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一章 チンピラ救命士と呼ばれた男

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア


                             


         国木田 真吾






天国では皆が話す、海の事、夕陽の事を


あの馬鹿でかい火の玉を眺めいているだけで素晴らしい


海と溶け合うんだ


ロウソクの光のように一つだけが残る


心の中に―






 サイレンを鳴らすかどうか、迷った。鳴らすと、早く帰れるし、鳴らさなければ、それはそれでサボる口実が出来る。池井戸広太はハンドルを握りながらそんな事を考えていた。ちなみに今、自分がハンドルを握っているのは警察車両では無い。鈍重な装備を懐に抱えた、不格好この上ない、所謂、救急車と呼ばれる車両だった。外から見る度に、まるで陸に打ち上げられたトラフグか何かかと池井戸はいつも思うのである。


「―なぁ、警機、付けようか。アンタもその方が良いだろ、どうせ速いのが好きなんだ」


 池井戸は後部シートに向かってそんな声を掛けた。汚い濁声である。


 野放図に伸ばした長髪を後ろで一括りにした髪型はとても医療従事者に見えない。事実、池井戸自身、これまで何度転職したのか分からない位の風来坊であった。




「・・・・・」


 後部シートから返事は無かった。バックミラーに目を遣ると、遮光カーテンに挟まれて二人分の姿が映っている。一人は座っていて、もう一人はストレッチャーに寝そべったままである。座っている男の方が若干身動ぎするのが分かった。


「アンタが乗ってたのって、アレだろ?ハヤブサだろ、エンブレムは良く見えなかったし、シャーシもグチャグチャだったけど、解ったよ。いや、渋いね、お兄さん。今どきガソリン車だって珍しいのに、限定解除のバイクってイかしてんよ。教習所、あるのかい、まだ?」


「・・・・・」


 池井戸はストレッチャーに寝転がっている、ライダースーツの男の方に訊いた。返事は返って来なかった。


「―あぁ、バイクだったら、シャーシって言わねぇのか、そもそも。悪い、悪い、いや、俺もね、ガソリン車乗ってんのよ。こんな電気自動車全盛の今日日。バッテリーなんてつまんねぇよな、この救急車だってそうだ、騒音も無けりゃ、排熱も出ない。おかげで快適なもんよ、どうだい、居心地良すぎて眠っちまったかい?」


「・・・・・」


 相変わらず返事は無かった。


「―あぁ、そう言えば、アンタ、まだ名前訊いてなかったよな、ええと、何て言うのよ―」




「―おい、よせ」


 池井戸がそのままの調子で喋り続けようとすると、それを遮る声があった。


「その癖、止めろ。コータ、面白くない。悪い癖だ」


 ストレッチャーの横でさっきまで黙って座っていた男が口を開いた。名前をロベルト・パトリックという。池井戸の同僚であり、相棒でもあった。ドイツ系のハーフだとかで、やけに色が白い。無口な上に無愛想なので、二人きりになった時の車内の発言量は自然と池井戸の方が多くなる傾向があった。




「―だってよ、ロベルト。俺達、そのライダーさんの名前も知んないんだぜ。そりゃあんまりじゃねえか」


「喋れる訳ないだろう、見て分からないのか」


 ロベルトは努めて平坦で抑揚のない声でそう言った。大体いつもこんな感じである。若干大げさに喋る癖がある池井戸とはその点で対照的だった。


―分からねぇ訳ねぇだろう、こっちだって目が見えねぇ訳じゃあるめぇ。


 池井戸は心の中で悪態を付いた。


 ストレッチャーの上の男には顔に当たる部分が存在しなかった。








池井戸とロベルトが119番を受けて病院を飛び出し、現場に付いた時には患者はもうそんな状態だった。時速何キロでクラッシュしたのか知らないが、男の顔面はアスファルトとガードレールによって半分以上食いちぎられていた。




 現場は往来の少ない山間部であり、辺りを樹木に囲まれていた。明かりと言えば道路上各所に設置された電燈位なもので、2025年現在、まだこんな田舎臭い所があるのかと池井戸自身驚いたものだ。


―こいつは何でこんな所を走ってたんだろう。


 池井戸は顔の無いそのライダーを初めに見た時、そんな事を思った。人通りの無い峠道のS字カーブ、難所と言えば難所だ。現場の状況から見ても、対向車に煽られたりという事件性は無いだろう。恐らくはスピードオーバーでガードレールに突っ込んだのだ。


「―まだ、バイタルがある。担ぎ出そう」


 ロベルトのそんな声に導かれるまま、顔無しライダーをストレッチャーに担ぎ上げた。純白のスーツは血まみれだが、奇跡的にバイタルはまだあった。心臓はまだ動いていたのである。




 ― ピ―― ――


 だが、それも数分前までの事である。救急車に運び入れ、生命維持装置に繋ぐや否や、心電図は途端に真っ平らになった。ロベルトが後ろであの手この手を尽くし、最後には心筋殴打までしたが、結局、その心拍が戻る事は無かったのである。




(―もう、ほっといてやれや)


 そんな言葉が池井戸の口先まで出掛かった。決して面倒になった訳では無い。


 後部座席のハッチを閉める際、池井戸は辺りを見渡した。グチャグチャに変形したバイク、ブレーキ痕の無いアスファルトの路面、ひしゃげたガードレール。深い雑木林。


 ヘルメットだけは何処を探しても見当たらなかった。患者の怪我、いや、遺体の損傷度から考えても、最初から被ってなかったと考えるのが妥当だ。


(―最初からそのつもりだったんだろ、どうせ、ヤケでも起こしたに決まってらあ)


池井戸はバックミラー越しに物言わなくなったライダーの姿を見つめた。






「―海でも、見に行こうとしたのかねぇ、仏さん」


 池井戸はふいにそんな事を口にした。何か、頭の隅で引っ掛かったのである。ついさっき、ロベルトに癖を咎められた件を紛らわしたい気持ちもあった。


すでに事切れた患者に対して、まるで相手が生きているかのように喋りかける。確かに良い趣味ではないだろう。だが、それがどうしたというのだろうか。池井戸自身、本心では、それが特別悪い癖だとは思っていなかった。


「海? あんな樹海の真ん中でか? 大体、群馬に海なんて、ないだろう」


「いや、だからさ、そんな気分になる時だってあるだろうや。特に夜中とか」


 


返事はすぐには返って来なかった。しばらくして


「―そうかもしれないな、私には良く分からないが」


そんな何とも言えない返事が返ってきた。妙な奴だ、と池井戸は思った。いつも何を考えているのか分からない。今だってそうだ。ロベルトは俺に癖の事を注意した。その割に、自分ではずっと死んだ患者の手を離さないのである。




 そんな与太話している内に、段々と緑に包まれた風景が晴れてきた。夜中でも止むことの無い街の喧騒が近づいて来ている。池井戸達の所属する病院もその一角に位置していた。群馬は前橋の街並みを一望できる、そんな立地にトミタ記念総合病院は居を構えている。昔はどこぞの大学附属病院だったのが、不祥事を連発し、民間なら七回は潰れていると陰口を叩かれた所でようやく経営破たんした。




結局、コングロマリット化に乗り出した大型自動車メーカーのトミタによって居抜きで買い叩かれ、今に至る。その名前を冠して再建されたのが今の池井戸達が厄介になっている病院という訳だった。病院がトミタを超えることは終ぞ無かったのである。ちなみに地元住民の評判はすこぶる悪い。




「―なんで海なんだ?」


「―えぇ?」


 不意に後ろからそんな声が掛かった、ロベルトである。どうやら、先程の件についてまだ考え続けていたらしい。


「いや、なんでって、特に深い意味はねぇさ。ただ、何となくだ」


「そうか」


 それだけ言うとまた押し黙ってしまった。ロベルトとの会話は終始こんな感じである。もう慣れたものなので、特に思う所は無い。


唐突に海の話をしたのは、何の事は無い。昔、見た映画の中にそんなワンシーンがあったような気がしたからである。確か、救急車でアメリカ大陸を横断するとか、そんな話だ。確か、ジャッキー・チェンがスズキの4WDで空を跳ぶ奴である。


