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三章 シマリスの瞳子

 群馬の森は深い。特に見晴らしの良い展望台なんかから大地を見渡すと、良く分かる。


トミタ記念総合病院の最上階のVIP室に嵌め込まれた、ブ厚い防弾ガラスからはそんな群馬の樹海が一望出来た。




―海だ。白い海。Mittelmeer、いや、marenostrum 我々の海―


その景色を最初に見た時、池井戸広太はそんな事を思った。師走の雲海が辺りに立ち込め、見る者を誘い込むような風景。横に並んだ継ぎ目のない防弾ガラスが、一枚の、幻想的な水墨画のように見える。初めてこの部屋を訪れた者は、みな一様に息を呑む事だろう。感受性の鈍い池井戸も例外では無かった。


「それで? 俺達に話ってなんだい?」


 池井戸は窓ガラスから目を離し、正面に向き直って言った。


隣にはつい今しがたエレベーターで到着したロベルトもいる。二人は今、革張りのソファ兄座ってある種の居心地の悪さを感じていた。


周囲を彩る絢爛豪華な装飾品の数々、時価何百万するのか分からない陶磁器や如何にも高そうな壺、なにより、二人を、そしてその正面のソファに座る優男と少女を取り囲むように直立不動で立っているSP達が、その圧迫感の主な原因であった。ロベルトが到着するまで、所存無くそれらの調度品を弄くり回していた池井戸はそれとなく窘められた。一緒になって遊んでいた瞳子もついでに森田に窘められていた。ついさっきの事だ。


「二人をここへお連れしたのは他でもありません」


 ようやく森田が要件を切り出して始めた。


「瞳子様を安全に皇居までお連れして貰いたいのです―」




 依頼の内容は、要は護衛だった。さる二〇二五年一二月二十五日、このトミタ記念総合病院から、護衛対象である瞳子を皇居まで池井戸達の駆るハイメディックで隠密に送り届けて欲しいのだと言う。


「どうして、俺達なんです? あなた達で送り届ける訳にはいかないのか」


 横からロベルトが口を挟んだ。当然の疑問である。


「顔が割れていないからです。私達側近のSP、いわゆる信頼の出来る身内は全てすでに相手方に面子が割れています。一緒に居れば襲撃される可能性が高い」


「おい、ちょっと待てよ。襲撃が想定されるのか?」


 今度は池井戸も口を挟んだ。


「はい。だからあなた方二人をお呼びした次第です。ちなみに相手はツクモの最精鋭の襲撃部隊。この病院の上層部は襲撃を知っていて、あえて見逃すつもりです。というより、防ぐ手だてが無いと、匙を投げる始末でした。詳しい事はお話し出来ませんが、宮内庁の命により、私達は、どうにかして瞳子様を12月25日までに東京都は皇居まで送り届け泣けばなりません。領収書は切れば通りますが、人材難だけはどうする事も出来ません。だから、お二人に頼んだ次第です。依頼内容のあらましを、御理解頂けましたか?」


 優男はそう言って慇懃に笑った。眼鏡の奥のその瞳は、夕陽の反射で窺い知れない。


「―どうするよ、ロベルト」


「―どうすると言われてもな。俺は只の救命隊員だしな」


 この時点で、他のハイメディックの救急隊員達の大半なら断っていたはずである。池井戸達がまだソファに座っている辺り、森田の人選は的中していたと言えた。その辺の多少、腕に覚えのある位の雇われ救急隊員なら、既に席を立っていただろう。


「でも、人相が知れていないとしても、どうして俺達なんだ? 他に隊員は幾らでも居るだろう?」


 ロベルトが再度疑問を口にした。


「―私達は、情報収集能力に関しては右に出る者はいないと自負しております。おそらく過信では御座いません。あなた方の配車成績、勤務態度、患者への対応、それから― 失礼ですが、お二人の過去の事も。その上でこちらはあなた方を指名させて頂いた訳です」


「・・・・・」


 池井戸は大して面白くもなさそうに黙り込んだ。隣でロベルトも口を閉ざすのが分かる。席を立たずに済む技量、それだけの何かが自分とロベルトには有るから、立たないだけの話しである。生まれてこの方、無国籍軍の自分達に、今更何をビビれというのか、精々、健康第一位である。後は、気を揉むだけ、稼ぎが減る、というより、鉄火場での喫緊の際は、そういう萎縮が一番危ない。それだけの気配りや配慮が出来る奴は、こんなアコギな商売よりも、電車の整備士か、医薬品管理士になるべきだ。




 ポニーテールの下で手を組んで、ソファの背もたれに背を預ける。無性に煙草が吸いたかった。瞳子の手前、おちおち吸う訳にもいかない。さっき1Fのラウンジか何処かで一服付けてくれば良かったと池井戸は後悔した。


「―もちろん、報酬はそれ相応の物をご用意致します。オトリの方もこちらで用意させて貰いますが、こちらの方はそれほど期待しないで下さい。まぁ、色々事情が御座いまして、事が露見するのは時間の問題です。こちらが、想定される走行ルートです。ウォッチにデータを送っておきますので、よく頭に叩き込んでおいて下さい」




「―どうする?」


「どうするも何も、もう承諾してしまったんだ。やるしかないだろう」


 池井戸とロベルトは愛車であるハイメディックの車内へと帰ってきていた。ロベルトは充電の途中での呼び出しだったのでまだ給電を再開したのである。


「・・・時価三億だってよ。どうするよ、おい」


「どうするも何も、一にも二にも、お前が飛びついたんじゃないか」


 池井戸達は先程自分達の前に差し出された、金の延べ棒三本の身姿をアリアリと思い出した。成功報酬として高いのか、それとも安いのかは置いておいて、中央に彫り込まれた桐の紋は、その存在感を際立たせるのに十分だった。




 ちなみに、ちゃっかり者の池井戸はちゃんと自分の手で持ち上げて重さを確認するのを忘れなかった。間違いない、本物である。メトロポリタン美術館の地下に忍び込んだ時の事を思い出した。あの時のメンバーの生き残りは、もう自分を除いて一人である。そいつは今CIAで働いているので、いつかぶち殺してやろうと心に決めていた。


「・・・だってよ。アレ見せられて、嫌だって言えるか? 普通? なんだったら、海外のコレクターに高く売れるぜ。大英図書館の経理抱き込んで、向こうのオークションで吊り上げたって良い。上手くすりゃ時価、数十倍だ。ラスベガスに家が建つ」


「・・・そうだな、あれだけあれば俺の手術費用だって返せる。それにー」


 ロベルトは黙りこくってブラックコーヒーを煽った。先程二人で1Fの購買で購入したものだ。コンビニは見事に無人になっていた。良く出来たもので、出入り口のセンサーが、顧客の持ち出した商品を読み取り、本人のウォッチに請求が来るシステムを導入していたのだ。初めからそうしろや、と池井戸は思った。


「―それに?」


 池井戸が右手に持ったラッキーストライクを口元に持って行きながら聞いた。さっき吸えなかった反動で、さっきから喫煙の所作が忙しない。


「―いや、何でもない。気にするな」


 池井戸はそれ以上追及する気も無かった。黙って煙草を燻らして見せる。開け放したハイメディックの後部トランクの隙間から、煙が日の堕ちた群馬の空へと消えてゆく。


 ロベルトが気にするなと言った時は梃子でも喋らないのを、池井戸はこの三か月で学習していた。ウォッチを見ると、日時は2016年12月23日、18:00となっている。


 ―作戦開始まで、もう二十四時間を切っていた。








「―それではお二人とも、くれぐれも瞳子様をよろしく頼みます」


 時刻は12月24日、20:00を指している。ここから瞳子と池井戸一行は街中を一晩夜通し流した後、明朝トミタの裏口に帰投する手筈になっていた。それから、昼過ぎまでハイメディックの中で息を潜め、正面玄関からオトリ第一弾である軽装甲機動車とその一行が出発し、第二弾である輸送ヘリが飛び立ってから、通常勤務のハイメディック達に紛れて、トミタの裏口を脱出する算段になっていた。


 瞳子がハイメディックの後部シートで早速、ロベルトと一緒になって、旅行雑誌片手にクロスワードと睨めっこしているのは、出発直前になって乗り込むよりも、前日から忍び込んで居た方がバレる確率が低くなるとのSP達の判断による所だった。何時から、うちのハイメディックは託児所になったのだろうか。


「あんたはどうするんだ? ていうか、そのライダースーツ、どうしたよ? てっきり、あんたはそういうの着ないものだと思っていたんだけどな、似合ってるよ」


 池井戸はハイメディックの充電が済むまで手持ち無沙汰なので、最後の顔見せにやって来た森田に話しかけてみた。


 森田は純白のライダースーツに着替えており、アルマーニの時とはだいぶ印象が違った。幾らか、嫌みな感じが薄れて見える。恐らく、視覚的な錯覚という奴だろう。


「―それはどうも。割と気に入っているんですよ」


 そう言って嘯く森田の顔は満更でもなさそうである。




 不意に妙な既視感を池井戸は覚えた。


「―あんた、その、やけにテカテカするライダースーツ、何処で買ったの。いや、別に似合ってねぇってんじゃねぇさ。ただ、何処かで見た気がしてよ―」


「東急ハンズです。五年前、この仕事、警護任務に着くと決まった時、友人と買い求めた品です。価格は当時の消費税込みで、7万円ポッキリ」


 男は手首の締め付けを確認しながらそう言った。マジックテープの、剥がす時にバリバリいうアレである。


「友人? あんたに友人なんて居たんかい?」


「ええ、こう見えて、人間関係は広い方でして。都合、知り合ってから十年来の友人です。 ―名前を伊藤文武と言います」


 池井戸は悪態を付くのを止めた。それから、また面倒な事に巻き込まれたものだとうんざりした。先月、ロベルトと群馬の樹海を流していた時に見つけた、顔が半分喰いちぎられたライダースーツの男もそんな名前だった気がする。


「SP隊員の訓練の研修で一緒になって以来の、まぁ、腐れ縁という奴です。ライフルのスナイピングの腕に懸けては、確かに右に出る者は居ませんでした。ですが、如何せんライディングテクニックは問題が有りまして、特に追走時に周りが見えなくなる嫌いがあった」




「―あぁ、そう。あぁ、俺らが前、運んだ患者さんね。あぁ、そう。それで、俺らに、白羽の矢が。違うか。


 まぁ、長い人生だ。生きてりゃ色んな事がある、その、何て言ったら良いのか、御愁しょ―」




「―彼は潜入捜査で、ツクモに潜り込んでいました。ツクモとトミタ上層部で、瞳子様の引き渡しの計画を掴んだまでは良かったのですが、いやはや、お恥ずかしい。身内がとんだポカをやらかしまして、本来なら、この護衛任務も、もっと大規模に自衛軍の協力も仰いでやるはずだったのですが、愛想を尽かされたのか、袖にされてしまいまして、県警の連中はてんで宛にならないし、厚生労働省は頭が堅いわで、きりきり舞いです。ーやっぱり、大政奉還の件が不味かったかなー」


「―分かった、俺が悪かった。勘弁してくれ。 ーちょっと待て、最後、何つった?」




 いえ、こちらの話しです、お気遣いなく、森田はそれだけ言うと、池井戸に背を向けて、そそくさと立ち去って行った。


 池井戸はラッキーストライクに火を着ける。ふいに煙草を吸いたくなった訳ではない。誰が好き好んでこんなクソ不味い煙草を吸いたがるだろうか。これ以上、面倒な話に関わりたくなかった。


「では、順次滞りなきようお願いします。後、くれぐれも瞳子様に粗相の無きよう。何かあった場合、私どもでは責任を取りかねますので」


 去り際にそんな捨て台詞を残していった。塩でも撒いてやろうかと思ったが、あいにくと今は持ち合わせが無かった。代わりに、池井戸は煙草を半分まで手持無沙汰に吸うと、不味そうにそれを近くの排水溝へと投げ捨てた。それから、如何にも大儀そうに後部トランクのドアを閉める。しばらくしてハイメディックはモーターの駆動音だけを残して夜の前橋へと走り出した。




「ごめんね、コータ、ロベルト、迷惑掛けちゃって」


 後ろのシートで今晩のお客様が何か言っている。流石の瞳子様も終始、いじけているご様子である。


「森田の事、聞いたんでしょ。文武さん。駄目になっちゃったから。でもね、だからって、二人を押した訳じゃなくて―」


「分かってるよ。それ位。こっちだってプロだ。三億で腕を認めて貰ったとあっちゃあ、多少、味噌っ滓にされても、立つ瀬は在らぁあな。まぁ、正直、腕がなるってもんよ」


 池井戸は柄にも無くべらんめぇ口調で安請け合いをする。こういうのが、好きなのだ。


「んな事、一々気にする玉じゃねぇだろ。大体、見え透いてんだよ、やり口が。ハッパ掛け腐りやがってからに。此畜生。情報局ってのはいつもああかいやり口が、汚ぇって。モサドの方がまだクールだ。嘘だ、そんな事は無い! ・・・不味いな、これも拾われてんのか?」


 池井戸はそんな意味が有るのか無いのか分からない妄言を吐きながら前橋の街を流していた。それから、後半はどう考えても必要なかったと後悔した。わざわざ、必要の無い恨みをむざむざ買う必要は無い。後ろで、瞳子の対面に座ったロベルトが気色ばむのが分かる。


「フロイライン、気にする事は無い。この男にも悪気は無いんだ。心配しなくて良い。ただ、ちょっと、馬鹿なだけなんだ。この男の話しは、話半分に聞くくらいで、丁度いい」


「悪かったな、馬鹿で! そういうテメェはどうなんだよ、ターミネーター! チャールズ・ブロンソンがなんだって?てめぇだって、ターミネーター2の水銀野郎そのままじゃねぇか、気持ちの悪ぃ、溶鉱炉に沈めてやろうか!」


 グチャリ、と聞き覚えのある音がした。三白眼がこちらを睨んでいるのがバックミラー越しに見えた。また例の缶コーヒー潰しである。近頃ではわざとやっているようにしか思えなかった。畜生、いつかバッテリーを短絡させてやる―


「・・・ふふっ、面白いね。二人って」


 瞳子はそこでようやく笑顔を見せた。リス科のシマリスは、今日はまだまともに笑ってはいなかった。肌理の細かい肌に、似つかわしくない皺が、眉の間に出たり、出なかったりする。真剣に、何か考え込んでいる御様子だった。


