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『無き馬と潰えし野望』

赤狼の山脈の麓にある砦。 オテゲン皇国のような遊牧民族は、何よりも機動力を最重要視する。そのため、アルストラーナ帝国のような石造りの堅牢な要塞は築かない。丸太で周囲を囲み、数基の物見櫓を配置しただけの、簡易的な軍営に近い造りであった。 ガラク率いる一万五千の全軍を支える兵糧は、すべてこの砦に保管されていたのだ。 昨年の大不作により、本国すら食料不足に喘ぎながらも、帝国領への遠征のために辛うじて蓄えていた命綱――それが今、セレスティア軍の手によって完全に奪い去られたのである。 これを失った遊牧民が生き延びるためには、彼らのもう一つの命の源である羊を潰して食い繋ぐほかない。しかし、彼らが連れてきていた家畜の大部分もまた、すでにイリアード率いるセレスティア軍の手中に落ちていた。 「殿下、輸送を急がせていた五百の兵、積み荷と共にたった今合流いたしました」 「挟撃の陽動作戦を展開していた一隊も、無傷で帰還しております」 次々と入る朗報に、イリアードは深く頷いた。 強行軍による兵たちの疲弊を防ぐため、軍を交代で休養させる。セレスティア軍のこの圧倒的な余裕には、確固たる理由があった。 遊牧国家であるオテゲン皇国が最も恐ろしいのは、広大な野戦における圧倒的な機動力、そして疾駆しながら矢を放つ「突破と騎射」の攻撃である。 ならば、その牙を抜けばいい。セレスティア軍は、砦の麓に置き去りにされていた彼らの軍馬をすべて解き放ち、野山へと四散させていたのだ。一部の上質な駿馬にいたっては、ちゃっかりセレスティア軍の予備馬として「借用」までしている。 つまり、山を下りてきたオテゲン軍は、食料ばかりか、生命線である馬までも失った「ただの歩兵の一万五千」に成り下がっていたのである。 窮鼠猫を噛むという言葉通り、あまりに絶望させると死狂いの反撃が危険だが、足を奪われた彼らにその術はない。ちなみに、野山に放たれた馬たちは、過酷な軍務から解放されて今頃自由を享受しているに違いなかった。 ◇ 谷底での大戦果を確信し、意気揚々と山を下りてきたオテゲン軍を待ち受けていたのは、変わり果てた自軍の砦であった。 すでに日は落ちて夕刻を迎えている。食料もなく、馬もない彼らは、ただ寒さに震えながら凍える大地に野営するしかなかった。 総大将のガラクもまた、兵糧を失った大罪で死罪を覚悟し、王の居る首都『マグナオリオ』へ文字通り泣きつくように援軍を請う伝令を放つのが精一杯であった。 オテゲン兵たちが飢えと寒さに凍え、まともな夜営すらできずに身を寄せ合っていた、その時。 イリアードは闇の中で静かに愛剣を抜いた。 「全軍――突撃」 「な、何事だ!?」 ガラクが跳ね起きるように周囲を振り返ると、そこには言語を絶する驚愕の光景が広がっていた。 漆黒の甲冑に身を包んだセレスティア軍本隊――二千五百の精鋭が、寸分の乱れもなく完璧な輪形陣を敷き、自分たちを完全に包囲していたのだ。 伝令も、信号弾も、進軍を促す太鼓の音すら要らない。セレスティア軍はまるで、一つの巨大な意思を持った単一の生命体のように、視界ゼロの闇夜を狂いなく連動して動いていた。 何百里も離れたセレスティアの地で、セシリアが水晶球を通じて盤面全体を鳥瞰し、リゼリアが兵たちの微小な疲弊や位置のズレをリアルタイムで計算する。その完璧な情報が『念話』の波長となり、親王イリアードの脳裏へと的確な修正指示として補正され続けているのだ。 「う、うわあああっ!? 背後から撃たれたぞ!?」 「敵はどこから来る!? 暗くて何も見えん――ぐはっ!?」 オテゲン軍は一瞬で極限のパニックに陥った。完全な飢餓と疲労の極みの中で奇襲され、しかも視界ゼロの暗闇の中、セレスティア軍の刃だけが恐ろしい精度で自軍の急所を的確に穿ってくるのだ。 「我が道を阻む者、死を以て償え!」 イリアード自ら黒鋼の剣を閃かせ、銀の閃光となって敵陣を蹂躙した。彼の振るう圧倒的な剣撃が夜風を裂くたび、オテゲン軍の将校たちが悲鳴と共に血しぶきを上げて倒れていく。 『殿下、ガラクは正面奥、三丈先の巨岩の前です!』 親王府からのセシリアの念話が、ピンポイントで敵将の座標を告げた。 「見つけたぞ」 イリアードの踏み込み一閃。疾風のごとき鋭い一撃が、ガラクの喉元を正確に貫いた。 「ぐガ……バ、バカな……辺境の……小僧に……」 オテゲン皇国が誇る『鬼将』ガラクは、信じられないというように目を剥き、血を吐きながら崩れ落ちた。 総大将を失い、闇夜の完全包囲を受けたオテゲン軍一万五千は、わずか半刻(約一時間)の間に完全に瓦解した。死狂いの精鋭と恐れられた北国の軍勢は、戦う術もなく潰走し、あるいは次々と投降した。赤狼の谷の白銀は、侵略者たちの鮮血によって赤黒く染め上げられたのである。

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