 その話を相方にしようかと思って、止めた。ロベルトの仏頂面を見ていると、およそ映画の話しで話題が盛り上がるようには見えなかったからである。




「そんな事よりどうするよ、病院に帰ってから。またどやされんぜ、あの婦長のババアとか、野田のボケに。また金にならねぇ死体拾って帰って来たって」


 池井戸は病院に帰ってからの事を思案して、途端に面倒臭くなった。


 緊急コールを受けた時、池井戸達以外にも暇そうにしている救急隊員は居た。それでも飛び出してきたのは池井戸とロベルトの二人だけである。


「―仏さんの、懐具合はどんな感じだ? やっぱりCランクの患者さんか。時計見てみろよ、そしたら名前も分かんだろ」


 ロベルトが左手首にある自分の電子端末で顔無しライダーの電子端末にアクセスする。


 個人情報なんてものが道端の石ころ程度の価値しかなくなった今日日、マイナンバー一つでどんな取引でも即時決済してしまう。もはや、財布を持っている人間すらいやしないのである。




 当初、絶対に普及するはずはないと思われた腕時計型の多機能端末も、販売会社の潤沢な資金を背景に、ゴリ押しで世界中に販路を開いた。その様子は、かのパソコンOSソフトのメーカーが、次世代ゲーム機をゴリ押しした時さながらだったと言う。


 かくして、“ウォッチ”と呼ばれる、名前そのままの電子端末はこの日本でもほぼ普及率100%に到った。身分証代わりにもなるので、なかなかどうして手放せない。特に、池井戸達医療関係者にとってウォッチの所持は必須と言ってもよかった。




「―氏名は伊藤文武、年齢は28歳、独身。仕事は非正規だな、―収入はー、どうしたって、Cランクに分類されるだろうな」


 ロベルトが抑揚のない声で顔無しライダーの個人情報を読上げる。なるほど、今しがた息を引き取った患者の名前は伊藤文武というらしい。ようやく、手の一つでも合わせられるというものである。池井戸は心の中で合掌しようかと思って、止めた。押し付けがましいと思ったからだ。


今、ロベルトがやって見せた個人情報の参照は救命救急士の医療特約に基づく特権である。お互いのウォッチを引き合わせるだけで相手の収入の概算から主力取引銀行の当座残高まで出てくるのだから、末恐ろしい。医療経済の効率化の名の元では、今際の人間のプライバシーなど何処吹く風であった。


残念な事に、最近はそんな医療権限の照合で得た情報を、役得とばかりに売り買いしたりする手合いが少なくない。とはいえ、池井戸の知る限り、後ろの仏帳面の相棒がその手の素振りをして見せた事は一度としてなかった。


「―あーぁ、じゃあ、葬式も出してやれねえだろうな。可哀想によ。また無縁仏か」


「そうだな。今どき珍しくも無いだろう」


「まぁな、考えてみりゃ、遺産相続やらなんやらで、遠縁の親戚やら国税庁の連中にたかられるよりマシかもしれねえ」


 池井戸はぶつくさ言いながらハンドルを切った。目的地の病院はもう目と鼻の先だった。


 目の前に白亜の御殿が姿を現す。通称、“前橋のブラックホール”。群馬に住んでいる人間は誰もが最後はこのダストボックスに吸い込まれる事からその通称は生まれた。紹介状片手にこのトミタ記念総合病院の門を叩いたが最後、文字通り“骨の髄”までしゃぶられる羽目となる訳である。火葬場まで直通であるだけ幾ばくか良心的と言えた。少なくとも、見てくれの豪華さと医療従事者達の良心が反比例している事だけは確かだった。


 やたらにだだっ広いロータリーをグルグルと回り、これまただだっ広いだけの駐車場を救急車はひた走った。とりあえず駐車場を広くしておけば、集客率は捗るだろう、というのはこの病院の経営方針の一つである。おかげで院内のベッドの収容人数以上の収容スペース、述べ1,000台を計上する駐車場は一度として満車になった事はない。




 池井戸達を乗せた救急車は音も無く病院の裏手に滑り込んだ。その隠密性も池井戸が操縦するこの救急車、五代目トミタ・ハイメディックの特性でもあるのである。


 トミタがその威信を賭けてこの世に創造したもうた、高規格救急車シリーズの最新作であり、おそらく最高傑作。2025年現在、その普及率は日本の救急車市場に置いてトップシェアを通り越してほぼ寡占と言って良かった。製品の出来はともかく、マーケティングは完ぺきに成功したのである。出来の悪い学生が、今では義務教育に取って代わった通信教育でもれなく聞き流した、ドップラー効果を日常生活で体感したければ、このハイメディックに頼る他ないのである。




 五代目ハイメディックの最大の特徴として挙げられるのが、モーターエンジンの搭載である。心臓部に、シリコンバレー製の車両用モーターが収まっているのだ。カタログ上のスペックで、出力が500kwの最大トルクが900Nm。停止状態からアクセルを踏み込むとおよそ3秒で時速100kmに達する。初代のハイメディックのV8ガソリンエンジンと比べると倍以上の馬力で、それもあくまでカタログ上は、のスペックであった。


 ある意味、人材と技術が底を着き、もはや焦げ付きかかっている日本企業の中で、トミタは偉大だった。早々に使い物にならない自社の開発部に見切りをつけ、いち早く金蔓の匂いを察知し、如何にかこうにか成長著しい外資系ベンチャーに資本をねじ込むフットワークの軽さを見せたのである。それがこの高性能モーターが五代目ハイメディックのフロントに収まっている事の真相であった。


まだ日本企業の株価が軒並み高水準で保っていた時代だからこそ出来た荒業であった。再度、日経平均が一万円を切って久しい今の市場では土台無理であろう。おまけに1ドルは円換算で240円と来た。タンス預金も人的資本も底を着いたこの国には、嘗ての栄光の残滓である大企業の看板位しか価値のあるモノは存在しないのである。




「―うわ、須藤のババアだよ。呼ばれてもいねぇのに、出てきやがった」


 池井戸が助手席のガラス越しに相手の姿を確認してそうボヤいた。ナース姿のやたらと化粧気の強い女が肩を怒らせながらこちらに近づいて来ている。


 須藤と呼ばれたナース長は池井戸達の救急車に近づくや否や、その助手席の窓を遠慮容赦なしに叩きだした。眉間には皺と言う皺が寄っている。池井戸が嫌々一瞥をくれると、般若のような形相が其処にはあった。仕方なしにウィンドウを下げてやる。


「あんたら、また死体拾ってきたんだって!?」


 開口一番、この調子である。池井戸はまともに相手するのも嫌になった。


「―あー、死体じゃ、ないです。遺体、ね。それにね、ちゃんと緊急出動要請を受けて、俺達は出動してますし、それから、現場到着時には患者のバイタルはまだあった―」


「そんな事どうでも良いでしょ! 金にならないBランク以下の乞食連中は搬送するなって通達があったはずでしょ! 耳、付いてんのアンタ!? それとも何? 中卒の馬鹿にはまともに字も読めない訳? あっは、これだから低学歴は!」




―くせぇ、口臭がこっちまで臭ってんだよ。ぶち殺すぞ、糞ババア。


池井戸はその台詞を口にするかどうか迷った。事実、池井戸が須藤の方を睨んだ時、彼女がそのまま一方的に捲し立てていれば、池井戸は迷うことなくその台詞を発していたはずである。