「―ねぇ、私って、ホントにここまでしてもらう価値、あるのかな?」


 それから唐突に真顔になる。その表情はどこか少し悲しげだった。所存無さげに、ストレッチャーの上に座って、脚をプラプラさせている。いつもの、可愛げの無さも今日は鳴りを潜めていた。


「―在るんじゃねぇの? 別に」


 池井戸は夜の前橋を適当に流しながら口を開いた。口調もひどく適当である。


「おい、コータ」


 後ろでロベルトが腰を上げた。もう一々ビビるのも面倒だった。いざとなったらスタンロッドを心臓に突き刺してやればいい。


「―どうして、私が皇族だから? それともお金? それとも、私が次の皇位継承順位に一番近いから―?」




「どれでもねぇよ。馬鹿」


 池井戸は吐き捨てるようにそう言った。


「手を貸したのは、俺の気まぐれだよ。気まぐれ。俺がアンタや森田を気に入って、仕事引き受けるだけの価値があると思ったから、うん、っつったまでだ。後ろのロベルトもそうだろうよ。そうじゃなきゃ、こんなヤバいヤマ踏むかよ。アンタがここでこうしてんのも、俺らの勝手だ、勝手。だからトーコ、お前さんに有難がられたり、申し訳なさそうにされる謂れはねぇってこった」




「―でも」


 瞳子が反駁する暇を、チンピラ救命士は与えなかった。


「デモもクーデターもヘチマもあるか。大体、俺はお前さんが皇族だから助けた訳じゃない。この救急車ん中じゃ、貧乏人だろうが、ボンボンだろうが関係ねぇ。歳喰ってようが、ガキだろうが、関係ねぇ。俺が運転する、この救急車に乗るのに、資格や家柄や所得なんて、関係ねぇのさ。当たり前のこったろ。それでもルールがあるとすりゃ、そうだな―」


 池井戸はそこでようやく一息ついた。瞳子は堪らず続きを促す。


「あるとすれば?」




「運、だな」


「運!?」


 思わず、尋ねた瞳子がつんのめりそうになる。チンピラ救命士のしたり顔が、バックミラーに踊っていた。


「おうよ、そうとも。この俺、池井戸広太様に息が有るうちに巡り合えるかどうかってのが、そいつの運命の分かれ目さ。ジンクスってのかな、中東で復員トラック、転がしてるときゃあ、良く言われたもんさ」


「・・・何て?」


「・・・それ以上、聞くな、フロイライン。馬鹿が移るぞ」


 横から口を挟んで来たロベルトの声も無視して池井戸は続けた。


「ーGOD・CAR、KOTA・IKEIDOだよ。どうだ、すげぇだろ?」


「霊柩車じゃん、それって!」


 奇しくも、戦場でのスラングを、この温室培養、トミタ育ちの皇族のお嬢様は知っていた。ロベルトの制止も虚しく、ハイメディックの車内のヤンキー臭、ヒッピー度合いは、どんどん濃くなって行く。


「おお、博識じゃねぇか、お嬢さん。流石はトミタのVIPPERなだけはあるな。見識が広い」


「あっ、私、その言い方嫌い。ネットの変なのと被るから。馬鹿にしないでよね、これでも一通り軍事訓練は受けてるんだから、元防大の先生とかに、護身用で」


 どんな護身用かはしらないが、なかなか物騒な話しである。その証拠か、少女がスイングする右腕の肘は中々に鋭かったし、上着の左肩には007顔負けのブレードランナーと、右の腎臓の位置にあるポシェットには、グロッグが梱包されているはずだった。そんなものは立ち振る舞いを見れば分かる話しである。師匠が良いのか、池井戸でも真っ向から勝負を挑んで制圧出来るか怪しいレベルである。それもお互いに丸腰の状態で、だ。今の彼女の兵装なら、こっちがスタンロッドを首筋に叩き込むのと、向こうがグロッグを腰だめに二発撃つのが早いか良い勝負だろう。まぁ、早い話しが信用されていない訳である。


「ーそれじゃあ、そのゴッド・カー、コータ・イケイド様の運転し遊ばれる救急車に、有り難くも大乗ばささしめ頂くには、すべからく天運に恵まれる他ないので御座いましょうか?」


 瞳子はそう言うと、脚をパタパタさせて笑った。ようやく、いつもの調子が戻って来たと言った感じだった。


「ははっ、この男の何処が大乗だ、小乗にも程が有る」


「うるせぇぞ、ロベルト、聞こえてんだ。誰も乗せねぇよりはマシだろ。なんだよ、嬢ちゃんまで、混ぜっ返しやがって。森田の真似か? それ、止めてくれ。アンタがやると、何でかこっちに罰が当たりそうで怖いんだ」


 後ろでケラケラ笑う少女の目が一瞬細まった気がしたが、気のせいだろう。瞳子はストレッチャーをパンパン手で叩きながら、続きを促して来る。それこそ、このハイメディックで死んだ患者も、日本国籍なら強制的に化けて出てきそうな勢いだった。幸い、まだ死者カウントはゼロなので、その心配も杞憂に終わる。


「えー、何か有るでしょ、資格とか、金銭的な実入りとか、それとも些末な損得勘定とか。後は、男の人だったら、地位とか名誉とか、患者さんが美人かどうかとか、 ー何か言ってよ」


 ふいに、妙な感じがした。昔これに似た体験をしたような気がする。あれは何時だったか。


「ーあるよ、一つだけ」


 ふいに、わかばの匂いがしたような気がした。いやそんな事は無いだろう。あのフランケン福本なら、今頃トミタで大腿骨を解放骨折した馬鹿の治療中である。出しなに担ぎ込まれて来た。昔、奴に復員トラックで感じた何かを、今まさに体感しているようでもある。クリスマスももう近い、年の瀬なので、サンタの代わりに、閻魔大王かサタンかがたまたま後ろに降臨せしめたのかもしれない。


「それは如何に? 汝、答ええ」


 果たして、シマリスの少女は言った。良く通る、明朗かつ闊達な声である。もしかすれば、それが皇族の特殊能力か何かなのかもしれない。隠し立てなど、する気も起きないのである。まぁ、だからといって、今更、神様なんぞに臆する謂れも無かった。逆恨みの数こそ多かれど、天に誓って恥ずべき行いなど一つもない。




「ー俺が気に入るかどうかだよ。つまりは、勘だ、勘。


知ってるかい? 俺の勘は良く当たるんだ」


 チンピラ救命士はそういって、ニィと笑った。バックミラーに目を遣ると、呆気に取られた瞳子と、腰を下ろしたロベルトの姿が見える。サタンの姿は何処にも無かった。




 夜の前橋の景色は閑散としていた。信号待ち際、すれ違った車のヘッドライトがハイメディックの車内を撫でて行く。モーター音しかしない車内は、急患が居なければ、存外静かなものなのである。


「・・・へぇ、勘ね、勘。つまりは、オジサンの、コータの直感による所が大きいって訳だ」


「あぁ、そうだよ。ご期待に添える回答であれば宜しいのですが。皇女殿下」


「・・・ふんふん、いや、そんな事無いよ。悪くない、悪くない」


 瞳子はそう言って、顎に指をやりながら、しきりに頷いてみせている。何やら独自の思惑があるようだ。はっきりいって、この年頃の少女が考えている事など池井戸には検討もつかない。


「・・・・・」


 ロベルトもそれは一緒だったようで、ふいに元気になった瞳子の方を凝視しながら、固まっている。何か、次ぎにくる何かを警戒をしているようでも在った。何を考えているんだ此奴は、とその顔は言っている。さっきの、妙な既視感のせいもあるかもしれない。知らないかもしれないが、医療従事者というのは、この手のオカルトに巻き込まれやすい。幽霊が見えたりだとか、次に死ぬ患者が分かったりだとかは、別段驚くような事でも、ビビるような事でも無いのである。


 本当に嫌なのはどういう場合なのか。それは、自分の知らない、自分の器量、キャパシティーを大きく上回るようなオカルトにかち合って、それに巻き込まれる事である。例えば、何かの手違いで、ガチもんの皇族に相見えてしまった時だとかは、それに該当するようだ。


 対する瞳子は、よーし、よーし、だとか、自分の世界に入っている。果たしてその様子は窺い知れない。そして、ふいに顔をあげたかと思えば、いきなりこんな事を言い出した。


「ねぇ、二人とも、突然だけど、何か、神様にお願い事とかってないかな」




「お願い事ぉ?」


 池井戸は信号が青になるのと同時にアクセルを開けた。十字路左右に他の車の影はちらついてはいない。何時降ったのだろう、薄いボタ雪の上を、ホイールタイヤの跡が伸びてゆく。


「うん。出来れば、艱難辛苦に打ち勝ち、私利私欲に走らない奴。あっ、これ以上はヒントになっちゃうから駄目。後は自分で考えて」


 瞳子の屈託の無い笑みがバックミラーにありありと映し出されている。ひどく、印象的な顔である。初めてコンビニで会った時から、感じていた事なのかもしれない。喜怒哀楽が、感情の発露が、きめ細やかで、辺りに感化するのだ。そういえば、似たようなのを何処かで聞いた事がある。あれは何処だったか、良く思い出せない。


「フロイライン(Fraulein)、いや、ミス(miss)」


 ロベルトが口を開いた。心無しか、いつも血色の悪い顔が、殊更青白んで見えるのは何故だろう。ターミネーターでも、冷や汗というものはかくのだろうか。


「一度、手を、握ってみてはくれやしないか」


 ロベルトの顔は至極真剣である。何か、それこそフェルマーの最終定理の解にでも辿り着いて、その答えが目の前にあるという感じだった。それが砂上の楼閣の上に立っていようとも、お構い無しという感じだ。思わず手が出てしまったのかもしれない。


「駄目、ズルはいけません。人生の命題と、その答えは、汝自身の手で御見つけになって下さい。


 ーそれに、ロベルトさん、サイボーグでしょ? 下手したら、短絡しちゃうかもしんないよ」


 そう言ってケラケラ笑う瞳子である。余り、嫌な感じがしないのが、逆に恐ろしかった。ロベルトは自分のアクチュール製の利き腕を差し出したまま、固まってしまった。目線は、先ほどよりはるか下、瞳子の乗っかっているストレッチャーのキャスター部分を彷徨っている。割と傷ついている様子だった。まぁ、美少女に袖にされるというのは誰にでも堪える。もしかすれば、森田が瞳子をこのハイメディックに試乗させたのは、予行運転だけでなく、池井戸とロベルトに、彼女を受け入れるだけの、器量があるかのチェックも兼ねていたのかもしれない。それならそれで、前もって言って欲しかったと池井戸は思った。


「おい、姉さん。はしゃぐのも程々にしてー」


「まぁ、いいや。ロベルトさん、格好良いしね。 ータッチ」




 池井戸が釘を刺すのと、瞳子がロベルトに直接、手を触れるのは同時だった。両手で包み込むようにロベルトの左手を握り込む。


「おい!」


 池井戸が叫んだ。瞬間、ロベルトの眦がピクリと動く。


「どう?」


「いや、どう、と言われても。その、ー悪くない」


 どんな感想だよ、と池井戸は思った。いきなりロベルトが短絡を起こしてハルクに変身するのでは危惧していた自分が馬鹿みたいである。本物の皇族、王族連中の前で嘘は付けない、という噂くらい池井戸も聞いた事があった。やれ、嘘をつくと発狂して死ぬだとか、敵意を見せれば、その日のうちに天罰が下って死ぬだとか、そんな話しだ。半分は眉唾だろうが、もう残り半分には何か秘密があるのだろう。別に日本国に限った事ではない、世界各国で似たような話しを聞いた事があった。というより、散々に修羅場を潜って来た池井戸には、既に似たような体験を数多く実体験していたのである。


 何故か生存率0%の戦地から平気で帰還してくるヘリボーンのパイロットだとか、反対に、英国の王族が乗っていて、最初から沈まない事が決まっている補給船だとか。オカルトというのは、案外デジタルであったり科学的に、統計学の側面から反証可能であったりするのである。だからこそ、日頃から気を付けたい訳だ。


「ふーん、ロベルトさん。苦労したんだね。えーと、願い事は、えっ、そんなので良いの?」


 瞳子はしきりに今しがた握っていた手を顎にやって、腕組みをしながらぶつぶつ何かを呟いている。まるで、ロベルトの今までの人生を、斟酌、反芻しているかのように見えた。


「天、天津か和するは、汝が御身、世話になりし場所の救済、汝、これにて了承せしめられれり? ー本当にそんなので良いの?」


「あぁ、俺の願いはそれだ。多分、嘘偽りはない。 ーそれにしても、本当にこんな事、あるんだな。驚いた」


 ロベルトの顔がちらりとバックミラーに見えた。おっ、と池井戸は思った。悪くない顔だ。晴がましい、でもなく、武骨でもない。覚悟を決めたというよりも、これから何かをしようとする顔。絵になる、散々に選り好みをする池井戸が思うのだから、恐らくそうなのだろう。昔、ヘリボーン三機撃墜したとかで、現地集落をまるまる一つ避難させて住民全員を歩兵一個小隊で助けたとかいう小隊長が出撃前の映写会でそんな顔をしていたのを覚えている。奴は結局、復員トラックには乗らなかった。見た事も無いような従事勲章を首からぶら下げて、輸送機に乗って本国に帰還したはずである。


「ふーん、なるほど、なるほど。・・・ハーフの人は難しいって思ったんだけどね。案外、義理堅い性格なんだ。そだね、別にライトスタッフに国境なんて関係ないし。うーん、私、柄にもなく感動しちゃった」


 瞳子が後ろでしきりにうなり声を上げている。はっきり言って気味が悪かった。何がライトスタッフだ、お前はNASAの宇宙飛行士かと池井戸は思った。そう言えば、不死身のヘリボーンパイロットもたまたま映写会で一緒になった時、そんな事をぼやいていたような気がする。何か、絶対的に正しい、それこそ、神に準拠したような感性、その要素。それ等を総して、そう呼称するとの事だ。そのパイロットは次の週に故郷のオクラホマに転属になった。軍を止めてトウモロコシの栽培をやると言っていた。最後にお前にこれを伝える事出来て良かった、と言っていたのを覚えている。何時か尋ねてこいと言っていたが、バドワイザー漬けの頭で覚えた住所と電話番号はひどく怪しかった。


