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国家消滅  作者: Dar_3026
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第5話 異議なし

 母の診療所へ着いたとき、玄関前に救急車はいなかった。


 残り二十五日。

通報から五十三分が過ぎていた。


 待合室の長椅子に、七十代の女性が横たわっていた。

肩で息をし、母が酸素マスクを押さえている。

診療所の医師は端末を耳に当て、搬送指令所と話し続けていた。


「空床はあるんでしょう」


『基幹生活保障区域内で緊急搬送要請が発生しています』


 端末の音声は、離れた俺にも聞こえた。


「こちらの患者は血中酸素が下がっています」

『容体情報は受信しています。

区域外搬送は現在、第二待機区分です』

「第二って何分ですか」

『到着時刻は保証できません』


 母が俺に気づいた。


「棚の上から新しいボンベ取って」


 俺は上着を脱ぎ、診察室へ走った。

残量表示のあるボンベは二本。

そのうち一本を抱えて戻る。


「これで最後?」

「小さいのがもう一本。明後日には届く予定」


 予定。保証ではない。


 母は手早くボンベを交換した。

患者の娘らしい女性が、長椅子の脇で両手を握っている。


「先生、私が車で運びます」

「途中で呼吸が止まったら対応できません」

「ここで待ってても同じでしょう」


 医師は答えなかった。


 俺は職員端末を開き、市内の搬送状況を確認した。

保障区域の救急車は三台稼働。

うち一台は軽症、二台は帰投中。

区域外を担当する車両は一台だけで、隣町にいた。


 利用できないわけではない。

ただ、順番が来ない。


 患者の娘が、自分の端末で民間搬送を探していた。

最短到着、十二分。

基本料金四十二万円、区域外加算と医療員同乗費は別。

申込み画面の最後に、全額前払いと表示されている。


「先生、これなら来ます」

「呼べるなら呼んでください」

「四十二万なんて、今すぐ払えません」


 女性は母親の鞄から財布を取り出した。

現金と古い診察券を机へ並べ、足りないと分かっていて数え始めた。


「後払いにできないんですか」


 俺は民間搬送の規約を開いた。

非継承人口の信用決済は、最終名簿確定日をもって停止されていた。


「できません」


 答えた瞬間、自分が窓口にいるのと同じ声を出していたことに気づいた。


 母は患者の名前を呼び、ゆっくり呼吸するよう声をかけ続けた。

制度の言葉を一つも使わなかった。


「直路、仕事の画面を開かない」


 母に言われ、端末を伏せた。


「でも、車は余ってる」

「ここで怒っても、この人の呼吸は楽にならない」


 母は患者へ目を戻した。

怒りを使う余裕さえない声だった。


 一時間十四分後、救急車が着いた。

患者は意識を保ったまま運ばれた。

助かったかどうかは分からない。

診療所に残ったのは、空の酸素ボンベと、搬送記録へ署名する母だった。


「毎日こうなるのか」

「今日は一人だった」

「答えになってない」

「明日は二人かもしれないってこと」


 母は記録を閉じた。


「直路。あんた、自分の申立ては?」

「審査中。三十一日かかるって」

「国、先に終わるね」

「だから早めてもらう」


 俺は翌朝、業務端末から自分の申立番号を開いた。


 一般申立て。

処理待ち、六百八十二万件。

優先度、通常。


 窓口担当者には、生命、業務、システム障害の三種類に限り、優先照会を付ける権限がある。

俺は《行政移行業務の継続に影響》を選択し、優先度を上げた。


 母の申立てはまだ出していない。

本人の同意が必要だ。

だが医療業務への影響なら、照会だけはできる。


 母の番号も入力した。


「何をしている」


 背後に荒谷が立っていた。


 画面を閉じる時間はなかった。


「異議申立てです」

「ここは個人申立ての端末じゃない」

「三十一日待ったら終わります」

「だから規則を破るのか」

「判定が間違ってるんです。

俺はここの業務をしてる。

母は看護師です。

昨日、救急車が一時間以上来なかった。

診療所には母の手が必要なんです」


 荒谷は声を荒らげなかった。

俺の職員証を端末から抜き、操作を止めた。


「会議室へ来い」


 解雇されると思った。

委託会社へ報告されれば、異議申立てどころか残りの給与も失う。


 荒谷は小会議室の扉を閉め、自分の管理者証を卓上端末へ差した。


「番号を言え」

「誰のですか」

「お前と母親だ。誤判定だと言ったな。

管理者照会で確認する」


 俺は二人分の番号を伝えた。


 荒谷の権限では、要約より一段深い審査記録が見られた。

俺の雇用契約、過去の収入、資産、技能登録。

母の職歴、勤務先、資産、年齢。

並んだ情報に間違いはなかった。


「市役所で働いてます」

「移行日までな」

「必要な仕事です」

「二十四日間は必要だ。

共同体が判定しているのは、その後十年間の収支だ」

「母は人を助けてる」

「認定区域の外でな」


 荒谷が画面を回した。


「お前の言うことは事実だ。

システムの情報も事実だ。

だから判定は変わらない」


 照会結果の最下部に、緑色の文字が表示された。


《再計算結果 異議なし》


「これで一般審査も終了扱いになる。

三十一日は待たなくていい」


 荒谷は管理者証を抜いた。


「不正操作は記録から外しておく。

次はない」

「どうしてそこまでしてくれたんですか」

「間違いだと思っている人間に、待てと言っても仕事にならない」


 優しさではなかった。

俺を働かせるための処置だった。

それでも、荒谷は自分の権限を使った。


「この制度、おかしいと思わないんですか」

「おかしいかどうかを判断する部署じゃない」

「またそれですか」

「なら、数字を見ろ」


 荒谷は別の画面を開いた。


 《基幹生活保障区域・運用実績》


 医療稼働率、電力供給率、犯罪発生率、物流遅延。

どの数字も、俺たちの市より良かった。


 救急平均到着時間、七分四十秒。

手術待機日数、平均三日。

停電時間、月間十一秒。

水道管の漏水率、二・一%。


 俺たちの市は、救急平均四十六分。

手術待機日数は算出不能。

停電は月に三時間を超え、漏水率は二割近い。


 保障区域の方が、少ない予算で動いているわけではない。

対象人口一人あたりに使える金と人が、桁違いに多かった。

外を薄く広く守ることをやめ、その分を内側へ集めている。


 母の診療所で一時間待った救急車は、保障区域なら八往復できた。


「止めたいなら、まず何を止めるのか知れ」


 荒谷は席を立ち、会議室を出ていった。


 俺は一人で、救われている街の数字を見続けた。

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