 ところがそうはならなかった。池井戸が切れかかっているのを見るや否や、須藤婦長はすごすごと退散していった。この手の人種はそういう雰囲気を察するアンテナに掛けては秀でているのである。途中、何度かこちらを振り返りながら、何やらぶつくさ言っている。




 一瞬、池井戸の右脚がアクセルペダルに触れた。


救急センターの裏口とハイメディックに挟まれた婦長との位置関係を瞬時に頭の中でシミュレートしてみる。試しにアクセルを全開にしてみた。


次の瞬間、汚い肉団子がフロントガラスに撒き散った。肩にシートベルトが食い込んで、恐らく一週間は痛むだろう。壁に激突したんだから、まぁ、それは仕方がない、問題は―


「―おい、コータ。どうした、大丈夫か」


 不意に池井戸は我に返った。


「―あぁ、悪い。ぼーっとしてた。 あーとりあえず後ろの伊藤さん、降ろそうや」




 病院内に入ると、いつもの、辛気臭く嗅いでいるだけで不健康になりそうな消毒液と死臭の混じったような臭いが池井戸の鼻を刺した。そんな事ばかり思っているのなら、とっとと救命救急士など辞めてしまえばいいと自分でも思っていたが、なかなか辞め時が見つからない。およそ救急搬送に向かず、ストレッチャー同士が何度もぶつかる廊下を抜けると、目当ての売店が見えてくる。薄暗い病院内の黄ばんだ蛍光灯の明かりの中、そこだけは神々しく光り輝いていた。民間から取り入れた、コンビニテナントである。ここだけは病院内の経営から完全に独立しており、テラ銭を挙げさえすれば、後は病院側からは完全にノータッチであった。そういう意味では、馴れ合いと癒着にどっぷりと浸かった病院内のセクションに置いて、ここが一番健全であるのかもしれない。


「じゃあ、買い物行ってくらぁ」


 ハイメディック内にロベルトのそう言い残して、池井戸一人でコンビニまでやって来ていた。仕事の合間の休憩の度に、そんな感じである。別に、ロベルトに池井戸がパシられているだとか、池井戸がロベルトをなおざりにしているとかそういう訳ではなかった。ロベルトには、定期的に“充電”が必要なのである。




 決められた順路を通って、いつも通りの品物を両手で鷲掴みにしてゆく。面倒なので買い物かごの使った事はない。ロベルトが頼むものは大抵決まっているので、後は精々、池井戸自身が、食品コーナーの前で、その、やたらにバリエーションに富んだ品揃えの中から腹に詰め込む物の組み合わせを試行錯誤する位である。




品揃えは、本当に、何でもあった。まるで此処が病院の中である事を忘れる位に。添加物たっぷりのパスタから、コレステロールの塊のカップ麺、保存料・着色料を詰め込めるだけ詰め込んだフルーツ・オ・レまで。


正直、あの黄色と緑のパッケージを見る度に吐き気がする。各階ごとのエレベータ脇の自販機にも、あのジュースパックは陳列されているはずだ。これでは病気を治しているのか、悪化させているのか分からないのではないか、池井戸はフルーツサンドとコーヒー牛乳を棚から取りながらそんな事を思った。




 最後に、雑誌コーナーに立ち寄る。何時もは暇を持て余した、棺桶に片足を突っ込んだ連中が、大して意味も無い、病院側の医療点数を稼ぐためだけが目的の点滴スタンドを引きずりながら立ち読みをして、黒山の人だかりを形成している時間帯である。深夜の方が病院のコンビニは繁盛するのである。


 何時もなら巧妙にその人だかりへと肘鉄を効果的に叩き入れ、人垣を切り崩し、目当ての雑誌を棚から奪取するのだが、今日はそんな必要は無かった。立ち読みしているのは一人だけだ。




 妙な野郎だ、と池井戸は思った。いや、もしかしたら女かもしれない。後姿からはどうにも判断が付き辛かった。髪は耳に被さるくらいで、パジャマ姿なので体のラインがしっかりしない。何の気なしに、その、パジャマ男女が読んでいる雑誌を覗き込んでみた。この夏一番の観光スポット、青い海、白い砂浜、そんな煽り文句が躍る。何のことは無い、良くある旅行雑誌だった。


「―おじさん、どうしたの? これ、読みたいの?」


「え? ―あぁ、いや、そうじゃねぇさ。悪い、何読んでんのか気になっただけだ。違う、何言ってんだ、俺は。兎に角、すまねぇ」


 男女と目が合った。相手が急にこちらを向いたのだ。一重の、妙にパチクリした目玉が印象に残った。不意に声を掛けられて、池井戸は年甲斐も無く狼狽えた。思わず返事もしどろもどろになってしまう。


 パジャマ男女はそんな池井戸の様子を見てクツクツと笑っている。さっきのパチクリした一重と合わさって、その風貌は何処となくリス科のシマリスを彷彿とさせる。歳は十六位で、声変わりもしていない、多分、女だ、池井戸はそう思う事にした。そうでなければ、今頃店のウィンドウに頭を叩きつけている所である。それにしても、おじさんはねぇだろう、と池井戸は思った。


「なんだい、ねえさん。旅行雑誌なんか読んで。えぇ? 好きなのかい、そういうの」


 半ば、照れ隠しのつもりだった。大抵こういう場合、愛想と柄の悪さに定評のある自分の方からこうしてコンタクトを取ると、まともな年頃の娘であれば、関わりになろうとせず何処かに行ってしまうものである。偶に食いついてくる輩もいるが、そんなモノ好きはそうそういない。池井戸は面倒になると、こうして厄介払いする癖があった。




「―うん、好きなんだ。こういうの。おじさんは?」


 ただ、ここは病院である。中に居る人間と言えば、それが“顧客”にせよ、サービス提供者にせよ、およそマトモと言える部類の方が圧倒的に少ないという事を池井戸は失念していた。


「おお、そうかい。奇遇だね、俺も割と好きだよ、旅はね。旅行じゃねぇよ。旅だ、旅」


 わざわざ邪険にするのも面倒なので、ちゃんと話し相手をする事にした。それに、話してみると、その感じからして、なかなかどうして馬が合いそうな気がした。近頃の若者にしては他人様を喰った感じがしないのも物珍しかったのもある。2025年現在、出生率が1・00を切って久しく、若者と見れば、基本的に頭の螺子が緩みきって蛆が沸いている小皇帝か、ともすれば頭の螺子が擦り切れて無くなったストリートチルドレンしか居ないと思って良かった。ただ、時たま、こうした例外に出会う事はある。


「旅と、旅行の違いってなーに? おじさん」


「えぇ? そりゃ、お前さん、旅行は帰ってくる予定を立ててから発つもんで、旅は掛けるもんだって、相場は決まっているだろう。帰る予定も無しに、ブラっと気ままに行くのが、旅の醍醐味ってもんよ」


「へー、そうなんだー」


「あぁ、そうなのよ。まぁ、それは良いんだけどもよ。あのさ、旅行雑誌も良いんだけども、姐さんが多分、今、体で塞いでる雑誌、取らしてやっちゃ貰えねぇかな」


 どうやら池井戸の探している雑誌はパジャマ姿の男女が塞いでいるらしかった。


「え? あっ、御免なさい ・・・ピンク雑誌?」


「―ちげぇよ。その横だ。ていうか、そんな所に年頃の娘さんが寄り掛かるんじゃねえよ。というより、そもそも立ち読みなんざするんじゃねぇよ。 ―そう、ああ、それだ。その胡散臭いクイズ雑誌。悪いな」


「・・・おじさんが読むの?」


「違うよ。悪かったな、学が無さそうな顔で。相棒が好きなんだよ、クロスワードを解くのが ―クロスワードって分かるか?」


「分かんない。何それ」


「俺も良く分からん。特に、何が面白いのか」


「へー」




 目当ての物も見つけたので、そろそろ池井戸はお暇する事にした。愛想のすこぶる悪い店員によるレジ対応を受けていると、思わず殴り飛ばしてやりたくなる面が入口から入ってくるのが見えた。


