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二章 トミタ記念総合病院

 群馬の冬は寒い。特にシベリア高気圧が頼まれてもいないのに南下して来て、赤城山にぶつかった時なんかはそうである。




「―明日は、新宿公園か、天国かって、知ってるか? お兄さん」


 後部シートに横たわっている患者が口を開いた。池井戸はフロントガラスに降りしきるドカ雪との格闘で忙しく、それどころでは無かった。


「―はぁ? 何だって? こっちは運転で忙しいんだ。ロベルト、相手してやれ」


「おい、患者にそんな物言いはないだろう。済まない、うちの運転手が失礼した。是非、話を聞かせて欲しい」


 患者は酒に焼けた顔をロベルトの方に向けると、微かに微笑んだ。ボロボロになったステテコに、薄着の作業着を重ね着している。ゴムの伸びきった腹巻の上には、黒いシミが浮いていた。 ―喀血だ。肝硬変である、それも末期の。


 池井戸とロベルトがその腹巻の爺を拾ったのはまったくの偶然であった。


 池井戸達がいつも通りに深夜の街中を流していると、ウォッチがピコピコ点滅したのである。近くに、急病人、あるいは急に体調を崩した人間が居るという事を意味していた。


この場合、可能であれば、最寄りの、近くを通りかかった救急車に第一報が入る。こればかりは厚労省の定めた規定なので、無視すれば病院の点数に響く。だから、特に急病人のランクに関係なく、救急隊員は現場に急行する事となっていた。




 現場は敷島公園付近の住宅街にあった。所謂、高級住宅街という奴だ。止せばいいのに、群馬の田園調布なんて謳ったものだから、入居する世帯もそれ相応の連中である。要するに性格が卑しいのだ。ポプラ並木の街路樹に頭から顔を突っ込んで、半ば雪に埋もれている爺さんを掘り起こした時、警備員と管理人らしき男が揃って池井戸達の前に顔を出した。




 傍らにはブラックニッカの酒瓶が転がっている。雪の上には爺が吐いたとみられる血の跡があった。患者をハイメディックに運び込もうと奮闘する池井戸達に管理人たちは突っかかってきた。辺りの散らかった様子を見て、池井戸達、救急隊員に迷惑料を寄越せと言うのだ。




 池井戸は、うん、うんと相槌を打つふりをしながら、足元に転がっているブラックニッカをつま先で器用に蹴り上げると、そのグリップを掴むや否や、流れるような動作で管理人の脳天に酒瓶の底を叩きつけた。雪道の中にドサリと崩れ落ちて、良く喋るその口が動かなくなる。


 続いて警備員の方だ、と池井戸が億劫に体を反転させた時、雪原に二つの影が浮かんでいるのを見た。


「―患者の搬送手続き中なんだ、邪魔しないでくれ」


 片方が宙に浮きあがり、もう片方がその喉元を掴んでいる。警備員の方は口元から泡を噴いている。


能面のようなその表情が、月明かりに照らされてよく映える。額に、青筋が流れているのが見えた。


―へぇ、こいつでもこんな顔するのか。池井戸は相方の正当な緊急避難行為を見て、そんな感想を抱いた。






「俺達、建設業界の人間の間じゃあ、有名な話さ。ゴホッ、今日日、日雇いの大工の手取りなんざ、あってねぇもんよ。ネカフェに泊まる金すらねぇ。明日、目が覚めた時、果たして、自分が生きてるか死んでるかもわかりゃしねぇ、ってんで、そう言うの。明日は新宿公園か、天国かってな。結局は野晒しで、野垂れ死ぬしかねぇ訳よ、俺達なんざ。どうだい、お兄さん方、笑えるだろう。ゴホッゴホッ」




「おい、爺さん。あんまり喋るなや。舌噛むぞ」


池井戸はボタ雪相手に空転するタイヤを相手に悪戦苦闘していた。スタッドレスタイヤを履くような神経を、そもそも、この運転手は持ち合わせていないのである。理由は面倒だし、何より不経済だからだ。カーブに突っ込む時は、わざとリア側を前に出して車体ごとドリフトさせる荒業を繰り返す。




「―あぁ、コータサン! 危ないです、前見て、前!」


「テメェも黙ってろ、ラシード! てんで使い物になりゃしねぇ! サウジアラビアじゃあ、こん位の運転、当たり前だろ!」


 本日の池井戸の運転するハイメディックの助手席にはもう一人、患者とは別に“お客様”が乗っていた。


「そんな訳ないでしょ! あんなの一部の王族連中だけです。アレでショウ? 高速道路、ブッ飛ばししている連中でショウ? あんなのと一緒にして貰っちゃあ困りますよ! 大体、貴方の運転は乱暴すぎマス―」


「黙れ! さっきから毛布に包まってガタガタ震えてやがるだけの癖に! 患者の搬送すら碌に手伝いやしねぇじゃねぇか。何が、指が凍えて動けませんだよ。えぇ? ガタ抜かすんじゃねぇよ。次、ほたえやがったら、車道に放り出すぞ!」


「アンナジダ! アンナジダ! アラー、どうかお助けを、このままではラシードは、この異教徒に殺されてしまいマス!」


 ラシードと呼ばれた救急隊員は半狂乱になって騒ぎだした。池井戸はこの男を病院で拾った時の事を思い出して、激しく後悔した。給電ステーションで、池井戸達が一服していると、浅黒い肌の男が、金を出すから同乗させてくれないか、と半泣きで頼んで来たのである。このまま行けば、今月の営業ノルマ、もとい配車実績がヤバいのだと言う。


「何が助けてだ、都合の良い時だけ神頼みしやがって! あぁ? 大体ここは日本だぞ! 結婚式はチャペルでやって、正月は神社に参って、葬式じゃあ坊主が謳うんだ。元々一億総無神論者だよ! 畜生、もういい、後ろで呑んべぇの爺さんの相手でもしてろ!」




 ラシードはシートベルトを外すとそそくさと後部シートへと移動を開始した。器用なもので、軟体動物のように四肢を使って遮光カーテンの向こう側を目指す。正面衝突をした際、場合によってはそちらの方が余程危ない気もしないでもなかった。


 この軟体動物が元々運転していたハイメディックは今頃、スクラップになって新潟辺りから遥かユーラシア大陸に向けて出港している頃合いである。原因は、ラシードが敬虔なイスラム教徒である事が災いした。日に五回のお祈りをするのは良かったが、何も、それを日本の高速道路の中央分離帯の上で、路駐をしてまでやる必要はなかった。


TPOを考えず、ラシードが聖地メッカへ頭を垂れた瞬間、11tダンプのバンパーが、トミタが誇る高規格救急車の尻に触れた。ラシードのアラーを敬う心に嘘偽りは無かったのだろう、ひしゃげたハイメディックは空中で弧を描き、ひれ伏したラシードの、元々上半身があった場所を通過した。同乗していた二人の救急隊員達の話では、それが轟音を立てて着地した時も、本人は何事も無かったかのように礼拝を続けたそうだ。それ以来、不思議とラシードと組みたがる奴はトミタには居なくなった。一週間前の話である。




「お爺さん、いけませんよ。飲み過ぎは、お酒はアラーも禁止されています。あなただって天国に行きたいでしょう?」


「へぇ、天国だって? 天国ならここだよ、ここ。この台車の上だ。暖房も効いてるし、毛布もある。おまけに点滴まで打って貰えるなんてよ。まさか救急車が迎えに来てくれるなんて思わなかった。ゴホッ、これ、無料なんだよな? 俺、金持ってねぇぞ」


「? はい、困窮者を助けるのは義務ですから、当たり前でしょう?」


 アルコールホリックとイスラム教徒を一緒にして大丈夫かと思ったが、思いのほか大丈夫だった。何やら、遥か遠い昔、日本の高度経済成長の際の、出稼ぎ労働者の話題で盛り上がっている。


 どうやら、ラシードの爺さんも出稼ぎで日本に来ていたらしい。腹巻の老人も、興が乗ったのか、何処かの建設現場で一緒だったかもしれないと言い出す始末だった。それからはお決まりの、昔はピンハネが酷かっただとか、何処も同じだとか、そんな話である。話している当人たちは良いかもしれないが、聞かされる方はあまり楽しいものでは無かった。




 トミタのドデカい看板が徐々に大きくなってくる頃合いだった。悪天候の夜中でも、そのエンブレムは煌々と照っている。池井戸は、試しに後ろで応急処置に当たっているロベルトにバックミラーを通して目配せしてみた。―奴は、軽く、目を伏せたまま、何も言わなかった。






「―お兄さん方、有難な、まるでハイヤーだったよ。ゴホッ、これでもう思い残すことはねぇや」


 腹巻の老人は最後に池井戸達に縁起でもない事を言い残すと、ストレッチャーで運ばれていった。その顔は、少年のように無邪気なものである。胸元はというと赤黒いシミで一杯だった。




「―どうだ、あの爺さん、助かりそうか?」


「分からない。ひとまず、やれるだけはやったが、あの吐血量じゃ、もしかしたらがある」


 ロベルトは右手首をギシギシと軋ませながら、眉を顰めてそう言った。さっき警備員を締め上げた時の影響だろう。


「大丈夫か、さっきの警備員、100kgはあったろ。手首、イカレてんじゃねぇか?」


「―問題ないだろう、コンセプト上は、180kgfまで耐えられるはずだ。多分、神経系が少しずれただけだろう。後で修正しておく」


 鉄面皮の救急隊員はそのまま右手を伸ばすと、何事も無かったかのようにハイメディックへと戻って行った。




筑波が生んだ最先端サイボーグのスペックは高い。学術研究都市の知恵と技術を一心に受けたその体は、時々、規格外の性能を発揮するのだ。ただ、研究者の好奇心が被験者の日常での快適性より優先されているので、色々と不具合はあるにはあった。例えば、ロベルトの左手の握力は60kgfなのに対し、右は180kgf、瞬発的になら、300kgfは優に出るという。もはやオランウータンと良い勝負だった。


利き腕である左が合成樹脂と高分子を用いたソフトアクチュエータであるのに対し、右腕の補助筋線維はカーボンナノチューブを用いたCNT筋線維が埋め込まれていた。おかげで、掛けた電圧に比例して、無尽蔵の出力が得られる。利き腕で精密作業を、反対側で重労働を出来るようにという技術者の憎い心尽くしの結果だった。


一度、ロベルトにブラックコーヒーを渡した時、奴は左手でそれを握りつぶした事があった。中身がたっぷり入った、プルトップもまだ開けていないスチール缶である。




―あぁ、済まない。折角買ってきて貰ったのに、少し考え事をしていた。


 確か、奴はそんな事を言ったはずである。池井戸がロベルトに対して、いつも一歩引いた態度で接する理由もそんな所にあった。22世紀からやって来たターミネーター相手にまともに喧嘩を売る馬鹿はいまい。




