第2話 支払能力不足
異議申立ての画面には、「お気持ち」も「事情」も入力する欄がなかった。
必要なのは、判定の根拠となった情報のうち、どれが事実と違うのか。
それを証明する文書。
そして、再計算に同意するという確認だけだった。
昨夜、俺は自宅の端末で三度申請をやり直した。
三度とも、理由欄を埋める前に手が止まった。
俺の何が間違っているのか、俺には分からない。
残り二十九日。
出勤すると、住民移行室の全端末に新しい機能が追加されていた。
《判定根拠照会》
窓口で住民から質問された際、結果の根拠を説明するための機能だ。
ただし閲覧できるのは要約だけで、審査項目ごとの点数は表示されない。
俺は業務開始前に、自分の番号を入力した。
《十年間の保障継続可能性が基準未達》
その下に、四つの要因が並んだ。
《継続雇用保証なし》
《基準資産額未達》
《優先技能登録なし》
《指定扶養関係なし》
悪口の一つも書かれていなかった。
役立たずとも、貧乏人とも、将来性がないとも書かれていない。
俺はただ、十年間守り続ける価値を証明できなかった。
給与明細を開いた。
月の手取りは、家賃と光熱費と食費を払えば、ほとんど残らない。
貯金は三十七万円。
市役所で働いていても、雇っているのは市ではなく、三年ごとに入札で変わる業務会社だ。
来年の契約はない。
三十日後の国もない。
それでも昨日まで、俺は自分を普通だと思っていた。
母の番号を入れた。
《十年間の保障継続可能性が基準未達》
要因は五つ。
《区域外医療機関勤務》
《認定雇用保証なし》
《年齢加算対象》
《基準資産額未達》
《契約保証金未納》
健康上の問題は一つもなかった。
五十九歳で、今も看護師として働いている。
それでも、母の勤める住民共同診療所は、基幹生活保障区域が認定した医療機関ではない。
人を助ける技能はある。
ただ、助ける場所が違った。
「片山」
荒谷の声で、俺は画面を閉じた。
「朝礼だ。中央放送がある」
旧議場の正面にある大型画面が点灯した。
作業員たちは席に着いたまま、私語をやめた。
出勤扱いになる放送は、全員が見る。
白い演台の前に、杉岡倫子首相が立っていた。
六十二歳。
銀色の混じった短い髪。
濃紺の服。
背景には国旗も政党旗もなく、国家機能継承計画の紋章だけが掲げられている。
『国民の皆様に、最終名簿の確定をご報告します』
首相は、祝い事でも葬式でもない声で言った。
『基幹生活保障区域への継承資格者は、千百四十万人。
区域外で地域自律運営へ移行される方は、五千六百六十万人です』
俺の周囲で、誰かが息を吐いた。
驚いたのではない。
知っていた数字を、もう一度聞いただけだ。
『政府は、すべての国民を同じ方法で守ることが不可能であると判断しました』
杉岡首相は視線を落とさなかった。
『これは敗北を意味しません。
全員を救おうとして、すべてを失うことこそ、国家の責任放棄です。
私たちは、救える国民を確実に救います』
大型画面の端に、保障区域の映像が流れた。
明るい病院。
商品が並ぶ店。
水の出る蛇口。
制服姿の警備員。
どれも、かつては普通だったものだ。
『非継承と判定された方々にも、移行日まで既存の行政サービスを提供します。
また地域自律運営に必要な情報、設備、支援物資を順次引き渡します。
どうか冷静な移行にご協力ください』
質問者も記者もいない。
放送は首相の一礼で終わった。
荒谷がすぐに立ち上がった。
「聞いたとおりだ。
今日から窓口でも判定根拠を表示できる。
余計な解釈は加えるな。
画面に出た文言を、そのまま読むこと」
「『救える国民』って、窓口で言っていいんですか」
前方の席から声が上がった。
「言う必要はない」
「聞かれたら?」
「名簿上の区分を答えろ。
思想を説明する仕事じゃない」
そこで朝礼は終わった。
昼前、母から短い連絡が来た。
《今夜、寄れる?大根もらったから》
昨日までなら、行く、とだけ返していた。
今日は文字を打っては消した。
《仕事が長引く。明日行く》
送信すると、すぐに了解のスタンプが返った。
母は自分の判定をまだ知らない。
診療所には最終名簿を検索する端末がない。
通知書は明日から郵送される。
俺が今夜行かなければ、母は紙に印刷された四文字で知ることになる。
それでも言えなかった。
終業後、庁舎一階の申立端末へ向かった。
窓口はすでに閉まり、壁際に六台並ぶ端末だけが稼働していた。
どの台にも人がいる。
後ろには二十人ほどが黙って並んでいた。
俺の前にいた老人は、透明な袋へ土地の権利証を入れていた。
市内に家と畑を持っている、と後ろの誰かへ何度も説明していた。
「資産不足はおかしいだろ。借金だってないんだ」
誰も答えなかった。
保障区域外の土地は、売却可能資産として評価されない。
そこに家が建ち、畑から食べ物が取れても、三十日後に買う者がいなければ、中央審査上の価値はゼロになる。
一台の前では、作業服の男が係員を呼んでいた。
「会社が申請したって言ってる。
俺は設備を直せる。
水道も発電機もやってきた」
「保証登録番号はお持ちですか」
「だから、会社が持ってるって」
「番号のない申立ては受け付けられません」
「明日、会社に聞けばいいんだな」
「会社の移転受付は昨日で終了しています」
男はしばらく係員を見ていた。
それから怒鳴ることもなく、端末の前を離れた。
後ろに並んでいた人が、空いた椅子へ座った。
判定が誤っていると思って来た者ばかりだった。
誰も、自分が五千六百六十万人の側へ正しく分類されたとは思っていない。
俺も同じだった。
俺の順番が来たのは午後八時過ぎだった。
住民番号を入力し、本人認証を通す。
判定理由が表示される。
《十年間の保障継続可能性が基準未達》
事実と違う情報はなかった。
それでも申立理由の選択肢から「雇用情報の再確認」を選んだ。
市役所の業務に従事していることを備考欄へ入力し、職員証の記録を添付する。
申請確認を押した。
《異議申立てを受け付けました》
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
正規の手続きを踏めば、正しい結果が出る。
制度は大きすぎて、俺一人の事情をまだ拾えていないだけだ。
次の画面が開いた。
《標準審査日数 三十一日》
俺は右上の残日数を見た。
日本国の行政サービス終了まで、あと二十九日。