「―おい、池井戸。お前、あの方と何喋ってたんだ?」


「あぁ?」


 開口一番これである。この国で白衣を着ている人間にまともな奴は居ない。


「俺が誰と何を喋ってようが、俺の勝手じゃねぇですかねぇ。野田先生よぉ、何だ、あの嬢ちゃん。特Aクラスの“患者様”か何かかえ」


「―違うよ、クソ。いや、そうなんだが― チッ、とりあえず、お前は余計な事をするな。な、頼むから? 良いな? ―ったく、これだから中卒は」


―てめぇも私大上がりの学校債組だろうが、ボケ。


 池井戸がそんな言葉を吐く寸前で、野田と呼ばれた医者は池井戸に背中を見せた。神経質そうに眼鏡の蝶番を弄りながら、先程のパジャマ男女の所に行って、しきりに会釈をしている。まだ四十手前だと言うのに、その頭頂部はすでに後退し始めていた。その様子は、医者と言うより海千山千の営業マンと言われた方がしっくりくるだろう。ちなみに学校債とは、寄付金の別名の事である。二十一世紀に入るか入らないか、という頃合いに、幾らなんでも寄付金では体面が悪いという事で、時の文科省指導の元、裏口入学のシステムにも大幅にテコ入れが入った。内容は依然として変わっていない。要は金とコネである。後はどれだけ恥を知らないかどうかだ。




―あの野郎、二回、舌打ちしやがった。二回だ。


 目の前でコンビニ店員がもれなく笑うのが分かった。流石に我慢の限界だった。前橋の瞬間湯沸かし器と呼ばれた救命救急士の沸点は宇宙空間並に低いのである。


「何笑ってんだ、タコ。とっとと詰めるもん詰めろや。ぶち殺すぞ」


 店員の顔が途端に引きつるのが分かった。恐らく、それが脅しではないという事を病院内の噂で重々承知なのだろう。ウォッチをパネルに翳すと、電子の速さで決済が執り行われる。近頃は何でもこれだ、おかげでレジに並ぶ事も無くなった。ビニール袋に無遠慮に詰め込まれた戦利品を片手に、池井戸はコンビニから退散する事にした。これ以上、この場に留まると、またトラブルを起こしかねない。インフラストラクチャーが整備されるに従って、些細な事でイライラするようになるのは何故だろう。自分の短気さを差し引いても、それだけは不思議だった。




 コンビニの玄関をくぐる時、何気なくさっきの立ち読みコーナーを見遣った。野田のボケはまだヘコヘコしている。あの調子なら、外科部長より営業部長の方が余程適任に思えた。あのシマリスの嬢ちゃんは病院にとって余程の上客であるに違いない。不意に、そのパジャマ男女がこっちを見た。


―バイバイ、おじさん。またね。


 事もあろうにそんな事をその唇は諳んじて見せた。恐らく、池井戸の読み間違いではないだろう。―だから、おじさんじゃねぇってんだろう、あの尼。池井戸は心の中でそう毒づいた。それから、やはり、さっきのコンビニ店員の中途半端な染髪を全部毟り取ってストレスを発散させるべきだったと後悔した。




 何処かで逢ったか、あの嬢ちゃん。池井戸の脳裏に、ちら、と似たような容貌の少女が写った。それから、飛行場のコンコースの、独特な、妙なチャイム音。良く思い出せない、恐らく、他人の空似だろう。何時から、俺はロリコンになったのか、と池井戸は頭を振った。




 帰り道、救急センターから吐き出されてきた集団と鉢合わせになった。救急センターは病院の裏口とコンビニの丁度中間に位置する。辛気臭いので池井戸はコンビニ利用時は意図的に視界から外す様にしていた。


 トミタ記念総合病院が擁する、今一助ける気があるのかないのか分からない、救命救急の医療スタッフの第一班のお出ましである。恐らく、一段落付いた、そう自分達ではそう思っているのだろう。ちなみに、まだ時計の短針は十二時を回った所である。


 どれだけ必死をこいて人が急患を運んできても、連中に渡すのであれば、助かるものも助かるまい。そう思う救命救急士は少なくなかった。




「―うおっ!?」


「―おお、先生。大丈夫か。前、見て歩けや。ゲームばっかり、ポチポチやってねぇで」


 例えば、今、池井戸にぶつかりかけた第一外科の執刀医などは四六時中スマートフォンを弄っている。スタッフルームから出て来た時から弄っていたので、恐らく業務中も似たような感じだったのだろう。目に前の急患のバイタルがフラットになった時でも、全国に犇めくライバルとのプレイヤーランキングの競争を気にする事が出来る神経は存外、外科医向きなのかもしれない。


「チンピラ救命士? じゃなかった。うわっ、池井戸だ」


「―あぁ?」


 豚のような声で喘いだかと思うとその医師は廊下の側壁に飛びのいた。確かに言い得て妙である。古今東西、看護師以下の医師免許取得者以外の医療従事者などチンピラ上がりか風俗関係者と相場が決まっている。福祉関係と同じだ、プロテスタントもカトリックもへったくれもないこの国に置いて、善意の人助けの精神なんて育まれようはずも無かった。キツイ職場には、それ相応のキツイ人間が集まるものである。もちろん、池井戸自身、自分が例外だなんて、これっぽっちも思っていなかった。


「―おうおうおう、えらい言われようじゃねぇかよ。えぇ? 流石は栄光の第一外来の生抜きの大先生の言う事は違いまさぁあなぁ。あんたら、もう休憩かい、これからが掻き入れ時じゃねぇのかよ?」


 誰も、池井戸と目を合わせようとしなかった。まるでモーセの十戒である。せま苦しい廊下の中央で、クルクルと回りながら嘯き、自分達を批難する池井戸を窘める者は栄光の第一外科の面子には居なかったのである。そのチンピラ救命士を避けるように、医師も看護師も壁際に沿って立ち去って行った。




「おい、こら。チンピラ、粋がんのも大概にしろや。―塩化カリウムでも四十ミリ、キッチリぶち込んでやろうか」


 肩透かしを食らっている池井戸に後ろから聞き覚えのある声が掛かった。振り返ると、彦足を引きずった男が救急センターの前に立っている。


「―何だ、ドク、居たのか」


「何だとは、何だ。当直なんだから居るに決まってるだろう。今から第二の引き継ぎだ。文句あるか」


 片方の眼球が池井戸の方を見据えて離さない。もう片方は何処か明後日の方を向いている。内側の筋線維が切れているのだ。福本が第三回の自衛軍の中東遠征に軍医として参加した際、イスラエルのガザ地区か何処かで、負傷した隊員の手当をしていた時に負ったものだと訊いた。テントの中で瀕死の隊員の手当をしていると、そのテントにもれなく迫撃砲が撃ち込まれて炸裂したのである。おかげで顔半分は擦過痕だらけ、福本の病院内での渾名はフランケンだった。


「あんたら、いつも第一の尻拭いばかりさせられて、悔しくないんかい? あいつら、面倒な患者が来るたんび、あんたらに押し付けてんじゃねぇか。第二は外様の集まりだってんで、嘗められてんだろ。えぇ? 今だってそうだ、家に帰る気満満だったぜ、連中。どうせ、緊急の呼び出し掛けたって、まともに出やすらしねぇんだろ」


「―拾って貰った恩もある。あまり強くは言えんさ。それに、彼らは彼らなりに一生懸命なんだろう」


「―何が? 勤務中にブラウザゲーやったり、医学論文書き上げたりするのでか?」


「・・・・・変わらんなぁ、お前の、そういう所は、昔から」




 池井戸が福本に初めて会ったのは五年前の、その自衛隊中東遠征の時である。池井戸はその時、下請けで現地ドライバーの職に有りついていた。


 15の時、一週間で高校に行くのが馬鹿らしくなった。その頃は、まだ例のフリースクール法案が国会を通る直前で、学校なるものがまだ日本に存在した。まだ、教師とかいう馬鹿げた職業が存在していた時代である。例の、教師達による生徒を人質にした、前代未聞の“立てこもり事件”もまだ起こっていなかった頃だ。