「ロベルトさん、大丈夫ですカネ?」


「―あぁ、大丈夫じゃねぇの? さっき無理したんで。ちょっとバッテリー、上がっちまったんだろ。―今の問題はお前だよ、ラシード」


 実質、ただ乗りで配車成績を稼いだラシードは先程から上機嫌である。さっき助手席で騒いでいたのが嘘のようだ。


 患者がストレッチャーに乗せられる時と、病院到着後、ストレッチャーごと病院に飲み込まれていった時点のカウント、都合二回。その時、ハイメディック内に居た救急隊員のウォッチから信号が飛ぶ。これが配車実績の一部になる訳だ。


 救急隊員は乗り込む際に後部シートか、運転席に設置された認証コードに前もって自分のウォッチをタッチせねばならず、おまけに生体認証を絶えず確認しているので、例えば認証だけして、本人は乗り込まずにウォッチだけ救急車に放り込むような真似は出来なかった。ズルは出来ないシステムなのである。




「困った時は、お互い様、喜捨の精神ネ。細かい事、気にしちゃ、ダメ、ダメ」


 一瞬、その頭の立った鼻筋をへし折ってやろうかと考えたが、止めた。


 ラシードは悪びれる風でこそなかったが、他人を馬鹿にした感じはしなかったからだ。おそらく、立場が逆なら奴も同じことをしたはずである。心底有難がっているラシードの顔を見ると溜息しか出てこなかった。


「―それよか、あの爺さんの心配しなくていいのかよ。結構、親しげに喋ってたじゃねぇかい。お前さん」


「あぁ、向井さんの事、大丈夫でしょう。さっき、運ばれていく時、廊下の先にフランケンが立っているのが見えまシタ。あの先生なら多分、大丈夫、大丈夫。大動脈瘤が、今すぐ破裂しない限り、きっと助かりマス。アラーを信じる人に悪い人は居まセン」


「―へぇ、そりゃいいや」


 池井戸はそう言って懐からラッキーストライクとライターを取り出した。


 いつの間にかイスラム教に改宗させられた、あの向井とかいう爺さんの事を多少気の毒に思いながら、火を着けようとする。なかなか付かない、このボタ雪のせいだ。




「―何処に行くんです?」


 駐車ステーションに背を向けた池井戸に後ろから声が掛かる。


「コンビニだよ。こう寒くちゃ、敵いやしねぇ。病院ん中入って暖を取るんだ。ついでに煙草も空だしな、お前さんも一緒にどうだい?」


 池井戸が最後の一本を抜いて空になった空き箱をパカパカさせて見せる。対するラシードは肩を竦めて笑った。


「―生憎と金欠でネ。新車が配給されるまでの辛抱でス。待機所で次の救急車を探しまス」


 ラシードは救急隊員が詰めている詰め所を見遣って言った。病院のコンクリートの壁面からせり出した庇の下で、金に汚いゴロツキどもが蠢いている。スチールテーブルの上ではトランプが散乱している所を見ると、そろそろ誰かがギャンブルで負けた腹いせに喧嘩でも始める頃合いだった。灯油ストーブ一つで良くやれるものだ。




「―なんだ、ウチに厄介になるのは、もう嫌かい?」


「え? いや、嫌という訳じゃ。これ以上、お二人にご迷惑ヲお掛けする訳にはいきまセンから―」


 変な所で義理堅い奴だな、池井戸はそんな事を思った。


「―まぁな、寒さで凍えて指が動きませんってんじゃ、仕事にゃなんねぇわな。それじゃ何処が拾ったって同じだろう」


 ラシードが池井戸の言葉に苦笑いで返そうとした時、ボタ雪の中を黒い影が飛んだ。


「―おらよ」


「うわっ、何ですか、これ。爆弾ですカ?」




「違ぇよ、失礼な野郎だな、手袋だよ、手袋。 ―穴、開いてんだ。もし良かったら、使ってくれ。気に喰わねぇってんなら、悪いが捨ててくれや」


 チンピラ救命士はそれだけ言うと後ろで纏めた長髪を振り乱しながら、病院の裏口へと取って返していった。


 池井戸は配車統括部長のオフィスのドアに、爆竹で即席のIEDを仕掛けた時の事を思い出した。あの時は始末書一枚で済んだはずなのに、この尾ひれの尽きようといったら無いだろうと悪態を付く。流石に爆発のショックで統括部長が心停止を起こしたのは不味かった。とはいえ、ここは病院なので助かるのである。






「―貴方は良い人だ、池井戸サン」


 後ろでラシードが何やらブツクサ言っている。多分、色合いが気に入らなかったのだろう。流石にペルシャ絨毯とまではいくまい。池井戸は振り返る事なく、軽く手を挙げて見せた。


「ここは良い国だ。救急車だって、無料で迎えに来てくれル。異教徒だって、国籍だって関係なくネ。サウジアラビアじゃ、アり得ないよ。この国、良い国ヨ、ほんとに。ジャダの、お爺さまの教えに従って本当に良かった。 ―この手袋だって、ほら。穴、何て、何処にも空いてないじゃないデスか。 ―この国、良い国ネ!」


 池井戸は両手をジャンパーに突っ込んだまま病院内に入って行った。入口の手前にある排水溝に短くなった紙煙草を吐き捨てる。どうせ中国人のスタッフが大量に捨てているので、今更気にする者はいなかった。


―そんな良い国かねぇ、この国がよ。大体、俺が純正の日本人と言えるかえ。


 院内の生温い暖気が全身に押し寄せてきた時、池井戸はそんな事を思った。








 一路、コンビニへと急ぐ池井戸の前に、血まみれのフランケンが現れた。


「―うおっ、何だ。ドク、遂に人でも殺したんか」


 フランケンの正体は福本だった。咄嗟に、左脚から特製スタンロッドを抜くのを、寸での所で思い留まる。


「うん? 何だ、池井戸か。馬鹿、人なら四六時中殺しまくっているよ。俺は外科医だぞ」


「・・・・・」


 流石の池井戸も二の句が継げずにいた。そうこうしている内に、福本はわかばを取り出して一服を付け始める。




「―それで?」


「―何?」


「―いや、だからよ。殺したのか? さっきの爺さん、あの呑兵衛の」


「あぁ、さっきの爺さんか。そうか、運んで来たのはお前達だったんだな、道理で。大変だったよ、吐瀉物はまき散らすわ、大動脈瘤は破裂するわで」


「・・・死んだのか?」


 池井戸は思わず唾を飲み込んで患者の容体を聞いた。




「―まさか」


 対する福本の返事は淡白なものだった。


「―殺したって死ぬ爺さんじゃないな。ありゃ、瘤、破裂したっていうのに、ビクともしねぇ。笑ってナースのケツ触ってやがった。常人なら出血多量で、意識が飛んでいてもおかしくないだろう。多分、酒で頭がやられてるんだ。私は脳外科の専門じゃないから、解らんがね」


 福本は大して面白くもなさそうに言ってのけた。軽く、自分のこめかみを指で二、三回叩いて見せる。




「・・・ははっ、そうかよ。アラー・アクバル」


 池井戸はそう呟くと、力なく、血まみれのフランケンの傍を通り抜けて行こうとする。


「―なんだ、何時の間にイスラム教徒に宗旨替えしたんだ、お前?」


「―ついさっきだよ、じゃあな」




「―酒だ」


 脱力した池井戸の背中に追いすがる声がした。近頃、良く呼び止められる気がする。しかも、なんとなく気になる内容で。


「―酒が、あの爺さんを救ったんだ。頭が酩酊しているせいで、出血性のショックが緩和されて、心停止にまで到らなかった。まぁ、仮に心停止したとしても、あの毛の生えた心臓じゃあ何回でも生き返るだろう。大腿部の筋肉、見たか? 元鳶職だそうだ。心臓が二つあるみたいなもんさ」


 足元から崩れ落ちそうな話だった。振り返るのも馬鹿らしいので、これまた手を振ってさよならに代える。


「―極めつけは、あのドロドロの血液。全く見るのも嫌んなるし、触るのも嫌だったね、あれは。えぇ? 血管が切れたそばから血栓で塞がっているなんて、信じられるか? アレが無かったらどうなってたか分からなかった。大体―」


 そろそろコンビニが見えてくる頃合いだった。耳の奥で、フランケンの声がまだ反響している。池井戸は堪え切れず爆笑した。


「―ふっふっふっふ、こいつは良いや、傑作だ」


 何の事は無い。結局、最後は努力や友情などでは無く、エゴが人間を救うのである。後は、精々、あの向井とかいう爺さんの半生、その、日頃の行いが良かったのだろう。危篤の人間が助かるか否かの尺度なんて、それ位しかない。








「―何笑ってるの、オジサン。気持ち悪いよ」


「―えぇ?」


 流石にそのままの顔で売店のコンビニに入ったのは不味かった。あのシマリスもどきに見つかったのである。


「―何でもねぇよ、悪かったな。気持ち悪い顔で、患者が助かったんだ。目出度ぇ話だろ、ったく。可愛げのねぇ嬢ちゃんだ」


 池井戸はそう言って後ろで束ねた長髪のゴム紐を外してから、もう一度閉めなおして見せる。こうすると、心持ち、気分がシャッキリするのだ。それから、店内のお決まりのコースを辿って、何時もの品々ピックアップしていく。


「それとな、嬢ちゃん。オジサンはねぇだろ、オジサンは。オニイサンだろ、そこは。せめて名前で呼んでくれや」


「えー」


 店内には不衛生極まりない店員以外、池井戸達二人しか居なかった。流石に二回目ともなると、大体の事情も察する事が出来る。この時間帯に人が居ないのは、どう考えたっておかしかった。


「私だって、嬢ちゃんじゃないよ、名前があるもん」


「へー、そうかい」


 シマリスの令嬢は相変わらずパジャマ姿にスリッパで、雑誌コーナーで立ち読みしていた。さっきから店内に人気が無いので、堂々と大声で意思疎通をする事が出来る。もっとも、他人の視線があった所でそれを二人が気にしたかどうかは微妙であった。




「―池井戸広太だ、よろしくな。コータで良い」


「瞳子、瞳に子供の、子って書いて、トーコ。よろしくね」


 ウィンドウに二人の姿が並ぶ。何処となく似た者同士の二人だった。自己紹介の際も、お互いに目もくれず、目当ての物品を物色している辺りまでそっくりであった。どちらも、“子供”という一点で共通しているのである。




