『セレスティアの静寂と、北より至る密命』
帝国歴299年十月。
北から降りてくる冷たい風がセレスティアの広大な湿原を力強く吹き抜けるようになった。
朝霧が晴れ行く頃には、澄んだ水面にうっすらと初霜の膜が張り、パキパキと微かな音を立てて砕けていく。
――かつて、この地はただ濁った泥の匂いと、行き場を失った水が澱むだけの「見捨てられた辺境」に過ぎなかった。
しかし、今やその面影はない。 美しく整えられた幾本もの水路を多くの大型商船が行き交い、行き交う人々の活気ある声援が空に響き渡っている。
この劇的な変化をもたらした張本人であり、現在このセレスティアを統治する親王イリアードは、政庁執務室の重厚なデスクで一人、積み上げられた書類に鋭い視線を落としていた。
「――殿下、都からの勅使が到着いたしました。すでに謁見の間にてお控えです」
近衛兵の緊張した報告を受け、イリアードは書類から目を離さずに短く言い放つ。
「……通せ」
現れた勅使は、煌びやかな刺繍の施された豪華絢爛な衣装に身を包んだ、いかにも帝都の華やかな空気をそのまま纏ったような男だった。 だが、その男が一歩足を踏み入れ、主座に腰かけるイリアードの姿を視界に収めた瞬間――目に見えて「息をのむ」のが分かった。
(……な、なんだと……!? これが、あのイリアード殿下なのか……!?)
勅使の脳裏に焼き付いていたのは、かつて帝都の絢爛たる宮廷で「華奢で病弱」「政争の敗北者」と嘲笑われていた、線の細い悲壮感漂う皇子の姿だった。贅沢な衣服に着られているようだったかつての面影など、今の男のどこを探しても見当たらない。
現在のイリアードは、背筋を天に向かって真っ直ぐ伸ばし、圧倒的な威厳と覇気をその身に纏っていた。 過酷極まる辺境の統治、そして先日の激しい海賊討伐という修羅場を潜り抜けてきたその顔つきは硬質に引き締まり――何よりもその双眸には、領民数万の命と未来を背負う「真の領主」としての、鋭く揺るぎない光が宿っていたのだ。
「遠路はるばるの大任、大義である。面を上げよ」
イリアードの低く、部屋全体を震わせるような重厚な声に、勅使は弾かれたように慌てて膝をついた。
「は、ははっ! イリアード殿下、此度の海賊討伐における見事な御差配、まことに全軍の鑑にございます! 至高なる皇帝陛下も大変ご満悦であり、殿下の並々ならぬ労をねぎらうよう、仰せつかって参りました。……こちらが陛下からの温かいお言葉、ならびに賜りました褒賞の品々の目録でございます!」
恭しく差し出された豪華な装丁の書状と目録を、イリアードは手元に引き寄せ、一通り目を通した。
「父帝からの過分なお言葉、恐悦至極。褒賞はありがたく受け取り、此度の戦いで命を張って sweat を流した将兵や、害を受けた領民たちの復興のために役立てさせてもらう。……して、勅使殿」
イリアードはフッと目を細め、言葉を区切った。
「儀礼的な挨拶はここまでとしようか。父上がわざわざお前のような男をこの辺境まで寄越したのだ。運んできたのは、腹の膨れない美辞麗句と金品だけではあるまい?」
「っ……!?」
イリアードの魂を射抜くような鋭い視線を受け、勅使は全身に鳥肌が立つのを感じて小さく身震いした。そして、意を決したように周囲の護衛を下がらせるよう目配せを送る。 イリアードが小さく顎をしゃくると、熟練の近衛たちは一切の音を立てずに退室し、広い部屋には二人きりとなった。
勅使は静寂を確認すると、声を極限まで潜め、懐からさらに一通――厳重な封蝋が施された小さな書状を取り出した。
「……流石はイリアード殿下、すべてお見通しでございますね。……実は皇帝陛下より、極秘の『密命』を預かって参りました」
「密命、か。聞こう」
「は。帝国北部に位置するオテゲン皇国が、我が国境を越えて領土を荒らし回っております。公には『小規模な小競り合い』と発表されておりますが、実態は組織的な領国侵犯……過激な略奪行為が横行しているのです」
イリアードの濃い眉が、ピクリと動いた。
「オテゲンが動いたか。あそこは冬の寒さが苛烈を極める場所だ。飢えを凌ぐための局地的な暴走か?」
「いえ」勅使は重々しく首を振った。「時期的に見ても、本格的な軍事行動は春の雪解けを待って行うのが兵法の常道。ですが……我が父帝陛下は、それを決してお許しになりません。大規模な軍を動かし、たった一度の大遠征ですべての禍根を断ち切り、完全解決を図る方針でございます」
「一度で全てを粉砕する、か。いかにも父上が好みそうな、苛烈で大がかりな力押しだな。……それで、この私にどうしろと言うのだ?」
「はっ。イリアード殿下率いるセレスティア軍もまた、この『北伐の大征征』の軍列に加わるように……との、皇帝陛下直々のご指名にございます」
イリアードは静かに息を吐き出し、深く背もたれに体を預けた。
「セレスティア軍を、か。海賊を討伐し、ようやく一息ついたばかりの我が軍を、休ませる間もなく極寒の北へ駆り出すというわけだ。……行軍の規模、および決行時期は?」
「通常の行軍ペースを考慮しますと、このセレスティアから帝都の集結地まで約一カ月半。出発は……来年二月の初めとなります。逆算いたしますと、準備期間は今から三カ月半、といったところでございます」
「三カ月半……短いな。この湿原の厳しい冬を越すだけでも骨が折れるというのに、その最中に出陣の準備を整えねばならんとは」
「御無理は重々承知の上でございます! しかし……陛下は殿下の圧倒的な『武力』と『統率力』を、今や誰よりも高く評価しておいでのなのです」
「買い被りだな」
イリアードは冷淡に切り捨てた。
「……で、その大軍勢を統率する『総大将』は誰になるのだ? まさか、父上自らが出張るわけではあるまい」
「おっしゃる通り、皇帝陛下の親征の可能性は極めて低いかと存じます。現在、宮廷では有力な叩き上げの将軍を据えるか……あるいは第一皇子殿下、もしくは皇太子であられる第二皇子殿下に箔をつけさせるか……はたまた、実戦経験が豊富な第三皇子殿下を立てるべきか、連日激しい議論が紛糾しております」
「なるほど。誰が総大将になろうとも、所詮は帝都のドブ川のような権力闘争の延長戦というわけか。私がその泥仕合に巻き込まれるのは火を見るより明らかだな」
イリアードは机の上の密書を見つめながら、超高速で思考を巡らせた。 オテゲン皇国の不気味な動向、帝都のドロドロとした思惑、そして生まれたばかりのセレスティアの現状。……やるべき課題は、山積みだった。
「状況は理解した。勅使殿、大役ご苦労だった。今宵は我が館で旅の疲れをゆっくり癒すがいい。父帝への返答は、追って書状にしたためよう」
「はっ、寛大なお言葉、心より感謝申し上げます! それでは、失礼いたします」
勅使がうやうやしく辞去した後、イリアードはしばらくの間、微動だにせず思索の海に沈んでいた。 窓の外からは、一段と凄みを増した北風が、重厚な館をガタガタと揺らす音が虚しく響いていた。