 ともあれ、頭のいかれた教師の一人を半殺しにし、池井戸はパスポート片手に国を捨てた。それからは諸外国を流離う日々であった。幸い、その頃は日本人の顔とパスポートにまだ需要があり、池井戸自身の物覚えの良さも手伝って、日々の糊口を凌ぐ分には困らなかった。


 そんな人生だったので、中東でその日の丸を見た時の違和感と言ったらこの上なかった。


―おいおい、まだあったのかよ。この国。


 そんな感じである。池井戸は、まるで、とっくに生産中止になったと思っていた駄菓子を、潰れた雑貨屋の片隅で見つけたような気分になった。




「―お前さん、日本人か」


 不意に、後ろからそんな声が掛かった。池井戸はその時、兵員輸送用のトラックを運転していた、負傷兵を後方に送り返すため、前線とベースキャンプを往復するアレである。払い下げなので、サスペンションにガタが来ていた。バックシートにはいつも負傷した隊員が乗っており、みな、一応に辛気臭い顔をしているか、新兵であれば自分の無くなった手足の先を眺めて、さめざめと泣くのが定番だった。そんな中で、一人、何食わぬ顔で煙草を吹かしている男がいた。それが福本だった。




「えぇ、まぁ、パスの戸籍上はね」


 池井戸は何とか日本語のイントネーションを思い出しながら、辛うじて、そんな返事をしたのを覚えている。アラビア語にどっぷりと浸った言語野には、漢字とひらがなはなかなかパンチが効いて新鮮である。バックシートの一番手前に腰掛けたその男は、片手に松葉づえを持ち、顔の半分はガーゼで隠れていた。首からはドッグタグの代わりに赤十字のプレートがぶら下がっている。


「軍属かい? 新兵って訳じゃなさそうだが」


「いや、現地調達の、下請けドライバーさ。もうあんたらの国を出て、 ―あー、8年? になる、と思う」


 池井戸はその時、無意識の内に、あんたらの国、と表現した。手に取った駄菓子を眺めたからといって、必ずしもその駄菓子に愛着がある訳では無い。


「へぇ、そうか」


 そう言ったっきり福本は喋ろうとはしなかった。






「―どうして?」


「え?」


 池井戸は思わず口を開いて、何気ない疑問をぶつけてみた。


「どうして、あんた、そんな平気な顔をしてられるんだ?」


 自衛軍の海外派遣の一般隊員の特別手当は、憲法改正前から通じて日当三万円である。炎天下、摂氏60度を超える中で、都合30キロの装備を背負って汗みずくになった挙句、手足を吹っ飛ばされたのでは幾らなんでも割に合わない。それが当時の自衛軍の下士官の共通認識だった。従軍医師とはいえ、いや、従軍医師だからこそ、手当の金額が変わろうが、このトラックに詰め込まれる際の、そのやるせなさと言ったらないだろうと池井戸は思ったのである。




「―ははっ」


 従軍医師は返事の代わりに乾いた笑いを寄越した。段々と、その笑いが大きくなる。


 瞬間、池井戸の興味は失せた。男の吸っている煙草が実はマリファナで、怪我をして自暴自棄になった医師が達観して見えただけなのだと当たりを付けたのである。ハンドルに意識を戻そうとした時、バックミラーに、ぬっと影が差した。


「―お前さんと同じだよ」


「―えぇ!?」


 一瞬、ステアリングを切り損なう。ジープの後輪が路肩の猫か何かの死骸を轢いた。車体が大きく揺れて、後ろで負傷兵の数人からうめき声を上がった。池井戸は慌ててジープを舗装路に戻した。




「おい! おっさん、てめぇ、ふざけんな! クスリ決めんなら外でやれ、外で!」


 池井戸が怒り心頭でバックミラーに目を遣った。 ―死ぬなら、てめぇ、一人で死ね! さらに怒鳴りつけようと用意していた台詞は続かなかった。予想に反して、冷静な表情の男の顔が其処に映っていたのである。その顔は何処か清々しているようにも見えた。


「―もっと早くこうしておけば良かった、もっと早く、こうしておくべきだった。中東くんだりまで来た甲斐があった。これでようやくメスが握れるってもんだ」


 福本はそう言って胸ポケットから新たに紙煙草を取り出して火を着けた。懐かしい香りがした。何処とない、い草の匂いが混じる、わかばだ。まだ売っているのかと池井戸は思った。兎も角、その男はマリファナで吸っていた訳では無く正気だったのである。




 それがきっかけで池井戸と福本は時折喋るようになった。通常なら、負傷兵はベースキャンプから本国送還が普通なのだが、福本はそうしなかったのである。ベースキャンプの中を当て所なく、ブラブラする。時折、思い出したように、現地の市街地に足を運ぶのだ。久しぶりに、生まれの国がどんな様子なのかを聞くのは面白かった。想像していた以上に、散々なようで、福本もそんな日本国と、その国の医療現場に嫌気が差して逃げだした口であった。それでも、規制改正による外国人の流入によって、幾ばくか日本人的意識の真髄である、所謂“である”意識も多少は薄まりつつあるらしい。


「―お前も、機会があれば帰ってみればいい。お前が国を捨てた頃とは、幾ばくか世界が変わって見えるだろうよ」


一度、福本がそんな事を言っていたのを覚えている。それからしばらくして自衛軍の撤収によってベースキャンプは解散になった。お互いに、一々、別れの挨拶をするような人間では無かった。生きていれば、その内会う事もあるだろう。そんな風に思っていたら、数年後、このトミタ総合病院でばったり再会した訳である。


「―おい、約束が違うじゃねぇか。先生よ」


「―えぇ?」


 池井戸は開口一番そう言った。シルクロードを逆走し、最後は朝鮮半島の真ん中から空を飛ぶ形で、羽田の、日本の地を踏んだ。タラップを踏んだ時の感触は、以前と何も変わらないような気がした。相も変わらず、ドブの底を攫ったような臭いがする。道行く人間のほとんどが、上辺だけを取り繕って、腹の底は腐っているように見えるのである。


「あんた、最後に、この国もちったぁ変わったって言ったじゃねぇか。残念ながら、俺にはそうは見えねぇけどな。道行く連中、連中よ。ゲロ以下の臭いがプンプンするぜ」


「―そうでもないさ。確実に変わった事が一つある」


「何だよ」


「・・・一つは、俺みたいな藪医者や、お前みたいなのが、平気な顔で病院に出入り出来るようになったことだ」


「・・・・・」


 池井戸は何も言い返せなかった。このトミタに雇われた時の事を思い返してみる。








まず、複数の外国語が飛び交うコンコースの壁にウォッチの画面を投影させ、苦労して求人情報を見ながら仕事を探した。おかげで手首が腱鞘炎になりかけた。あまり、羽田には良い思い出が無いので、早くお暇したかった。15の時、パスポート片手に、国を捨てる際、数少ない友人が度胸付け、もとい護身用にと持たせてくれた、防刃グローブと、硬質ゴム性のコンバットナイフが仇になった。後者の方が空港職員的には不味かったらしい。金属探知機に掠りもしない、訓練用なのに、口うるさい連中である。危うく、寸での所で、空港勤務の警察官とドンパチを始める所だった。まぁ、腎臓の裏に、むき出しのまま、無造作にベルトを挟んで突っ込んでいたのは、少し無神経だったのではないか、と今では思う池井戸ではあった。