 そんな事より、最後に席を立つ際にちらりと言って寄越した言葉の方が気になる。ガンバレヨ、ニッポンジン、確か、その発音で合っていたはずだ。俺は煙を吐き出しているポップコーンマシーンの面倒の見るので忙しかった。他にやる奴が居ないので、修理していた次第である。別に、動かない訳ではないが、おっかなくて見ていられなかったのでナットをレンチで開けた次第だ。何か言ったか、と反駁した時、そのパイロットはもう踵を返していた。いや、お前に言ったんじゃあないよ。心配するな。英語でそう言って寄越してきた。あれは結局、どういう意味だったのだろう。




「おい、感動している所悪いけどよ。嬢ちゃん。今晩どうするんだよ。まさか、ビジネスホテルに泊まるって訳にもいかねぇだろ。もうそろそろ、道草喰う道もねぇんだ。病院に着いちまう。どっかに安全な寝床。用意されてんだろ?」


 池井戸は希望的観測を持ちながら聞いた。本音を言えば、こんな厄介な客は、一刻も早く警備の連中に送り返してしまいたかった。


「うんにゃ? SPさん達からは、この車内で一晩明かすように言われているけど、それが何か?」


 瞳子はさも当然のようにそう言って寄越してくれた。池井戸の期待は辛くも簡単に打ち砕かれた訳である。もう、甘んじて、この仕事を受け入れる他、手だては無いようだ。


「分かった、じゃあ一つだけ約束してくれ」


「何?」


「タッチはなしだ。それからお願い事も。 夢の続きって言うのは自分で見るもんだし、描くもんだだろ?」


 池井戸はそう言ってカップホルダーに乱雑に突っ込まれた缶コーヒーの残りを乱暴に飲み込んだ。瞳子が後ろに居るので、気安く煙草も吸えない、その代わりである。赤と白と橙の、クソ甘ったるいカフェオレは後ろのロベルトに、自分のはブラックだった。そういえば、昔、何処かの爺さんが似たような事を言っていたような気がする。曰く、夢と目標は違うとか何とか。夢というのは、世界平和だとか、漠然と思っている事で、目標というものは、確固たる信念、行動に基づいた、意思表示、なのだという。自衛軍の嗜好品を、賞味期限切れになりかけの奴を気前よく無料で提供してくれているとかで、映写会にドキュメンタリー映像が流れた事がある。どうしてか知らないが、ふいにそんな事を思い出す。


「ふーん、分かった。この救急車に乗るルールって奴だね。コータ・イケイド流の。あっ、違った。GOD・CARか」


 後ろで瞳子がそう言って手をぴしゃりと前で合わせる。本気で言っているだけ、タチが悪かった。おまけに純日本産の紛う事無き美少女である。はっきりいって、オカルト系の特殊能力を持っている事は半確だった。この手の輩には、敵意を見せただけで、それが倍返しになって自分に帰ってくる事、請け合いである。池井戸はそれを経験上知っていた。それはユーラシア大陸でも、南アメリカでも、北アフリカでも同じである。


「ねぇ、コータ」


「なんだよ」


「缶コーヒー、美味しい?」


「まぁまぁだな」


 一瞬、カーステレオの方に手が伸びそうになって、止めた。何故だろう。そう言えば、自分は酔っぱらい運転はしても、カーステレオやCDコンポを走行中に付けた事は無かった。音響設備を、車内に搭載しようと思った事すら無い。精々、危篤の患者の最後の頼みでナイターを中継してやった位だ。どうしてか、ラジカセの音が、耳に触るのだ。他にもっと気にする事があるのに、と思うのである。


「夢と、目標は違うって、良い言葉だね。時代背景を差し引いても、良く出来てる。私は、夢と希望、の方が良いと思うんだけど、どうかな?」


「・・・」


「ちなみに、デミタスはUCCの自社ブランドでは無いからね。別の会社。私、缶コーヒーには五月蝿いんだよね。一過言あんの」


 嫌がらせか、と思った。それから、本気で服を引ん剝いてやろうかと思う。本気でそう思わせる位の器量が相手にあるのだから、余計にたちが悪い。ブスならとっくの昔に車外に叩き出している所だ。そして、おそらく、今思った事も、半分位はバレているのだろう。




「ーWIRED、名前だけなら聞いた事がある。それが嬢ちゃんが重宝される理由か」


 池井戸は仕方なしに口を開いた。中途半端に片足を突っ込んだままにするよりは、はっきりさせておいた方が良いと思ったからである。


「ご名答、良く出来ました。パチパチパチ」


 後ろで当の本人があっさりとそう認めてくれた。


 WIRED、確か、多感性情報感受型テレパシー症候群、だとか何とかいう大層も和訳で付いていたはずである。情報認識能力が極端に高い、だとか、洞察力やら観察力がずば抜けているとかで、まぁ、はっきり言ってしまえば、相手の考えている事を“読む”事が出来るのだという。


 一般に、共感性が強く、相手の立場に立って、物事を考える事が出来る人間。なおかつ、深謀遠慮が出来る人間。あり大抵に、言ってしまえば“優しい”人間に多いとされているのだとかなんとか。これが強烈になれば、離れている所にいても、WIRED同士で情報交換する事も可能だとか。或いは、感覚的に、直感的に、肌に合わないもの、 “間違っているもの” を見分けるのが可能なのだそうだ。どちらかと言えば、瞳子の場合、こちらが本命だろう。前者だとミュージシャンやアスリートの方が多い。ちなみに、シンガーソングライターやアーティストは後者の感性の方が強いのだという。


 まぁ、無線LAN全盛の時代、テレパシーもそれほど珍しいものでもないのだろう。自衛軍のセキュリティシステムの半分が彼等頼りだとか、21世紀初頭の、日勤大国ニッポンで致命的な人災が多発しなかったのも、彼等のおかげだったとか、まぁ、その辺は眉唾の噂である。ラスベガスの腕に覚えのあるディーラーやF1のベテラン整備士、帝国ホテルの支配人クラスになると、似たような感覚や技量を持っていたりすると聞く。だが、ここまで極端に、的確に、それこそ頭の中でフラッシュバックさせた情報まで的中させるような奴は、まぁ稀なのだろう。個人情報も何もあったものではない。


「はい、ネタばらしも済んだ事だし、もうこの話しもおしまいね。二人は大丈夫だと思うけど、大抵の人はバレるとまともに目も合わせてくれなくなるから。私は、このストレッチャーで眠る事にします」


 瞳子はそう言うと、傍に合った毛布を取り寄せて、誰に言うでもなくそれに包まって、ストレッチャーの上に寝そべり始める。ハイメディックはトミタの裏口に帰って来て、駐車した所である。通りで、道すがら対向車が少なかったはずである。まぁ、前橋市民で少しでも物わかり良い奴は、今日は外出しなかったはずだ。さっき、ヘッドライトで車内を赤々と照らしてくれた馬鹿はどうなったのだろう。まぁ、運の悪い野郎だと思う事にした。


「あっ、ちなみに手ぇなんか出そうとしたら、駄目だよ」


「誰が十六のガキに欲情するかってんだ、馬鹿野郎。とっとと寝てくれ」


 池井戸は懐から安煙草を取り出し、ライターを手に取り持って、運転座席のドアを開けた。もう限界だった。いくら朴念仁の自分でも、一服付ける必要がある。


「あっ、でもさっき、私の事、ちょっと良いなって思ったでしょー」


「気のせいだ」


 バン、とハイメディックのドアが乱雑に閉められた。








「―それでは、一号車、二号車のみなさん。後は協力者各位、よろしくお願いします」


 ウォッチから、優男の声が聞こえてくる。しばらくしてトミタの正面玄関から一台のバイクが軽快な排気音と共に飛び出して行った。


 ハヤブサである、何処をどう直したのか、滅茶苦茶になったフレームは見事に復活していた。ヤマガのガレージショップは伊達では無いのである。


「―こちら一号車、池井戸とロベルト。オーライ、そろそろ走り出す」


 池井戸はハイメディックのシフトレバーを前に押し込んでそう言った。瞳子を後部シートに乗せたハイメディックは、そろりとトミタの裏口から滑り出した。


 作戦の概要はこうである。先に森田のバイクが先行して、様子を窺いながら道案内をする。要は斥候だ。それに続く形で、池井戸達が乗るハイメディック一号車と、それに二号車、それから陽動用のカモフラージュとしてハイメディックが三台、順繰りにトミタを発車する手筈になっていた。


「こちら二号車、準備オーケイです。後から続きます」


 二号車はラシードとマリアのコンビであった。運転席にはラシードが収まっている。彼らが、池井戸達のバックアップだった。他にも各車三台から同様の連絡が入る。




―気の良い同僚達だ、と池井戸は思った。いずれも、池井戸とロベルトに一億の延べ棒が三本、転がり込むのを承知で、無償で手助けをしてくれる―


 嘘であった。ちゃんと分け前は弾む事となっている。陽動役の三台にはキリ良く一千万ずつ、14Fの窓ガラスを粉々にしたマリアには三千万、ハイメディックを祈祷のためにオシャカにしたラシードには四千万払う予定だった。ラシードとマリアに関しては、半分を前金ですでにウォッチの口座に放り込んである。金を払う分だけ安心出来た。


 残る三台の連中も、金には汚いが信用には足る連中だった。ギリシャの財政破たんの片棒を担いで地球の裏側まで逃げてきた元銀行マンだとか、ウクライナでパイプラインを爆破して国際指名手配を受けているとかそんな奴である。いずれも、独特の感性を持つ池井戸が、この三か月間、何度か一緒に修羅場を潜ったからこそ分かる人選だった。




 池井戸達一号車が、無駄に長いロータリーを抜けようとした時、問題が発生した。


 出口に差し掛かったところで、今しがた裏口から走って出て来た人物に捕まったのである。初めから飛ばす訳にもいかないので徐行発進させたのが不味かった。婦長の須藤である。何やらまた鬼のような形相で追いかけてきている。無理をして履いているハイヒールが痛々しかった。


「―アンタ! ちょっと何処行くつもり!? ウォッチ、繋がらないんだけど!?」


「―うるせぇなぁ、何だよ。患者様拾いに行くんだよ、見て分かんねぇのか」


 無視する訳に行かなかった。池井戸達が出て行った後、この腐れ婆さんに騒ぎを起こされては、折角の陽動がパァになる。


「何って、脱走よ、脱走! あんたが拾ってきた、あの汚いジジイ! 向井とかいうの! アレが病院のベッドから抜け出して、治療費も払わずに逃げ出したの! ちょっと、アンタ! そんな事してないで一緒に降りて探すの手伝いなさいよ!」


「―はぁ? 別に良いじゃねぇかそん位、放っといてやれや」


 池井戸は運転席の窓を開けながら、須藤の歩調に合わせてハイメディックを進ませる。簡単に見えるが、なかなか出来る事では無い。


「―そんな訳にいかないでしょ、乞食が金払わずに逃げたのよ。許せる訳ないじゃない。こっちは汗水たらして働いてるっていうのに」


―テメェは全然働いてねぇだろ、他人に押し付けてばっかで、大体、看護師でハイヒールって何だよ。仕事舐めてんのか。


 池井戸は口まで出掛かったそんな台詞を何とか飲み込む。


「―へーそう。まぁどうでも良いんだけどよ。・・・じゃあ、俺ら、急いでるから、先行くわ。帰ってきてから手伝うよ」


 そろそろ残りのロータリーも限界だった。デジタル認証の検問所を抜けると、そこから先は病院の敷地では無い。公道である。そこまでにカタを着ける必要があった。


「―ちょっと、いい加減止まりなさいよ。アンタねっ! ・・・ははーん、アンタなんか隠してるわね。後部シートに、何かヤバいもん積んでんでしょ。開けなさい!」


 こういう手合いは他人様の弱みを握る事だけに関しては抜群の嗅覚を発揮する。後ろでターミネーターが起動する気配がした。はっきり言ってチンピラ救命士の神経も、もはや限界であった。


「ほら早く、出すもんだしなさいよ。やったわ、現行犯。これでアンタも首ね、清々するわ。大体アンタみたいな中卒が野田先生に楯突いてる事自体おこがましい―」


 池井戸が運転席のドアに手を掛けたのと、須藤の頭がはじけ飛んだのはほぼ同時だった。


「―おい、こら。ババア、誰が汚いジジイだ、もう一度言ってみろ」


 ハイメディックの後方から、酒に焼けたガラ声がした。腹巻姿の老人が、こちらへ向かって歩いてくる。向井だった。今は足腰もしゃんとしている。


「よう、兄ちゃん。また会ったな、元気だったかえ?」


 向井は池井戸に向かって笑いかけながら、フラフラになった須藤の襟首を掴んだ。足元にブラックニッカの瓶が落ちている。先程、須藤の頭を弾き飛ばした正体だった。


「あぁ、元気だよ。おかげさまで。 ―アンタの方こそ、もう良いのか? その、体の方はよ」


「ああ、見ての通りさ。 ―そら!」


 向井は叫ぶや否や、天高く舞い上がった。綺麗な鳶膝蹴りが、須藤の顔面に突き刺さる。


「肝臓を丸ごと交換して貰った。後、血管の方も少々、いやーここは良い病院だねぇ!」


 すっかり往年の活力を取り戻した鳶の男はそう笑って言った。もはや池井戸には返す言葉も無かった。これでこの世にまた一人、トミタ印のサイボーグが誕生した訳である。


「―こんなんで、あの時雪ん中から引き揚げて貰った恩返しになるとは思っちゃいねぇがよ。後の事は任せな、急いでんだろ。患者は待っちゃあくれないぜ」




 池井戸達はそんな伝説の鳶の見送りを後部トランクに受けながら、トミタ記念総合病院を後にした。後ろで瞳子が後部トランクにへばり付いている。何も今しがた婦長に鳶蹴りを入れた男を凝視している訳では無いだろう。


「やっぱり、寂しいか。15年、ここで生まれ育ったんだって」


「―うん、ちょっとね」


 哀愁に浸っている場合では無かった。瞳子には悪いがアクセルを吹かす。ハイメディックは速度を上げ、トミタの外苑沿いをひた走る。トミタの看板は次第に遠のいて行った。


 ここまでは何の問題も無いはずだった。池井戸は小さくなってゆくトミタのロゴをバックミラー越しに見ながらそんな事を思った。




須藤の件はそれほど気にはならない、トラブルはあったにせよ、向井が上手くやってくれる事だろう。ただ、さっき、病院の不意に路肩の歩道に目を落とした時の事である。すれ違った時、池井戸はそれに気づいた。トミタの外苑沿いを走り抜けた時にすれ違った長髪の男、アレは確か池井戸が1Fのコンビニでぶちのめした店員だったのではなかろうか。すれ違った時、こっちを見て笑っていた気がする。池井戸は今になって急に気になりだしていた。もうすぐ関越自動車道に乗り上げるという時である。対処法を取るべきだと思った。


