貴族と呼ばれても違和感のない気品が漂っていた。
「……素敵な人ねえ」
思わず零れた、正直な感想だった。
その視線を受けて、ロイドは一歩進み、深く頭を下げる。
「初めまして、ロイドです。リズとお付き合いをさせてもらっています」
一呼吸置き、真っ直ぐに言葉を続けた。
「彼女は本当に素晴らしい女性です。……僕は幸せ者です」
その率直さに、リタは一瞬目を丸くし、すぐに柔らかく微笑んだ。
リズは顔を赤くしながら、そっとロイドの袖をつかむ。
その和やかな空気を破るように、少し前を歩いていたサーシャが振り返り、大きな声を上げた。
「ねえねえシマ! ルドヴィカさん、結婚したんだって!」
「……は?」
シマは足を止め、眉をひそめる。
「ダミアンの奴、この間そんなこと一言も言ってなかったぞ」
「恥ずかしかったんじゃない?」
エイラが肩をすくめて言う。
「……あいつが恥ずかしがるタマかよ」
そう言いながらも、シマの口元はわずかに緩んでいた。
視線の先では、ルドヴィカが照れたように微笑んでいる。
「何はともあれ……おめでとう、ルドヴィカさん」
シマの言葉に、ロイドもリズと腕を組んだまま、丁寧に頭を下げる。
「ルドヴィカさん、おめでとうございます」
ユキヒョウはティアと話しながらも、ちらりと視線を向けて軽く手を上げた。
「おめでとう、ルドヴィカ」
オスカーはメグと手をつなぎ、少し照れたように、けれど明るく声を張る。
「おめでとうございます!」
「……ふふっ、ありがとう」
ルドヴィカは頬を染めながら、素直に礼を言った。
その様子を確認すると、シマはさりげなく歩調を落とし、ルドヴィカに聞こえないようにサーシャとエイラに小声で尋ねる。
「なあ……この世界には、結婚式とかハネムーン旅行みたいなのはあるのか?」
「なにそれ?」
サーシャが首を傾げる。
エイラも同じように考え込み、やがて首を振った。
「聞いたことないわね。せいぜい身内で集まってお祝いするくらいよ」
「……やっぱりか」
その反応に、サーシャが目を細める。
「前世の記憶……前の世界ではあったのね?」
「ああ。家族や親戚、友人を呼んで式を挙げてな。そのあと、二人で旅行に行くのが定番だった……気がする」
どこか懐かしそうに語るシマに、サーシャは一瞬考え、それからぱっと表情を明るくした。
「ふ~ん……じゃあさ」
彼女は楽しそうに言う。
「私たちでお祝いしてあげようよ」
その言葉に、エイラが微笑み、シマは小さく息を吐いて笑った。
夜の城下町を進む一行の足取りは、知らず知らずのうちに軽くなっていた。
アルは相変わらず人気者で、祝福の言葉と笑い声が、ランタンの灯りの下、いつまでも途切れることなく続いていた。
ランタンスタンドの下。
暖かな橙色の光に照らされ、寄りかかるようにして――酒瓶を抱えたいびき製造機が一台、堂々と稼働していた。
「ごぉー……がぁー……ひゅるる……」
見た目はどう贔屓目に見ても浮浪者風の男。
ボロ布の外套、無精ひげ、そして赤ら顔。
酒瓶は胸にしっかりホールドされ、落とす気配すらない。
「……珍しいね」
静かに、だがはっきりとした声でユキヒョウが言った。
「この城塞都市の中では、一度もこういう人を見かけなかったのに」
治安が良いことで有名なカシウム城下。
酔いつぶれがゼロとは言わないが、ここまで“完成された酒カス”は稀有だ。
「子どもたち、近づかないようにね」
ロイドが即座に声をかける。
一行は「触らぬ酒カスに祟りなし」とばかりに、横目で流しつつ通り過ぎ――
「……は?」
ぴたり。
「……え?」
もう一人。
「ナトカイ?」
ルドヴィカの声が、夜気を切り裂いた。
「え、噓……ナトカイ?」
シャロン、ビルギットが同時に足を止め、まじまじとその男を見る。
赤い鼻。異様に赤い。酒焼けというより信号灯。
「……間違いないわ。ナトカイよ」
断言するマヌエラ。
「なんでこんな所に?」
アマーリエが首を傾げルドヴィカに聞く。
「……私に聞かれても」
心底困惑した顔で返すルドヴィカ。
「ルドヴィカさん、知り合いですか?」
メリンダの問いに、ルドヴィカはこめかみを押さえた。
「知り合いも何も……コイツ、エイト商会の人間よ」
一拍置いて、
「……一応、幹部でもあるわ」
「幹部?!」
数人が同時に二度見した。
その“幹部”はというと「ぐがー……おさけ……もう一杯……」
「おい、起きなさい!!」
乾いた音。
パァン!!