風の噂で、防刃グローブをくれた方は、千葉は上房総で、カスタムショップを経営しているという。折りをみて、顔を出すのも良いのかもしれない。コンバットナイフを寄越した方は、どっちでも良かった。大方、どっかで空手の師範代でもやっているのだろう。


 案外と仕事は簡単に見つかった。というより、仕事が溢れていた。日雇いであれば、それこそ羽田のコンコース内で左官からベルボーイの仕事まで見つかるのである。それでも日雇いは嫌なので、海外勤務経験者優遇、との事で、このトミタ総合記念病院の血塗られた門を叩いた。それが運の尽きだった。




 選考は電子上の書類審査のみ、上越新幹線の代金に目を向いて、ヒッチハイクしながら面接会場であるトミタの正面玄関に辿り着いたのは、面接開始時刻の5分前であった。途中、クマに襲われたのと、ヒッチハイクしたトラック運転手に身ぐるみを剥がされかけたのは想定外のタイムロスであった。


「―どうして体中引っ付き虫だらけなん、山菜取りでもしてたん?」


「―いやぁ、ちょっとクマと格闘してまして」


待っていたのは面接とも言えないような面接だった。何しろ池井戸の服と言えば上が作業服に下はGパン、極めつけはポニーテールなのである。受ける方も受ける方だが、面接官も大概だった。面接時間を10分過ぎてから豚みたいな男が足をならしながら入ってきた。手にはドーナツを山と抱えている。それを池井戸達の前でムシャムシャやりだした。


「なに、オッサン。そのポニーテール、似合ってるとでも思ってんの」


「うるせーな、デブ。次、口開いたら、ぶち殺すぞ」


 面接開始一〇秒が限界だった。黙りこくった面接官の前でラッキーストライクを取り出して、火を着ける。相手がドーナツをムシャクシャやってるのだから、別に良いだろうという理論だ。




「―あぁ? 何、口パクつかせてんだ。てめぇ。こっちはてめぇほど暇じゃねぇんだよ。早くしろや」


 横で他の面接受験者が笑うのが分かった。ちらりと右手に目を遣ると肌黒い中年の男がクスクスと笑っていた。目が合うと、慌てて居住まいを正して見せる。こちらはそれほど嫌な感じはしなかった。目下の問題は目の前のくそったれな面接官である。




 見るとドーナツ野郎は面接希望者を部屋に置き去りにして、廊下から自分のウォッチに向かって吠えていた。どうやら応援を呼んだらしい。しばらくして見るからに屈強そうな、そして如何にも自衛軍崩れのガードマンが二人、部屋に入ってくる。ゴムタイヤのような、ダルンダルンの筋肉と、如何にもな銃創と眼帯。所謂、傷痍軍人という奴だった。恐らく、中東帰りで天下った口だろう。もしかしたら、自分が運んだ連中の中に居たのかもしれない。


「―おい、チンピラ。ちょっとこっち来いや」


 ガードマンの片割れが口を開いた。池井戸公太がトミタで初めてチンピラ呼ばわりされた記念すべき瞬間だった。




池井戸はその時、左腿に仕込んだ特殊警棒を意識した。イスラエルで道端に倒れていた浮浪者にホットドックを驕ってやった際に見返りに提供された代物である。良く出来たもので、グリップに仕込んだ小型バッテリー一本(充電可能で市販の単一電池でも代替可能)で1,000Vの電流が100Aで先端から流れる。押し付けた時間と場所によっては、相手を三途の川で溺死させる事も十分に可能だった。ついでにタイマーの機能も付いている。ただ、そのバッテリーも先程のヒッチハイク強盗と群馬の野生のクマ相手に使い果たしていた。




ガードマンが二人、眼前に迫る。その時、空になったバッテリーを池井戸は有難く思った。これでやりすぎると言うことは無いだろう、と安心したのだ。軽く、座っていたパイプ椅子から腰を浮かせた。




浮浪者の正体がモサドの諜報員だという事を池井戸が知ったのは、借りていたアパートの下宿先にヘブライ語で書かれた礼状とともに特殊警棒が入ったダンボールが届いた時だ。開封する際、別段恐怖は感じなかった。お中元の袋をビリビリと破る気分で六芒星の入った梱包を解いていく。相手に殺す気があれば、今頃自分などアパートごと消し炭になっているはずだった。




 グチャリ、嫌な感触がして、目の前のガードマンの一人が崩れ落ちる。今しがた池井戸が座っていたパイプ椅子の先端が相手の喉元に食い込んだのである。


 二人で一斉に池井戸に飛び掛かったのであれば、勝機はあったかもしれない。だが、ガードマン達はそれをしなかった。


 片方が蹲ったのを見て、あろうことかもう一人は棒立ちになった。はっきり言って、軍人として、もっと言えばガードマンとしても失格も良い所である。




 池井戸には始めから分かっていた事だった。本当に強い軍人は、あんなに無駄な筋肉を付けたりはしない。本当に危ない奴ならば、あんな、さも屈強そうに見えるなりをわざわざしたりしない。 ―する必要が、ないからだ。


 そもそも、自衛軍の傷痍軍人と言う時点で池井戸には彼らの戦闘能力が推して測れた。兵員輸送のバイトをしていた池井戸はそれを痛い程知っていた。別に、自分が武道の達人という訳では無い。ただ少し喧嘩慣れしているだけだ。彼らが、どうしようもなく弱いのである。


 今日日、最前線に勤務する羽目になる自衛軍の兵士など、そのほとんどが使い捨てである。国内からの出兵の内実など、非正規労働者の成れの果てであるに過ぎない。訓練学校を出た将校や下士官が自動小銃を持って弾除けになる事は稀である。後方待機で、日夜訓練に励んでいるホワイトカラーの方が余程徒手空拳に通じていると言うのも皮肉な話だった。




池井戸は蹲っている男のこめかみを折りたたんだパイプ椅子で容赦なく打ち抜いた。短いうめき声を上げて、男は横に倒れて動かなくなった。後は同じ要領で残ったもう一人を料理していく。


 すでに戦意喪失して狼狽えているガードマンに池井戸はスタスタと近づいて行き、大きくテイクバックを取った。両腕を振りぬくと、大きな音を起てて男の顔面が爆発した。パイプ椅子の背もたれの部分が衝突したのである。金属製のプレートで特大の張り手を喰らうのと同じだ。二人目は、そうして膝から崩れ落ちて行った。


―後遺症が残らなければ良いな。池井戸は本気でそんな事を思った。理由は、二人目は自分をチンピラ呼ばわりしなかったからである。




 翌日、採用通知の知らせが池井戸のウォッチに届いた。簡易サウナでマッサージチェアに揺られていた池井戸も、これには多少面喰った。まさかとは思うが暴行罪で訴えられたらどうしようと高跳びする算段までしていたからである。








「―まぁ、そうかも知れねぇな」


 池井戸は自分が採用された時の事を思い返し、確かにこの国も少しは変わったのかもしれないと思った。


「だろ。もう一つは、アレだ」


 福本が顎でしゃくった方を見ると、2mほどの大柄な女が病院の廊下を通り過ぎる所だった。デカい、何にせよ、大きい。確か、ネイティブアメリカンの血が入っているとかで、骨格からして貧相な日本人の基準からすれば十分化け物である。名前は確かマリアだ。そういう意味では看護師は天職なのだろう。血を見ると、テンションが上がるらしい。採用面接の時に池井戸の左隣でポルトガル語交じりにそんな事を言っていた。彼女が座っていたパイプ椅子が軋んでギシギシ五月蠅かったので、良く覚えている。ブラジルからやって来た出稼ぎ労働者だと言っていた。


「まぁ、グローバル化って奴の成果じゃなかろうかね。この病院内だって、幾つ言葉が飛び交っているのか、分かりゃあしない。おかげで危篤の患者と意思疎通するのも一苦労だ。お前ら、救急隊員だって、似たようなもんなんじゃないのか?」