「―それで? 外に待機しているSP、お前さんのお連れさんかい。ちなみにトイレに隠れてんのと、奥の戸棚と、フードコートに隠れてる奴が三人」


「―へぇ、アレに気付くんだ。コータ、目が良いね」


 隣で瞳子と名乗った令嬢がケタケタ笑っている。後ろで、滲み出るように、人の気配が湧いて来る。片方はまあまあ、もう片方は、 




―ヤバい、本物だ。


 池井戸の本能がそう告げていた。ウィンドウ越しに、後ろの様子を窺ってみる。右奥の戸棚の向こう、懐に手を入れた険しい表情の大男。これは典型的だ。職業軍人上がりのSP、相当腕が立つ。正面からかち合いたくない相手だった。それはまだ良い。


 もう一人、今しがたフードコートから出て来た優男。物音ひとつ、スーツの衣擦れ一つ立てなかった。こちらが本命である。


嫌味な程に撫でつけられた七三分けの髪型に、常に口元に湛えられたその微笑。一見して、中肉中背の只の優男であるが、眼鏡の奥の、その瞳は正直見れた出来たモノではないだろう。笑っているのに、笑っていないのである。おそらく間違いない。


「―どうも、すみません。森田と言います。以後、お見知りおきを」




「―はい、どうも」


 池井戸は森田と名乗ったそのSPとあまり関わり合いになりたくなかった。


 九龍半島で、人民軍の情報部と鬼ごっこをした時の事を思い出す。あの時の連中と、奴は同じ匂いがした。ボールペン一本で、当たり前かもしれないが、人を文字通り秒殺出来るような相手と、積極的に親しくなりたいと思うような輩はいないだろう。


「―じゃ、俺、そろそろ行くわ」


 確か、あの時の雇い主の雇い主は、骨も残らないような殺され方をしたはずである。雇い主も消息不明、一緒に九龍城をひた走った同僚は、確か裏路地で冷たくなって見つかったはずだ。


 池井戸が助かったのは、質の悪い模造品のトカレフも放り投げ、一目散に、それこそ脱兎のごとく逃げたからだ。兄弟分のように、それこそ反撃の一つでもしようものなら殺されていたはずである。


この業界で生き残る才能として、一番に必要なのが、危機察知能力と、逃げ足の速さ、それから状況判断能力と、何より“運”だった。


19歳を迎えたばかりの日本人バックパッカーには、奇跡的な事にその全てが備わっていたのである。総参謀部第二部が製作した香港マフィア襲撃のリストに、コータ・イケイドの名前はその実、無かった。20歳を超えていれば、また話は違ったはずだった。




「そう? じゃあね、コータ。バイバイ」


 池井戸はパズル雑誌の今週号を手にすると、そそくさと退散する事にした。瞳子の後ろを通り過ぎる時、ちら、と彼女が呼んでいる雑誌を盗み見た。手に持っていたのは、相変わらずの旅行雑誌である。




 レジでいつも通り愛想の悪い店員が商品を袋に入れてくれる。その間に、池井戸はいつの間にか、自分の傍らに幽霊のように立っている森田と世間話に興じる事にした。


「―何だ、旅行位、連れてってやれや。どうせ、AAランクの御令嬢なんだろ、あの子」


「―どうも、すみません。それが少々、訳ありでして」


 森田は池井戸の隣で慇懃に受け答えをしてくれた。傍から見れば、ただ談笑しているように見えたかもしれない。


ただ、池井戸は左太腿に手をやったままだったし、森田はアルマーニの胸元に差した万年筆に手をやったまんまだった。


なんとなく左脚が痒くなった訳でも、たまたまインクが切れた訳でもなかった。


「どうして? ―わざわざ、深夜の病院のコンビニ、立ち読みの度に貸切りにする位なんだ。熱海のホテルでも貸切にする位、訳ねぇでしょうや。それとも何かぇ? 心臓にペースメーカーでも抱えてて、長期外泊は無理ってのかい? あの御嬢ちゃん」


「いえ、そのような事は御座いません。瞳子様は至って健康体で御座います。仮に、貴方様の御友人であらせられるロベルト・パトリック様のように、全置換型人工心臓の患者様でも、外泊は可能です」


「―知ってるよ、それ位。あいつが無駄遣いしねぇのは、性分なのと、お仕着せの改造手術の借金支払うので、首が回らねぇからだ。全くよ、何でもお見通しってか、畜生。―おい、店員さんよ、ついでに煙草一つとってくれや。ラッキーストライク」




 無性に煙草が吸いたくなった。かといって、後ろの優男に殴り掛かるほど池井戸は馬鹿ではなかった。代わりに、空になった包装フィルムを、胸元でグシャグシャに握りつぶす。


 店員は返事の代わりに舌打ちを残すと煙草を取りに向かった。池井戸は首を一回転させ、口元をひしゃげてみせる。戻って来た時の心積もりはもう決めていた。




「ちなみに、熱海の一等地のホテルを貸切りにした場合、概算で五千万、跳んで三百二十万ほど掛かります。見晴らしの良いペンションを購入した方が、お得ですよ?」


「―あぁ、どうも。そりゃ、ご親切に。  ―うら、死ねや」


 池井戸は目の前にいけしゃあしゃあと戻って来た店員の顎骨に、特製スタンロッドの先端を食い込ませた。


0,3秒の早業である。相手は綺麗もんどり打ってひっくり返った。軽い、脳震盪を起こしているはずである。力加減よりも、手首のスナップと、打ち込む際の角度が大事である。ちなみにやり過ぎると鞭打ちになって後遺症が残るが、今回はなるべく、そのやり過ぎを心掛けたつもりだった。




「―お見事」


 後ろで森田がそう囁くのを聞いた。つくづく嫌な野郎である。


「世辞は良いよ、バカヤロー。嫌味か、てめぇ、くそ。 ―おい、起きろ。チンピラ、手前ぇ次来る時までにちゃんとするか、バイト辞めて無かったら、その頭、かち割るぞ」


 池井戸はレジ台の下で伸びている店員に向かってそう言い捨てると、ようやく出来上がったレジ袋を取り上げる。ラッキーストライクの包装を乱雑に破って捨てると、躊躇いも無くその一本に火を着けた。もはや、院内喫煙のエチケットがどうとかはどうでも良かった。


 ラベルの包装紙を見る。何が“ラッキー”ストライクだ、ツいてねぇ。ともかく、その場を立ち去りたかった。




「どうも、すみません。 ―何分、性分なもので」


 後ろで慇懃無礼なSPが何か言っているのが聞こえる。池井戸は無視を決め込んで、歩みを止めないようにする。これ以上、その場に留まれば、それこそ、風車にだって喧嘩を売りかねなかった。正面から勝負を挑んで、万に一つ勝てる相手では無い事位、池井戸自身が良く分かっていた。そんな池井戸だからこそ、生きてこの地を再び踏めたのである。


「また、この時間帯にお越しください。瞳子様は貴方の事を気に入られたご様子です―」


 厄介な相手に気に入られたもんだ、と思った。自動ドアをくぐる時、その瞳子様の方に目を遣った。こちらに気付くと、何と笑って手を振ってくれた。流石に我慢の限界だった。




「―やかましい」


 池井戸はコンビニの自動ドアの前で立ち止まった。ドアがパカパカ開閉する。


 スー、と息を吸うと、吸いさしである一本目を、携帯灰皿にねじ込んだ。それから森田の方を振り返って、一息に捲し立てた。




「やかましい。こちとら急病人運ぶんで疲れてんだ、ボケ。ガキのお守りすんのが仕事のてめぇと一緒にすんな、タコ。コンビニは24時間営業、来るもの拒まず、去る者追わずが基本だ。くそったれめ。大体、てめぇも保護者なら、こんな時間に子供をうろつかせんじゃねぇや、ゴンダクレが。 ―どれだけ強えのか知らねぇがよ、まさか、充電完了したてのロベルト程じゃねぇだろや。今度、御託並べやがったら、轢き殺すぞ。何なら、このコンビニん中まで、ハイメディックで突っ込んだっていい」


 チンピラ救命士の面目躍如だった。深夜とはいえ、それなりに往来のある病院の廊下が、しーんと静まり返る。池井戸はそれだけ言うと、振り返りもせずにコンビニを後にした。




―またやっちまった、当分は、このコンビニにゃ、厄介になれねぇ。


 池井戸はそれだけ思うと、二本目の煙草を取り出して火を着ける。すれ違った看護師が明らかに自分から距離を取っているのは明らかである。少しでも印象を良くしようと院内喫煙だけは避けてきたが、それももう無駄だろう。








「―おう、今帰ったぜ。どうだい、腕の調子は」


「あぁ、おかえり。何てことは無い、形状記憶が変に掛かっただけだった。キャッシュを空にして、それでシステム、オールグリーンさ。 ―それより、いつものは」


 パズル雑誌にブラックコーヒーのセットを、池井戸が謹んで進呈すると“心臓の無い男”は勤務中にはまず見せない笑顔を見せる。それだけで、何故だか少しだけ得した気になるのだから、不思議である。そういえば、同僚内でもこの男の悪い噂は聞いた事は無い。


ロベルトは灰色の救急服の胸元から、よれよれになった短い鉛筆を取り出す。他に幾らでも良い奴があるだろう、と池井戸が言っても聞きやしなかった。このくたびれた鉛筆でやるから良いのだと言う。


それならそれで構わないが、だったらせめてトミタ製の奴を使って欲しいものである。営業部長か何かの前で、ポロッと落としたら事だ。あの菱形のロゴを見ただけで、営業成績がどうの、販売台数がどうのと半狂乱になるに決まっている。


 鉛筆業界だけは未だに、遥か昔、太平洋戦争以来、この国伝統の軍産複合体の寡占状態と決まっているのだ。主要株式のほとんどが、とっくに外資系に抑えられているからといっても、それだけは簡単に変わるものでは無かった。筆記用具はアメリカだろうがエリア51だろうが関係なく、やはり儲かるのである。




「―そういえばよ、帰りしなまた変な奴に絡まれたよ」


 池井戸は間髪入れずに三本目の煙草を咥え込むと、心臓の無い男相手に愚痴り始めた。ロベルト自身はクロスワードにもう夢中であり、顔も上げようとはしない。


「―へぇ、それは災難だったな。また福本さんか? それとも、野田部長や須藤婦長に嫌味でも言われたのか」


「違ぇよ、ほら、何だ。多分、AAランクの患者さまと、その連れだ。偶にあるだろ、食堂とか、最上階のVIP室に空きが無ぇからって、一般病棟の八人ベッドの大部屋占拠して腐る連中。アレだよ、アレ。今度は一階の売店のコンビニ、占拠しちまいやがった」