「―なぁ、ロベルト、お前さん。前、向井の爺さん助けた時、ウォッチ、翳したよな。今連絡取れるか?」


「可能だ。要件は? なんて伝えれば良い―」


 連絡は案外簡単に着いた。ウォッチ越しからは酔いどれの声が聞こえてくる。どうやら、また飲んでいるらしかった。現在は気絶した須藤を肩に担ぎながらトミタの外苑沿いを散歩中だと言う。池井戸は詳しい説明は面倒になって、用件だけ伝えた。


 辺りで、長髪の不審な男を見かけたら、とりあえずノシてくれ、である。向井は快く快諾してくれた。ドサリ、という音がする。須藤を道端の花壇ブロックに放り込んだ所だと言う。流石に人を担ぎながら鳶膝蹴りは無理だとゲラゲラ笑っていた。本当に大丈夫なのか少し心配になった。




 それから一時間は何もなかった。途中、半分閉まっている救急車用緊急退出路を押し通り、一号車と二号車が揃ってパーキングエリアを逆走する荒業を見せたが、概ね平和であった。




「―こちら、森田です。みなさん、首尾は如何ですか?」


 ウォッチから先行する森田か連絡が入る。対する池井戸の返事はつれないものだった。


「如何ですか? じゃ、ねぇよ! 退出路、半分しか空いてなかったじゃねぇか。ハイメディックの横幅ギリギリだよ、ギリギリ! 後ろのラシード、サイドミラー掠ったんだぞ!」


 回線にはラシードのそうだ、そうだという悪態も入る。隣でマリアが笑っている声も混じっていた。


「―どうも、すみません。周囲の人間に怪しまれないようにするためだったのですが。お伝えしようにも、そちらが話し中だったようで」


 おそらく、さっきの池井戸と向井の通信の事だろう。おかげで森田からの連絡を受け損ねた池井戸とロベルトは、巡航速度で退出路の入り口にヘッドオンする羽目になった訳である。散々だった。


「―それに、どの道、お二人の技量であれば、アレ位、余裕だとも思いましたから。―それより、気を付けて下さい。どうやら、連中、こっちに感付いたようです」


 慇懃な森田の声が、後半少しトークダウンする。どうやら追手が掛かったようだった。


 すでに関越自動車道を南下して一時間、あともう半刻も飛ばせば着くはずだった。


 首都高速道路への連結は、もう目と鼻の先だった。大泉ICに伸びている出来立てホヤホヤのバイパス、群馬線に乗り上げて練馬の街を見下げれば、もはやゴールも当然であった。




「―コータサン! 後ろから四台、来てます! クツモの連中です!」


 一号車の後方を走る二号車、その運転手であるラシードから連絡が入る。とうとう始まったかと池井戸は思った。右手の、サイドミラーを見遣る。はるか後方に四台、赤色灯を回しながら猛然と追ってくる集団があった。―七代目デリカである。それも寒冷地仕様の特注品。


「だ、そうだ、森田さんよ。もう良いだろう? バレちまったもんはしょうがねぇ、警機付けて、一丁、派手にいこうや」


 チンピラ救命士は左手を頭上のハザードランプに手を掛ける。ウォッチの向こうからは相変わらず慇懃な声が帰って来た。


「―仕方ありませんね、くれぐれも無茶はなさらないように。 ―それでは御武運を」


 池井戸の頭上で、けたたましいサイレンの音が木霊す。これだ、この音がなけりゃ救急車とは呼べない。




 かくして関越自動車道のアスファルトを舞台にした、熾烈なカーチェイスの火蓋が切って落とされた。


 まず最初に脱落したのは、クツモ側の先頭車両、一台だった。二号車の先制パンチが炸裂したのだ。


「いよっシャー! やったるでー!!」


 ティラノサウルスの嘶きが、粉雪の舞う幹線道路の端から端に響き渡った。


 開け放たれた二号車の後部トランクから、勢いよく打ち出されたストレッチャーがデリカのフロントに突き刺さる。ベッド投げのマリアの二つ名は伊達では無かった。都合、相対速度の関係で、亜音速と同じ速さのストレッチャーの直撃を受ける事となったので、デリカは道路上でつんのめって大破する事となった。これでまず一台。




 二台目と三台目はラシードが上手く処理してくれた。まず懲りずに追い縋ってきた一台の前で急ブレーキを掛け、後部バンパーを犠牲にする形でデリカのボンネットを引っ掛けさせた。


今度はハイメディックではなく、デミオが空を舞う番だった。奇しくも、ラシードがぶつけるのに用いたバンパーは、11tトラックに持って行かれた時と同じだった。


 次いで、ボロボロになった車体を何とか動かし、三台目を道連れに所沢インターチェンジでフェードアウトしていった。車体をぶつけもって、相手の助手席のサイドミラーにシャムシャールを打ち込んで釘付けにしたのだ。


「―コータサン、後は頼みましたよ! アラー・アクバル!」


 アッラー・アクバル。思わず池井戸の頭も下がった。革命闘士の心意気をまざまざと見せつけられた気がした。




 四台目はロベルトである。勇猛果敢にも池井戸の操縦する一号車に肉薄してきた最後の一台に、心臓の無い男の精確無比な一撃が叩き込まれた。


 災害派遣用の、強襲パイルバンカー。救急車が消防車に取って代わりつつある時代にあって、ハイメディックに備え付けられた代物である。コレさえあれば、岩盤でも、鉄筋コンクリートでも何でも御座れだった。


基本的に、ぶち抜けない物は無い。ただ、気を付けないと発射口と反対側から吐き出されたスチームによって、使用者の背後に立っている人間が丸焦げになるので注意が必要だった。池井戸達のそれはもう一捻りしてあり、無反動砲を取り辞める代わりに打ち込まれた先で、先端からその分だけ高熱スチームが噴き出す仕組みに違法改造、もとい改良してあった。当然、喰らった方は一溜りも無い。ロベルトだからこそ出来た所業である。


「―さっさと失せろ。小僧ども。 ―少しは頭を冷やせ」


 開け放した後部トランクの舳先で、ロベルトは仁王立ちになって言った。隣ではすっかり元気を取り戻した瞳子が、興奮した様子で状況を楽しんでいる。楽しんで貰えているようで何よりである。


 今回はロベルトの温情で、高熱ガスの代わりに医療用の冷却スプレーを代用した。心臓のない男のハートはその実、優しいのだ。




「―だそうだ。森田さん、聞こえているか? こっちで最後の一両を、今、池井戸が仕留めた。おい、どうした? 応答しろよ。何かあったか?」


ウォッチで使用している無線アプリで繋がった、森田の様子がおかしかった。さっきから断続的に聞こえていたハヤブサのマフラー音が聞こえない。


「どうしたの? 森田、何かあったの?」


 ようやく密室に戻った後部座席から、瞳子の声が掛かる。森田の事となると、すぐに正気に戻るらしい。


「―不味い事になりました」


 ウォッチから聞こえてきた慇懃な声は、今までに聞いた森田の声で一番低いトーンだった。


「・・・一度、私も、眼鏡のレンズを交換した方が良いのかもしれませんね。落ち着いて聞いて下さいよ。 ・・・道が、ありません」




「・・・何だって? 道が無い? そんな訳あるか!?」


 池井戸は堪らず叫んだ。思わず車内で立ち上がりそうになる。そして、やっぱり立ち上がって天井に頭をぶつけた。路面を見るには、この手しか無い。


「そのままの意味です。目算で約五メートル程、しかしこれは、参ったな、どうも」


 ウォッチの向こうから聞こえてくる声にはまだ余裕があった。おそらく、それだけの器量がある人物しか皇居警視になれないのだろうが、今はその余裕が鼻に付いて仕方が無かった。


「参ったのはこっちだ! テメェ、俺達が今までどんだけ苦労してここまでやって来たか、知ってんだろ!?」


 池井戸の脳裏には今まで散って行った同僚達の顔がまざまざと浮かんでは消えた。どいつもこいつも殺しても死にそうにない奴ばかりである。もう、面倒なので、頭の隅に追いやって忘れることにした。今は任務解決が先だ。そうでなければ、残りの報酬も払えない。


「―ちょっと待って下さい。今、オトリのSP隊員から連絡がありました。―減速しながら近づいて来て下さい。さもなければ、谷底にドボン、ですよ?」




 次第にフロントガラスの先が開けてくる。道理で閑散としている訳だ。仕舞には池井戸達ハイメディック一号車の隣を走る車は一台も居なくなっていた。


「―どうも、すみません。いや、ふざけている場合じゃないな、何とかヘリを飛ばせないものか―」


 要はツクモの連中、ともすれば、そのまた上の奴の方が一枚上手だった訳である。正直、襲撃の規模からして、金の掛かり方が違うと思った。やはり、根っからの外資系はやる事もする事も違うのかもしれない。オトリのハンディー、軽装甲車の方は襲撃を受け、大破炎上。ヘリの方は新宿上空で爆弾をしこたま積んだドローンの体当たりを受け、爆散したそうだ。森田の慇懃な声が、今は殊更無礼に聞こえるのも当然だった。


 ラシードらからも連絡が入った。あの後、ラシード一行はインターチェンジを降りた先でボロボロになった車体を乗り捨てた。雑木林の茂みに隠れた直後、三台目のデミオもろともRPGの直撃を受け、吹き飛んだそうである。ツクモのやり口は中東よりも酷いと奴は憤っていた。それから、スクラップになったハイメディック一台分の報酬をさらに計上してくれと迫って来たので、面倒になって通信を切った。他の陽動の三台は首尾よく逃げ果せた様である。


 次いで、向井から連絡があった。例の長髪の男が見つかったそうである。報告を聞いて、池井戸は最初驚いた。向井によれば、奴は伝説の鳶の蹴りに反応したそうだ。ただ反応したからといって避けられる訳では無かった。こめかみに二―キックを受けた男は無残にも崩れ落ちたのである 懐からは盗聴器やらツクモの臨時社員証が出て来たという。大方、ツクモが雇い入れたケチな興信所の一人だろう。そんなものはトミタは山ほど抱えていたので、今更どうでも良かった。情報なぞ、その気になれば何処からでも漏れるものである。予防策があるとすれば、資金力か、後は、クリーンな企業イメージ、看板であろう。




「・・・これじゃ、袋のネズミじゃねぇか」


 池井戸がぼやいた通りだった。要は自分達は誘い込まれた訳である。


 池井戸達一号車は、前方に純白のライダースーツを身に纏った森田が立っていた。斜に構えて、左脚をクラッチに、右脚をアスファルトに押し付けている。前方、およそ500mの位置。―ヘルメットは、脱いでいた。SPなんて揃いも揃って神経質を通り越して、危ない連中だと池井戸は思っていたが、どうなのだろう。戦場を渡り歩いた池井戸の感性からすれば、SPというのは、要人警護というより、もはや、傭兵、大企業の私兵、プライベートミリタリーという趣の方が強かった。髪型は何時の間にか、何時もの撫でつけられた七三から、オールバックへとメタモルフォーゼを遂げている。戦闘用という事だろうか、それとも、只の趣味なのか、定かでは無いが、様子が妙なのは確かだった。


「森田!」


 瞳子が慌てて後ろから這い出してきた。


「おい、嬢ちゃん、危ねぇからすっこんでろ。ちゃんとシートベルトしてだな―」


「やだ! だって森田、何か、死んじゃいそうな気がするんだもん!」


「唐突だな、おい」


 少女の声には妙な説得力があった。確かに、フロントガラスは向こうの優男の後ろ姿は何処か朧げである。


「うん、文武さんも、最後、あんな感じだったもん。なんか、人生、疲れちゃってるみたいな。よく分かんないけど」


 そう言われれば、森田の背中からは男の哀愁のようなものがだだ漏れであるような気がしなくもなかった。噂をすれば、当の優男本人から通信が入る。


「ーいやぁ、参りましたね。これは、もうー」


 森田は一瞬言い淀んでから、続きを口にした。直前に、プフッとした、笑い声が音声に混じる。何処か、吹っ切れたような感じである。池井戸は何か嫌な予感がした。


「瞳子さん、トミタ、裏切っちゃいませんか?」


 瞬間、池井戸は我が耳を疑った。


「はぁ?」


 思わず、そう反駁するので精一杯だった。




「いきなりどうした、頭のネジが往かれたか?」


 池井戸はウォッチを通して叫んだ。次いで、ハイメディックのフロントガラスの向こうでバイクに跨がったまま黄昏れている森田の顔を見た。煙草を吹かしているように見えなくもない。


「何、悠長に煙草なんか吹かしてんだよ。こうなる事位、予想してなかったのかよ!」


「出来る訳無いでしょう、こんなの。いやぁ、こんな仕事引き受けるんじゃ無かった」


「出来るも、出来ないもヘチマもねぇよ、もうここまで来ちまったんだぞ。あいつ等、ラシード等になんて言い訳済んだよ。ハイメディック一台おしゃかにしてんだぞ。今更、成功報酬払いませんじゃあ、こっちの首が飛ぶ!」


「経費で誤摩化せば良いじゃありませんか、何、いつもの事だ」


「ふざけんな!四つ菱じゃねぇんだぞ、そんな理由で領収書通るか!」


 野郎はハヤブサに乗って、呑気に煙草をプカプカやっている。


「なに、煙草なんか呑気に吸ってやがんだ、うめぇのか、それ!」


「セッタです、セブンスター。SP試験に受かってからは止めていたんですが、最近また始めまして、どうです?一本?」


「ぶち殺されテェのか、テメェ!」


 池井戸の血管の方がぶち切れる寸前だった。つい、今しがたまで、派手なカーチェイスをしてた事もあってか、頭に血が登っている。


「コータ、オジサン、どうどう」


 そんな煮沸して爆散一歩手前の瞬間湯沸かし器こと池井戸に後ろから掛けられる声があった。割と軽い、良く通る発声。


「・・・森田さん、どうして急にそんな事言い始めたのかな?私で良かったら話しを聞かせて貰うけど」


 瞳子は手元の自分のウォッチと、池井戸のウィッチから重ねていきなりストライキを起こした自らのSPに語りかけていた。


「いやぁ、あなたに話した所でどうなる事では無いんですよ。実際、私も八方手は尽くしたんですが、こうまでやられると、まるでザルで水を掬っているかのようで。全てが徒労に感じられて。まだ、ツクモの方がやる気があるんじゃないかって思ったんです」