「・・・・・・」


 今度は池井戸の目の前を、浅黒い肌をした青年の男が通り過ぎて行った。名前は確かラシードである。面接の時に池井戸の隣で笑いを噛み殺していた男だ。これまた中東からの出稼ぎである。こちらはプライベーティアの救急ドライバーとしての採用で、池井戸とは同期に当たるはずだった。


このトミタに限らず、日本の病院の顔ぶれもバラエティ豊かである。TPP法施行以来、特に著作権の非親告化云々が決まって以降、国内の犯罪発生率は止まる事を知らず、治安レベルは発展途上国並みに退行した。その際、時の法務省はコペルニクス的発想の転換を行った。出入国管理法の形骸化と在留カードの乱発である。毒を持って毒制す、と発言した当時の法務庁長官は日本海で鮫の餌になった。ともあれ、他人の効用水準、満足度を満たした量と質が給与に査定されるようになったのは良い事だった。意識は存在を規定するのである。


 確かに、この国も変わりつつあるのかもしれない。池井戸は、このトミタで福本に再会した時、確かそんな風に感じたのを思い出した。








「―余計なお世話だよ。それじゃ、俺そろそろ行くわ。ロベルト、待たせてんだわ」


 池井戸はそう言ってビニール袋を掲げてみせる。これ以上、福本と嫌味を言い合っても生産性に欠けるであろう事は目に見えていた。


「―“心臓のない男”か。 どうだ、上手くやれているのか?」


「―まぁね。おかげさまで」


 立ち去ろうとする池井戸の背中に、再度声が掛かった。フランケン福本が通名の無愛想な医師にしては珍しい事だった。




「お前も、もう少し落ち着いた方が良い。救急士の免許だって取ったんだろ」


「―免許? あぁ、一応な。無いよりは良い位のもんだろ。あんなの」


 仕方ないので、池井戸も振り返ってもう少し福本に付き合う事にする。向こうが懐からわかばと携帯灰皿を取り出したのが見えた。どうやら一服着ける気らしい。




池井戸は消防署での二か月間の講習を思い出した。


今日日の消防隊員ほどやる気の無いものもない。ドローン技術と遠隔操作の技術が発展するに従って、それに反比例するが如く現場の隊員の士気は落ちて行った。今や、屋根に登ったり、スロープを滑り降りたりしなくても、ロボットが勝手に消火活動から人命救助までやってくれるのである。そもそも、火の手が上がる機会すら少ない。


元々、救命救急士の免許も、消防署内における六か月間の訓練の末、その合格をもって認可されるものだった。それが、二か月の講習に代わったのである。その体たらくと言ったらなかった。




救命救急士、もっと言えば、救命隊員には大きく分けて二種類が居る。消防署勤務と、病院勤務のそれだ。


 消防署勤務はその名の通り、基本消防署に常在して出動を待つ。何の変哲もない、普通の119番をすればチンタラやってくるのはこっちである。身分としては、地方ごとの自治体の下の地方公務員であると言えた。


 対して、池井戸達、病院勤務の救急隊員の雇用体系は専属契約である。かつては厚生労働省管轄だったが、私大病院の御偉様方が中心になって、その権益を民間へと引きずり下ろしたのだ。その雇用関係はプラベートであり、その雇用の可否は隊員の技量や資格よりも先んじて、あくまで病院側にあるのであった。


つまり、タクシーのドライバーと基本的に変わりは無いのである。病院ごとがそれぞれお抱えの救急車を所有しており、池井戸達隊員はその救急車に乗り込んで、病院のお得意様方をハイヤー宜しく送迎するのだ。専属の番号に着信があれば、槍が降ろうが、雨が降ろうが迅速にお迎えに参上する。


言わば、完全歩合制という訳だ。そんな中でも、池井戸広太の営業成績、もとい配車成績は群を抜いていた。コツはどれだけ道交法を無視するかと、交差点に突っ込む時にどれだけ躊躇わないかである。




2025年、救急車が通報を受けてから現場への平均到達時間は、およそ10分。


病院への収容時間はおよそ1時間である。心肺停止から5分で生存退院率は50%、文字通り、時間との戦いである。トミタでは、病院から市役所までの国道17号を、3分切れるようになれば一人前とされていた。新卒採用の度に、直角のL字路を曲がりきれずに商店街に救急車ごと飛び込む馬鹿が続出する。特に、地元の、腕に覚えがあるとかいう暴走族上がりだ。


「それで? 今日も二人っきりで出撃した訳か。お熱いな」


「・・・なんだよ、喧嘩売ってんのかのかよ。ドク、なんなら高く買うぜ?」


 相手が相手であれば頭突きを喰らわしている所である。池井戸が苦虫を噛み潰したような顔で福本を見ているだけなのは、曲がりなりにもこのチンピラ救命士が、非常勤採用のこの復員軍医を、少なからず尊敬しているからだった。この病院で、日本生まれで福本の事を、ドクと呼ぶのも池井戸位なものである。




「―いや、別に。そんなつもりは無いさ。実際、お前さんらの勤務成績は抜群だ。前、担ぎ込まれたAAランクの爺さんも、ロベルトの救命措置とお前さんの運転じゃなきゃ助からなかっただろう。知ってるか? 助かった爺さん、病院にかなり寄付したんだぜ?」


「知ってるよ。給与査定に色が付いてた。雀の涙だけどな」


 池井戸は自分の銀行預金の振込履歴をウォッチで最後に確認した時の事を思い出す。実績に応じて、手当が付く。


早い話が、高ランクの患者を、どれだけ拾って、どれだけ助けたかだ。特に新規で患者を“開拓”した場合はポイントが高い。一度、手術室に放り込んでしまい、それから病院のベッドへと収容してしまいさえすれば、“お客様”はリピーターになる他ないのである。だから、池井戸達のような途中採用組の救急隊員は、“流し”で急患を狙う。所謂、ペットが風邪を引いたとか、ゴキブリが出た、とかいう高尚な理由で救急車をお呼びになられる“お得様”方々は古参の連中に抑えられているからだ。




「嫌味だったら、須藤のババアから耳にタコが出来る位聞いてるよ。大体、俺のハンドル握って、後ろで騒がない奴なんてそうそういんのかい? アイツ位だよ、仏頂面で黙って後ろに乗っててくれんのは。それなのに、どうしてあの糞狭いハイメディックの内に3人乗りこまにゃあならんのさ」


 肩越しに手を振って、いよいよ歩き出そうとする池井戸の背中に、浴びせられかける言葉があった。




「死を受け止めるんだ」


「―へぇ?」


 福本は至極真面目な顔をしている。左手に持ったわかばの半分が灰になっていた。


「人の死というモノを、三人で分担して受け止める。そのために救急車には最低でも三人の人間が乗り込む必要があるんだよ」


「・・・・・」


 煙草の灰が落ち切る前に、福本は携帯灰皿の口を開いた。対する池井戸の方は黙ったままである。本音を言えば、どう、返していいか分からなかった。


「―言いたい事はそれだけだ。それじゃあ、相棒にもよろしく伝えてくれ、たまには医局の方にも顔を出せってな。小児科の連中が寂しがってた。何てってったって、お前さんの故郷だろう」


 それだけ言うと、この上なく人相の悪い外科医は彦足を轢きづって救急センターの入口へと消えて行った。その物腰からは、今まで誰かと話していたという素振りは見当たらなかった。池井戸の方も池井戸で、その後ろ姿を見送る事も無く、福本が煙草を胸ポケットにしまう時にはすでに病院の裏口へと踵を返していた。談笑した後も、別れの挨拶一つ無い、その関係性こそが彼らの間柄でもあった。