 チンピラ救命士は煙草をプカプカやりながら悪態を付き、合間を縫って糖分たっぷりのコーヒー牛乳を胃に流し込んでゆく。おかげで池井戸の味覚神経は、苦いの、甘いの判断が付かず、短絡を起こしていた。そうなるのが分かっていながら本人が遣っているのだから、タチが悪い。これぞ煙草呑みの醍醐味である、と当人は盛大な勘違いをしていた。




「―へぇ、それは難儀だな。―うーん、非常にしなやかな弾力性を持ち、軌道エレベーターの建設にも使われる構造材料でぇー、 ・・・炭素の六員環ネットワーク? 解った! 答えは Carbon Nanotube、CNTだ。間違いない」


「・・・おーい、聞いてんのかよ? こればっかりは他人事じゃねぇぞ、ロベルト。このままじゃあ、お前さんの、その大好きなパズル雑誌も、ブラックコーヒーも、買えなくなるかもしれねぇんだぞ」


「―何!?」


 途端にロベルトは目を剥いた。コンビを組んで三ヶ月の池井戸が初めて見る表情だった。なかなかどうして迫力があった。


「どうしてだ!? その富裕層連中が売店に圧力でも掛けるのか。よし、良いだろう。そういう事なら、俺が直接出向いて、その連中の首を絞め落としてくれる」


 ロベルトは息を巻きながら、ギリギリと左手首を引き締めて見せる。池井戸は初めて心臓の無い男の青白い顔に、文字通り、朱が差している気がした。おそらく、本気だろう。


「―おいおい、落ち着けよ。悪かった、今のは話を盛り過ぎた。お前さんがあんまり俺の話を聞いてくれねぇから、いじけただけだよ。安心しなって、どうせ俺が当分、深夜帯の売店に立ち入り禁止ってだけだから。 ―何なら、街に出て、買ったって良いだろうがよ。コンビニなんて腐るほどあるじゃねぇか」


 嘘だった。今、ロベルトが握りしめているパズル雑誌は滅多に取扱いしていないのである。そもそも、IEDやらCNTやらの専門用語がボコスカ出てくるようなクロスワードを、誰が好き好んで買うというのか。この飽食の国にあって、ロベルトのような消費者は圧倒的に少数派なのである。




「・・・そうか、ならいい」


 怒り心頭のロベルトを池井戸は何とか宥めすかす。しばらくして、自分が左手で新品のラッキーストライクを握り締めているのに気付いた。どうやら、先程のコンビニでの一件以来ずっと握り締めたままだったらしい。ゴタゴタして、仕舞う暇も無かった。


「―ところで、コータ。その胸ポケットのそれ、何だ?」




「―へぇ?」


 言われたのと、それに気付いたのは同時だった。いつも池井戸が煙草を仕舞う胸ポケットにその紙片は収まっていた。


「・・・何だ、こりゃ」


 池井戸はおもむろに紙片を指で抜き取る。


 紙片の正体は一枚の名刺だった。手の切れそうなそれに、池井戸は大して面白くもなさそうな顔で一瞥をくれた。




― 宮内省皇居警察 官職 皇居警視 侍衛官 森田 義一 ―




 名刺には綺麗な明朝体でそんな文字が刻まれていた。右上の隅には、もれなく五三の桐が押されている。池井戸は、右手に持った煙草の先端が、灰になって崩れ落ちるのを視界の端で捉えた。それから、しばらくの間、身動ぎするのも忘れた。




「―どうした、コータ。怪文書でも送り付けられたか?」


「・・・そんなんじゃ、ねぇよ。あぁ、いや、まぁ、でも、似たようなもんか。  あーぁ、参ったな、畜生。なるほど、そういう事か、面倒な事になったよ」


 池井戸はロベルトの呼びかけによってようやく再起動を始めた。その顔は存外、参ったと青ざめた顔では無かった。どちらかと言えば、してやられたと悔しがっている表情である。


―あの優男、やってくれるじゃねぇか。俺が店員の顎、ぶち抜いた時の一瞬でか。ヘェー




 池井戸は内心、結構楽しんでいた。さっきまでのイライラも、何処かに行ってしまったようである。池井戸は気付けの一発に、吸いさしの残りを思い切り吸い込んだ。思いのほか、幸福な気分になる。




 目の前の相棒が明らかに怪訝な表情をしているので、手元の名刺を渡して見せた。


「―宮内省皇居警察、官職。何だ、うちの病院、皇族も泊まっているのか」


「―おいおい、当病院に、御宿泊あそばされる、だぜ。不敬罪でしょっぴかれっぞ。ロベルト。


・・・冗談だよ、真顔で返すなや」


 ロベルトは大して面白くもなさそうに受け取った名刺を池井戸に突っ返した。


「―当たり前だ。今や言論統制なんて時代じゃない。それに、人生の半分を諸外国での放浪に使ったコータなら、未だに不敬罪なんてものがあると信じていても不思議ではないと思っただけだ。大体、お前は知らないかもしれないが、昔は菊のタブーなんて不可思議なものが―」


 その時である。二人のウォッチが同時に点滅した。


 けたたましい救命アラートの通知がハイメディック内に木霊する。それは二人の休憩時間の終了を意味していた。もはや雑談に興じている場合では無かった。








「―シグナルレッドかい、Aランクのお得意さんが心筋梗塞でも起こしたか、こりゃ」


「そうかもしれんな、この寒さだ。無理はない。―ケーブルを外してくる」


 目の前を降りしきるボタ雪は、一向に止みそうになかった。


 ハイメディックのデジタルパネルに目を落とすと、時刻は深夜一二時を回った所である。大方、年甲斐も無く深酒をした、高級住宅街の性格の悪い老いぼれが、夜中に倒れたのだろう。あの殺しても死なない鳶の爺さんとは、所詮酒に対する免疫と年季が違うのである。




 ワイパーを、試しに一往復させてみる。フロントガラスに掛けられたボタ雪のカーテンが綺麗に払われた。開けた視界の先に、救急隊員の簡素な詰め所が見える。良く見ると、見覚えのある隊員が他の隊員の上に馬乗りになって殴りつけている。返り血が撥ねた。


ラシードだ。大方、アラーを侮辱されるか、飲み物に酒でも入れられたのだろう。手には先程池井戸が譲渡した皮手袋が嵌められていた。早速、役に立っているようで何よりである。そういえば、師走もほど近い、年の瀬である事を思い出した。


 当たり前かもしれないが、医療従事者に季節感は無いのである。あるとしても、精々、春先の位で、それも、あぁ、飛び降りの急患が増えたなぁ、もう五月か、という具合だ。風流と言うには余りに血生臭すぎた。




―無性に、酒が飲みたい。


 池井戸はハイメディックのハンドルを摩りながら、そんな事を思った。


 そういえば、この国にはクリスマスと正月という行事が存在していたのを思い出した。この際、シャンパンでも、日本酒でもいい。兎に角、酒が飲みたかった。




 思わず、助手席のダッシュボードに手を伸ばす。池井戸の記憶が確かなら、飲みかけのブラックニッカがまだあったはずだ。後ろで、タラップが響く音がした。ロベルトが帰ってきたのだ―


「―なぁ、ロベルト。景気づけに一杯いこうや、こう寒いと飲まなきゃやってらんねぇよ―」




 グチャリ、左耳の傍で、そんな擬音が発生した。なかなかどうして、耳に残る金属音であった。聞くのはこれで二度目ある。流石の池井戸も、今、後ろを振り返る程馬鹿ではなかった。


 さっきの名刺で舞い上がってしまい、自分の相棒が、この手の冗談が全く通じない。ともすれば大嫌いな相手だったという事を、すっかり失念していたのである。




「―何か言ったか?」


「いや、何も。  ―よーし、人助けの時間だ」


 池井戸はそれだけ言うとハイメディックのシフトレバーをドライブへと叩き込んだ。


 すると、視界の左端を占有していた握りこぶしが、ゆっくりと遠ざかってゆく。


 途中、開かれた左手の指先から、ひしゃげた金属片が零れ落ちた。ハイメディックの床に当たると、鈍い金属音が車内に響いた。


―金属片の正体は、もれなく、ひしゃげたスチール缶である。




「それが良い。患者は待っているんだ。俺達が到着するのを」


 ロベルトの、良く通る声が聞こえた。平坦なのが、逆に恐ろしかった。


 ブラックコーヒーの中身がまだ中が残っていたのだろう。だから、金属音が鈍いのだ。


 池井戸は努めてそんな事を考えながら、目の前のデジタルパネルに目を落とす。


電圧計をチェックして、それからバッテリーと各種電装の通電、最後に給電プラグが外れているのを確認する。普段と順序が逆だが、命には代えられなかった。後ろの筑波産のターミネーターをてっとり早く納得させるには、ああする他なかったのである。


―これじゃスタンロッド一本であの皇居警視に挑んだ方がまだマシだ。何が、ラッキーストライクだ、やっぱりツいてねぇ。


 池井戸は口元で燻っていた煙草をカップホルダーへとねじ込んでもみ消した。それから、ゆっくりとアクセルを開けてゆく。池井戸達の乗った車両は、すぐにボタ雪に紛れて見えなくなった。














 群馬の冬晴れの空は眩しい。どの位眩しいかと言えば、パチモンのレイバンのサングラスが必要な位である。池井戸が運転するハイメディックは今、小春日和の国道17号線を北上していた。後ろに乗せた客を送迎するためだ。




「―どの位、掛かりそうかね。ボーイ?」


 後部シートにちょこんと座ったその老婆は、ニヤリと笑ってそう言った。


 背丈は四尺五寸ほどしかないのに、異様な存在感があり、クルクルの白髪の奥で光る眼光は鋭かった。その様子は老獪を通り越して仙人の領域と言って良かった。本日のお客様である。


「約、20分程です。ウィッチ。狭苦しい車内で恐縮ですが、どうかお寛ぎなさって下さい。  ―おい、コータ、くれぐれも安全運転で頼むぞ」


 後ろで、ロベルトが如才なく対応しているのがバックミラー越しに見える。心臓の無い男のその顔は、池井戸が今まで見た事も無い程に綻んでいた。ターミネーターにも人間の血の気が通っていたのである。どれだけ科学が進歩したって、人間の全てを、全部が全部、潤滑油とアクチュエータで代替する訳にもゆかないのだろう。


 ちなみにバッテリーが短絡して頭が往かれた訳では無い。ロベルトが心底、ウィッチと呼んだその老婆の事を慕っている事は傍から見ていても分かった。




「―どしタ、コータ。オ気に入りノ、相棒取られテ悔しいンか」


 横でカラカラと笑う声がする。この声を聴くと、何故か、遥か彼方は悠久の荒野の景色が、脳内に再現されるから不思議だ。池井戸はまだ、コロラドはスプリングスの地は踏んでないのである。