容赦も慈悲もない、見事なビンタが炸裂。
「はにゃ……?」
とろけた声で目を半開きにするナトカイ。
「誰れすかぁ……」
「ルドヴィカよ!!」
再び、間髪入れず。
パァン!!
「何でこんな所にいるのよ!護衛は?!荷物は?!」
「……ねむい……」
「寝るな!!」
渾身の一撃。パァン!!!
……沈黙。
「……あッ?!」
言ったのはルドヴィカ自身だった。
手応えが、明らかに“やりすぎ”だったからだ。
ナトカイ、完全ノックアウト。
そろ~り…恐る恐る……後ろを振り向くルドヴィカ。
「……お前、やり過ぎ」
シマがツッコむ。
「どうするんだよコレ?」
指差された“コレ”は、白目を剥いて幸せそうに眠っている。
「お願い!!」
両手を合わせるルドヴィカ。
「宿まで連れていって!」
「えぇ~……」
露骨に嫌そうな顔のシマ。
「この、ばっちい男を?触りたくねえんだけど……」
文句を言いつつも、結局ナトカイの上体を起こす。
「ユキヒョウ、脚持ってくれ」
「……何で僕なのさ」
心底納得いかない顔をしながらも、脚を持つユキヒョウ。
二人に担がれる“赤ッ鼻のナトカイ”。
「シャロンさんたちも知ってるんですね?」
ミーナが小声で聞く。
「ええ」
シャロンはため息交じりに頷いた。
「“赤ッ鼻”のナトカイ……しょっちゅう酔っぱらってるの」
ランタンの下には、空になった酒瓶だけが転がっていた。
そして一行は、ナトカイを抱えたまま宿へと向かうのだった。
アパパ宿の入口は、混沌に包まれていた。
ランタンの明かりの下、ぐったりと担ぎ込まれた“赤ッ鼻の男”を前に、店主は一瞬だけ目を丸くし、それから長年宿を切り盛りしてきた者特有の達観した顔になる。
「……で、その方を?」
「この男を宿泊させて下さい」
即答したのはルドヴィカだった。
言い切りの強さに、必死さと切迫感が混じる。
「それなりの追加料金はお支払いします。お願いします」
深々と頭を下げる姿に、さすがの店主も咳払いを一つ。
「一応、俺たちの知り合いってことでな」
助け舟を出すように、しかしどこか投げやりにシマが言う。
「シャイン傭兵団の団長さんにそう言われたら……断ることはできませんな」
苦笑しながらも、店主は了承の意を示した。
だが次の瞬間、ナトカイの全身を見回し、顔をしかめる。
「ただ……その、服を何とかしていただけませんか?」
酒と埃と何かよく分からないものが染み込んだ外套は、もはや“布”というより“歴史”だった。
「ああ、もちろんだとも」
即答するシマ。
「ライアンの服があるわ。持ってくるわ」
シャロンが軽やかに言い、踵を返す。
「その前に風呂だね」
さらりと付け加えるオスカー。
「新設したと聞きましたよ」
ロイドも興味深そうに店主を見る。
「ええ!当宿自慢の風呂でございます」
店主は胸を張った。
「厩舎の方も大きく拡張致しましたので、馬も安心してお預けいただけます」
「これからも贔屓にさせてもらうよ」
ユキヒョウがにこやかに言うと、
「是非とも!今後ともよろしくお願いいたします!」
店主は深々と頭を下げた。
――その時だった。
二階から、ぱたぱたと足音が降りてくる。
現れたのはノエルと、カウラス一家の大人たち、そしてリズの母ヘラ。
「……随分にぎやかね」
状況を一瞬で察したノエルが、苦笑混じりに言う。
「女子会、楽しんできた?」
サーシャたちに向けて問いかけると、