「―おかえり」


「おう、ただいま」


 池井戸はハイメディックの車内に帰還した。後ろのハッチを開き、後部シートが外から丸見えになるようになっている。病院の裏口で待機する時は何時もこうだ。それぞれのハイメディックがケツから突っ込み、掻き入れ時の前だと駐車場はホーチミンの屋台通りのような活気を見せる。実際に、副業でジャンクフードを売る車両もあるくらいだ。宝くじのダフ屋をやっていた馬鹿は流石に捕まった。


「―うい、いつもの奴」


「あぁ、ありがとう。コータ」


池井戸はタラップに足を掛け、車内へと飛び込むと、戦利品の中からパズル雑誌とブラックの缶コーヒーを抜き取り、それを後部シートに座り続けるロベルトへと差し出した。




ロベルトは軽く前傾姿勢のままである。池井戸から商品を受け取る時も、シートから腰を浮かすことはない。池井戸はいつもわざわざ前まで行って、ロベルトに手渡しするのである。池井戸がそれを気にすることは無かった。それは、仕方の無い事だったからである。


「何かあったかい? 須藤のババアとか、俺の居ない間に嫌味言いに来たりとかしてねぇよな」


「―いや、特には何も。至って静かなものだよ」


 池井戸は湿気たフルーツサンドを口に運びながらロベルトの方を見た。パズル雑誌を捲る男の腰からは、黄ばんだケーブルが伸びている。静かな、ローター音がする。池井戸は車の電子キーをオンにしたままコンビニに行った。今もハイメディックのモーターは回ったままである。


「―あぁ、そう言えばよ。道すがら、ドクと会ったよ」


「へぇ、何て?」


「たまには小児科にも顔出せってさ、連中、寂しがってるって」


「あぁ、なるほど、そうだな。今度、顔を出してみるよ」


その時、ロベルトは僅かに微笑んだ。池井戸はそんなロベルトの様子を黙って見ている。蓋を開けたコーヒー牛乳の口を、直接自分の口元に持って行く。きついアーモンド臭が鼻に付いた、まさか青酸カリでは無いだろう。




いつもより、ほんの少しだけ多い一言。いつもより、ほんの少しだけ多い表情。


池井戸がこの病院に雇われてから相棒になって3か月余り、毎日見ていて、ようやく気付くほどの違いなのかもしれない。それでも、“充電”中、この男は少し陽気になる。




 ケーブルの先はハイメディックの医療用資器材へと繋がっていた。AED、自動式体外除細動器の内部バッテリーと観察用資器材のモニターがその終着点である。そこから供給された電力が、このクロスワードパズルを解くのにご執心な男の“心臓”を生物学的に、あるいは物理的に動かしていた。




「―なぁ、コータ。即席爆発装置、アルファベット三文字で、何になる? お前、この手の分野に詳しかったろう」


「えぇ、そりゃお前― AEDじゃねぇの?」


「・・・それはいつも俺達が使っている奴だろう、何だ、俺達はいつも爆弾を搬送患者の胸に押し当てているのか?」


「―んな訳ねぇだろ。あぁ、思い出した。 Improviced Explosive Device、IEDだ。まぁ、他人様の生殺与奪を掌るって意味じゃあ、似たようなもんかもな。 ―どんなクロスワードだよ、そりゃあ」


 ちょっと待ってくれ、もうすぐ一面揃うんだ。そう言ってロベルトは鉛筆を走らせた。カリ、カリ、という黒鉛と粘土が藁半紙にぶつかって削れる音がする。


 生まれつき、心臓が弱かったと言う。ロベルトがこの病院に患者として搬送されてから、一週間は集中治療室を出られなかった。生後一か月かそこらの話だったそうだ。五歳の誕生日を迎えた時、煩わしい酸素ボンベや血液検査から逃れられるという担当医師の甘い言葉に誘われて、契約書にサインしたのが奴の運の尽きだった。次、起きた時、ロベルトは仮面ライダー宜しく改造人間にされていたのである。


止せばいいのに、埋め込み型の人工心臓だけに留まらず、あらゆるオプションが年を追うごとにその体へと詰め込まれていった。要は体の良い人体実験である。おかげで、ロベルトは今、170cmの背丈に対して、その体重は120kg相当のウェィトがある。奴がタラップに乗り上げるだけで、ハイメディックの車体が後ろに逸れるのだから、笑い事では無い。




「―なぁ」


「―なんだよ。今度は」


「これで最後だ。さっきのAとEが入る。―ヒントは、誰もが一度は経験するもので、アルファベット七文字、Fから始まる。後は、冠婚葬祭関連だと。分かるか?」


「・・・・・」




―どうして俺はここに居るんだろう。


 ふいに、池井戸はそんな事を思った。


どうして、俺はこの少々ずれた初代仮面ライダーと、二人きりで救急車に乗っているのか。懐からラッキーストライクを取り出し、火を着けたそれを勢いよく吸い込む。


 どうして、救命救急士の真似事なんぞしているのか。


 どう考えたって、自分には向いていないのではないか。煙草が半分灰になるまで考えても、結局答えは出てこなかった。




「―馬鹿言ってんじゃねぇよ。次行くぞ、次」


 池井戸はシートから重い腰を上げると遮光カーテンを捲り、ハイメディックの運転席へとのそのそと潜り込んでいく。これ以上、付き合ってられなかった。そんな池井戸の背中に後ろから声が掛かる。


「おい、答えが分かったのか、ちょっと待て、言うな。自分で考える―」


「馬鹿言ってねぇでとっとと仕度しろ! もうメンテナンス済んでんだろ!」


 振り向き様に怒鳴り声を上げた。さっきからウォッチの緊急アラートが点滅しては消えるの繰り返しだった。大方、関越自動車道で速度超過のタンクローリーでも横転したのだろう。時刻は午前二時、掻き入れ時だった。


 バックミラーに目を遣ると、ロベルトが渋々電源供給のコードや身の回りの物を片付け、車外に出ていく所だった。一日に一回は、さっきのように、ハイメディック内で調整を受けないと、急に体の何処かしかが動かなくなる危険性がある。それが池井戸がロベルトと相棒と組む事となった時、最初に受けた説明だった。つまり、この無口で無愛想な男は常に死と隣り合わせという訳である。




―FUNERAL、“葬式”ねぇ。医療従事者が、縁起でもねぇ。


 池井戸はハンドルを指で叩きながらそんな事を思った。後ろでトランクが閉まる音がする。ロベルトがハイメディックの給電ケーブルを外して、車内に戻ってきたのだ。充電を済ませたロベルトは事に元気である。充電前と直後では、性格がはっきり言って違う。池井戸が何度病院側に上申しても、トミタが真面に取り合った試しはなかった。おそらく、奴が超人ハルクにでも変身して病院中を破壊して回るまで放っておくつもりなのだろう。




 目の前の、デジタルパネルに目を落とした。電圧計をチェックして、それからバッテリーと各種電装の通電、最後に給電プラグが外れているのを確認する。


シフトレバーを叩きこむと電送系のライトが一瞬、暗くなるのが分かった。CVTのベルトを通して、プレッシャーがステアリングにまで伝わってくる感じがする。軽く、ハンドルが震えるのだ。




「もう大丈夫だ、さぁ行こう」


 何が大丈夫なものか。後ろで、ロベルトが補助用のシートベルトを装着する音がした。―他人の命の心配よりも自分の心配でもしてろや、バッタ野郎。


そんな台詞が口の先まで出掛かって、何とかそれを飲み込む。代わりに吸いさしの煙草を最後に吹かすと、それを躊躇うことなく灰皿代わりしている運転席のホルスターに突っ込んだ。




「―よーし、じゃあ、行くぜ。人助けの時間だ」


 池井戸は柏手を叩いて景気を付けると、ゆっくりとアクセルペダルを開けてゆく。


“チンピラ救命士”と“心臓の無い男”、この二人を懐に抱え込んだ救急車は滑るようにアスファルトの路面に漕ぎ出した。病院のロータリーを抜けると、やがてその鈍重な車体は、街の光と影に紛れて見えなくなった。


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