「・・・うらっ!」


 試しに、全力の裏拳を助手席へと放ってみる。なるべく不意を突いたつもりだった。


―バシッ、という乾いた音がした。




直後、池井戸は、自分の左拳が、何かに覆われている事に気付いた。腕を引く事も、拳を開く事も、出来ないのだ。


「―甘いネ、コータ。オサムライサン? 修業ガ足りナイよ。修業が。モっと大自然に身ヲ委ネるね」




 傍らに目を遣ると、そこには2mの褐色肌の巨人がいた。


 デカい、ともかくデカい。自称、ネイティブアメリカンの末裔である、通称、“ティラノ”こと看護師のマリアその人だった。目鼻立ちのはっきりした、コントラストの強い顔をひしゃげて見せる。 ―笑っているのだ。


 池井戸がさっきのマリアの冷やかしに対する報復として見舞った裏拳は、ものの見事にマリアの右手によって鷲掴みにされていた。多分、掌の大きさだけで子供の顔程はある。


 どうして、ウチの病院は、この手の人外が多いのだろう。池井戸は不思議に思った。




とはいえ、運転中に左手で裏拳を見舞ったのは流石に不味かった。


必殺の一撃がいとも簡単に止められてしまった以上、身動きの取りようが無いのである。


 脊柱動物が、日本車の運転席に座ってハンドルを握る以上、左腿に仕込んだ特製スタンロッドを有効活用する事はメタモルフォーゼでもしない限り度台無理である。


 ミシミシ、という音がする。既に池井戸の左拳の各関節と筋線維は限界に近かった。




「・・・分かった。 ・・・分かったから、手を離せ。離せって、マリア! 危なっかしくて運転出来ねぇだろうが! 助手席ごと電柱にぶつけてやろうか、あぁ!?  ―うらっ!」


もはや半分以上本気だった。


池井戸は普段有効活用している、国道17号線“三番レーン”へと車体を滑らせて行く。


 勇気と無謀さを兼ね備えたドライバーの前にだけ姿を現す、二車線型道路、幻の三つ目のライン。バイパスを過ぎた辺り、何だかんだで二車線のまま取り残された田舎道を迅速に速く走り抜けるために生まれた、左の、さらに左である。早い話が歩道をショートカットするのだ。




歩行者が多い時でも、ベテランであれば対処法には事欠か無かった。迫りくる電柱に気を取られたのか、マリアの力が若干緩んだ気がした。池井戸が渾身の力を左腕に込めると、ようやく左拳が解放された。




「―はぁっ、はぁっ、はっ、クソ。 ―あぁっ、ふざけやがって! マリア!」


 マリアは池井戸の隣でカラカラと笑っていた。本人に他意は無い。本人はちょっとじゃれているつもりなのである。そうでなければ、とっくの昔にチンピラ救命士が操縦するハイメディックの轍になっているはずだった。




 マリアがブラジルから日本に出稼ぎに出てきて、二年。ようやく見つけた定職が、このトミタの看護婦という仕事だった。母国ブラジルが内乱状態に発展し、もはやワールドカップどころでは無くなったので国を捨てた次第だと聞いた。流石にバイオ燃料がすっかり世界経済から見放されたのは苦しかった。実は汚職まみれだった国内最大手のオイルメジャーが、その海底基地ごと吹き飛んだのも国際社会の目にはこれ以上なく悪く映った。


 かくして、コルコバードの丘にあるキリスト像は暴徒と化した国民の手によって粉々に砕け散った。犯行に使われたRPG‐7が、旧ソ連製だったかアメリカ製だったかで未だにネット上では議論が絶えない。とはいえ、最後にタイムスの表紙を飾った写真がCGでは無く、実写だったというのは皮肉な話だった。空を飛んだり、迷走したりで忙しかった世界七大不思議の石像は最後、頭部だけになってリオデジャネイロの大地に転がったのである。




「―悪い事ばっかりしてルから、天罰ヨ、コータ。olho por olho、目には目を、歯には歯を、ヨ」


「―悪かったよ、もうヤクの運び屋なんてやってねぇって言ってんだろ、ったく。それに、おれはホントに荷物の中身なんて知らなかったんだ! 文句なら、テメェの国のゲリラ共に言えや! 畜生!」


 池井戸が、昔ブラジルにいた時にやっていた生業の事である。キロ何百ドルという“小包”を指定された場所へと指定された時刻までに届ける運び屋の仕事だ。ドラックルートはメッカの通称“ゴールデンルート”を、世界三大瀑布尻目に全力で駆け抜けるのである。




なかなかのスリルだった。ちなみに大体の見当はついても、荷物の中身を確認した事は本当に無かった。第一、見た事がバレたら、それこそ命は無い。


このマリアという出稼ぎ看護師と仲良くなったのも、池井戸がポルトガル語を話せたからだった。母国の事で話が盛り上がったは良いが、マリアはドラックの事が本当に嫌いだったのである。


 親を抗争で無くしているらしい。流れ弾に当たった、とは本人も言わなかったし、池井戸も深く聞かなかった。




 そんな境遇だと言うのに、このブラジル人が見せる笑顔には曇り一つ無いのだから、不思議だ。今や、トミタには欠かせない看板看護師の一人である。救急センターから小児科ステーションまで、その活躍は八面六臂に渡る。あのフランケン福本が重宝しているのだから、間違いはない。患者の血の間欠泉が開いた時、噴き出た鮮血をものともしないのは福本とマリア位なものなのだそうだ。


 ちなみに子供のウケもすこぶる良い。理由は、マリアがストリートチルドレンだろうとボンボンの倅だろうと差別しない所にあった。ガキんちょがふざけた真似、人の道に外れた真似をすれば、容赦なく拳骨の雨が降るのである。その分、普段は子供に対して青天井で優しいのだ。


 特に、ストリートチルドレン、トミタ記念総合病院一階に設けられた小児ステーションでの評判はすこぶる良かった。採算が取れない上に面倒なので、トミタ上層部からは忌み嫌われている。“ティラノ”という愛称も、そこの子供から送られたものだった。ティラノサウルスのティラノである。反対に14階の、VIP御用達の託児所ではすこぶる評判が悪い。理由は決して子供を小皇帝扱いしたりしないからだ。








「ヘイ、ガール。暴力は良くないな、ボーイが困っているじゃないか。ここは日本だ。大和撫子らしく振る舞うべきだよ」


 天の声が降ってきた。


後ろの仙人が発した声が、ハイメディックの狭い車内に反響してそう聞こえたのだ。この老婆に掛かれば、ティラノサウルスだろうがガールになるし、チンピラ救命士だろうがボーイ扱いなのである。


黄(コウ)美鈴(ミレイ)、それが女史と呼ばれたこの仙人の名前である。杖を持たせれば迦葉山の雲海の上に浮かんでそうな仙人にしか見えないが、その実、れっきとした医者である。この黄美鈴こそ、トミタ記念総合病院が擁する二枚看板、フランケン福本と対を成す、ウィッチドクター黄その人であった。


 香港が英国領から中国へと戻された時、彼女はまだ香港人で、ピチピチのギャル(本人談)だったと言う。後半部分はさておき、香港が完全に中国に飲まれたと感じた時、香港ギャル(本人談)はチェプラックコク空港、香港国際空港を後にした。今から10年前の話である。


 黄はそれまで各大学を回って、ハンガーストライキを敢行して倒れて担ぎ込まれてくる学生の面倒を見ていた。半ばボランティアである。香港大学の保険医をやっていたついでに、なし崩し的に、という面もあったが、黄自身、香港を守りたかったし、なにより学生たちの力になりたかった。彼らの、情熱と熱意に燃えるその姿が、大層眩しく映ったらしい。


 だがその志も長くは続かなかった。


 次第に、運ばれてくる学生の怪我の程度が酷くなっていった。


 運び込まれてくる学生の数は日に日に増え続け、野戦病院、簡易テントの下に並べたベッドだけでは足らなくなった。




 それからしばらくして、ある時を境に、学生が運ばれてこなくなった。取り締まりが厳罰化したのだ。もはやハンスト所では無かった。城官に連れて行かれた学生は二度と戻ってこなかったと言う。その数、有に300人。親しかった学生達が次々消えて行った。最後まで抵抗していた同僚らも、順繰りに家族を連れて国外に逃げて行ったと言う。




街道には折られた黄色い傘が溢れかえった。特別行政区では無くなってこの方、街中のゴミがまともに清掃される事すらなくなった。


 地価が暴落し、果たして、百万ドルの夜景が、一万ドルの夜景に変わり果てた時、黄は国を捨てた。そうして、遥か彼方の島国・日本国へと流れ着いたのである。




「―おい、コータ。もう少し安全運転に努めてくれ。ウィッチの体に障るといけない」


 後ろで、ロベルトが不機嫌そうな声を出した。この心臓のない男も、黄の前ではやたら人間臭くなる。ロベルトに限らず、トミタの小児ステーション出身の連中はみんなウィッチの事を尊敬している。黄が通称“貧民街”と蔑まれる1F小児ステーションを切り盛りするようになってはや10年、もはや前橋の治安の半分は彼女によって保たれているといって良かった。


 黄が口笛を吹くだけで、軽く1000人の男衆が集まると言う。通称、ウィッチの口笛である。貧民街を巣立って行った若者達の多くは、老婆から受けた恩を、その慈愛を決して忘れる事は無いのであった。




「―分かってらい。努めて安全運転さ、ほら見ろ、そろそろご到着だ」


 本日の池井戸達の任務は急患の回収では無く、医療スタッフの送迎である。


 トミタ記念総合病院から上の県立医療センターへと護送するのが主な任務内容だった。


 クリスマスを数日後に控え、各病院混合での慰問会を開くための打ち合わせである。毎年、幹事であるトミタ代表として黄が方々を回る手はずとなっていた。本日はその付添兼護衛としてマリアが付き添っているのだ。




 近頃は何かと物騒である。池井戸は何かが水面下で動いている気配を感じていた。道を流していて、すれ違う車の質、車の流れが、若干違うのだ。ベテランのタクシードライバーが勤続40年でようやく体得しうるのと似たような感覚を、池井戸はすでに持っていた。


―特に、たまにすれ違う、菱形のあのエンブレムは非常に気になる。


 リブボーンフレームに、大型のクロスメンバー、極めつけはあの低い車高。


 間違いは無い、トミタが仇敵、ツクモの七代目デリカだ。あの洗練された、もっと言えばお高く留まったデザインは、否が応でも鼻に付く。




群馬では滅多に見かけることは無いデリカが、どうしてか最近では前橋の街を流しているのである。池井戸は上層部に上申してみたが、感触は確かではなかった。仕方がないので営業部長である亀有に相談してみると、反応はあった。


―ツクモの越境侵犯だ! とっとと長野、いや岐阜へと帰ぇれ!