 森田はハヤブサを傾けながら、顎をしゃくって考え込んでいる。日頃の鬱憤が、ポツリポツリと、堰を切って流れ出したという感じだった。


「文武さんの事、やっぱり気にしてるんだ?」


「はっきり言いますね、あなた。まぁ、あいつの事もあるにはありました、自分もあぁはなりたくないなって。やっぱり四輪の方が安全ですね。白バイ講習なんて受けるんじゃ無かった」


 森田はそう言いながら何やら胸元をごそごそやっている。どうやらセッタの二本目を取り出す所のようだ。池井戸はつい今しがた振り切った追っ手がいつ追いついてくるか気が気ではない。


「オッケー、分かった。じゃぁ、今の待遇に不満がある訳だ。じゃぁ、私から直接、宮内庁に掛け合ってあげる。今度の、私を送り届ける仕事終わったら、森田さん、用済みなんでしょ、もっと良いポストで、もっと良いお給料の所、紹介してあげるから!」


 瞳子の声は明朗にして、明快だった。短いけれど、よく分かる声である。隣で聞いている池井戸もロベルトも、異を唱える気が起きないのが不思議だった。


「ー簡単に言ってくれますね、あなたも」


 森田はそう言って腕を組みながら煙草の灰をアスファルトの上に落とした。何か考えあぐねている様子である。


「あなた、およそ交渉事に向いていませんね、以前から思っていたんですが。ー余り、プライベートな教育プログラムには、詮索しませんでしたが、その手の座学なり、勉学なり、一度、皇族に名前を連ねる前に、ちゃんとやっておいた方が良いと思いますよ」


 森田の吸う煙草の煙が棚引いている。顎に手をやりながら、引き続き、腕を組んでいた。


「帝王学って奴? それとも交渉術? なにそれ、私、そう言うのって大嫌いなんだけど。あんなの、やるだけ無駄でしょ。邪心あればこの矢にて災いを。問題は実力があるかどうか、でしょ? 違う?」


 瞳子はそうあっけらかんとそう言ってのけた。本当に、そう思っている者の声である。


「・・・アマテラスですか。確か、日本書紀だ。そうですね、そうでした、あなたは確かに、そういうお人だ」


 森田は何処か、得心がいった様子であった。瞳子の答えに納得下のかもしれない。


「あなたの前で、嘘は付けない。最初にこの仕事を拝命した時は半信半疑でしたが、今なら納得がいきます」


 手に持ったセッタの二本目を高速の排水溝に向かって投げ捨てるのが見えた。


「色んな奴が、貴方の前にお目通りしにやって来た。それこそ、国家元首から、芸能人、犯罪者から、病人まで、その全ての相手に対して、貴方はおよそ、拒むという事をしなかった。相手と同じ目線に立って話しをして、相手と同じ立場になって話を聞いた。隣で見ていて、気持ちよかったです。それだけは、確かだ。今ここではっきり言っておきます」


「一回、ゲロ吐きかけられた事も合ったね。目の前でいきなり切腹し始めた総理大臣もいたし」


 瞳子はそういってコロコロ笑った。この十年間、色々合ったらしい。


「そうですね、あれには笑った。一番ヤバかったのは、右翼の連中に日本刀で切り掛かられた時だ。アレには舌を撒いた」


「ーあぁ、あれね。あれは流石に胸くそ悪かったなー」


 瞳子はそういって右手で腰に巻いたポシェットを軽く叩いた。


「あなた、人間を撃ったのは、アレが初めてだったんでしょう。よく、フルバーストであれだけ綺麗に命中させられますね。それも正中線に綺麗に三発ずつ。いや、お気になさらないで下さい、切り掛かられたのも、暴言を吐かれたのも、こちらの不手際ですから」


 何やら隣で物騒な会話がなされている。皇室典範の禁忌にふれるようなエピソードが山盛りであるような気がしたので、一介の救急士である池井戸は一時的に悟りを開く事にした。無になる事で、全てを忘れるのである。


「いや、何もかも懐かしい。本当に、大きくなられた。文武の奴も心置きなく成仏ー」


「生きてるよ」


「・・・なんですって?」


 感慨に耽っていた森田の虚を突くような内容を、瞳子はいきなり言ってのけた。


「文武さんでしょ、生きてるって。あの事故の後、担ぎ込まれた後、ICU送りになって、心肺が回復し次第、代替手術を受けたんだって、今はもう安定しているみたい」


「成る程、私が小耳に挟んでないという事は」


「そうだね、もう辞表出しちゃったみたい。こんな仕事、懲り懲りだって。それから、森田さんも、ツクモとの一件で、二人して職務履行を疑われていたみたい。だからじゃないかな。聞いていないの。というか、顔がもうアレで、全面交換で、一回だけ無理言ってお見舞いに言ったけど、まぁ、見れたもんじゃあなかったなぁ。顔がアイアンマンみたいになっちゃってたから。元気にはしてたよ。大事無いって」


「・・・まぁ、大体、そんな予想はしていましたが、気休めにはなりました。有り難う御座います」


 森田の、ウォッチの向こうから絞り出すようにして出した声がインカム越しに聞こえてくる。フロントガラスの向こうでは優男が親指で器用に眼鏡の蝶番を上げているように見えた。不覚にも、同情しそうになる。辞めて当然である、こんな職場。命が幾つあってもたりはしない。


「ーそういえば、あの暴力団をあなたの眼前に出そうと言い出したのはアイツでしたね、いやはや。あなたの前で粗相があった大企業の社長は、時価総額が幾らだろうと、年を越す前にクラッシュした。まぁ一族郎党、関係者各位、天罰覿面皆殺し皆殺し、というのも、あながち、伊達ではないのでしょうな。貴方が昔、6歳の玩具のステッキ片手にしてくれていた自己紹介ですが。その場に居る誰もが、笑えなかった。何故だか解りますか、池井戸さん」


 森田がまだ何かウォッチの向こうでぶつぶつ言っている。念仏を唱えているように聞こえなくもない。池井戸は何も聞こえない振りをした。それから、ニッポンというのは存外、良く出来た国であると思った。恐らく、見えていたのだろう。魑魅魍魎か、何か得体の知れない物が、良くある話しである。誰もそんなのに食い殺されたくは無い。見えない奴は瞳子の前で馬鹿をやって、運やらなにやら、寿命を、それこそ余命ごと持って行かれたのだろう。後に残るのは、カスみたいな人生か、それこそ死である。まぁ、そんな事、日本人ではない池井戸の知った事ではなかった。というよりも、事態は刻一刻、刻一刻と変化するのである。




 遠くから、車のサイレンの音が近づいて来ていた。一々、サイドミラーを覗き込まないでも判る、ツクモのデリカだ。連中の新手が押し寄せて来たのである。


「それで、どうするよ。お嬢ちゃん。俺は嫌だぜ、連中に捕まって火あぶりにされるのなんざ」


「うーん、どうしよう。話し合い、で解決出来るかな?」


 瞳子は真剣に考え込んでいる様子である。池井戸はそんな彼女に、オカルトを差し引いた現実を、客観的に分析してやる事にした。


「あのよぉ、果たして、どんな話し合いを想像しておられるのかは、小市民である俺には判りかねますがねぇ。お姫様。流石に交渉が決裂したからって、暴れる訳にもいかねぇぜ。腰のグロッグの弾倉全部撃ち尽くしたからって、勝てる保障なんか何処にもねぇぞ。相手がサイボーグとか、特殊強化、ドーピングしまくりの隊員連れて来てたら、俺とロベルトだけじゃ、かなり心もとねぇって言わざるを得ねぇな。まぁ、手練なら、4、5人相手にするのがやっとだ。・・・まさかとは思うが、パワードスーツが一機でも混じってりゃ、交戦は止した方が良い。ツクモならあり得る。選択肢として、闘う、ってのは無しだ」


「じゃぁ、どうすれば良いの?」


「判らん。これだけの情報じゃあ、尻尾巻いて緊急避難用の階段を駆け下りた方が良いのかー」


「ちなみに、投降ってのは?」


「・・・通常なら、止めといた方が良いって言うな。オカルト抜きにすりゃ、アンタが捕まった後、血液検査だけされて、はいさいなら、って訳にはならんもの。それこそ、骨の随までしゃぶり尽くされかねませんぜ、お嬢さん。あぁ、後、下手すりゃ俺たち、殺されます。口封じで」


「・・・それは嫌だな」


 瞳子が、後ろで眉をへの字にしながら仁王立ちになっている。このお嬢さんでも、直感で物事を決められない事があるらしい。


「なぁ、ロベルト。この現状分析であってるよな?」


 池井戸はそういって後部座席で固まっているロベルトに吠えた。何やら考え込んでいる様子である。


「ー概ね、問題は無い。 ・・・というより、この手の状況分析は池井戸、お前の方が上だろう。俺は所詮、一介のサイボーグ救急隊員だ。その手の戦況分析はよく分からん。コンバットシュミレーション・システムは最新版でインストールされてはいるが、それだけだ。後、ちなみに、サイボーグ相手でも3人までなら何とかなるぞ、今、頭の中でシュミレートしてみた。情報を更新しておいてくれ」


 ロベルトはそういって寄越してくれた。頼りになるのか、ならないのかよく分からない相棒である。恐らく、奴の頭の中では、ハイメディックを捨て置き、退出用階段を三人で駆け下りる算段をしているのだろう、そうなった場合の、狭い通路での戦闘に、より演算を割いているに違いない。現状、悪くはないアイディアだったが、橋を爆破して分断してくるような相手に、何処まで正攻法が通用するか微妙であった。まぁ、先回りはされているであろうし、そうなった場合、池井戸ももれなく、五体満足では居られなくなるだろう。余り、他人様の意見を鵜呑みにしてはいけない。何処まで行っても、自分と他人は、当たり前であるが別人なのだ。


「・・・なぁ、嬢ちゃん。確認しときたいんだけどよ、仮にこの場を凌ぎきった時は、こちら側に味方って付くのか」


 池井戸はそう言いながら左手にある手元のシフトレバーを見た。それから、目の前のデジタルパネルに目を落とした。それから、電圧計をチェックして、バッテリーと各種通電に問題が無い事を確認する。池井戸には、一つ、名案とも言えない、名案があった。


「うーん、そうだね。二人には言うの忘れてたけど、今まで、私のウォッチに他のSP達と、うわっ、宮内庁、皇居本部からも。一杯連絡があったの。その点は大丈夫そう。今、機動隊に連絡したとかで、自衛軍の即応部隊も、少しは動いてくれるってさ」


「うわっ、そりゃ偉ぇこったな。いよいよお忍びじゃなあくなったって訳だ。それじゃあ、こっちもいよいよ腹括らにゃあなりませんなぁー」


 池井戸がハイメディックのシフトレバーをドライブに戻すのと、ウォゥチが点滅するのは同時だった。




「それで、どうしますか? こちらとしては投降してくれれば助かるんですがね」


 森田がいつもの調子で語りかけてくる。もう、SPの仕事に余り未練は無いようだ。


「やだ。私、裸に引ん剝かれたくないもん」


「・・・一体、何を想像してるのかは知れませんがね。・・・いや、割と長い付き合いだ、おおよその想像は付きますが。貴方様相手に狼藉を働く馬鹿が居るとは思えませんがね・・・、というより、ツクモはそれほど野蛮な連中ではありませんよ?」


「えっ、フランスの人って、四六時中そんな事考えているんじゃなかったっけ?」


「いや、そんな事はありませんって、そんなのは一部の連中だけですよ。 ・・・いや、そんな事もないか。そういえば、向こうの映画監督も、会いに来ましたね」


「うん、俺の映画に出ないかって」


「あれ、ちなみに本気にしてたんですか?」


「うん、だって、向こうは本気だったもん。流石に、本番でヘアは無いと思うけど、頭ん中、グッチョグでさぁー」


「ハッハッハッハッ!」


 森田が向こうでドライバーグローブが軋むのも構わず、頻りに手を叩いている。思わず壷に入ったようで、さしもの森田も笑ってしまったようだ。タッチの影響だろうか、後ろでロベルトも自分の頭を二、三度、ハイメディックの側面へと叩き付けていた。WIRED、とはかくも楽しいものなのであろうか。池井戸は瞳子という人間の器の大きさを知った。皇族だから、偉いのではない。偉いから、皇族なのだ。




「そう言う訳だ。どけよ、邪魔なんだ。配車時刻が押してんだよ。患者様がお待ちだ」


 サイドミラー越しに、赤色灯が後ろでちらついている。もうそろそろ、状況開始のタイムリミットが近づいて来ていた。


「患者様ですか、言う事かいて、良く言いますね。罰が当たっても知りませんよ」


「知るかよ、こちとら元々、日本国籍なんざ、とうに捨てた身だ。この国のハイスペック公共インフラの恩恵に賜った事なんざ、遂ぞ無いね。それに患者様ってのは、何も後ろの嬢ちゃんの事じゃぁねぇさ」


「ーではなんです?」


 森田の挑発的な問いかけが聞こえた。その声は何処か楽しげである。


「この世界に居わす八〇〇万は八百ろ頭の神々よ。アマテラスは大見野神御上の復活を知らしめ、困窮に喘ぐ国民に希望の光を照覧せしめる事こそ、が大事なんでしょうが。公共の電波でも、春秋でも天声人語でも何でも良い。後ろの嬢ちゃんの襲名こそが、この国を掬う特効薬ってんだろう? じゃぁ、患者は国民だ」


「ー成る程、勉強になります」




 その瞬間、ハヤブサのエンジンが目を覚ました。


 グォン、グォン、ウォッチ越しでなくとも、その轟はハイメディックの車内にまで聴こえてくる。


「すまん、嬢ちゃん、やらかした。今ので良かった?」


「うん、うん。苦しゅう無い、控え居ろー、無頼の徒、コータ・イケイドよ。大儀であった。褒めて使わす」


 池井戸の問いかけに瞳子はうんうんと首を縦に振ってさも満足げにしている。どうやら、大政奉還の件はあながち嘘でも無いらしい。その内、国政選挙にでも出るつもりなのかもしれない。


