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『雪中遠征 と絶対の兵站』

帝国歴300年2月。

セレスティアの湿原を包む風は日ごとに冷たさを増し、年が明ける頃には世界は完璧な白銀の沈黙へと塗り替えられていた。かつて底なしの泥と病魔が澱んでいたこの辺境の地は、親王イリアードの卓越した執政と改革によって整備され、いまや強固な石造りの水路と頑丈な防壁に守られた要塞都市へと変貌を遂げている。

そして――約束の二月が訪れた。

「殿下、出陣の刻限にございます」

近衛長の声が、政庁の執務室に低く響く。イリアードは静かにペンを置き、卓上に広げられたセレスティア領全域の地図を丹念に見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。

その身に纏うのは、豪奢な装飾を排した硬質で実用的な黒鋼の甲冑である。肩には上質な狼の毛皮の外套が羽織られ、過酷な北方の寒気からその身を守っている。

執務室の重厚な扉が開かれ、二人の女性が姿を現した。正妻のリゼリアは気品漂うドレスの上から豪奢な羽織を纏い、両手には重ねられた軍糧目録と補給計画書をしっかりと抱えている。側室のセシリアは、精神を極限まで研ぎ澄ませたことが窺える、静謐にして機能的な装いであった。

二人はこの遠征には同行しない。物理的に過酷な前線へ赴くのではなく、ここセレスティアの親王府を『絶対の通信・索敵拠点』として守り抜き、千里の道を隔てた戦場へ直接その精神を飛ばして遠隔支援を務めるのだ。

「リゼリア、セシリア。準備は完璧か」

イリアードが問いかけると、リゼリアが穏やかに、しかし絶対の自信を込めて頷いた。

「はい、殿下。海賊討伐の報奨金、および独自の手配で買い付けた防寒物資、そして乾燥糧食は、すべて先発隊と補給隊の荷車へ積み込みを完了いたしました。帝都から派遣されてきた大将たちが呆れ果てるほどの、完璧な兵站備蓄でございます。私とセシリアはここ親王府の儀式の間より、片時も離れず殿下方の補給と背後を守り続けます」

セシリアもまた、その澄んだ瞳に静かな闘志を宿して一歩踏み出した。

「全軍三千、すでに前庭にて整列を終えております。湿原の戦術から、雪中・山岳での立体戦術への切り替え訓練も、この三カ月半で過剰なほど叩き込みました。兵たちの士気は最高潮。いつでも出撃可能でございます」

「頼もしい限りだ」

イリアードは二人の肩に優しく手を置き、その温もりを感じ取った。かつて帝都の宮廷で孤独に苛まれていた自分には、信じられる者など誰一人としていなかった。だが今、この地で手に入れた最高の伴侶たち、そして自分を信じて従う三千の精鋭がいる。

◇

政庁の広大な前庭に立ち出ると、そこには黒と銀の甲冑に身を固めた三千のセレスティア軍が、凍てつく北風の中で微動だにせず佇んでいた。

特製の防水油脂を塗り込んだ防寒幕、滑り止めの鉄環を穿たせた荷車の車輪、そして一人ひとりの肩に掛けられた上質な毛皮。それらはすべて、この三カ月半の間にイリアードと後方を守る二人が、死力を尽くして整えた「命の装備」であった。

「皆のもの、よくぞ短期間でこれほどの準備を整えてくれた!」

イリアードの声が、凍りついた空気を切り裂くように響き渡る。兵たちの熱い視線がいっせいに主君へと集まった。

「これより我らは、オテゲン皇国との戦いのために帝都の集結地へと向かう! 父帝の命による遠征ではあるが、我らの目的は帝都の醜い権力闘争に付き合うことではない! このセレスティアの平穏と、我らの誇り、そして何よりも大切な家族を守り抜くことだ! 往くぞ、セレスティア軍!」

「「「オオオオオッ―――!!!」」」

三千の喉から押し出された地鳴りのような勝ち鬨が、空を覆う暗雲すら吹き飛ばさんばかりの熱量となって北の大地に広がった。

重い鉄の門が開かれ、セレスティア軍は美しい雪煙を上げて前進を開始した。

◇

イリアードが馬上で静かに意識を集中させると、遠く親王府に残ったリゼリアとセシリアもまた、静寂に満ちた部屋でそっと瞳を閉じた。

途端に、空気の密度が精神の深淵で変容する。 言葉を介さない、超高密度な『念話』による精神の交信回路が開かれた。

『――親王、聞こえますか』

脳裏に直接響いたのは、同じく親王府にいる母フレデリカの清らかで優美な声であった。遠く何百里も離れた帝都の動向が、念の波長を通じて鮮明に共有される。

『母上。無事に出陣いたしました。帝都の様子はいかがですか』

『ふふ、相変わらず浅ましい狐たちの化かし合いが続いておりますわ』

フレデリカの冷ややかな笑みが行き交う。

『各地から集まりつつある諸侯の軍勢は目も当てられません。急な動員に兵站が追いつかず、帝都への道中で早くも脱走者や凍死者を出す部隊が相次いでおります。さらには第一皇子、第二皇子、第三皇子の派閥が、補給物資の配分を巡って泥沼の押し付け合いを始めておりますの』

『惨状だな』

イリアードは冷静に思考を巡らせる。

『定石通り、我らは帝国本隊とは一定の距離を保ち、補給も自給自足を通す。下手に帝都の補給線に頼れば、奴らの都合で干上がらされることになる』

『その判断で正解ですわ、殿下』

親王府の執務机で念話を開く、リゼリアの微笑む気配が差し込んだ。

『帝都の商人たちを通じて買い占めた糧食は、行軍ルートの極秘倉庫数箇所に分けて分散配置してあります。第一皇子派の嫌がらせがあろうとも、我が軍の補給が途切れることは絶対にございません』

さらに、親王府の魔導陣の中央に座すセシリアの鋭い意識が割り込む。

『また、私の『念視』による先導と、念話の同調も順調です』

『頼もしいぞ、三人とも』

イリアードの強い決意が精神の海を満たす。

『帝都の無能どもが自滅していく中で、我らは静かに、確実に勝利の盤面を作り上げる』

凍てつく吹雪の中、セレスティアの黒き軍列は一人の脱落者も出すことなく、完璧な規律を保って帝都への街道を突き進んでいった。

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