そう怒鳴ったきり、本人はそのまま心臓発作で倒れ、ICUへと担ぎ込まれてしまった。血圧が急に上がったのが原因だと言われているが、池井戸には理由はさっぱりだった。とりあえず、始末書を五枚書いてからお見舞いに行った。顔を見るなり、怪訝な顔をされたのを覚えている。つい一週間前の話だ。




意外な事に、営業部長は倒れる前より顔色が優れて見えた。オペを担当した福本からは気にするなと言われた。もともと働き過ぎだから、奴にはちょうどいい薬なのだと言う。今はついでに胃潰瘍と薄毛の治療を続けながら安静にしているらしい。近頃では、昔取った杵柄だとキャンパスノートを持ち出し、車の絵を描いているらしい。コンセプトデザインという奴である。 


 病院の一室で、疎遠になりかけていた家族に囲まれながら好きな事をしている50手前の禿男は、請求書の束に囲まれて電卓を叩いていた頃より、少なくとも幸せそうに見えた。トミタの正社員への福利厚生の概念はまだ存在していたのである。


良い事をしたな、と池井戸は思った。それから盆栽のセットを亀有とその家族に贈って病室を去ろうとして、また始末書を書く羽目になった。今度こそ、池井戸にはその理由が分からなかった。盆栽は、本人が好きだったはずだった。鉢植えってなんだ、とハイメディックに帰ってからロベルトに訊いた。懇切丁寧に説明してくれてようやくその意味が分かった。それから、やっぱりこの国がつくづく面倒な国なのだと認識を新たにした。




「―ボーイ、どうした、何か考え事かね?」


 天の声が降ってきた。


バックミラー越しに確認すると、後ろで黄がニヤリと不敵な笑みを浮かべている。


―ウィッチの前では隠し事は出来ない。トミタ七大不思議の一つ。どうやらその噂は本当らしい。


「―すげぇな、女史(ニューシー)。あんたの前では嘘は付けないって、本当なんだ」


 池井戸が混ぜっ返すと、ウィッチは何でも無いと言う風に笑った。


「なに、何のことは無いさ、あんたらヒヨっこの考える事なんて、幾らでも見通す事が出来るさ? こちとら、年がら年中、乳飲み子から、それこそ健康優良不良青年まで面倒見てるんだ。みんな、自分の言葉で、今自分の置かれている状況を上手く説明すら出来ない子達なんだ。彼らに比べると、君たち、大人が考えている事を推し測る事なんて、造作もないね」


「―それこそ赤子の手を捻るってなもんですかい? ハッハッハッ」


 一瞬、車内の空気が凍った。池井戸の危険センサーはレッドを振り切れ、警告を発する。


「―悪かった、冗談だ、マリア。本気にしないでくれ」


 横でティラノサウルスが口を開いて、息巻いているのが分かる。ハイメディックの狭い車内は忽ち即席のジェラシックパークと化した。ギザギザの鋭利な歯が見えたような気がする。アトラクションにしては些か刺激が強かった。


 それこそ、今、助手席の方を向けば、池井戸の顔面は食い千切られるかもしれない。


 それだけの迫力がマリアにはあった。このブラジル人の前では子供を足蹴にする真似、発言は禁句なのである。一度、14階の託児所に迷い込んだストリートチルドレンを小突き回していたモンスターペアレントを親子共々窓からダイブさせたのは有名であった。


 看護師マリアの“ベッド投げ”事件である。ティラノサウルスの渾名は伊達では無かった。


 両親共々、子供も乗った1tのベッドをどうやって放り投げ、強化ガラスをどうすればぶち破れたのか。


大自然の驚異が織りなす御業としか言いようがなかった。事件を聞きつけ、是非とも解剖したいと申し出た法学医もいたが、もれなくそいつも14階から地面へとダイブする事となった。


 ティラノこと看護師マリアを象徴するエピソードである。お国柄と言えば、お国柄なのかもしれない。




「―ヘイ、ガール。待て、だ。本心じゃあ、ないさ。このチンピラ救命士、口は悪いが、悪い男じゃないさ。 ―だから間違ったって首をへし折っちゃあ、いけないよ。この前みたいに」


 天の声が降ってきた。今度こそ、本当に天からの助けであった。


「・・・なぁ、黄女史よ、この前って、何だ。またVIPラウンジの連中の首でもへし折ったのか?」


 池井戸は首筋に冷や汗が流れるのを感じながら聞き返した。答えは隣のティラノサウルスから帰ってきた。


「この前、谷川に登ってた人が、雪崩に巻き込まれてヘリで運ばれてきたでしょ、あれ。運ばれてきたのが、Cランクの人で、救助ヘリのお金、払えなくてサ。 ―人間にランク付けって、何なんだろね、アレ。それでボスたちが誰がお金出すのかで揉めてさ、それを共同通信が嗅ぎつけタとかで、記者とか、訳わかんないのが手術室に入ってこようとしたカラ、絞めた。 ―何なの、自己責任って?lixo、吐き気がする」


 マリアは前半こそ笑っていたが、後半はそれこそ吐き捨てるように言った。


 池井戸はそう言えば二、三日前にヘリが飛んできていたのを思い出した。それで救命センターの前に無造作に散らばっていた、人間の手足のようなモノにも得心がいった。マリアが、文字通り、千切っては投げたのだろう。


「―へぇ、それで? その患者さんら助かったのかい?」


「うん、担当したのが福本サンだったから。あの人の手に掛かれば、死体だってバタバタ動き出すネ。でも、手足の指ナんかと、腕とか手足とかは何本か取れちゃっタから、ドック行き」


「あぁ、そりゃ大変だ。まぁ、命が助かっただけでもめっけもんだろう」


 ドック、とはトミタ2Fの形成外科・整形外科ブロックの通称である。医者なのか工学博士なのか判断が付かないような技術屋が、うようよいるような所だ。山賀という形成外科部長がおり、それが世界的な権威なのだという。2Fの入り口に、ヤマガのガレージショップという看板が掛かっているのだ。指の一本や二本位であれば日帰りで復元可能なのだから驚きだ。ロベルトの打ち込み型補助骨格もドッグ製なのである。






「―ヘイ、ボーイ&ガール、海と山なら、どちらが好きかね?」


 唐突に黄が口を開いた。後は右折すれば医療センターである。ここからが長いのだ。目の前に、右折待ちの車の列が出来ている。


「えぇ? ―俺なら、断然、海かな。男は海だよ、断然」


 池井戸である。信号待ちの間、暇だった。


「―俺は山だ。ウィッチ、昔、山菜取りを教えてくれたろう」


 次いでロベルト。茶坊主は止めて、黄の対面で大人しく座っていた。


「アたしは海だね。女は海だよ、何たってったって、魚が獲れる」


 最後にマリアだった。横で助手席のサスペンションがギシギシ軋むのが分かる。少しはじっとしていて欲しいと運転手は思った。


「2対1かね」


「ウィッチは、どうなんだ? どちらが好きなんです?」


 ロベルトが黄の方を見て聞いた。


「―そうだね、では私は山にしよう。だったら2対2で、イーブンだ」


 イーブン、対等、五分五分。久しぶりに感じる概念だと思った。羽田の地に降り立ってこの方、昔よりはマシになったとはいえ、池井戸が肌で感じていた事だった。ちなみに平等では無い。


黄が好んで使う概念だった。黄は年端もいかない子供の患者相手にも対等な立場で向き合うのである。即ち、患者様扱いもしないし、ガキ扱いもしないのである。して貰った方は、生涯忘れないだろう。“ウィッチの指笛”の秘密はこの辺りにあるのかもしれない。香港の身分の高い人間は、恩の売り方を良く心得ている。内陸の人間と違って、変に、ベタベタしていない分、良く出来ているなぁ、と勝手に感心してみる池井戸であった。


ウィッチが、山と答えた瞬間、若干、ロベルトの頬が緩むのがバックミラー越しに見えた。信号待ちの間は大層暇で、人間観察位しかやる事はないのである。煙草を吸おうかと考えたが、止めた。黄がニコチンアレルギーなのである。池井戸はまだティラノサウルスとターミネーターを同時に相手するほど死に急いではいなかった。仕方がないので、リアシートに背中を預けてフロントガラスの向こうを見渡す。辺り一面、鬱蒼とした木々が広がっていた。群馬の森は深いのである。いい加減、飽きてくる。




―海ねぇ、meer、meer、たまにはあの深い懐に抱かれたいもんだと池井戸は思った。そう言えば、最近、似たような事を考えた気がする。あれは何時だったか。




「―なぁ、ババァ。違った。黄女史、アンタ、映画って見るか?」


 後ろでロベルトが気色ばむ気配がした。池井戸は構わずその先を言ってのけた。まぁ、いざとなれば、運転席から単身、車外に飛び出し、アスファルトの上を転がれば済む話しである。昔、一度経験済みだった。レバノンで、負傷兵を送り届けた帰りだ。ベースキャンプに戻る途中、珍しく、信号がある道で、前にも輸送用のトラックが停車していたので、ブレーキを踏んだ、次の瞬間だった。前に居た装甲車が突然爆散して、それから風切り音がした。


 地雷じゃないな、と一瞬思って、アクセルを踏む代わりに、運転席の把手を掴むと、全力で道路に飛び出した。それから先の事は良く覚えていない。砂塗れになりながら全力で市街地を走りながら、ベースキャンプまで走った気がする。それからは、余り、どうでも良い事に頓着する事は無くなった。形有るものこそ、全てなのである。言える事は、今、言えるうちに言っておくべきだ。煙草を吸わないのは、エチケットだからだ。どうして、同僚に気兼ねする必要が有る。


「昔の映画何だけどよ、どうしても名前だけが思い出せねぇんだ。女史、分かるかい? アンタ、博識そうだから」


「面白そうだね。連想ゲームという訳だ」


 恐らく、貧民街で四六時中子供相手に似たような事をやっているのだろう。粗野な池井戸の突っ慳貪な質問にも、黄は相手してくれた。


「確か、ジャッキー・チェンが空を跳ぶんだ。それから、銀行強盗した帰りに、皆で海を見に行くっていう。 ー何だっけな、やたら、胸毛の濃い、マンダムのCMに出てた役者が出てる奴」


