第3話 王太子妃候補ビアンカ、完成
王宮には、踏み込んではいけない場所がいくつかある。
ひとつは、国王の私的な温室。
珍しい蘭に勝手に触ると庭師長が飛んでくる。
ひとつは、王妃の宝飾保管庫。
無断で開ければ侍女長が笑顔で死刑宣告みたいな説教をする。
そしてもうひとつが、王太子クロードの執務室だ。
ここに軽率に突撃する者は少ない。
なぜなら、忙しい王太子はだいたい機嫌が悪いからである。
ただし、その例外が一名いる。
「お兄様、お願いがあります」
「嫌な予感しかしない」
書類の山に埋もれかけたクロード・ベリアル・ファウスト・ド・ラ・クロワ・フォン・ローゼンブルクは、羽根ペンを置きもせずにそう言った。
金の混じる濃い茶髪をかき上げ、整った顔に露骨な警戒心を浮かべる。
王太子らしい威厳と、妹に対する諦めが絶妙に同居した表情だった。
対するヴェロニカは、たいへん晴れやかな笑顔である。
こういう時の王女はろくでもない。
「ビアンカ様を王太子妃候補にしてくださいませ」
「想像を超えた悪夢だった」
クロードは一瞬も迷わなかった。
「却下」
「悪夢かどうかは夢から醒めたときの気分次第で決まりますのよ!?それにまだ、理由も言ってないわ!」
「なんだその屁理屈は。言わなくてもろくでもない理屈だとわかる」
「ひどい偏見ですわ!」
「経験則だ」
机の前に立つヴェロニカは、むうっと頬を膨らませた。
だが、ここで引くほど可愛げのある妹なら、兄はここまで警戒していない。
「いいですか、お兄様。これは感情論ではありません」
「お前がそう言い出した時点で八割感情論だ」
「残り二割が理性なら十分でしょう」
「配分が終わっている」
クロードは深々とため息をついた。
その姿すら絵になるのが腹立たしい。
兄妹そろって顔が良いと、会話のひどさが見た目に追いつかないときがある。
「そもそも、ビアンカ・オルロフは男爵令嬢だ。王太子妃候補としては家格が低すぎる」
「物語性がありますわ」
「嫌な響きだな」
「男爵令嬢から王太子妃。民は大好きですわ、そういう夢のあるお話」
「民を劇場の観客のように言うな」
「夢は統治の燃料にもなります」
「少し揺れかけていて腹が立つ」
ヴェロニカは勝機を見た顔になった。
たたみかける。
「それに、身分に囚われない王家の柔軟さも示せます」
「軽々しく柔軟になるものでもない」
「社交界でいま注目されているのは事実ですわ。ならば遠ざけるより、近くで資質を見極めた方が効率的でしょう?」
「効率的、ね」
「野心があるなら、野に放つより王家の管理下に置いたほうが安全です」
ぴくりとクロードの指がわずかに跳ねた。
その一瞬を、ヴェロニカは見逃さない。
当たった。
いまの一言は、兄に少しだけ届いた。
「……ヴェロニカ」
「はい」
「私を巻き込んでいる自覚はあるか」
「王族は家族経営ですもの」
「国を商会のように言うな!」
「もう!お兄様ったらうるさいですわ。お口からヤギが出てますわよ」
「ヤギ!?この前は鶏だっただろう!」
「家畜化が進んでおりますのね」
「誰のせいだと思っている!」
クロードが額を押さえる。
ヴェロニカはちっとも気にしていない顔で胸を張った。
兄は昔からこうだ。
細かい、堅い、正しい、面倒くさい。
でも、だからこそ信頼できる。
しばらくの間、静寂が広い執務室を満たした。
窓の外で風が鳴り、壁時計がひとつ刻む。
クロードはゆっくりと顔を上げた。
「……ひとつだけ聞く」
「なにかしら」
「お前、どこまで掴んでいる?」
「どこまで、とは?」
「とぼけるな」
金褐色の瞳が、まっすぐヴェロニカを射抜く。
王太子の目だ。
妹を甘やかす兄ではなく、国を背負う者の目。
けれどヴェロニカは、目を逸らさなかった。
すっと顔の横に手のひらを掲げて、一本一本数えるように指を折っていく。
「ビアンカ嬢の血筋に不自然な点」
「オルロフ男爵家の台所事情」
「それと、少しばかり他国の匂い」
「少し、で済ませる気か」
クロードは低く言った。
ヴェロニカはにっこり笑って、ぱんっと両手を合わせた。
「お兄様もご存じでしょう?」
「当然だ」
「なら話は早いですわ」
兄妹の間で、十分に話は通った。
⌘
クロードは初めから知っていた。
妹が王家の影を使って動いていることも、ビアンカ・オルロフの血統のことも、オルロフ男爵家の周辺に他国の匂いが漂っていることも。
隣国から迎えようとしている養子のことも、ついでにゼノ・ジェルマンが護衛騎士としてあまりにも鈍く、適性に欠けることも。
そして、クリストフ・ランカスターが妹の傍についていることも。
妹が怒る時、その怒りはたいていろくでもない方向へ華やかに咲く。
だが同時に、ヴェロニカは自分が王女であることを忘れない。