「・・・前々から思ってたんだけどよ。たまに出る、その言葉使い。古語って言うのかね、それって使い方、それで合ってんのかい?」


「? そりゃ、私が使っていて、私が正しいって思えば、それが現在進行形で、それも最新版で、正しいって事になるよ。日本語として」


 瞳子はこともなげにそう言い放った。


「ー左様で御座いますか、お姫様。今日も、ご機嫌麗しゅうて、なにより」


 池井戸は余り深い事を考えないようにした。要は、形骸化した取り決めより、真心の方が大事であるという事なのだろう。道理で、嘘は付けない訳である。瞳子のオカルト、金科玉条の攻略法に一瞬触れた気もしたが、今はそれどころでは無かった。ツクモの追っ手が迫っている。




「・・・やっぱりな。こうなると思っていたんだんだよ。最初に瞳子さん、アンタを乗せた時から嫌な予感してたんだ。見事に交渉決裂だ」


 後ろでロベルトが項垂れているのが見て取れた。どう考えても、単体でのサイボーグ10人抜きは出来ない事を悟ったのであろう。ようやく、代替案をご所望のようである。


「ごめん、でも、なるようになっちゃった。 ーこれからどうすんの?」


 瞳子も瞳子でこの調子である。2025年が今日日、救命救急士の仕事内容はかくもハードだ。その内容は救命措置から要人警護まで多岐に渡る訳である。もはや、頼れるのは自分しかいないらしい。


 瞳子の問いに対して、池井戸の答えは単純明快なものだった。


「押し通る。緊急搬送時に障害になるものは全て排除していいと、古今東西、メディカルブックにも書いてある」


 池井戸はそう言うと、笑いながらシフトレバーを後ろへと叩き込んだ。ハイメディックのデジタルパネルに、Rという表示が点滅する。


「森田さんよぉ、いい加減、諦めてくれやしねぇかなぁ。そうじゃねぇと、あの文武って野郎の二の舞になるぜ」


 池井戸はバックでハイメディックを急いで後退させ始める。もう、やるべき事は頭の中でシュミレートしていた。後はそれを実行するだけである。


「とは言っても、もうお金貰っちゃってますしね、せめて、争った形跡だけでも残しておかないと」


 ハヤブサのエンジン音がさらに唸りを上げた。ウォッチ越しに聴こえていたようである。構う事なかった。距離を隔てても、今なら奴の眼鏡の奥がどんな瞳をしているのか池井戸には分かった。


「いや、ここまで割に合わない仕事だとは思ってませんでした。SPのお給料って、幾らか知っていますか?」


「知らねぇよ。そんなもん、よく考えずにそんな仕事に就く方が悪ぃんだろう」


「ーおっしゃる通りで」


 野郎、楽しんでやがる。声の調子でも、それが判った。恐らく、金では買えない、給賃ではあがなえない何か、というのを、退職直前になって、この関越自動車道の上で見つけたのかもしれない。ともあれ、それに付き合わされる方からすれば、たまったものではなかった。




「よし、嬢ちゃん。お喋りはここまでだ。ちゃんと席に着いて、シートベルトをしてくれ」


「えっ、何で。私が乗ってるんだから事故る訳ないよ?」


「そういうのは良いから、オカルトはもう懲り懲りだ。事故って言うのは、科学的に、それこそ、一万回試行したら、一万回防げるって風に、未然に防ぐもんだ。ぐうの音も出ないくらいにな。それに、もうここは赤城山のお膝元じゃねぇんだ。アンタのご利益だって、埼玉と神奈川の県境で通用する保障もねぇだろう。ただでさえ、住んでる連中がアレなのに」


 池井戸は瞳子が何を言っても真面に取り合わなかった。それからお転婆な王女殿下を後部座席に縛り付けるようにロベルトに指示する。ターミネーターは素早く的確に動いてくれた。


「うわっ、ちょっと、うわっ、束縛プレイはまだ早いって、うわっ」


 瞳子が後ろで暴れているようだ。ロベルトはいつもの鉄面皮に戻っている。こんな調子であの大都会東京に出て行って果たして大丈夫かとも思ったが、そこまでは池井戸の知った事ではなかった。


 サイドミラー越しに、幹線道路の粉雪の降り積もったアスファルトの路面を見渡す。視線の先に、見覚えのある車両群が近づいて来ているのが見えた。あのお高く留まったデザイン、間違いないツクモのデリカである。もう、目と鼻の先である。心無しか、後続車両に大型運搬トラックが見え隠れしている。前の、タンクローリーの件を根に持っているのか、大方、パワードスーツでも出して来たのだろう。懐具合いに反して、ケチな連中である。概して、日本の財閥など何処でもそうなのかも知れない。とはいえ、これで腹は決まった。勝負は一発こっきりである。


「・・・うわ〜、FKKって、そんな事もするんだ。ドイツの人って進んでるんだねぇ〜、いいなぁ〜私も、暇になったら行ってみようかな」


「・・・Nein(いや)、絶対に来ないでくれ。 ・・・それこそビークル、ワーゲンでも潰れかねん」


 前方の森田、幹線道路の亀裂からは3000mの距離はある。後ろでロベルトと瞳子が何か言い争いをしているが池井戸の頭には入ってこない。感覚は、右足のペダルと、ステアに全神経が行っていた。それから、目算で距離を取り始める。何やら、口元でブツブツ言っている。それから、後ろの瞳子とロベルト、自分も含めた乗員のウェイト、荷重を含めたハイメディックの車重、その車体の隅々までを意識した。路面に張り付いた、タイヤにまで神経を届かせる。段々と、池井戸の中でそれが当たり前になってくる。発経を通す、とはこういう事らしい。九龍半島で世話になった兄弟分が似たような事を言っていたような気がする。試しに中古のヒュンダイで片輪走行してやったら、青ざめた顔でお前に言う事は何も無いと言って寄越した。あれは何かの嫌みだったのだろうか、と池井戸は今になってもそれを気にしていた。




「なぁ、Fraulein、一つ、聞かせてくれ。 ・・・そんなので、辛くはないのか?」


 森田はようやく右脚をアスファルトから引きはがした。向こうも、こちらの思惑に気付いたようである。だが、もう遅い。これだけ引き離せばやる事は決まっていた。後はショータイムの時間だ。


「辛いって、何が?」


「・・・その、症状、について。メランコリー型シンドローム、だったか、いや違う。それは差別用語で、こちらでの呼び名は、何だったかな、もっと酷かったような気がするが・・・」


「私、別に何処も悪くないよ」


「・・・・・」


 後ろのシートでぐるぐる巻きになった瞳子とロベルトが何やらお喋りをしている。気になる内容ではあったが、今、そちらに神経を割いている余裕は無かった。


「・・・じゃあ、聞かせて貰おう。どうして、どうして、自分の思惑や思念が、酷い時には、視覚情報や、聴覚情報までもが、周りから、伝播してくるというのに、どうして平気なんだ?」


 ロベルトは本気で分からない、と言った風だった。何か、唯一無二なる森羅万象の能いから、下された課題の答えを、探しあぐねているという感じである。


「だって、」


「だって?」


 それに対する瞳子の回答は単純明快にして強烈無比のそれであった。


「だって、私、天地天明に誓って恥じる所なんか、一つもないんだもん。天地天明に誓って、やましい事なんて、一つもないよ? だから、見えんだし、魅せれんの。 ーまぁ、最後のは後付けだし、結果論だけどね。それに、ロベルトさんみたいに、外科的な困難を克服しようとする試みの方が、余程、根気のいる努力だと思うよ」


 少女のその顔はあっけらかんとしたものである。晴がましいようで、何処か面白い。多分、彼女が気に入る物事は、この世界の理に即しているのだろう。だから、良いといえば、良いし、駄目だと感じるなら、それは駄目、一つの可能性もないのである。それが、機構であろうと、フランチャイズであろうと、国であろうと、人間であろうと。恐らく、形式なんて些末なものは問われない。


「・・・成る程、合点がいった。この仕事、最後まで名誉を持って、事に当たらせて貰おう」


 不覚にも、ロベルトはこの世に生まれて来た事を嬉しく思った。6歳の時、ルームメイトに怪我をさせて、黄に太極拳を御見舞いされた時以来の感動である。自分には、存在意義があるのだ、と感じさせてくれた瞬間でもあった。








「―さて、そろそろ行こうや、ロベルト。水素ボンベ、直結してくれや」


 バックミラー越しにロベルトの方を見遣る。打って変わって、その顔はさっきまでと違い、池井戸が今までに見た中で、最も苦渋に満ちた表情に変わっていた。缶コーヒーの中に間違えてラッキーストライクを入れて手渡した時でも、こんな顔はしなかったはずだ。


「・・・アレをやるのか、余り推奨はせんが・・・」


「やるしかねぇだろ、どの道袋の鼠なんだ。チキンランから、イーグルニーブルとしゃれ込もうや!」


 叫ぶや否や、池井戸はシフトレバーを前に押し込んだ。デジタルパネルの表示が、RからD、ドライブへと変わった―




 シュー、バチバチ。後ろで、どう考えてもヤバそうな音がする。音の正体はハイメディックの床下に格納された水素ボンベと、それを直結させた内臓バッテリーである。かの悪名高き四代目ハイメディックに格納されていた発電用の水素ボンベだ。衝突事故の際、水素爆発を起こし、中部の街一つ消し去ったとされている曰くつきの一品である。通称、ソドムとゴモラと呼ばれていた。今どき、好き好んで積んでいる奴なんて、池井戸とロベルト位だった。


 廃棄物置き場に無造作に捨て置かれていたそれを、池井戸達が拝借したのである。プラズマが放電し、シリコンバレー製のモーターが唸りを上げた。CVT方式であるエンジンは、基本的に何処かにガタが着ない限り、理論上、青天井で出力が得られるのである。


「・・・やっぱり、止めないか、コータ」


 後部シートに着席してシートベルトを締めたロベルトが言った。その顔にはもはや諦めの表情が浮かんでいる。


「大丈夫だ、運転は俺に任せるって、最初に組む時、約束したろ?」


 ロベルトの忠告を、池井戸はやんわりとそういって断った。


 バックミラー越しに、ロベルトが黙って首を横に振るのが見えた。


 直後、池井戸はアクセルとブレーキを同時に踏み込んだ。




 ギュラギュラギュラギュラ、車体の底からたちどころに白煙が舞い上がった。後輪が、空転しているのが分かる。辺りが途端に焦げ臭くなった。ココから先はステアリングからの振動と、モーターの駆動音が勝負である。ブレーキを離すのが早ければ速度が足りないし、遅ければ、それはそれでハイメディックの高い重心ではウィリーして、下手をすれば横転する危険があった。


「―今だ!」


 次の瞬間、池井戸はブレーキから左脚を外し、アクセルを底まで踏み込んだ。


 グオン、という今までに感じたことの無い力が池井戸達を襲った。シートに、体がめり込んでゆく。池井戸は接地感覚のなくなった前輪を絶妙に操作しながら、ウィリーする車体のバランスを辛うじて保っていた。ガクガク、と上下に揺れる車体。揺れるデジタルパネルの向こう側で、速度計の表示だけがぐんぐんと上がって来ていた。―100km/h、120km/h。


 


 140km/hを過ぎた辺りで、フロントの接地感が戻るの池井戸は感じた。


 ホップアップをしていた車体が元に戻るのと同時に、池井戸達の前に新たな脅威が姿を現す。


「―うわっ、あの野郎、突っ込んできやがった。野郎、さては差し違えるつもりだな?」


 フロントガラスの先に、迎い風で髪型がオールバックになった森田が、自信満々な顔で、こちらに突っ込んでくるのが見えた。大方、若かりし頃、青春の煌めき、暴走族時代でも思い出したのだろう。はっきり言って、はた迷惑極まりなかった。


「Idio(馬鹿野郎)! コータ、お前が煽ったんだろうが、チキンレースだって!」


 返す言葉も無かった。というより、そんな暇も無かった。


 瞬間、池井戸の脳裏で幾つもの光景がフロントガラスからの流れては消えた。今まで培った諸外国放浪の経験の中から、何とか解決策を見出そうとしたのだ。世間一般では、それを走馬灯と呼ぶのだが、池井戸にはそんな事を斟酌する余裕など無かった。


 東はブラジルのイグアナ、西はモロッコのサハラ砂漠まで走り抜けた池井戸広太の膨大なデータの中にも、この窮地を切り抜ける術は残念ながら見当たらなかったのである。


 まさか数々の死地を潜り抜けた池井戸も、日本国の第一皇位継承者と21世紀の間に完成されてしまったターミネーターと共に、いきなりサボタージュをかました宮内省のSPにチキンランを挑まれるとは思っても見なかった。インド人も笑うだろう。それから、タージ・マハールを煙草の失火で燃やしたのは流石に不味かったと反省した。アレは笑っていたのではなく、おそらく怒りを通り越してブ千切れていたのだろう。


 この間、0,3秒。世界中の旅をした。地中海は行った。テヘランも行った。九龍城も行った。コロラドのスプリングスへは行かなかった。世界中の車窓が、池井戸の眼前を、横切っては消えた。


 


―あっ、ヤベっ、俺死んだわ。良くて半死にだわ。


 結局、チンピラ救命士も死を覚悟する他なかった。最後の選択肢として、ハンドルを切るというのもあったが、トドのように横転しまくって、死ぬのが関の山だと思った。


 不思議な事に最後の瞬間はなかなか訪れなかった。全てがスローモーションで、再生されてゆく。まるでコマ送りのパラパラマンガだ。音だけが消え、周囲の光景が、ひたすらゆったりと流れる。


 気付けば、あれほど暴力的だったハヤブサの空冷エンジンの嘶きも、そろそろ液状化を始めて本格的にヤバい、ハイメディックのリチウムイオンバッテリーが織りなす戦慄の多重奏も、聞こえなかった。


 ハイメディックのデジタルパネルのスピードメーターが目に入る。180km/hと表示されていた。アナログ表示の方はすでに天井である。後はデジタルのそれに頼る他ないが、これから死ぬ自分にそれがどんな意味を持つのだろうかと池井戸は考えた。


 どの道、直進しても、眼前に迫った奇天烈ヘヤーの皇居警視が駆るハヤブサと正面衝突するだけである。その衝撃で自分は死ぬ運命になる事は分かっていたのだが、分かっていたのだが、最後の最後、池井戸は悪あがきをした。


―神様、どうか助けて下さい。




 この期に及んで、神頼みに及んだのである。


―アラーでも、キリストでも、仏陀でも、八百万の地方神でも、この際、何でも良い。兎に角、何でもいいから助けやがれ、こん畜生! あぁ、どいつもこいつも頼りねぇなぁ!