 池井戸は喉に小骨が引っかかったように、もどかしげである。それから、ボリボリと、ポニーテールの間を、指で梳く。対する黄の反応は冷ややかなものだった。


「・・・済まない、表現が独特で何を言っているのか全く分からない」


「えぇっ、マジかい。弱ったな」


 まるで、解けない知恵の輪を延々弄っているようなそんな感じである。クロスワードを解くのと似ているのだろうか。こんなのが好きなロベルトの気が知れなかった。池井戸が苦虫を噛み潰したような顔をしていると、横からマリアが口を挟んで来た。


「それ、チャールズ・ブロンソンね。コータ、マンダムのCM、出てタって奴。アタシ、ファンなのよ」


 横でマリアがキャッキャと言っている。こうして騒いでいる所を見ると、トミタのティラノサウルスも赤い血の通った人間なのだと確信が持てる。


「あぁ、確かそんな感じだ。なんだ、確か、車で世界、一周するとかで、参戦者が仮装しながら、アメリカ大陸横断するんだよ。確か、そんなだ」


 池井戸がハンドルを軽く片手で叩きながら、額に手をやる。昔、ベースキャンプで見た映画の断片が、ニコチン塗れの鉛色の脳細胞から溢れ出て来た。ここまで来ると、黄も心無しか心当たりが有るようである。


「ーあぁ、何となく覚えが有るね。確か、アメリカの映画だ」


「何言ってんだよ、ドイツだよ。ドイツ。変な字幕が最初に流れるんだ。なぁ、ロベルト、そうだろ」


「・・・何を言ってるんだ、お前は」


 後ろでロベルトがうんざりした風に項垂れている。それから、黄と目が合って、肩を竦めてみせた。


「・・・ん? あぁ、そういう事か。 ・・・君、何か勘違いしていないか」


 黄はロベルトの反応を見て、ピンと来たようだった。


「ちょっと待ってくれ、自分で考えるから! もうここまで出掛ってるんだ。そうだ、


“キャノン・ボール”だ。思い出した!」


 池井戸がそう叫んだ瞬間、車内に爆笑が起こった。横で、マリアが手を叩いて笑っている。後部座席のロベルトまでも、普段の鉄面皮を歪ませ、吹き出しそうになるのを堪えていた。


「ーバート・レイノルズがチャールズ・ブロンソンに見えるのなら、一度眼科に言った方が良い」


 ついでに、そんな事まで言って寄越してくれた。内容は兎も角、馬鹿にされているのは分かった。


「あぁ、うるせぇな。悪かったよ。戦地帰りで、乱視なんだ、こちとら。なんだよ、せっかく話題振ってやったって言うのに、こんな扱いはねぇだろ。これだから、手前とエンタメの話しをするのは嫌だったんだ。嫌みしか言いやしねぇー」


 瞬間、池井戸の脳裏を、ベースキャンプで見た時の映画の内容が、途切れ途切れになって、頭の中で混ぜっ返して来る。救急車やら、フェラーリGTやら、アストンマーチンやら、そんなのに乗った連中が擦った揉んだの末、東海岸のコネチカットはダリーンから、ロサンゼルスはレドンドビーチを目指すのである。その中には、どうしてか、ピンクのキャデラックも在った。あの車の搭乗者は、果たして誰だったろうか。


「ーまぁ、その方が君らしいのかもしれないな。君らしい、勘違いの仕方だ。 ・・・どうして、君がロベルトと組んでくれているのか、分かった気がしたよ」


 黄が、まだ何か言いたげだったが、池井戸はそれに気付く事は無かった。今しがた始まったマリアとの喧嘩の二回戦と、ハンドル捌きに全神経を注いでいたからである。ガタンと、映写機が、落ちる音がした。バドワイザーは結構、あった。反対に、ポップコーンは余り無かった。あっても袋詰めの奴ではなく、アルミ詰めの、脂っこい奴。映写会がある度、顔を出していたので、良く覚えている。


 ちょうど、池井戸がラッキーストライクを吸い出した頃の話である。ベースキャンプに大量に在庫が在って、無料で貰えたのだ。燃やすと、わら半紙の味がする安煙草など、仮に今日が命日だとしても、誰も吸いたがらないのだろう。自衛軍の兵士はその点、贅沢と言えば贅沢だった。


 中東情勢が混迷を極め、そろそろ、電気自動車産業が民間に根付こうかとしている時代、映写会の顔ぶれは良く変わった。晴れて兵役を終えて本国に輸送機で帰って行った奴も居た。池井戸がトラックで送った負傷兵も居た。残念ながら、ドッグタグも出ないような最後を迎えた奴も居た。まぁ、比較的良い奴が多かった事は確かだ。




「ところで、何で、こんな話しになったんだ。女史、アンタだ。何で海と山の話しでも始めたよ。」


 池井戸は今しがたのティラノサウルスとの二回戦をドローで終えてから、黄に聞いてみた。ちなみにマリアとどうやって引き分けたかと言えば、企業秘密である。膂力の方では向こうに分があっても、スタミナを兼ね備えた俊敏性ではこちらの方が上だった。


「いや、なんて事はないさ。治療途中の、患者さんの事で、ちょっとね」


 黄はやんわりとした口調で、話題を逸らそうとする。


「なんて事ないなんて事はねぇだろ。気になるじゃねぇか。もうすぐ目的地に着くんだ。喋ってくれ」


 ただそれもチンピラ救命士の詮索の前には無駄だった。元々、出さなくて良い所にまで余計な首を突っ込んでは騒ぎを起こし、ストレスを発散するのが性分の池井戸である。本人も周りも、少なくともトミタ総合記念病院の同僚達はそれを分かっていたので、今更気を使うだけ無駄である。


「じゃあ、ついでだから聞くけど、もしもだよ? 仮に君たちが、山、あるいは海でも、まぁ、なんでも良いや。遭難した時に、助けに来てくれたドクターヘリの代金、払えないとしたら、どうする?」


 あぁ、そういう事かと池井戸は思った。


「―あれ、女史、小児科勤務だろ? 何でアルピニストの心配なんてすんのさ? まさか子供が谷川岳にアタックする訳ねーだろ。ピクニックじゃあるめぇ」


「その子供さ。―昨日、一人で見舞いに来たんだ。父子家庭で身寄りもいないそうだ。所得ランクが、C、まぁ、良くてC+って所かね。そんな身の上で山なんて登るなって言いたくもなるけども。それでも、なんとその子供にヘリの代金を請求すれば良いと言い出した上層部には呆れたもんだよ。見るに見かねて子供だけでもウチで引き取ったんだ。恥を知らないってあぁいう事を言うんだろうね。まったく、残念だよ」


 池井戸の脳裏には、いつも苦渋に満ちた顔をしている禿男の顔が浮かんだ。


「―どうして? 亀有のおっさんがそんな事言ったんか? ・・・あぁそうか、今―」


「そうだよ、あんたがベッドに放り込んだんじゃないか。まぁ、それはいい。あの人は少し働き過ぎだ。 野田だよ、第一外科の。キミの前であんまり言いたくはないけどね」


「・・・へーぇ」


 池井戸は大して面白くもなさそうに言った。


 一瞬、車内の雰囲気が悪くなる。


「踏み倒せばいい」


 ロベルトだった。奴は確固たる口調で続ける。池井戸はようやく動き出した自動車の列を追いかけながらターミネーターの演説を聞いた。


「というより、その際、払う義務がその子供に発生するのか。そんな馬鹿な話もないだろう。請求する先が無いのなら、トミタが負担しても良いはずだ。そのための、病院機構としての認可だろう、日頃から前橋市民から徴収している税金の蓄えもあるだろうに。そもそも、救急車という人の命を運ぶ公共財に、金額が云々いう事の方がおかしい。無粋だ」


 都合20年、体のメンテナンス費用とサイボーグ化の代金で、トミタに縛り付けられている男が言うと、言葉に重みがあった。おおよそ、テレビのクソつまらないエンタメ、ワイドショーなんかでやり玉に挙る自己責任とかいう概念に憤っているのだろう。元々、理屈の通らない、道理の通らない事に対しては拒絶反応を起こす男である。以前、ノビレス・オブリージュがどうとか言っていたのを思い出す。およそ、上に立つ者が、当然社会に対して支払うべき対価、義務だとかなんだとか。カチンと来たのだろう、普段の無口からすれば、良く喋った。おそらく、ドイツ人とガチで喧嘩をしてはいけない理由はこういう所にあるのかもしれない。一途と言えば聞こえは良いが、思い込みが僅かに、激しいのである。


 少しでも救助に尽力した山岳救助隊や自衛軍の隊員でもないのに、何の面下げてデカい口を利いて、高給を貰っているのかという話しである。15の時の池井戸も同じ事を思った気がする。ただ、半年前に帰国してからは、そんな話しも余り聞かなかった。法務省長官が日本海に浮く時代である。公共電波で嘗めた口を利けば、その日のうちに鉛玉が自宅ではなく発言した本人目掛けて飛んでくるのだから、穏やかではない。ワイドショーのコメンテーターの食い扶持は、以前の半数以下にまで減っていた。


「車両と人手が幾らでも余っているのなら、仮にだが、富裕層がハイヤー代わりに使うのも構わないかもしれない。だが、貧困層ならドクターヘリにも救急車にも乗れないなんて、そんな道理はない。ハイヤーの件だって、あくまで救命救急を圧迫しない程度が限度だとこの国の法律でも決まっているはずだ」


 確かにそうだ、と池井戸は思った。この国の、ズタボロに骨抜きにされた医療特約条項、大綱の中でもそれは決まっていたはずである。まぁ、ヒポクラテスの誓いやら堅苦しいのは抜きにしても、医療経済の観点から見て、有権票の数が一番多いのはランクBマイナスから、C後半に掛けてである。それこそ、馬車馬のように働いて貰わないと、事実上、デフォルトをかましたこの国の元国民達とその子々孫々は解放されないのだろう。


「じゃあ、何かい。ロベルト。試しに、民間の保険会社か何かに全部、公共財。丸投げしてやったらどうだい? 大体、今に始まった事じゃねぇだろ。なに、ウチの病院だって、似たようなもんだ」


 恐らく、みな、どんどん何もしなくなって行くのではないか、と池井戸は思った。生命倫理が、市場競争に過度に晒された場合、そのリスク、その保険料なんて誰も払えないのである。誰も山に情熱を燃やす事も無くなるだろう。精々、一部の資産家や既得権益層が道楽でやるくらいである。ともすれば、それでも良いのかもしれないが、文化としての規模は衰退するに違いない。


「またお前はそう言って混ぜっ返すだろう。たまにはまともに、相手を正面から説き伏せてみたらどうだ。これ見よがしな欠点ばかりあげつらっていないで。議論をしてみろ。そのために数字とデータがあるんだ」


