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『赤狼の谷の裏切り』

三月中旬。

セレスティア軍は帝都北方に位置する大平原『ヴェルダン集結地』へと到着した。

そこはまさに、混沌そのものであった。五万を超える帝国各地の軍勢がひしめき合い、無数の幕営がどこまでも広がっている。だが、その華やかな軍旗の群れとは裏腹に、陣中には飢えと寒さに震える兵たちの呻き声が満ちていた。補給の滞りによって燃料の薪すら不足し、体調を崩した将兵が野積みにされている有様だった。

「おい、そこの軍! なぜ指定の泥地に陣を張らんのだ! 勝手に小高い乾いた丘を占領するなど、軍律違反であるぞ!」

到着早々、豪奢な衣装を着た帝都の輜重官(しちょうかん)が、馬に乗って怒鳴り込んできた。

イリアードは馬上から冷徹な視線を走らせた。

「我が軍は独自の防寒幕と天幕を有しているゆえ、この丘に陣を張る。他軍への迷惑は一切かからん」

「はっ! これはこれは親王殿下! 第五皇子殿下のセレスティア軍でしたか! とんだ失礼を……!」

輜重官が慌てて平伏したその時、背後から甲高い高笑いが響いた。

「ハハハ! 威勢がいいではないか、五弟よ!」

金銀の刺繍が施された絢爛豪華な甲冑を身に纏い、十数人の親衛隊を引き連れて現れたのは、第一皇子ヴァルハルトであった。長男であり、皇子では最年長として自尊心の塊のような人物である。側室の息子という理由で立太子されなかった事が、かえって彼を傲慢にしていた。

皇太子になれなかったのは母親の身分が問題なのであって、自分の器量には何の問題もないと思い込んでいるのだ。それでいて、生母の身分が最も低い皇子であるイリアードに対しては、徹底的に見下し、偏見を持っていた。もし自分が皇帝になれずとも、新皇帝の「偉大なる兄」として君臨すればいい――そう都合よく考える男である。

「兄上……」

イリアードはすぐさま馬から降り、長幼の序をもって礼をした。

ヴァルハルトはサッと視線を走らせ、セレスティア軍兵士たちの完璧な防寒装備と、丸々と肥えた軍馬、特製の糧食車を目にすると、露骨に不快そうな嫉妬の色を浮かべた。

「ふん、海賊退治の余り金で贅沢な装備を整えたようだな。だが、図に乗るなよ。此度のオテゲン遠征、俺が総軍の主導権を握った。二弟の弱虫どもは、とっくに後方の警戒役に追いやってやったわ!」

ヴァルハルトは鼻を鳴らし、わざとらしく胸を張った。

「そこでだ、イリアード。お前たちセレスティア軍には、特別に名誉ある『先鋒』の一角を命じてやる。オテゲン国境を切り開く尖兵となれ!」

露骨な使い捨ての命令であった。誰もが忌み嫌う、雪融けもままならない険しい国境にセレスティア軍を放り込み、苛烈なオテゲン軍との激突で消耗・壊滅させようという嫌がらせに他ならない。周囲にいた皇太子派や第三皇子派の将軍たちも、イリアードの台頭を恐れて黙認の姿勢を決め込んでいた。

「……光栄な仰せ、謹んでお受けいたします」

イリアードが一切の動揺も見せずに平然と頭を下げると、ヴァルハルトは肩透かしを食らったような顔をし、すぐに厭らしい笑みに戻った。

「ふん、精々オテゲンの野蛮人に食い殺されぬよう踏ん張るのだな!」

◆

ヴァルハルトが去った後、イリアードは静かに目を閉じた。すぐさま、セレスティア親王府と結ばれた精神の密談が開かれる。

『あのようにおろかな方が我が国の第一皇子とは、眩暈がいたしますわ』

リゼリアの念話の音色が、珍しく強い不快感に揺れていた。

『ヴァルハルト親王殿下は、皆様を先鋒に追いやっただけでなく、先鋒部隊への兵糧配分を『輸送の都合』と称して極力削る腹積もりです。我らを意図的に干上がらせようとしておられます』

『やはりな』

セシリアの鋭い意識が続く。彼女は親王府で水晶球を前にしながら、千里眼のごとき『念視』で集結地全体の全容を完璧に観察していた。

『だが、相手の浅知恵などすべてお見通しだ。我が軍は最初から帝国軍の補給など宛てにしていない。むしろ先鋒となれば、後ろの無能な帝国本隊の混迷に巻き込まれず、我ら独自の判断で迅速に動ける』