 勝手にイメージした偶像に、勝手に悪態を付いているのだから、身勝手な事この上ない。どの神様も首を横に振ったが、一人だけ助けてくれそうな人物に心当たりがあった。


―助けてくれ、ウィッチ! お願いだ!


 迦葉山の雲海の上で、仙人が笑った気がした。何処からか、口笛の音色がする。


―良いよ、ボーイ。その代わり、うちの若いのを、一人、頼む。絶対に生きて帰ってくるんだ。


 天の声が降りてきた。効果はてき面だった。




「―森田ぁア! 右たら、右、避けたら、避けぇえぇエぇエぇえ!!」


 後部シートで、擦った揉んだした後、もはやぐるぐるになって、人間なのか蛹なのか分からなくなっていた瞳子が突然、自分のウォッチに向かって吠えたのである。跳ね起きた所を見ると、人間である。まるで、サイレンか何かのような警告音を思い出させる甲高い声。これは、何だろう。八咫烏の鳴き声でもなく、ボクシングのボックスに響き渡る金属音でもない。そうだあれだ、踏切の、遮断機が、閉まる時の、音。


 体をくの字に曲げ、瞳子が、肺を絞り出すようにして叫んだその声は、果たしてウォッチ越しに、森田の耳に届いた。ヘルメットをしていない事は幸いだった。




―右だ。クソ眼鏡。


―右だ。チンピラ。


 その時、池井戸と森田の意識は確かにシンクロした。


 池井戸がハンドルを左に絞ると同時に、森田が右足の太腿をエンジンタンクに叩きつけた。二つのラインが、クロスする。ハイメディックの傾いたモノコックボディと、ハヤブサの傾いたフレームが、限りなく近づいてから遠ざかっていった。一瞬の出来事である。


 すれ違ってから、0,5秒後、ウォッチを通して、ガリガリガリ、というアスファルトがハヤブサのボディを引っ掻き回す音がした。森田が体勢を崩して転倒したのだ。




「―森田ぁア! 森田ァ!! 起きぃいぃイ!! ・・・違った、森田さん! 大丈夫!?」


 後ろで瞳子が暴れている。それでもハイメディック一号車はその速度を落とす事は許されなかった。池井戸はデジタルパネルに目を落とす、もはやアナログパネルは振り切っていて意味を成さない。デジタルでは220km/hだと表示されていた。今仮に、池井戸が絶妙なブレーキングドリフトで運動エネルギーを逃がしたとしても、距離が足りない。すでに事切れた幹線道路は眼前50mに迫っていた。


 


「一義!」


「うるせぇ! 生きてるよ。それより歯ぁ食いしばれ! そろそろクライマックスだ!」


 はるか後方で、薄汚れてすっかり灰色になったライダースーツが動いた気がした。




―残り20m。


「ホントに!? ホントに、ホント!? コータ、嘘だったら絶対許さないんだからね!」


「あぁ、しっかり見えたよ! 俺の動体視力、舐めんじゃねぇ! 口閉じてろ、舌噛むぞ!」


 ハイメディックはさらに加速を続けた。ついに、目の前の空間が、本当に何も無くなってゆく。


 池井戸はきっかり3秒後にセットしたスタンロッドを口に咥え込む。それから、サイドブレーキの隣に仕込んだ、特注の独立懸架方式のサスペンションのイグニッションスイッチの真髄を見せる時が来たのだ。




―0m。


「―いくぜ、ロベルト! トーコ! ICUもひとっ飛びだ! 天国までかっ飛ばして行こうじゃねぇか―」


 ドン、想像以上の衝撃が下腹部を襲った。一瞬、視界が白ける。


 その時、池井戸は完全にステアリングが離れたのを感じた。四肢が、車両の四輪全てが、重力の束縛から解き放たれる感覚。池井戸の人生の中で、もしかしたらもっとも不思議な感覚だったかもしれなかった。


 次いで池井戸は助手席の窓を見遣った。独特の浮遊感に、弧を描くように流れる車窓。その時、池井戸は、あぁ、これが空を飛ぶという事かと思った。




 事実、ハイメディックは空を跳んだ。太ったトラフグのような車体の射影が粉雪の積もった路面を流れる。1tはある車体が空を跳んだのである、ジャンクショップ・ヤマガの看板に不可能は無いのだ。今度の空中遊泳の時は、前輪と後輪に6:4の割合で仕込んだ火薬以外で推力を捻出して貰えれば、なお良かった。




 池井戸はしばらく足元だけの無重力状態を楽しんだ。流石に成層圏からMIGで垂直降下した訳ではないので、完全なフリーフォールとはいかないが、それでも楽しいものは楽しい。




 夢見心地で宙を彷徨っていると、ふと今日はクリスマスだった事を思い出した。


―そうか、俺達は聖夜のサンタクロースなんだ。


 チンピラ救命士が盛大にそんな勘違いをした上でバックミラーに目を遣って、視線を前に戻した。ターミネーターとシマリスのかき揚げの天ぷらなんて見なかったのである。


 ちなみに見えたと言うは嘘である。森田のうめく声がウォッチを通して聞こえたのだ。まさか、死体、間違った遺体が喋る訳はあるまい。


 何処かで、あのフランケンも笑っている事だろう。ICUで、今日も今日とて馬車馬のように働く福本の顔を池井戸は思い浮かべた。人相の悪い顔で、わかばに火を着ける。それから―




―図に乗るなよ? チンピラ救命士。


 唇とも言えないその唇が、そんな事を言った気がした。夢から、覚める時間だった。


 


 次の瞬間、池井戸達を乗せたハイメディックは再び現れたアスファルトの路面へと、無残にも叩きつけられる事となった。


 頸椎に、衝撃が走る。それは脳天まで達して、池井戸の脳細胞を激しくシェイクした。


 幽体離脱しかかった池井戸の魂は、寸での所でスタンロッドのタイマーによって呼び戻された。出力をそれなりのものにしていた事もあって、流石に爽快な目覚めだった。


 チンピラ救命士も思わず笑顔になった。頬が変な形でしびれて動かなくなった訳では無い。


―ギャイン、という金属のスプリングがひしゃげて戻る、音がした。


 とりあえず、何とか後輪から着地出来たようであった。そうでなければ、自分達は幹線道路の上をサイコロのように転がっているはずだった。アクセルはジャンプの時から踏みっぱなしにしてあった。


 伸びきりかけたスプリングは、何とか衝撃を吸収してくれたかに見えたが、やっぱりそんな事は無かった。そこかしこで、ハイメディックのモノコックは悲鳴を上げる。




―ガウン    ガウン   ガウン  ガウン


 車体の前後の揺れはなんとか収まりつつあった。左右にぶれがちだったステアも次第にまっすぐになっていく。後は、首都高速5号線に乗り上げ、緊急退出路から一路、皇居外苑直下の駐車場まで辿り着けば良いだけの話しである。というより、これ以上の強行軍は誰がどう見たって土台無理な話しだった。心無しか、車内の風通しが良くなった気もする、恐らく、モノコックボディが歪んで、外の空気が入って来ているのだろう。


「うううっ、気持ち悪ぃ、我ながら無茶したもんだ。ともあれ、何とかには不時着に成功だぜ、畜生。ざまあみろってんだ。 ーおい、ロベルト、いい加減、嬢ちゃん、解いてやってくれ。気絶してんだろ」


「・・・うーん、生きてます。嘘ついたら、針千本呑まします。ゲロゲロ」


 シートベルトで雁字搦めになった瞳子は、何やら呪詛を呟いている。機嫌が悪いのだろう、確かに、車酔いするには十分すぎるスタントだったには違いない。


「ちょっと待て、俺も自分のだけで手一杯だ」


 伸びきったシートベルトをロベルトが力任せに引きちぎろうとして悪戦苦闘していた。池井戸はうんざりして正面に顔を戻した。もう、燃料も残り少ない。ひと山片付いて、肩の力が抜けるのを感じた。さっきの着地の衝撃とスタンロッドの衝撃で、少なからずダメージが蓄積している事もあった。


「―あぁ、そうかい。どの道、先を急ごう」




 皇居の地下駐車場までの道のりは、あっけない程にすんなり行った。何かしら妨害があるかもしれない、というより、あって当然だろうと考えていた池井戸も拍子抜けするほど、ツクモのロゴも、デリカのエンジン音も聞こえなかった。というより、そもそも、首都高速自体、気味が悪いほど車の量が少なかった。


 乱立した高層ビルの下、はるか下界ではハザードランプがうようよと犇めいている。


 まさか、首都高全体の入り口が封鎖されているのか、とも思ったが、この様子ではそのまさかなのかもしれないと思った。




 オレンジ色の非常灯の明かりを受けて、ハイメディックはその通路を進んでゆく。退出路は思った以上に簡単に入る事が出来た。入口で警察官が誘導灯を振っている。辺りにも、パトカーやら護送車やらが縦列駐車で幹線道路の両端に並んでいた。


森田が、作戦開始前に、現場近くまで行けばなんとかなる、といっていたのはこれかと池井戸はその時思った。森田が最後に仕掛けた罠には到底思えなかった。我が野を行くように、首都高のど真ん中を通る一台のハイメディックに向けて、居並んだ警察官達が敬礼を向けてくるのだ。なんだか、むずかゆい気分である。中には私服組もチラホラ見かけた。背広組も見かけた気がする。どれだけ、ツクモに金があっても、これだけ大隊規模のエキストラは集めきれまい。




「おーい、嬢ちゃん。起きろ、もうすぐ実家だぜ」


「・・・・・」


 後ろから返事は返って来なかった。ロベルトの方はバッテリーが短絡を起こしたのか、それとも関わり合いになりたくないだけなのか。目を閉じて瞑想したまま動こうとしない。


「なぁ、悪かったよ。・・・あの場じゃあ、ああする他無かったんだ。いい加減、機嫌直してくれよ、お姫様」


「うるさいっ!」


 少女はそう叫んだきり、また黙りこくる。またやっちまったと池井戸は思った。瞳子はさっきから頻りに自分のウォッチと睨めっこしていた。


「・・・んんー、森田が電話に出ない。さっきからコールしてんのに。バイタルはあんのに、生きてんのに。あの薄情者め、あっ、出た」


 途端にしかめっ面が笑顔になる。何やら、怪我はないかとか、あーだこーだ言っている。しばらくして、頼んでもいないのに池井戸のウィッチにも回線を繋げて来た。


「・・・いや、おみそれいりました。まさか、救急車が空を飛ぶとわね。おかげで愛車が、パーだ」


 向こうも向こうで後片付けが忙しいのか、其処彼処で重機が稼働する音が聞こえる。流石に道に大穴を開けっ放しにしておく訳にもいかないのだろう。


「ざまみろ〜やーい、やーい。私を裏切って賄賂なんか貰ってた罰が当たったんだ〜やーい」


 瞳子が後ろで舌を出して森田を馬鹿にしている。散発的に、銃声が混じる音もあった。それから、周波数の違うサイレンの音、どうやら県警か機動隊がさっきの現場に到着したようである。パラパラ、という独特のローター音も混じっている事を考えれば、自衛軍もお見えのようだ。


「そろそろ、私もお暇しましょうかね、ここらも騒がしくなって来た」


 カラカラと言う音が聞こえる。どうやら、フェンダーの一部が折れたのを、地面に引きずっているらしい。セルが回らないのか、さっきからプスンプスンと始動を試してはエンストする様子がした。


「ー瞳子さん、最後に一つ、御願い、聞いて貰えますかね」


 ウォッチの向こうで森田が呟くように言った。ツゥルルゥン、ツゥルルゥン、という、クランクが回り始める音がし始めていた。押し掛けの要領で始動を試したのが、どうやら上手く行ったようだ。


「何? 森田にしては珍しい事言うじゃん。あっ、ははあ、さてはこの瞳子様に平謝りしてSPに戻して欲しいって話し? うーん、どうしよっかなー」


「・・・違いますよ。全然。 ー私の願いは、“首都高における全面二輪車通行規制の撤廃”です。どうぞ、よしなに。全く、走りにくいったらありゃしねぇ。 ーでは、御達者で。其の、天運招来のあまねからん事を、祈って止みません。不肖、森田一義、貴方に仕えられた事を、光栄に思います」


 その瞬間、ハヤブサのエンジンが目を覚ました。その多少、くぐもった音を残して、森田はウォッチの通信を切ってしまった。


「あっ! ちょっと、何それ! 言いっぱなしって、こっちには言いたい事、山ほどあんだからね!」


 後ろで瞳子がまだ何か言っている。物言わなくなった自分のウォッチに、頻りに指で連打をかましていた。他のSPからの連絡や、先ほどから見かける宮内庁の応援からの連絡も来ているだろうに、まだ、森田にご執心のようであった。散々、思いあぐねた末、もう捕まえられないと判断したのだろう。膨れっ面で、後部シートに座り込んだ。


「・・・礼を言いたいのはこちらです。今までの奉公、大儀でありました。汝が、武運長久に栄えあらん事を。本当に、有り難う。心の底から、感謝します」


 彼女は、目を瞑って、それから誰に言うでもなくそんな事を言った。電化製品などなくとも、その想いは遥か悠久を越えるのであろう。瞳子が瞑想している間、不思議な感覚があった。何か、青い、靄のようなものがフロントガラスの周囲に張り付いているように見える。恐らくは、幻覚なのであろう、ワイパーを稼働させようかと思って、止めた。まぁ、長い人生、生きていれば色んな事に遭遇、あるいは、相見える。




 ふと、池井戸は、後ろの少女であれば、この世の森羅万象の理、その答えを、知っているような気がした。ともすれば、聞いてみたい質問が頭に浮かんだ。


「・・・なぁ、お嬢ちゃん。瞑想してる所、悪いんだけどよ。どうしても、聞いてみたい事があるんだ」


 池井戸はタイミングを見計らって聞いたつもりだった。瞳子の方も、その思念伝播めいた集中は、もう十分のようである。


「ー何?」


 うーん、と体の凝りを解すように、伸びをしてから、聞き返す。ついさっきまで、シートベルトに縛られていた事を、体が思い出したらしい。


「いや、大したアレじゃ、ねぇんだけどよ。 ・・・山と海、っつたら、どっちが好きだ?」


 池井戸は何度かこのハイメディックに乗り込んだ乗客よろしく、同じ質問をぶつけた。前に、黄にも似たような事を聞かれた気がする。そしてなにより。瞳子が、皇族が、この質問に対してどう答えるか興味があった。