 ロベルトはそう言って、右手の甲の裏で左手の手のひらを二度、叩いてみせる。恐らく、このサイボーグの頭の中は徹頭徹尾、実力行使である。以前、119番のいたずら電話をしてきたガキの首根っこを七面鳥のように鷲掴みにし、家庭裁判所の前まで連れて行ったのだから、口だけの男という訳ではあるまい。意味のある、規則に関しては、しつこい位に厳しいのである。反面、どうでも良い所では、結構融通が利いた。以前、医療用のマリファナを融通して貰った事がある。ガソリンスタンドに行けば買える訳ではなかった。


「へっ、訳ねぇさ。次は映画鑑賞に保険が掛からぁな。そいで、そん次はモータースポーツよ。はたまた、サイクリング。チャリだ、個人的には大賛成だがね。 ーそんで、最後は道を歩くのにも保険が掛かるようになる」


 何もこれは池井戸の妄想という訳では無かった。2025年、今日日、日本国は昨今の其処彼処で起こっている事である。国民会保険も公的医療システムも、五年前の大震災を期に箍が外れたように崩壊していった。もともと燻っていた火種を放置し、臭い物に蓋をし、剰え、その壷を逆さにして地獄の釜の蓋と連結させてから自重で固定していた社会構造なのだから、当然と言えば当然の結果なのかもしれない。社会システムの不備、それを支持した大多数の国民への応報は目に見える形として現れた。東京湾沿いの再稼働した高速増殖炉の冷却システムが往かれた時、今度は確率の神様も待ってはくれなかった。未だ、関東平野から房総半島の大半は、それこそテラフォーミングでもしなければぺんぺん草も生えないのである。


「この調子じゃあ、息をするのにも、金が掛かるってなぁ。はっはっはっ、違いねぇや。やべ、パスポートの更新だきゃあ、忘れないようにしとかねぇと」


 池井戸の、しゃがれた声がハイメディックの中に響き渡る。あながち、間違いと言えないだけ、それを咎める者は居なかった。曲がりなりにも、世界中を行脚してはその都度生き延びて来たチンピラ救命士の視点から見た、この国に対する評価である。無視する訳にもいかなかった。


「―いいよ、悪い、私が悪かった。只の愚痴さね、忘れてくれ」


 車内がまた静まり返った。ちょうど、医療センターの敷地にハイメディックが滑り込んだ所だった。


「私がどうかしていたね、そんな当たり前の事を。―来年度のね、予算の事で頭が痛いんだ。亀有さんが倒れてから、会計課がゴタゴタしていてね。色々言ってくるのさ、悪い。ボーイ達の前でする話じゃなかったね」


 黄が溜息を付いた時、県立医療センターの玄関の前でハイメディックは止まった。




「―お前さん、良かったのか。ロベルト、何なら一緒にくっ付いてっても良かったんだぜ?」


 池井戸はトミタへの帰り道、二人きりになった車内でロベルトに言った。黄とマリアはそのまま県立の方でしばらく厄介になるという。


「ハイメディックの車内に、お前一人でか? ・・・それは少し不安要素が多いな」


「悪かったな、畜生」


 池井戸は前の車をパッシングしながらアクセルを踏み込んだ。もう客人に遠慮する事もない。行きは20分掛けた道を、池井戸の駆るハイメディックは何処をどうやったのか3分で走り抜けた。


「お前さん、親御さん、何してんだ。とんと音沙汰なしってか」


 池井戸はトミタの無駄にくねったロータリーを回りながら聞いた。


「・・・あぁ、もう顔も覚えてはいない」


「―そうか、じゃあウィッチが親代わりみたいなもんか」


 駐車所と待機所が見えてくる。昼間だと言うのに、休憩している車両が多かった。


「あぁ、あの人には返しても返しきれない恩がある。だから、困っているのなら、是非、力になってやりたい」


 近くまで来ると裏口がはっきりしてきた。なにやら様子がおかしい。駐車線を無視して止められている車両は、どうみてもトミタのエンブレムではなかった。


「―おい、言っとくが、変な気起こすなよ。只でさえ、お前さん。借金で首が回らねぇんだ。手術費用のローン、まだ2、3年残ってんだろ。俺ぁ、嫌だぜ。仕事中に、お前さんが急に電池切れで動かなくなるなんてさ」


「あぁ、分かっている。しかしー」


―クツモだ。それもご丁寧にデリカが五台、病院の裏口に横付けされている。どう考えても異常事態だった。


「なに、あのウィッチの事さ。その気になりゃあ錬金術でレアメタル生み出すなんざ、訳ねぇよ。―それより当面の問題はこっちだ。どうやらの金剛石、ダイヤのクツモの殴り込みらしいぜ。悪いがちょっと捕まっててくれ」


 池井戸はそう言ってハイメディックを急加速させると一気にハンドルを切った。


同時にブレーキング、鈍重なハイメディックの車体がアスファルトの上を滑り出す。車体は綺麗に弧を描いて、二台のハイメディックの間に滑りこんで、止まった。ドリフト縦列駐車である。


「―お見事」


「やめてくれ、それ、前も聞いたんだ、嫌な奴から。―ちょっと行ってくる」


 そういえば胸ポケットにあの七三分けの嫌味なSPの名刺がまだ収まっていたのを思い出した。何やら嫌な予感がする。池井戸のこの手の勘は良く当たるのだ。








「コータさん! ちょうど良い所に!」


 病院の裏口から飛び込むと、ストレッチャー同士が何度もぶつかる廊下を抜けた先で見知った顔に出会った。場所はコンビニの手前、中央エレベータホールである。辺りには、飛び散った鮮血や血まみれになった男達が居た。


「ラシード、どうしってんだこりゃ。まさかクツモの連中が抗争でも仕掛けて来たってんじゃねぇだろうな。前のタンクローリーの件は手打ちになったろ!」


「そのまさかです! 奴等、いきなり押し入ってきて、最上階のVIPラウンジに通せって、上には話は付いてるからって。結局、医局同士で確認し合ってる間に隊員同士が揉み合いになって―」


「―それでこの様か。こっちの被害は? お前さん、大丈夫か?」


 ラシードの手にはシャムシャールが握られていた。全身一面、灰色の救命服が血だらけである。咄嗟に、池井戸はラシードの何処にも外傷が見当たらないのを確認する。


「私は大丈夫です。ウチの被害は五名、あっちは七人、銃を隠し持っていた三人はワタシが腕ごと叩き切りました。今は全員救急センターです。それより―」


 血まみれのイスラム教徒はエレベーターの方を向いた。片面4基、前後で合わせて8基あるエレベーターの内、上層階直結の1期が動いていた。池井戸もそちらに目を遣ると、階数表示がどんどん下がって来ているのが見える。


「―連中か?」


「―えぇ、おそらく」


 このトミタ記念総合病院は全長150m、総階数が16Fで、4Fと13Fが存在しないので実質14階建てだった。その14階から16階までがVIPラウンジ、上層階となっていた。14Fに医局は位置する。エレベーターはその14Fから降りて来ていた。




―ピーン


 エレベーターのドアが開いた。中から出て来たのは、悪名高き第一外科の連中である。警備員が先に降りると、ようやくおっかなびっくりといった様子で野田の神経質そうな顔が現れた。


「まったくなんで私がこんな事をー おい、何だ。病院の廊下が汚れてるじゃないか。それにこの血は、私はこの臭いが嫌いなんだ吐き気がする。気持ち悪い」


 じゃあ、医者辞めろや。現場に居合わせた救命隊員全員がそう思った。


「おい、池井戸」


「―あぁ?」


 直接名指しされたので思わず反駁する。


「―これ、お前の仕業か?」


「・・・てめぇ、舐めてんのか?」


 眼鏡ごと殴り抜いて失明させてやろうと池井戸が近づこうとすると、目の前にシャムシャールの刀身が行く手を塞いだ。


「ダメです、池井戸サン。今は状況を考えて下さい」


 池井戸は周囲に人の目線があるのを感じた。正面玄関からロビーにかけて患者達が集まってきていた。流石に連中の目の前で病院の御曹司を殴るのはマズい。


「―ハッ、後片付けだけしておけよ。チンピラが」


 野田はそれだけ言うと、警備員に守られて正面玄関から出て行った。第一外科の連中の内、何人かがこちらを見て嗤った。その中には婦長の須藤もいた。




「―ラシード、何で止めた。俺なら何時首になったって、構わねぇんだぜ」


「いえ、そうじゃありません。患者さんたちのためです。考えてみて下さい、ここであの異教徒を殴り殺したところでどうなります? それこそクツモの思う壺ですよ」


 確かにそうだと思った。思えば最近トミタ内の上層部の動きがどうにもおかしかった。


 前回の、中央自動車道でのタンクローリー炎上の時だって、群馬側からアプローチした方が絶対に早かったはずだ。それがどうしてか、上からの出動要請は無かった。池井戸達、トミタの救命隊員の多くが事故を知ったのは、病院からのホットラインでは無く、各隊員がウォッチにインストールしている救命アプリからのアラートだった。


それでも、池井戸達歴戦の救命ドライバーは不可能を可能にし、岐阜のクツモ記念総合病院の連中と同着で現場に着いた。患者の取り合いを巡って、それこそ血で血を洗う争いが起きたのは言うまでもない。




新潟の埠頭と新東京が近い立地からか、戦力はこちらの方が圧倒していた。助っ人外国人が多いのだから当たり前である。ティラノサウルスが千切っては投げ、ターミネーターが隊員を吊るす光景はなかなか圧巻あった。中でも、新車のハイメディックを宛がわれ、機嫌の良かったラシードは獅子奮迅の活躍だった。


シャムシャール両手にツクモの連中を次々切り伏せていくのである。池井戸の隣でガタガタ震えていた姿は見る影もない。中東の赤い旋風、通称“レッドサイクロン”と呼ばれた革命闘士の面目躍如であった。何のことは無い、母国に居られなくなったので逃げてきたのである。


「―トミタの上層部と、ツクモの上がツルんでるって、言いてぇのかい? 前の、親会社同士の業務提携の話か? まさか、ここは病院だぜ?」


「そのまさかです。どうやら、この病院はお宝、ある種の爆弾を抱えているらしい―」




―ピーン その時、後ろで音が鳴った。エレベーターホール8基の内、只一基、最上階16F直結のエレベーターが降りてきたのだ。


「どうやら、お出ましのようだぜ。そのお宝って奴が」


純金製の扉が大仰に開いていく。数人の屈強なSPの人だかりが開けたその先に現れたのは、皇居警視森田義一と


「やっほー、コータ。久しぶり、元気してたー?」


妙にパチクリした一重、瞳子その人であった。


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