『ふふ、その通りですね』

遠く帝都からフレデリカの声が優雅に差し込む。

『ヴァルハルトの周辺には、すでに我がリヴィエール家の息がかかった者を何人も送り込んであります。彼らが本隊の補給線を乱せば乱すほど、勝手に自滅していくのは第一皇子派の方ですわ。お前たちはただ、目の前のオテゲン軍を完全に打ち破り、誰にも文句を言わせぬ圧倒的な戦功を立てればよいのです』

「ああ」イリアードは精神の中で力強く頷いた。「帝都の権力闘争に固執する愚か者どもに、本物の『軍旅』が何であるかを教えてやる。明日からの進軍、全速で国境を目指すぞ」

◆

三月下旬。帝国軍五万は、ついに北方オテゲン皇国との国境地帯へと足を踏み入れた。

そこは、まさに生者を受け入れない白い地獄であった。日没後は氷点下を遥かに下回る極寒が、容赦なく肉体を痛めつける。

案の定、後方の帝国本隊は大惨事に陥っていた。防寒具の不足した兵たちは次々と重度の凍傷にかかり、雪にはまった荷車を捨てて貴重な糧食を浪費した。第一皇子ヴァルハルトは寒さに震え上がり、本隊の進軍を停止させて、自分だけぬくぬくと温かい天幕に閉じこもる始末であった。

だが、先鋒を切るセレスティア軍三千は、異次元の行軍を続けていた。

滑り止めの鉄環が硬い雪を噛み、特製のソリ型荷車がスムーズに物資を運ぶ。兵たちは上質な防寒幕と、高カロリーに調整された乾燥食料によって体力を完全に温存し、誰一人として落伍することなく雪山を突破していた。道端で行き倒れていた他領の落人たちが、まるで幻影のように整然と進むセレスティア軍を、信じられない思いで見送っていた。

その時、行軍の先頭を行くイリアードの脳裏に、凄まじい密度の念波が飛び込んできた。

『殿下、聞こえますか! セシリアです!』

遥か後方、セレスティア親王府で意識を全開に集中させているセシリアからの緊急報告であった。

『前方五里の『赤狼の谷』にて、オテゲン軍の本体を捕捉しました! 私の念視の視界が、敵の配置を完全に捉えています!』

「オテゲン軍の規模と配置は?」

イリアードは馬上で静かに問いかける。

『敵の規模はおよそ一万五千。オテゲン皇国は夏の大冷害で糧食が尽きかけており、生き残りをかけた死狂いの決死隊です。将は『鬼将』と恐れられるガラク。彼らは我が軍を狭い赤狼の谷へと誘導し、崖の上からの雪崩と岩石の崩落、そして左右からの挟み撃ちで一気に押し潰す手はずです! 崖の影に潜む伏兵の配置、すべて私の視界に明瞭に浮かび上がっております!』

同時に、フレデリカからの念話も届く。

『イリアード、後方のヴァルハルト本隊が「ぬかるみのため前進不能」と称して完全に足を止めましたわ。お前たち先鋒軍が包囲されつつあるのを知りながら、あえて救援を送らず、オテゲン軍と相打ちにさせようという腹積もりです』

「くく……どこまでも期待を裏切らない愚かさだな」

イリアードは冷たく微笑んだ。普通であれば、味方に見捨てられ、五倍の敵に狭路で待ち伏せされるという絶望的な局面である。しかし、イリアードの顔に焦りは一切なかった。

「リゼリア、セシリア。敵の作戦をそのまま利用する」

イリアードの指令が、セレスティア全軍の指揮官へと直接伝達された。

「オテゲン軍は我らが谷底に入った瞬間を狙っている。ならば、谷底に進めるのは偽装のダミー部隊――無人の荷車と数頭の馬、そして少数の幻影幕とする。本隊二千五百は夜闇に乗じて谷の側道から迂回突破し、敵の伏兵を完全に背後から捲る」

『承知いたしました、殿下』

全指揮官がすぐさま無言の敬礼を返し、軍が鮮やかに二手に分かれる。

『私が親王府から、敵の索敵網を抜ける最適ルートを思念で送り続けます。敵が伏兵を発動させた瞬間、こちらからお知らせしますわ』

『イリアード様、予備隊の補給計算と後方の警戒は私がこちらで完璧に処理しております』

リゼリアの落ち着いた声が後方を支える。

『ヴァルハルト殿下の手先が様子を見に来ても、一切の隙を見せぬよう情報を操作いたしますわ』

「よし……全軍、作戦開始! セレスティアの真の力を見せてやれ!」

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