越えてはならない線を、感覚的に理解している。
だからこそ危なっかしく、だからこそ使える。
妹の私怨は、時に国の掃除道具として優秀だった。
妹の怒りは私情だ。
どうしようもなく、個人的で、幼くて、可愛げがあって、そして面倒くさい。
だが。
その私情が、国を害する芽をあぶり出す刃になるなら。
利用しない理由はない。
ヴェロニカは感情で動く。
けれど国を害する線は越えない。越えそうになれば、イリスが制御し、クリストフが止める。
その見極めができる程度には、クロードは妹を、妹の周りも知っていた。
ならば表向きは、妹に押し切られた形を取ればいい。
裏では王太子として、必要な整理を進めればいい。
なんとも面倒で、なんとも都合のいい妹だ。
そして、どうしようもなく、可愛い。
⌘
「……条件付きで許可する」
「本当!?」
ヴェロニカの顔がぱっと明るくなった。
こんな瞬間だけは年相応で、クロードは少しだけ頬を緩めそうになる。
もちろん仕事中なので顔には出さない。
「正式な婚約ではない。あくまで候補だ」
「ええ」
「王宮での教育と査定を受けさせる」
「当然ですわ」
「少しでも問題があれば、即座に切る」
「その時は派手にお願いします」
「お前はちょっと黙れ」
ヴェロニカは、でもとても嬉しそうだった。
その顔を見ると、クロードはだいたい負けた気分になる。
「ありがとう、お兄様!」
「礼を言う前に、これ以上仕事を増やすな」
「善処いたします」
「信用ならん」
「お兄様」
「なんだ」
「大好きですわ!」
「……そういう時だけ素直なのもずるいな、お前は」
クロードが小さく息を吐く。
ヴェロニカは勝利の微笑みを浮かべた。
こうして妹に押し切られた兄の図が、表向きには完成したのである。
そして、その話がビアンカの耳に入った瞬間。
「王太子妃候補ぉ……?まぁぁ……わたしが、ですかぁ……?」
信じられない、と口では言いながら、彼女の瞳はきらんきらんと貪欲に輝いていた。
場所は王宮の一室。
ヴェロニカ自らが朗報として伝えたのだ。
なんて親切な王女だろう。
「正式決定ではなく、あくまで候補ですけれどね」
「それでも、そんな……!わたし、身に余る光栄ですぅ!」
声が震えている。
喜びで。
野心で。
勝利の予感で。
ヴェロニカはにっこり微笑んだ。
完璧な祝福の顔で。
「あなたならきっと、ふさわしくなれますわ」
「王女殿下ぁ……!」
この瞬間、ビアンカの中で何かが切り替わったのがわかった。
ゼノに寄せていた甘い視線が、すうっと別の場所へ向く。
より高く、より眩しく、より価値のある方へ。
実にわかりやすい。
その日の夕方、ゼノは困惑した顔でビアンカを呼び止めていた。
「ビアンカ、俺たちは……」
「ゼノ様には感謝していますぅ」
ビアンカは柔らかく微笑む。柔らかいだけで、その笑みの下ではゼノをすっぱり切っている。
「でもぉ、わたし、もっと大きなお役目をいただいたみたいでぇ」
「大きな役目って……」
「ゼノ様ならぁ、わかってくださいますよねぇ?」
わかるわけがない。
いや、普通ならわかる。
だがゼノにはわからないだろう。
自分が踏み台にされたことも。
目の前の女が、もうこちらを見ていないことも。
あれほど自分に向いていた甘さが、ただの通過点への愛想だったことも。
「……応援、してる」
やや間の抜けた無言の末、ゼノはそう言った。
ヴェロニカは廊下の角からその様子を見て、口元を扇で隠した。
「踏み台が踏まれた顔をしているわ」
「姫様、声に出ております」
背後のイリスが小声でたしなめる。
「少しだけよ」
「十分です」
ゼノは最後まで鈍いままだった。
少しだけ哀れで、だいぶ腹立たしくて、そしてもう、あまり心は痛まない。
これが終わった恋の残骸か、とヴェロニカは思う。
踏んだときの音だけ、よく響く。
⌘
王太子妃候補として名前が上がってから、ビアンカの価値は一気に跳ね上がった。
夜会で声をかける貴族の数が増えた。
以前なら見向きもしなかった高位貴族の夫人が、微笑みを向けるようになった。
そしてなにより、王女殿下が直々に目をかけているという事実が、彼女を社交界の中心へと押し上げた。
「ドレス課金は惜しんでは駄目よ」
ヴェロニカはビアンカの前で、次の夜会用の衣装見本を広げながら言った。
「王宮では布も宝石も装甲なの」
「装甲、ですかぁ?」
「ええ。貴族社会は笑顔で殴る戦場よ」
ビアンカはほう、と感嘆の吐息を漏らした。
完全に感心している。
これを教育と受け取るあたり、やはり処刑台を自分で磨く才能がある。
「殿下って、本当にすごいんですねぇ……」
「そう?」
「わたし、もっと頑張りたいですぅ。もっとふさわしく……」
「なら、姿勢はあと少しだけ胸を開いて。首は長く見せること。笑うときは歯を見せすぎない。安っぽくなります」