「勿論よ!」
即座に返ってくる元気な声。
「エリジェ様が、ノエルがいないのを残念がっていたわ」
ケイトがそう言うと、
「ごめんね、ノエル~……」
アンが申し訳なさそうに肩をすくめ、イライザも同じように頭を下げる。
「気にしないで下さい」
ノエルは柔らかく微笑んだ。
その空気を切り替えるように、シマがカウラス一家に向き直る。
「カウラスさん、ガンザス、ダンドス……悪かったな。ちと配慮が足りなかった」
「ハハ……俺はもう二度と行かん」
乾いた笑いでそう返すカウラス。
その横でガンザスとダンドスも無言で深く頷く。
シマたちは揃って苦笑いを浮かべた。
「……で、そいつは?」
ガンザスが、床に半ば引きずられたナトカイを顎で指す。
「ルドヴィカの仲間……だ」
一拍置いて、「……っと、さっさとこいつを風呂に入れちまおう」
「僕たちも、ついでに風呂をいただこう」
ロイドが自然に話を進める。
アマーリエが手を叩いた。
「さあさあ、子どもたちはもう寝る時間よ」
「はーい!」
元気な返事が重なる。
クライシス、フォルカー、シュテファン、そしてシンジュたちは名残惜しそうにしながらも、母親たちに促されて階段へ向かう。
その背を見送りながら、ナトカイは相変わらず幸せそうに眠り続けていた。
シマが呆れ混じりに呟く。
「エイト商会の幹部、ねえ……」
誰かが小さく笑う。
こうしてアパパ宿の夜は、風呂と笑いと、そして一人の酔いつぶれた男を抱えたまま、にぎやかに更けていくのだった。
アパパ宿一階、酒場兼食堂。
昼間の喧騒が嘘のように落ち着き、ランタンの灯りの下では低い声とグラスの触れ合う音だけが静かに響いていた。
「……ふう、やっと腰を落ち着けて飲めるわね」
サーシャが小さく息をつき、エールを口に運ぶ。
「アニーちゃんたちはもう寝ましたか?」
メグが尋ねる。
「ええ、ぐっすりよ。昼間はしゃぎすぎて」
イライザが少し誇らしげに答えた。
そのすぐ横では、ヘラとアルの“初対面”が行われていた。
「まあ……なんて可愛いの」
ヘラがそっと手を差し出すと、アルはくんくんと匂いを嗅ぎ、警戒よりも好奇心が勝ったのか、小さく「キュゥ」と鳴く。
「大丈夫ですよ、噛みませんから」
ノエルが微笑みながら見守る。
――その時。
外から、がやがやと賑やかな足音と話し声が近づいてきた。
「おい、まだ飲めるぞ!」
「いや今日はここまでだ!」
扉が開きかけた瞬間、「シィーッ!」
サーシャたちが一斉に人差し指を口元に立てる。
入ってきたのは、ギャラガ率いる『灰の爪』隊、マリア隊、ライアン隊、そしてベンとテオを含む三十一名。全員が酔いと達成感を纏っている。
「子どもたち、もう寝てるのよ」
アンジュが低い声で告げる。
「……わ、悪い」
一瞬で酔いが引いたように、ギャラガが肩をすくめる。
「シマたちは今、お風呂に入ってるわ」
マリアがさらっと言う。
「マジかッ?!」
ロッベンが思わず声を上げ
「なんであいつらこっちにいるんだ?!」
ライアンが続ける。
「……子どもたちが寝てるって言ってるでしょ?」
女性陣から、静かだが逃げ場のない圧がかかる。
「……はい」
男たちは揃って声を潜め、そそくさと席についた。
こうして一階の酒場は、子どもたちの眠りを守りながら、大人たちの静かな笑いと小さな会話に包まれていく。夜はまだ長いが、今はこの穏やかな時間こそが、何より贅沢だった。