「ー川、かな」


「川!?」


 答えはすぐに帰って来た。池井戸の想定の斜め上を行く回答である。おかげで、思わず、次の質問を忘れそうになる。


「うん、川。可笑しい?」


「可笑しいも何も、山と海の二択って言ってんだから、嬢ちゃん。どっちかにしてくんねぇと、後が困るんだよ」


 瞳子が後ろでコロコロと笑っている。その容貌はシマリス科の小動物を彷彿とさせ、愛くるしい事この上ない。思わず、こちらの威勢も削がれてしまう。


「冗談だよ、冗談。それで?」


「それでって言ってもな、例えばー」


 池井戸はハンドルを取りながら、続きを言おうとした。それを瞳子の声が遮る。


「例えば、山なら、遭難した時に山岳救助隊の人にどうして欲しいか、あるいは、海なら、沖に流された時に、海上保安庁の職員さんにどうして欲しいか、って訊くんでしょう、どうせ」


「・・・あぁ、まあな、まぁ、そう言う事だ」


 頭の中で苦心惨憺して頓知を捻っても、立ち所に察せられるのだから、仕様がない。まぁ、そもそも、瞳子を試そうとする事自体が誤りなのかもしれない。果たして、四六時中、こんな風で、辛くはないのだろうか。そう言えば、さっき、ロベルトも似たような事を訊いていた気がする。


「大きなお世話。それにね、四六時中って、訳じゃないよ。 “見える”のは、可能性を感じさせてくれる人だけ」


「ー何だって?」


 池井戸は唐突に現れた案内板に目を奪われて危うくハンドルを切り損ねる所だった。どうやら、首都高からは出ずに、緊急退出路から直接、皇居の地下へと行くようである。ここから先は、森田のくれた作戦概要にも余り詳しくは載っていなかった。大方、道順を全部覚えられたら、後々面倒だとでも思ったのだろう。それとも、皇居警視でも、易々とは手に入れられない代物なのかもしれない。


「ううん、何でも無い。 ーそれより、山と海の話し、続き、聞かせてよ。ちなみに、私の答えは“川”であってるからね?」


 池井戸は唐突に現れた不親切な案内板に腹を立てつつも、スピードが出過ぎている事に気付いて、アクセルを緩めた。どうやら先ほどの衝撃で、デジタルパネルの速度計が往かれたらしい、思ったより、速度が出過ぎているようだ。


「あー、どういうこった」


 久しぶりに高速を走った事も影響しているのかもしれない。ただでさえ、フレームにガタが来ているのだから、細心の注意を払う事に超した事は無い。


「質問自体が、ナンセンスだって事。多分、私が、自己責任がどうだって、言い出して、無償の善意、救命救急やら、公共財を馬鹿にした後、揚げ足を取る形で、嫌みを言うつもりなんでしょう。


 ・・・いや、そうじゃないな。コータなら、言えるのか」


 瞳子のその言葉に池井戸はピクリと反応した。




「・・・どうして?」


「ー何?」


 少女の声が耳元で、不思議と近く聞こえる。瞳子は運転席の傍に寄りかかって、座席の両肩を抱く形で、立っていた。


「どうして、俺なら、大丈夫なんだ?」


 オレンジ色の非常灯の明かりが、視界の奥から端へと消えて行く。こういう景色の時は、往々にして感傷的になりやすい。


「だって、コータが医療従事者で、実際に人助けをしているから」


 不意に、目頭が熱くなった。


「この話しの論点は、私が、つまり、聞き手が一人称で、その立場に立った場合、実際に山で遭難したり、海で流されたりした時、同じ事、言えるのかって、事でしょ」


 分かってくれる奴がいたのか、と思った。頭では分かっていても、ずっと、言葉に出来なかった事だ。中東で、復員トラックを転がしている時からずっと、思っていた事だ。


「・・・じゃあ、なんで川なんだ?」


 俺なんか、まだ可愛い方である。およそこの国で、救命救急に関わる全ての人間ならそう言うであろう。さっきの台詞は確かに16のガキにしてはぐっと来た。だからこそ、その真意を確かめたかった。


「さっきの“川”って答えは、意地悪な人向けの、一つ目の意味。貴様等は因果関係がないのに、何故、言いがかりをつけているのかって事。まぁ、百害あって一利無しの、有害テレビのコメンテーター、とか、自称、知識人、とか。後は、何食わぬ顔で、公共の利益を貪り食って、惰眠を貪っている、道行く通行人、御三家、サラリーマンとか、専業主婦とか、学生って、まだいるのかな? とか、こういうのは、まぁ、口を開く前に、そっ首、叩っ切っちゃえば良いんだけど」


 不思議と左耳が気持ちいい。まるで、天国か何かにいるかのようだ。多分、中東で一緒だった連中も聞いているに違いない。


「うん、うん、なるほど。それで、もう一つは?」


「うん。もう一つは、アンタ等向け」


「えっ?」


 不意に、左ポケットに伸ばしかけた手が止まった。そこには、封が切れてあるラッキーストライクが入っている。


「二つ目の意味、それは“天は自らを助く者のみを助く”という事。普段、好き勝手しておいて、いざ、困ったときだけ助けてくれってんじゃ、虫が良すぎるよね。そんなのに使う、税金なんて、最初から予算に組み込まれていないと思うんだけどなぁ?」


 池井戸の、煙草に伸ばしかけた手が止まっていた。瞳子の言葉に対して、ぐうの根も出ない。


「安心してね、池井戸さん。貴方は関係ないんだから、むしろ、貴方は、良くやっている方です。病院での勤務成績、見させて頂きました。感動です。やっぱり、貴方の取捨選択、勘は大いに正しい。天下太平に成り代わって、今ここに礼を申し上げます、あっぱれ」


 バックミラーには、瞳子の喜色満面の笑顔が、明々と写っている。


「・・・なんて言ったら良いのか、わかんねぇけど。・・・ありがとな」


 池井戸はそう、鼻を掻きながら呟くので誠意一杯だった。年甲斐も無く、恥ずかしい。この国で、彼女に太鼓判を押される事程、名誉な事も無いのであろう。それこそ、百年の不遇も消し飛んでゆくというものである。


「ふっふっふー、善きに計らえー」


 当の本人はそんな事を言って高らかに笑っていた。やけに広くなったハイメディックの後方で、そう言ってクルクルと回ってみせる。踊っているのだろうか、バックミラーに、在りもしない天の羽衣が見えた気がしたが、もう気にしない事にした。恐らく、国政選挙に出ても、ミーハーなファンからの握手の御願いなど、叩き落とされるに決まっている。慣れてしまえば、ニコチン漬けの池井戸の感性にも、その威光は目映いばかりに輝いて見えるのだから。はっきり言って、そのオーラは、だだ漏れである。ここまで来れば、生まれた星が違うとしか言いようが無い。




「―ふっ」


 後ろでロベルトが笑った気がした。


「―おい、何が可笑しいんだよ。今まで黙ってやがった癖に」


「いや、何でもない、気にするな。 ・・・ところで、コータ、お前、ヒヤリハットの法則を知っているか?」


 もう喧嘩する気力も無かった。池井戸は何とかハンドルを握って到着地を目指す。バックミラー越しに後ろを見やると、心臓の無い男が楽しそうに、後部トランクの方に向けて、脚を組んで笑っていた。普段はやらない仕草である。何やら楽しそうではあった。


「・・・そうだな、天気予報の確認もせずに、洗車する馬鹿は、車持たない方が良いな。そんで、カーペットの上でバター付けたパン喰う奴は、死んだ方がマシだ。事故というものは、未然に防ぐ、予防するものである。 ・・・そう言いてぇんだろ、ロベルト。おまけに、普段、散々に他人様に迷惑かけて、事故の芽を振り撒いておいてから、いざ事故が起こった時に、目に見えやすい当事者のせいにする奴は、屑だわな。イオンとかで、嫁に荷物持たせて、デカいして、これが肩で風切って歩くって勘違いしてるバカとか、ミッションで、ブレーキランプ付けずに、そっちが打つかって来たんだっていうアホとかな。下請け、孫請け、責任転嫁大国の日本じゃぁ、良く在る事か。確か、広義で言ゃあ、劇場型犯罪の典型じゃなかったっけ? そういうの? 騒乱罪とか、んー、何だ、内乱誘致罪だっけか。あれは、日本じゃ、どう裁かれるんだっけか?」


「死刑だ」「死刑だよ」


 池井戸が何の気無しに口にした問いに、ロベルトと瞳子は、同時に答えた。ロベルトの方は、苦虫を噛み潰したような顔である。瞳子はというと、何とも言えない、真顔であった。もしかすれば、ものすごく、怒っているのかもしれない。池井戸は今度から、例えば、バック駐車で困っている美人を、後ろから煽るような下衆は、容赦なくハイメディックの車輪の轍にしてやる事にした。絶対に、其の方が、ご利益があるはずである。というより、これ以上の、不誠実に対する、見てみぬ振りは、国家的に不味いのだろう。マイナスの、ジャックポッドが溜まっているのである。それこそ、台風、地震、活火山噴火、所か、この分では隕石だって直撃しかねない。地球規模で、日本という国が、キャッシュフローされた時、巻き添えを喰うのは御免である。せめて、自分だけでも清く正しく在りたいものだ。池井戸はその点、諸外国を行脚して来たので、パーソナルスペースの取り方には自信があった。その点、この国の国民の大半は、マクドナルドが提携している養鶏場のチキン以下の無神経さである。おそらく、テキサスに連れて行けば、良い蜂の巣である。その“馴れ馴れしさ”自体が、傲りが、有色人種差別の一因になっていようとは、義務教育で、文化教育、をやらないこの国の国民には、マグナム44に体幹をぶち抜かれるまで、分からないのであった。




 そんなものは、総武線に乗ってみれば、誰でも分かるはずなのに。


 そんなものは、千葉ロッテマリーンズの、背番号43番でも、分かっていたはずなのに。


 誰も改善しようとしなかった。そして、天災が、降りた。いや、人災と言った方が適切だったのかもしれない。池井戸が中東にいた時も、それはニュースになった。中性子がこっちまで飛んで来た。2020年の話しである。五年で良くここまで回復したものだと、それだけは元日本国民として感心したものである。








 ゴールは目と鼻の先のはずだった。


 皇居の下に、馬鹿みたいに広い空間があった。陥没しないのかこれ、と思いながら池井戸は車を走らせる。いつの間にか先頭に着いてくれた二台のバイクに付いて行くと、杜の社が現れた。階段を登った先の天幕の布には、中央にデカデカと桐の紋が描かれている。


 バイクのエスコートは杜の社の前までだった。そろそろ、シャーシが行かれて蛇行運転気味になりかけているハイメディックを横付けしてやると、代表の一人が出て来た。それから、続々と、社の奥からは、トミタで見たようなSPが続々と登場する。さっきのツクモとのトラブルで、対応が遅れていたのかもしれない。ともあれ、もう森田のようなのは懲り懲りだ。


「よし、俺らに出来るのはここまでだ。お嬢ちゃん」


「そう、残念だね。オジサン」


 池井戸はそう言うと、シートベルトを外し、運転座席を離れ、後部トランクに顔を出した。そして、事の発端となった、瞳子その人と相対する。狭い車内なので、池井戸と瞳子の距離はそんなに離れていなかった。


「どうだい、はじめてのお使い、楽しかったかい?」


 池井戸は性懲りもなく、憎まれ口を叩いた。それに対して、瞳子は笑ってみせた。


「そう言う所、実は結構、私好きなんだけど、オジサン、気付いてる?」


 その瞳には案外、本気だった。シマリスのような容貌が、にまーっと、横に広がっている。笑っているのだ。


「・・・何の話しだ、それより、うれ」


 何か話そうかと思っていたが、忘れてしまった。それよりも池井戸は自分のウォッチを瞳子のそれに押し付ける。すると、ウォッチ同士が軽く点滅しあった。


「―何これ、連絡先?」


 瞳子が驚いたように自分のウォッチを眺める。


「あぁ、まだ交換して無かったろ。気に喰わねぇ事でもあったら、呼びだしゃ良い。何なら、トミタでも、ツクモでも、世界中何処へだってデリバリーしてやるよ。仮病でも使えば、迎えの運賃はタダだ。行きの運賃は、森田の野郎に前金で貰っているさ。何なら、奴のところだって、居場所が分かりゃあ―」


「それはもう、良い。あんな奴。もう大丈夫だから」


 瞳子は自分のウォッチをパシパシ、と叩くと、これ見よがしげに掲げてみせた。それから、いつものようにクツクツと笑う。昔の男には未練がないタイプのようである。


「・・・ホントに大丈夫か? どうもお前さんの言い分はトンカチだから、東京何ぞでちゃんとやって行けるか不安なんだけどなぁ」


 池井戸は目の前の少女のこれからの人生の展望に想いを馳せ、急に不安になった。最後にかける言葉は何にしようか、と思って、さっきから考え込んでいる次第である。国政選挙に出る分にしても、この分では一悶着ありそうだ。一体、何を言えば良いのか。車外では一足先にロベルトが後部トランクから外に出て、代表の相手をしている。


「大丈夫、大丈夫、いざとなれば二人を助っ人に呼ぶからね、ビラ配りから、特に、コータは演説カーの運転からボディガードまで、何でもさせちゃう」


「無茶苦茶言うんじゃねぇよ、それじゃもう専属ドライバーじゃねぇかー」


「ーうん、そうだよ」


瞳子が振り返った。一瞬の出来事だった。しまったと思った時のはもう遅かった。


唇に、リップクリームの触感。それから、歯と歯が、ぶつからない位に、近づいてから、離れてゆく。離れ際に、チュ、という擬音が聴こえる。


「奪っちゃった、ファーストキスだったりして」


「・・・・・」


「ちなみに、私のは初めてだかんね。頑張ったコータに、プレゼント」


言葉が出てこない。彼女はそれだけ言うと、背後に振り返り、ハイメディックのトランクのドアに手を掛けた。それから一気に、そのタラップを駆けて行く。すれ違い様に、ロベルトが帰って来て、最後に二人を振り返ってこう言い放った。


「―バイバイ、WIZARD(ウィザード)、TEMPEST(テンペスト)、またね」


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