『赤狼の谷の誤算』
白銀の魔境と恐れられる「赤狼の谷」。その断崖絶壁に張り出す巨岩の陰で、オテゲン皇国の将ガラクは凶暴な歓喜に全身を震わせていた。
極寒の風が鎧の隙間を吹き抜け、吹き付ける粉雪が彼の髭を白く染める。しかし、ガラクの目には狂気を含んだ熱い光が宿っていた。
「来たぞ……アルストラーナの愚か者どもが。吹き荒ぶ猛吹雪に追われ、ノコノコと自ら墓場へ踏み込んできたわ!」
岩の切れ間から見下ろす谷底。白濁した視界の向こうに、蒼と金に彩られたセレスティア親王軍の旗を掲げる隊列が姿を現していた。重く鈍い足取り、凍える身を寄せ合いながら怯えたように前進する兵たちの姿は、飢えた狼であるガラクの肉食獣たる本能を激しく刺激した。
「かかったな! 寒さに濡れたセレスティアの軟弱者どもめ! 今だ、岩と雪を落とせ! 谷ごと叩き潰せええええっ!」
ガラクが喉を引き裂くばかりに叫ぶと、合図の角笛が荒々しく山々に響き渡った。
それを合図に、崖の上に潜んでいたオテゲン兵が一斉にテコへ体重をかける。数ヶ月かけて蓄えられていた数千トンに及ぶ巨大な岩石と、幾重にも圧縮された硬雪の山が、支えを失って一気に解き放たれた。
——ドドドドドッ!!!
大気を引き裂き、天地を揺るがす地鳴りが谷間を支配した。激しい白煙と土砂が波涛となって押し寄せ、谷底を埋め尽くしていく。凄まじい大雪崩は瞬く間にセレスティアの旗印を呑み込み、何百という命を沈黙させる巨大な白銀の墓標を作り上げた。
「ハハハハ! 見たか! セレスティア先鋒軍、三千壊滅だ!」
狂喜するガラクは鞘から太刀を抜き放ち、刃を白空へと掲げた。
「これより我らは山を下り、混乱し足の止まったセレスティア本隊の脇腹を穿つ! 糧食を奪い尽くし、奴らの血でこの雪を染め上げよ——!」
勝ち誇るガラクが鬨の声をあげようとした——まさにその瞬間。
「将軍! 大変です! 背後、背後より敵襲——っ!?」
血相を変え、氷の床に滑り込むようにして伝令の兵が飛び込んできた。肩で激しく息を吐き、鎧を鳴らして震えている。
「何だと!? 狂ったか! 敵の先鋒は今、谷底で骨も残さず圧殺したばかりだろうが!」
ガラクが不快そうに眉をひそめ、伝令の胸倉を掴み上げた。しかし、伝令の瞳に宿っていたのは戦闘の興奮ではなく、底知れぬ恐怖だった。
「ち、違います! 麓の我が軍の要衝、あの砦がすでに落とされました! 敵の先鋒軍二千五百……いつの間にか我らの包囲網を完全に迂回し、砦を占拠・逆利用して、目下こちらへ向けて進軍を開始しています!」
「……なんだとっ!?」
ガラクの手から力が抜け、伝令の体が雪上に落ちた。 信じがたい言葉に突き動かされるように、ガラクは愕然として谷底を振り仰いだ。
猛烈な雪煙が風に流され、ゆっくりと晴れていく。その視界の先、雪崩の下から露出していたのは——無数の人間の遺体ではなかった。
木組みの骨組みが無残に粉々に砕け散ったダミーの荷車。そして、雪を被って転がるハリボテの鎧と旗印の残骸に過ぎなかったのだ。
「バ、バカな……! なぜだ!? なぜ我らの伏兵の位置を見抜いていた!? 視界ゼロの猛吹雪の中、どうやって一人の落伍者も出さずに夜間迂回を成し遂げたというのだ!?」
ガラクの額から、極寒の風の中でも消えない冷や汗が噴き出した。狼のごとき威勢は消え失せ、唇が惨めに震える。
「将軍、迂回などではありません……!」 伝令は絞り出すような声で、恐怖に打ち震えながら言った。
「セレスティア兵……いや、アルストラーナの手配した敵軍は、我々がこの谷に罠を仕掛けるより前に、こちらの配置、進軍路、思考のすべてを見透かした上で動いていたのです! 我々が雪を落とすのを、上でじっと待っていたのですよ……!」
セレスティアが誇る冷徹なる知謀——セレスティア親王イリアード。彼の掌の上で踊らされていたのだと悟った瞬間、ガラクの背筋に氷の針が突き刺さった。谷底に沈んだのは敵ではなく、自分たちの勝利という幻想だったのだ。
「まずい……このままでは、砦を背負った敵と、麓の本隊に挟撃される! 退路を断たれるぞ!」
完全なる戦術的敗北。ガラクは恐怖と混乱で目を剥き、引きつった顔で叫んだ。
「急げ、引き返すぞ! 迎撃だ! 全軍、山を駆け下りろっ!」
かつて狩人として高く君臨していた男は、今や追い詰められた獲物の顔となり、なりふり構わず白銀の斜面を駆け下りていった。