「はいぃ!」
「それと、男性を見るときに値札をつける目をしては駄目」
「えっ」
「隠しなさい、という意味よ」
「……あっ、はいぃ」
隠せていない自覚はあったらしい。
ヴェロニカは心の中で採点表を作成する。
礼法、五点。
会話、四点。
野心、満点。
勘違い、天井知らず。
よく育っている。
とても順調だ。
その一方で、裏側では証拠が静かに積み上がっていった。
ベアトリクスは過去の婚約者たちから証言を集めた。
贈答品の記録。
婚約破棄の直前に流れた虚偽の噂。
その出どころ。
にこやかに話を聞きながら、必要な言葉だけをきっちりすくい取っていく手際は、さすがカスティル侯爵家である。
イリスは男爵夫人の過去をさらに洗った。
出産時期の不自然さ。
侍女の証言。
昔の医師との接点。
点と点が、ほとんど線になっている。
影はビアンカの実父に関する情報を掘り起こし、さらにオルロフ男爵の密書を追った。
隣国との接触記録。
養子話の仲介者。
書式の癖。
金の動き。
恋愛沙汰だけでは済まない匂いが、加速して濃くなっていく。
だがその中心で、ヴェロニカはあくまで優雅だった。
表では恋敵を磨き、裏では処刑台を固める。
優雅さというのは、たいてい水面下の労力でできている。
⌘
ある午後、ヴェロニカは改めてカスティル侯爵家を訪れていた。
ベアトリクスが席を外したわずかな時間、応接間にはセレスティアと二人きりになる。
窓辺に差す光の中で、セレスティアは本を閉じて、少し緊張したように背筋を伸ばした。
「何を読んでいたの?」
「民政に関する古い報告書です」
「……お茶会の席で読むにはずいぶん渋いわね」
「その、数字を見るのが好きで……」
「好き」
ヴェロニカは思わず笑った。
「あなた、本当に面白い子ね」
セレスティアは恥ずかしそうに頬を染める。
派手さはないけれど、話すほどに芯の強さが見える。
言葉を飾らず、考えることをやめない目をしている。
「王太子殿下は、きっとこういう書類も全部お読みになるのでしょうね」
ぽつりとセレスティアが言った。
「冷静で、公正で……少し怖い方ですけれど、国を背負う覚悟を持っていらっしゃいます」
ほら来た。
ヴェロニカはじっと彼女を見た。
セレスティアはそこで、しまった、という表情になる。
「セレスティア」
「は、はい」
「あなた、お兄様のこと好きね?」
「っ!」
見事なくらい真っ赤になった。
耳まで染まっている。可愛い。
「ち、違……その、尊敬していて……!」
「尊敬の先がだいぶ桃色だけれど」
「で、殿下……!」
「いいわ」
ヴェロニカは満足げに頷いた。
「覚えておく」
セレスティアはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく、でも真っ直ぐに言った。
「……笑わないんですね」
「なぜ?」
「身の程知らずだと、言われるかと」
「言わないわよ」
ヴェロニカは即座に返した。
「国を背負う人を好きになるなら、支えられるだけの強さがいるでしょう?あなたにはそれがあるもの」
「……殿下」
セレスティアの目に、じわりと光が滲む。
泣くには至らない、小さな感動の色だった。
ヴェロニカは心の中でそっと丸をつける。
これは覚えておこう。
ちゃんと、後で。
⌘
そしてついに、大夜会の日取りが決まった。
王宮最大級の夜会。
そこで、ビアンカ・オルロフは王太子妃候補のひとりとして公に披露される。
社交界の目が一斉に集まり、羨望も嫉妬も敵意も称賛も、すべて彼女に降り注ぐことになる。
その知らせを受けた夜、ヴェロニカは自室のソファに深く腰掛け、満足そうに紅茶を傾けていた。
「完成したわね」
「何がですか、姫様」
イリスが尋ねる。
「処刑台の上のシンデレラ」
ちょうど部屋にいたクリストフが、苦笑した。
「リリ、たまに詩的に最悪だな」
「褒めてる?」
「まあ、好きではある」
その一言に、ヴェロニカはぴたりと動きを止めた。
「……今、何か言った?」
「作戦の話だ」
クリストフはあっさり言って、肩をすくめる。
だが口元は少しだけ笑っていた。
ごまかした。
いま、確実にごまかした。
ヴェロニカはじっと彼を見る。
胸の奥が、ほんの少しだけ妙に騒がしい。
けれどその正体を考えるより先に、ヴェロニカはふっと笑った。
「まあいいわ」
「助かる」
「その代わり、最後まで付き合ってもらうわよ、クリストフ」
「最初からそのつもりだ」
夜会は近い。
舞台は整った。
シンデレラはガラスの靴を履き、いままさに階段を上がろうとしている。
祝福の光に見えていたものが、処刑台を飾る灯りだとも知らずに。
「落ちる時、どんな音を聞かせてくれるのか、楽しみですこと」
ヴェロニカは子供のように笑った。




